穴師坐兵主神社
(あなしにますひょうずじんじゃ)


大和国城上郡
奈良県桜井市穴師1065
(P有)

■延喜式神名帳
穴師坐兵主神社 名神大 月次相嘗新嘗 の比定社
卷向坐若御魂神社 名神大 月次相嘗新嘗 の比定社
穴師大兵主神社 の比定社

■旧社格
県社

■祭神
[中央] 兵主神…穴師坐兵主神社
[右殿] 若御魂神…巻向坐若御魂神社
[左殿] 大兵主神…穴師大兵主神社


桜井市纏向「穴師」の里に鎮座する社。大和盆地の東側は当地を中心に開拓が始まりました。
◎穴師坐兵主神社(式内名神大社)、巻向坐若御魂神社(式内名神大社)、穴師大兵主神社(式内社)の三社が合祀された神社。この三社の総称が「大兵主神社(だいひょうずじんじゃ)」。三殿が並立する壮観なご本殿は見る者を圧倒します。
◎あまりに謎多き神社であり、多説出されているもののいずれも説得力に欠けるもの。おそらく永遠に解明はなされないでしょう。それだけにいかようにも考えることができ、古代史ロマンは尽きない社。
おそらく当社を訪れるのはほとんどが古代史の学者や研究家、愛好家と相撲関係者くらいのもの。大神神社大和神社石上神宮と比肩するほどの大社であり、近い将来このまま寂れて廃滅してしまわないか非常に心配な神社でもあります。
かつて一の鳥居は北葛城郡広陵町の「箸尾」の地にあったと言います。当社からは10km以上も西方の地。大社ぶりが窺えます。
◎まず立地に関しては「三輪山」と「龍王山」との間にある「巻向山」(広義にて)の中腹に鎮座。麓にはほぼ同緯度に景行天皇 纏向日代宮伝承地、さらにその麓に垂仁天皇 纏向珠城宮伝承地があります。近隣には檜原神社箸墓古墳崇神天皇陵景行天皇陵など枚挙に遑がありません。
◎「南隣の三輪山に鎮る大物主神が、出雲系の三輪族の祖神として、国土開拓神の信仰を集めたのに対応し、当社は、生産と平和の神としての国家的信仰によって始まった神社であるといえる。有名な野見宿禰の角力の説話が当社にあるのも、それが天皇の国土統治の象徴として行われた呪術であるとされるように、当地は、古代大和、ひいては日本の一中心であった」と述べているのは樋口清之氏。
◎現社地に元からあったのは穴師大兵主神社。他の二社は応仁の乱の焼失により、現社地に遷されてきました。穴師坐兵主神社を「上之社」、穴師大兵主神社を「下之社」と称していたようです。
一方で巻向坐若御魂神社の旧社地は、「巻向山の桧原」すなわち「都谷の地」とも言われているようです。こちらも応仁の兵乱の頃に衰微したので、「下之社」に遷したとのこと。
◎穴師坐兵主神社(上之社)は「弓月岳(斎槻岳)」からの遷座。「弓月岳」は諸説あり、知り得る限りは「龍王山」、「穴師山」、「巻向山」の3説。
◎これに関しては非常に有力な説があります。小川光三氏の有名な「大和の原像」によるもの。箸墓古墳の中心線を伸ばすと現社地のご本殿を通ります。つまり穴師大兵主神社(下之社)を通ると。そのままま延長すると「穴師山」山頂のやや北を通ります。そこは伝説の「ゲシノオオダイラ」ではないかとされる地点。定説では「夏至の大平」とされています。
「ゲシノオオダイラ」は41×48mの台地状(平らな地)が、箸墓古墳から見るとよく分かりますが、不自然に平らになっている部分が見えます。ここに穴師坐兵主神社(上之社)が鎮座していたのではないかとする説。以前は小祠や葺石状のものがあったとか(現地未確認)
箸墓古墳から見ると夏至の日にその場所から太陽が昇ります。ちなみに箸墓古墳から見て春秋分の日には「三輪山」山頂、つまり高宮神社(本来は神坐日向神社)から太陽が昇ります。
要するに箸墓古墳の中心線を延長すると穴師大兵主神社(下之社)、穴師坐兵主神社(上之社、「夏至の大平」)が一直線で結ばれることに。
もし箸墓古墳の被葬者を卑弥呼(日巫女)と考えるのであれば、申し分のない条件が整うことになります。
◎これに対し千田稔氏は「巻向山」山頂にあったという説を。これは万葉集に「穴師川(痛足川)」の源流があるということによるものから。またその地点は崇神天皇陵から見て冬至の方角に当たるとしています。
また「大和國名所図絵」に描かれているものは「龍王山」を指すようです。これは石上神宮の源流と関わってしまうため、この説を採るのは無理があるでしょうか。
◎当社由緒書においては、「弓月岳(斎槻岳)」を「巻向山」としています。これは伴信友の「神名帳考証」にある「一山両地」の霊山(リョウサン)信仰を受けてのもの。
由緒書には「斎槻岳の山頂に自然の池がある。旱天の夏には穴師の村人は、お神酒をたずさえこの霊山であるリョウサンに登り、池のそばの神の祠に献じ、慈雨を祈る」と。そして「この雨乞いの風習は霊山信仰のあらわれであり昭和初期まで続いていたものである」と。
この「自然の池」と「池のそばの祠」とは、高山神社と霊山池のことと思われます。
◎ご祭神は「大倭注進状裏書」によると御食津神で、御神体は「鈴鏡をつけた日矛」となっています。また「元要記」によると、崇神天皇60年に「纏向穴師山」に倭姫命が帝の御膳の守護神として穴師兵主明神を祀るとあります。いずれも御食津神を祀ると解釈できます。「ゲシノオオダイラ」に旧社地があったとするのなら、五穀豊穣を願って祀ったと考えるべきでしょうか。
◎これに対し「大倭本紀」に「天照大神の始めて天降りし時 護斎鏡三面のうちの一面の鏡並びに鈴子を御食津神と称え奉り…要するに鏡に鈴を付けたいわゆる日矛を以て御食津神の霊代としている」と。
御食津神と日矛神がどうやって結び付くのか、苦し紛れのような文面。そしてここには俄には信じ難い驚くべき内容が記されています。この内容を真実とするなら三面のうち一面は伊勢の神宮、一面は宮中、残りの一面が当社に、ということになります。日前神宮・國懸神宮にも同様の伝承があり、興味の尽きないところ。
◎なお「日矛」という言葉も見えますが、そこから連想されて兵主神を祀るとなったのでしょうか。逆に兵主神を祀る神社であるため「日矛」を祀るという附会が生れたのでしょうか。
兵主神を祀る式内社は確認したところおよそ19社、なかでも当社は最古級であり、穴師たちの原点はここにあったのかもしれません。そして但馬国において天日矛神と融合したとも考えられます。
◎兵主神関連から八千矛神や天日矛神などの説も出されています。また「巻向山」の山中には白木村というのがあったとも。
なお当社境内社として、天日矛神を祀る兵主神社が鎮座しています。
◎穴師大兵主神社(下之社)は、上記の「大倭注進状裏書」によると天鈿女命とし、こちらも同じく「神体は鈴之矛也 両社とも(上之社と下之社)神体を矛の為す 故に兵主神と云う」とあります。旧記には「垂仁帝廿七年 穴師社へ神幣として兵器を奉り給ふ」とあるとのこと。
こちらも天鈿女神と矛とどう結び付くのかはなはだ疑問。「元要紀」が鏡としたために、関連する天鈿女神を引き出してきたものか。上之社と同様に兵主神とみるべきでしょうか。
◎巻向坐若御魂神社は社名通り若御魂神を祀る神社とされていますが、稚産霊神(ワクムスビノカミ)とするのが有力。穴師坐兵主神社(上之社)ご祭神の御食津神の父神とされています。
ただこれも穴師坐兵主神社(上之社)のご祭神を御食津神と見なしての「若御魂」であり、御食津神ではないと考えるのなら話は変わります。
◎以上から見るように旧社地もご祭神も確定できる要素に乏しい神社。ただ漠然とみえてくるのは元々は日祀りの対象であり、山の神もしくは五穀豊穣を願う神が祀られていたところに、鍛治集団(穴師)が移住してきて兵主神を祀る神社へと変わったのでしょうか。普通なら原初の姿はなかなか見えないものが、たまたま見え隠れしているということなのかもしれません。
◎境内社として注目されるのが相撲神社と橘神社、八王子社。橘神社は田道間守(タヂマモリ)をご祭神としています。八王子社は兵主の御子神(八神の神)をご祭神としています。

*写真は過去数年に渡る参拝時のものが混在しています。


現在の一の鳥居。「纏向遺跡」の北東角、JR巻向駅の北東100mほどの地にあります。


こちらは二の鳥居。向かって右手に相撲神社が鎮座。

駐車場はこの場所、相撲神社にも駐車場有り。

いつも秋は紅葉を密かに愉しんでいます。

参道に座す磐座。



兵主の御子神を祀るという八王子社。

(向かって左)から須勢理社、橘神社、稲荷社と思われます。須勢理社は祠が崩壊したままに…。

牛頭天王を祀る社でしょうか。

須佐之男社と思われます。