相撲神社


大和国城上郡
奈良県桜井市穴師字カタヤケシ
(P有)

■祭神


纏向「穴師」の里に鎮座する社。広大な神域を有する穴師坐兵主神社の境内社。

◎国内初の勅命天覧相撲が行われた地に建つ社、相撲発祥の地とされています。
垂仁天皇七年七月七日、野見宿禰と當麻蹶速(タイマノケハヤ、またはタギマノケハヤ)との間で「捔力(すまひ=相撲)」が執り行われたと紀に記されます。場所は穴師坐兵主神社の境内「カタヤケシ」。この「カタヤケシ」については諸説あるものの、いずれも推測の域を出ず不明。穴師坐兵主神社の往古からの鎮座地がおそらく間違いないものであるとされているので、当社の鎮座地も概ねこの付近であろうと思われます。
◎取り組みの方は野見宿禰が圧勝。當麻蹶速はあばらが折れ、腰を踏み折られて命を落としたとか。神名から蹴りなどもあったものと考えられることから、現代の相撲とはまったく異なる競技だったようです。
◎この試合のため野見宿禰は出雲国から呼び寄せられ、次の日に試合をしたとなっています。もちろん地理的に無理なこと。これについては、「三輪山」の西側麓の「出雲」からとする説も。「三輪山」の祭祀を行っていたのは出雲系の三輪族とされています。
◎この部分の紀の記述は「(垂仁天皇は)その日すぐ大和国大市(今の桜井市北部から天理市南部附近)の倭直の祖 長尾市という者を使として出雲にやり野見宿禰を呼び寄せた」と。そして試合後に「野見宿禰は出雲に帰らず大和に留まり天皇に仕えた」と記されています。長尾市というのは大和神社(日本大國魂神)の初代斎主。
この表記から察するに「出雲」はやはり「出雲国」。「大和に留まり…」とあるのが決め手に。
◎以上を整理すると、
*「出雲国」から呼び寄せたが、次の日に試合をしたという記述が間違っている。
*実際は「三輪山」西麓の「出雲」から呼び寄せたが、出雲国から呼び寄せたように記した。
おそらくこのどちらかなのだろうと思います。
◎葛城一帯の中の「當麻(たいま または たぎま)」、巻向一帯の中の「出雲」、東西の雄が競い合うというのは現在にも反映されています。葛城政権から巻向政権への権勢の移り変わりも反映しているということも考えられるのでは。
◎昭和37年には大鵬、柏戸の両横綱を筆頭に時津風理事長から幕内全力士が参拝、土俵入りも奉納されたらしく、10万人以上の観客で溢れたとか。これは当地出身の故 保田與重郎氏が、「カタヤケシ」は国技発祥の地であると顕彰すべきだと奔走された成果。
数年前に社殿が建てられ、顕彰碑や野見宿禰石像なども設けられ、少々華やかになりました。

*写真は過去数年に渡る参拝時のものが混在しています。







土俵はいつの頃からかブルーシートで覆われるようになりました。