五十瓊敷命の御陵に治定される和泉国の「宇度墓」拝所。*画像はWikiより






◆ 「阿蘇ピンク石」 ~海を渡った棺~ (9)






敬神活動ができなくなり、およそ1ヶ月が経ちました。

引きこもり生活にも慣れたかな?(笑)


こんなことにならなければ、
「阿蘇ピンク石」のテーマ記事にも取りかかれなかった…。

なるべくしてなった?
そう思っておきます。


記事の方は徐々に核心に向かって進んでいきます。


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■過去記事
(1) … 序章・「阿蘇ピンク石」石棺例一覧
(2) … 「阿蘇ピンク石」とは・石棺例一覧の訂正
(3) … 「大王のひつぎ航海実験」
(4) … 「阿蘇石」と「舟型石棺」 ~1
(5) … 「阿蘇石」と「舟型石棺」 ~2
(6) … 「阿蘇石」と「磐井の乱」
(7) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~1
(8) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~2

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■ 大和国添上郡の野神古墳

UR賃貸「桂木団地」の一角に残された古墳。奈良市街地の南東部の平坦地に築かれました。

周辺は多くの古墳が消滅しているのでしょうが、墳丘部で「野神」として祀られていたため偶然に残ったようです。古来より井戸が埋蔵されていると伝わり、明治九年の干魃期に掘ってみたところ石棺が出土、古墳であったことが判明したようです。

規模や形状は原形をまったく留めておらず不明。明治期の古絵図からは前方後円墳であった可能性もあるとのこと。

その明治九年の掘削時に石棺の他、古刀や古鏡が出土したようですが、すべて埋め戻されています。

現物も見ずによく「阿蘇ピンク石」だと分かったな…。
また6世紀前半頃に築かれたとされます。
被葬者はまったくもって不明。

◎運搬については、2ルート考えられます。
*「淀川」を遡上し支流の「木津川」へ。現在の木津川市辺りから5kmほどの修羅による陸上輸送を行った。
*「大和川」を遡上し支流の「佐保川」へ。水運が可能なところまで遡上し、3~4kmほど修羅による陸上輸送を行った。


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■ 大和国山邊郡の東乗鞍古墳

大和盆地の東部山麓の麓に築かれた古墳。「杣之内古墳群」内に属します。

全長83mの前方後円墳。周濠あり。
築造時期は6世紀前半頃とされます。

石上神宮の神威が及ぶ地、そして規模から鑑みて物部氏の首長級の古墳とみて差し支えないかと思います。

横穴式石室。
「阿蘇ピンク石」製の「刳抜式」の「家型石棺」と、「組合式石棺」のニ体が出土しているようです。

隣接して西乗鞍古墳があります。こちらは一回り大きく、築造年代もやや早いとのこと。どうやら石室の調査は行われていないようで、発掘すれば「阿蘇ピンク石」製の石棺が出てくるのかもしれません。

◎運搬については別所鑵子塚古墳と同様、「大和川」を遡上、途中のどこかで修羅で陸上輸送したものと考えます。


東乗鞍古墳から出土した「刳抜式家型石棺」。
石棺内部
*ともに画像はWikiより


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五十瓊敷命の御陵に治定される和泉国の「宇度墓」。*画像はWikiより



■ 五十瓊敷命と肥後国「宇土(うと)」

一般の方にはあまり馴染みはないものの、日本古代史をかじったことがある方なら、重要人物(神)だとご存知かと思われます。

◎事実上の石上神宮の初代神主です。
記紀にはいくつかの事蹟が記されます。そのうち関わりそうなものを一つ。

紀の垂仁天皇三十九年の段
━━「茅渟(ちぬ)」の「菟砥川上宮(うとのかわかみのみや)」に居て、剣一千口を作った。それを石上神宮に収め、その神宝の管理者となった━━とあります。

五十瓊敷命の墓「宇度墓」は、「淡輪(たんのわ)ニサンザイ古墳」に治定されています(未参拝)。
全長180mほどの前方後円墳。造出有り、陪塚7基が確認されています。

和泉国日根郡(現在の大阪府泉南郡岬町)、大阪府の南端に近いところ。すぐ先は紀伊国(和歌山県)。

ただし築造時期は5世紀中~後半頃と推定され、五十瓊敷命とは時代が合いません。治定そのものが間違っているのでしょうか。もし間違っているのなら真の「宇度墓」はどこなのでしょうか。

その「淡輪ニサンザイ古墳」のすぐ近くに西陵古墳があります(全長210mの前方後円墳)。

おそらくどちらかが紀小弓(キノオユミ)の墓とされます。雄略天皇の御宇に新羅征伐で大活躍した人物。

つまりこの地は紀氏の勢力圏であると言えます。そして五十瓊敷命は紀氏と何らかの関わりを持っていたと考えられます。一千口の剣を運んだのも紀氏でしょうか。

また「菟砥」「宇度」は、「阿蘇ピンク石」を供給した「宇土」と読みが同じ。これは偶然なのか…。

五十瓊敷命の母方の曾祖父に彦坐王がいます。彦坐王が息長水依比売命を娶って生まれたのが丹波道主命(五十瓊敷命の母方の祖父)。

五十瓊敷命と息長氏との関係を、近親者とみるか、遠戚者とみるか。

いずれにしても、「阿蘇ピンク石」を掘れば掘るほど「紀氏」と「息長氏」が関わってきます。この先には他にも関わる氏族は登場しますが。

◎大和国山邊郡の東乗鞍古墳と、別所鑵子塚古墳は、ともに被葬者は物部氏のものとされます。

五十瓊敷命が老齢により、石上神宮の神宝の管掌を引退。その代わりとなったのが物部十千根命。以降は物部氏の総氏神となっていきました。その物部氏の首長級の墳墓に「阿蘇ピンク石」製の石棺が用いられているのが面白いところ。系譜上の繋がりはありませんが。




*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。