大和国十市郡の兜塚古墳の石棺(「阿蘇ピンク石」製)。






◆ 「阿蘇ピンク石」 ~海を渡った棺~ (8)






「阿蘇ピンク石」製の石棺例の2回目。

*山城国綴喜郡
*河内国古市郡・志紀郡
*大和国山邊郡
以上の3例を見てきました。

今回は大和国十市郡と城上郡の石棺例の3箇所をみていきます。

すべて奈良県桜井市。
それぞれ車で10分程度しか離れていません。


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■過去記事
(1) … 序章・「阿蘇ピンク石」石棺例一覧
(2) … 「阿蘇ピンク石」とは・石棺例一覧の訂正
(3) … 「大王のひつぎ航海実験」
(4) … 「阿蘇石」と「舟型石棺」 ~1
(5) … 「阿蘇石」と「舟型石棺」 ~2
(6) … 「阿蘇石」と「磐井の乱」
(7) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~1

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野ざらしの兜塚古墳の石棺。



■ 大和国十市郡の兜塚古墳

年初に拝し記事を上げたばかりの兜塚古墳

遂にこのテーマ記事に取りかかろうと心を決め、未拝の古墳へ参らねばと取り急ぎ向かいました。

「阿蘇ピンク石」製の石棺が、剥き出し、野ざらしに晒されております。

古代史研究者たちから刮目される大変貴重な遺産。それが…。遺産とともに生活し、生活の一部とさえにもなっている、大和ならでは…。

古墳は傾斜を利用し果樹園に。
神籬石や石像は漬物石に。
石棺蓋は橋に。

さまざまな遺産を巧みに活用なされています。
「他にも似たようなもんぎょうさんあるさかい、一つくらい使(つこ)てもかましまへんがな」

この「阿蘇ピンク石」製の石棺も、農家の腰掛け石とでもなっていたのでしょうか。


大和盆地の南東端、「浅古(あさご)」集落より北西方向に延びる丘陵先端部に築かれた古墳。

全長50m程度の前方後円墳(原形を留めていないため不明、民有地であるため未調査)。
「刳抜式」の「家型石棺」。
5世紀末~6世紀初頭の築造。

被葬者はまったくもって不明。
この時期のこの規模の前方後円墳となると、有力氏族の首長墓とも考えられますが、当地を拠点とした氏族すらも不明。皇族の可能性もあるのでしょうか。

◎石棺の運搬については、今回取り上げる3箇所がかなり近く、被葬者がすべて不明なため、最後にまとめます。


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■ 大和国城上郡の「阿蘇ピンク石」製の石棺

2箇所あります。


どちらも出所不明の石棺。慶雲寺裏古墳石棺の方は慶雲寺裏古墳のものでしょうが。

個別にみていきます。

慶雲寺という仏教施設の建築物横に、石仏が彫られてしまった石棺が立てられています。これが「阿蘇ピンク石」製の石棺。

その建築物背後には慶雲寺裏古墳があります。かつて周辺にはこちらを含めて6基ほどの古墳が存在したらしく、石棺はそのいずれかのものではないかと考えられています。

慶雲寺裏古墳は径15mほどの円墳。6世紀後半~末頃築造とみられています。

場所は「三輪山」西麓の「纏向古墳群」内。三輪氏の古墳と思われます。

石棺は「阿蘇ピンク石」製の「刳抜式石棺」。「家型石棺」でしょうか。


◎石棺の運搬については、こちらもミロク谷石棺の項にて。





「山の辺の道」沿いの「金屋の石仏」と称される仏教施設の床下に、「阿蘇ピンク石」製の石棺が安置されています。

「山の辺の道」とは記紀にも記される史上最古の古道。大和盆地の東麓を南北16kmほどに渡り縦断しています。起点となる「海石榴市(つばいち)」からは300~400mほど。

この場所の周辺は歴代天皇が宮を営んだ地。


出所は不明。覆屋内には石仏が彫られてしまった石棺の板石が2枚。こちらは東方の「三輪山」麓の「ミロク谷」という谷地に置かれていたのを、持ち出したと伝わります。
同じ床下にはもう一体の石棺蓋が安置されますが、こちらも出所不明。

「海石榴市(つばいち)」とは、国内有数の交易の中心地で、古代のもっとも大きな市場。そして「大和川」を遡上してきた終着点。仏教伝来地でもあり、遣隋使の小野妹子が帰国したり、隋の使者 裴世清(ハイセイセイ)を迎えたのもこの地。

現在とは異なり、そこそこの規模のある船が「大和川」を遡上していたようです。
おそらく宇土から瀬戸内海を引っ張ってきた船は「亀の瀬」まで。そこからはやや小さな船で石棺を載せた台船を引っ張ったのではないかと。或いは台船を両岸から人力で引っ張ったか。



欽明天皇 磯城嶋金刺宮近くの「大和川」。この日は前日の雨で水量は多め。



今回はここまで。

次回も「阿蘇ピンク石」製の石棺をみていきます。


*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。