☆崇神天皇 磯城瑞籬宮跡
(しきのみずがきのみやあと)



大和国城上郡
奈良県桜井市金屋896 (志貴御縣坐神社境内)
(P無し、鳥居前に通行の邪魔にならない程度に停めています)



「三輪山」の南麓、農家以外は誰も近寄らないうら寂れた場所にひっそりと。
崇神天皇「磯城瑞籬宮跡」は、式内大社(比定社) 志貴御縣坐神社の境内が候補地の一つとして挙げられています。

これほどの凋落ぶりは、村の氏神さんではないためでしょうか。
参拝に上がるのは学者や古代史ファンばかり。お金を落としていかない人たち…。

その一人ですが。

磐境(神籬跡か)や境内に散在する磐座らしきものからも、式内大社の比定に関しては異論はありません。

また「磯城瑞籬宮跡」にこの式内大社が創建されたというのも、十分にあり得ることかと。

現在でこそ幽霊でも出そうな佇まいながらも、最下部写真の通りに交通の要衝であった地。

そして何よりも、在位中は祟られ続けた崇神天皇に、その祟りを起こしていた大物主神が鎮まる「三輪山」の南麓。

宮は「三輪山」の東方と山しか無い北方を除く、西方か南方のいずれかしかあり得ないわけで。

南方から仰ぐ「三輪山」も結構美しいものです。


崇神天皇については今さらながら詳述するつもりはありません。当たり前のことのみおさらいを。

◎紀に「御肇國天皇」(ハツクニシラススメラミコト)と記される、実在が確実視される最初の天皇(第10代、3世紀後半頃か)。
◎倭迹迹日百襲姫命を「卑弥呼」とするなら、その父神。
◎「御真城天皇」などと称されることから、朝鮮半島の「任那(みまな)」出身ではないか、
また政権交替、つまり前政権を倒して即位したのではないかとも。
◎とにかく祟られ続けた天皇。
記紀の記述によれば疫病の流行で、国民が半数以下にまで減り、これを祟りと考えた。
◎祟りが起こるのは大物主神がないがしろにされているという神託があり、大田田根子を探し出し大神神社の初代神主として大神を奉斎させた。
◎また祟りの原因は、天照大神と大和大國魂神が宮中にて同床しているのが原因であると神託を得る。天照大神を豊鋤入姫命により「倭笠縫邑」に遷し、大和大國魂神は市磯長尾市に大和神社にて奉斎させた。天照大神はその後「倭笠縫邑」から遷し出され、各地を転々とした後に伊勢に鎮まる。
◎神託により、大和の東の墨坂神と西の大坂神に盾と矛をもって奉斎させた。東西の要に釘を差しておいたのではないかと考えられる。
◎神託通りにすると国が安定、全国教化に乗り出し四道将軍を派遣した。

ギュギュギュ~っと凝縮するとこんなものでしょうか。

この地に立ち、天皇がどんな思いで国を治めていたのかなどを思い描くと、感慨深いものがあります。

大いに苦しみ大いに憂い
不安ばかりだったと思います…。


なお戦時中には、崇神天皇の聖徳を顕揚しようという考えが起こり、官弊大社創建の動きがあったようです。

この宮跡にて聖徳奉讃祭が毎年行われていたとのこと。ところが敗戦により事業は白紙になりました。