◆ 「阿蘇ピンク石」 ~海を渡った棺~ (6)
では、お膝元の肥後国はどうなっているの?
今回は肥後国及び周辺の様子に進んでいきます。
肥後国は自身が中学生の修学旅行で訪れて以降、まだ一度も訪れていません。
そんな時代のことですからカルデラ辺りのことは覚えてはいますが、それ以外のことは一切記憶にありません。
一から勉強し直しつつ…の記事作成となります。
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■過去記事
(1) … 序章・「阿蘇ピンク石」石棺例一覧
(2) … 「阿蘇ピンク石」とは・石棺例一覧の訂正
(3) … 「大王のひつぎ航海実験」
(4) … 「阿蘇石」と「舟型石棺」 ~1
(5) … 「阿蘇石」と「舟型石棺」 ~2
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■ 筑後国の「阿蘇溶結凝灰岩」製の石棺
お茶で有名な「八女市(やめし)」に岩戸山古墳があります。
「筑後川」の支流「広川」の中流域、「有明海」からは15km余りといったところでしょうか。300基ほどからなる「八女古墳群」の一基。
4世紀代の方形周溝墓(弥生時代の墓)
全長135mの前方後円墳。北九州最大、当時の大王墓に大王6世紀前半に築造。
注目は3点。
*「石人石馬」という石製品が100点以上出土
*筑紫君磐井の墳墓とみられる
*「別区」がある
「石人石馬」とは九州北部でみられる、5~6世紀の人物や馬などの石造彫刻品。「阿蘇溶結凝灰岩」製。
「八女古墳群」をすべて取り上げるのは大層になりますから、「石人山古墳」だけを取り上げておきます。
全長120mの前方後円墳。築造は5世紀前半~中頃。この地域では最大・最古。被葬者は筑紫君磐井の祖父とみられます。
「阿蘇溶結凝灰岩」製、「組合式」の「家型石棺」。「重圏文」「直弧文」が施された、最古期の装飾古墳。こちらも最古期の「石人」が一体有り。
■ 筑紫君磐井
この「阿蘇ピンク石」のテーマ記事において、キーとなる氏族。いよいよ本丸に踏み込んでいくことになります。
6世紀前半頃に九州北部を治めていた豪族。ヤマト王権に拮抗するほどの勢力を有していた筑紫君磐井。
「磐井の乱」は継体天皇の御代に起こった最大の危機。日本の歴史を左右しかねるほどの大事件となりました。
ヤマト王権により鎮圧され、事なきを得たためさほど大きく取り上げられることは多くはありません。
ところが九州を訪れると、事件の大きさを思い知らされることとなります。
◎筑紫君磐井
紀には「筑紫国造」であったと記されます。これはヤマト王権の下での官職。
ところが記や「筑紫国風土記」には国造であったとは記されていません。つまり独自の勢力であったという説も。ただし「君」というヤマト王権支配下の「姓(かばね)」で記されます。
「君」は畿内及び地方の中小豪族に与えられた姓。「君」では収まらないほどに巨大化していたようですが。
◎「磐井の乱」のあらまし
継体天皇二十一年、新羅に奪われた加羅等を再興し任那に合併させようと、ヤマト王権は6万の兵を率いる近江毛野(オウミノケヌ)を派遣します。ところがこれを新羅と組んだ筑紫君磐井が阻止し、反乱を起こします。ヤマト王権は将軍 物部麁鹿火(モノノベノアラカヒ)を派遣、反乱を鎮圧したというもの。
この時、物部麁鹿火は筑紫以西の統治も任されています。継体天皇が相当な危機感を持っていたことが窺えます。
ドえらいことになったな…と。
■ 継体天皇と筑紫君磐井の謎
継体天皇の今城塚古墳、そして筑紫君磐井の岩戸山古墳。「相似形」であるとのこと。
また今城塚古墳には「埴輪祭祀区」(東西62~65m、南北6m)がありますが、岩戸山古墳にも「別区」(一辺43m)があります。
果たして争った間柄でこのようなことがあり得るのか?
記では「磐井の乱」前に、継体天皇は既に崩御したことになっています。
この謎にいつか触れなければならないと思いますが、このテーマ記事においては、まだ継体天皇についてすらも触れていないので、ここではここまでに停め置きます。
今城塚古墳の「埴輪祭祀区」。
■ 肥後国の「阿蘇溶結凝灰岩」製の石棺
肥後国には「阿蘇溶結凝灰岩」製の石棺はみられますが、「阿蘇ピンク石」製の石棺は未だ発見されていません。
ヤマト王権が占有したのでしょうか。それにしては大王だけでなく、豪族の首長クラスの墳墓にも使われています。或いは何らかの理由で忌避されたのでしょうか。
肥後国にはいくつかの「阿蘇溶結凝灰岩」製の石棺がみられます。そのうちの宇城市の鴨籠古墳(かもここふん)を。
宇土市の南側に隣接する宇城市「不知火町(しらぬいちょう)」に築かれた古墳。宇土半島の南側付け根の丘陵地帯。
原形を留めてはいないものの、推定径25mほどの円墳。築造は5世紀末頃。
石棺は長さ1.6m。せいぜい身長1m余りの遺体しか入らないでしょうから、被葬者は子供とみられます。「阿蘇溶結凝灰岩」製、「刳抜式」の「舟型石棺」。
「石障」で囲われた竪穴式石室。肥後国の豪族が好んで用いた「直弧文」の線刻が施されています。
(「石障」「直弧文」は → 前回の記事参照)
装飾古墳の画像はこちらにて。
(大変分かりやすく示されています)
今回はこの辺りまでにて。
未だ核心部分の大気圏外くらいですが。
徐々に内部へと踏み込んでいきます。
*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。