「阿蘇ピンク石」製の石棺を運んだとみられる紀氏が大いに関わる石清水八幡宮






◆ 「阿蘇ピンク石」 ~海を渡った棺~ (7)






ようやく…ですが

「阿蘇ピンク石」製の石棺の事例を見ていくことにします。


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■過去記事
(1) … 序章・「阿蘇ピンク石」石棺例一覧
(2) … 「阿蘇ピンク石」とは・石棺例一覧の訂正
(3) … 「大王のひつぎ航海実験」
(4) … 「阿蘇石」と「舟型石棺」 ~1
(5) … 「阿蘇石」と「舟型石棺」 ~2
(6) … 「阿蘇石」と「磐井の乱」

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石清水八幡宮一の鳥居と「男山」。山の反対側に八幡茶臼山古墳が築かれています。



■ 山城国綴喜郡の八幡茶臼山古墳(やわたちゃうすやまこふん)

現状もっとも古いとされている「阿蘇ピンク石」製の石棺を有するのが、この八幡茶臼山古墳。

既に第4回目の記事にて記していますが…
おさらいを。


径18m以上の円墳(大正四年調査)とされますが、完全に消失しているため詳細は不明。周辺にはいくつかの同時代の古墳があるようですが、「古墳群」とはされていません。

竪穴式石室内に「刳抜式」の「舟型石棺」が納められていたとのこと。「阿蘇ピンク石」製。
石室の上が4枚の板石で覆われていたとあることから、これは「石障」のことでしょうか。

築造時期は4世紀中頃~5世紀初頭。盗掘に遭っており、遺物は石釧等ごくわずかのみ。

場所は山城国綴喜郡(現在の京都府八幡市)内。
「桂川」「宇治川」「木津川」が一気に合流し、「淀川」となる要衝。石清水八幡宮が鎮座する「男山」の南西裾部の丘陵地。既に消失しており古代の地形は不明。

石清水八幡宮は創建時(貞観元年、859年)より要職を紀氏一族が占めていました。当古墳築造においても紀氏が関わっていた可能性があるかと思われます。

この地は大阪府枚方市との境であり、継体天皇の「樟葉宮跡」伝承地(交野天神社の境内)はわずかに300~400m西方(片埜神社説有り)。
真の継体天皇陵とみられる今城塚古墳へは、その「淀川」を7~8kmほど下った辺りに合流する「芥川」を5kmほど遡った辺り。直線距離なら10km程度といったところ。

◎棺の運搬は「淀川」を遡上したとみて間違いないかと思います。



■ 山城国綴喜郡と息長氏・紀氏

八幡茶臼山古墳の被葬者を特定するのは、遺物も残されていなければ、古墳そのものも消失しているため甚だ困難。またそれを試みている資料も見当たりません。

そこでいつもの大胆な発想(妄想)を。古墳マニアならともかく、古墳に対して多くの特別な感情を持たない者にとっては、被葬者が分かりもしない古墳を参拝するのは苦痛でしかない。
だから多少強引にでも、朧気でも、被葬者像にアプローチしたいと思います。

山城国綴喜郡と言えばやはり息長氏が浮かび上がります。

息長氏の系譜を先に示しておきます。
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自筆で大変恐縮します。クリックで文字拡大して下さいませ。



息長水依比売の時代に丹後へ、山城筒城真稚王(ヤマシロツツキノマワカオウ)の時代に山城国綴喜郡(つつきのこほり)へ進出したと思われます。「筒城=綴喜」。

その中心地となるのは朱智神社の辺りだろうと思います。直線距離で10kmほど南。「淀川」支流の「木津川」の上流である京田辺市。

この地域で勢力を持った人物とは、息長氏と大いに関わった者ではないかと想像します。

またこの時代より以前から水運を司っていたのは紀氏であろうと考えています。

「綴喜郡」の北側は「紀伊郡」。奇しくも紀氏の本貫地があった「紀伊国」(和歌山県)と同じ地名。「紀伊郡」は紀氏が関わっていたことによる地名ではないのかと考えるのです。
こちらは「淀川」支流の「桂川」を遡上、さらに支流の「鴨川」を遡上した辺り。水運では繋がります。

また上述のように石清水八幡宮が、紀氏に大いに関わることも。

当古墳の被葬者は紀氏とも大いに関わる人物ではなかったかと想像します。


息長氏と紀氏と。
武内宿禰で繋がるではありませんか。

第5回目の記事でも記したように、武内宿禰の母は紀伊国造家の影媛。紀朝臣の始祖とされるのは武内宿禰の子の紀角宿禰。

そして神功皇后(息長帯比売)の参謀として、右腕として、ひょっとしたら結ばれて応神天皇を生んだ?…大活躍したのが武内宿禰。

神功皇后の三韓征伐は、紀氏の水軍の協力のもと行えたことと思います。

さらに…系譜を見て頂けると分かりますが、最後尾に継体天皇が見えます。こちらの今城塚古墳の石棺も「阿蘇ピンク石」製。

武内宿禰の肥後国出生説を含めて、
これはもう紀氏が石棺輸送に関わっていたと見ることに異論はないかと思います。


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峯ヶ塚古墳の前方部



■ 河内国古市郡の峯ヶ塚古墳

同じく河内国、志紀郡の長持山古墳と唐櫃山古墳は、既に第4回目の記事にて記しましたので割愛。

古市郡の峯ヶ塚古墳のみを。

こちらも日常の敬神活動の中で参拝、既に記事を上げていますので大まかに記します。

全長96mの前方後円墳。「古市古墳群」(世界文化遺産)の一基。築造時期は6世紀初頭とされますが、資料により差は有り。

竪穴式石室内に「阿蘇ピンク石」製、「刳抜式」の「舟型石棺」が確認されています。

盗掘を受けているにもかかわらずあまりに豪奢な副葬品、二重の周濠から天皇に次ぐ地位の人物ではないかとみられます。
木梨軽皇子(第19代允恭天皇皇子)や星川皇子(第21代雄略天皇皇子)など、被葬者については多説ありますが不明。

◎石棺の運搬は「大和川」を遡上、そして支流の「石川」をさらに遡上し陸上げ、1kmほど修羅で移動させたように思います。



■ 大和国山邊郡の別所鑵子塚古墳

いよいよ大和国内の「阿蘇ピンク石」製の石棺に触れていきます。まずは山邊郡(現在の天理市)の別所鑵子塚古墳(記事未作成)から。

場所は大和盆地の東麓、緩やかな丘陵地。

全長57mの前方後円墳。掘削が酷く原形を留めていません。周濠跡と造出があるとのこと。有力者であることが分かります。

場所柄からして物部氏の首長、もしくは有力者といった辺りだろうと思われます。築造時期は6世紀前半とみられています。

石棺は前方部と後円部の両方から発見されています。前方部は「刳抜式」、後円部は「組合式」。それ以上の資料が見当たらず詳細不明。どちらが「阿蘇ピンク石」製なのかも分かりかねます。

測量調査は昭和四十八年に行われました。この頃ならしかるべき資料は存在するのだろうと思いますが。

◎付近には石棺を運ぶことができるような河川は存在しません。
北の「木津川」(「淀川」の支流)、もしくは南の「大和川」のいずれかを遡上し、陸上げして修羅で移動させる以外に方法は無いかと思います。

南の十市郡や城上郡でも「阿蘇ピンク石」製の石棺が発見されているので、「大和川」遡上に分がありそうです。
修羅を用いての移動は10km以上となります。


(物部氏の総氏神とされる石上神宮)



次回は…

大和国十市郡や城上郡の「阿蘇ピンク石」製の石棺を見ていきます。



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。