石清水八幡宮


山城国綴喜郡
京都府八幡市八幡高坊30
(駐車場は覚えていません、当日はケーブルに乗車しました)

■社格等
[旧社格] 官弊大社
[現在] 別表神社
二十二社の上七社の第2位
勅祭社

■祭神
[中御前] 誉田別命
[西御前] 比咩大神
[東御前] 息長帯姫命


貞観元年(859年)の神託により、宇佐神宮(記事未作成)より「男山」山頂に八幡神を遷座させたという社(創建は翌年)。
◎平将門・藤原純友の乱に対して朝廷から当社に請願があり、平定後は神威が発動されたとして地位を高めます。当時は伊勢の神宮に次ぐ朝廷の第二の宗廟と称されることもあったとか。
そして当社より全国に勧請がなされ、八幡社が広まります。これはもちろん武士の台頭、武士による支配という歴史の推移と呼応したもの。
以降の歴史は当ブログの対象ではないので省略します。
◎貞観九年の神託というのは、一人の僧侶が宇佐神宮に隠っているときに「吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」とあったというもの。以降、僧侶が神官を務めるなど仏教にまみれた社であったようです。表面上は神の社とはされているものの、中身は仏教施設であったと思います。明治の廃仏毀釈により排除されるものの、今なお影響力は強いように思います。
◎問題は仏教などという外来新興宗教の僧侶が、「男山」に八幡神を悪用した仏教施設を建立する前のこと。つまりここには何らかの神が祀られていたはずであるということ。削り取られる前の状態を周辺の地理を含めて想像するに、神奈備山以外の何物でもなかろうかと思います。
◎当地は桂川、宇治川、木津川が合流し淀川となる屈指の要衝。水利水運いずれも申し分のない地。桓武天皇は表鬼門の守護神を「牛尾山(比叡山)」に宿る神、裏鬼門の守護神を「男山」に宿る神として平安京を定めたことと思います。
「牛尾山」山頂には巨石が座し、太古からの祭祀対象であったものの、最澄などという僧侶が延暦寺という仏教施設を建てて聖地を奪い取りました。幸いであったのは巨石が残されたこと(「日吉大社 奥宮」の記事参照)。
一方、「男山」山頂においてもおそらく、祭祀対象となる巨石が持ち込まれ磐座とされていたのだろうと想像します。桓武天皇の時代にはまだ座していたのではないかと。こちらの方は残念ながら痕跡や伝承すらも残っていません。
◎唯一の手がかりは「石清水」かと。石があり、そこからご神水が流れ出していたのでしょうか。ということは水神(女神)が祀られていたのかも。ひょっとすると水と関連の強い息長氏系、例えば息長水依姫命やあるいは既に息長帯姫命(神功皇后)が祀られていたのかもしれません。ところがどうしても宇佐から勧請しなおす必要があったのかとも。
◎表鬼門、裏鬼門ということは45°の角度ということ。両山を結び、そのまま延長すると坐摩神社に当たるように思います(精査中)。反対の北東に延長すると白山周辺になりそうです(こちらも精査中)。つまり「レイライン」が出来上がるのではないかと。もしそれが正確に一直線に並ぶのであれば、やはり「男山」は先史時代からの祭祀場であったのではないかと思います。もしそうであるなら、もちろん桓武天皇はそれを知っていて都を定めたと思います。

※境内社等をまとめた記事を後ほどUPします。
※写真は2017年2月撮影のものです。


三の鳥居


南総門