朱智神社


山城国綴喜郡
京都府京田辺市天王高ヶ峯
(軽がギリギリ通られるレベル、運転上級者でないと非常に困難)
※アクセスは下部写真参照

■延喜式神名帳
朱智神社の比定社
天神社の論社

■旧社格
郷社

■祭神
迦爾米雷王(カニメイカツチオウ)
[配祀] 建速須佐之男命 天照國照彦火明命 大筒城眞若王


枚方市との境、京田辺市「天王高ヶ峯」という小さな集落外れに鎮座する社。一帯は「天王●●」といった地名となっており、当社ご祭神にちなむもの。鎮座地は標高300m足らずの高所、府県を隔てる山地となっています。
境内は深い樹叢に覆われ、とても神寂びた雰囲気を醸しています。
◎社伝によると創建は仁徳天皇六十九年、現社地より西方三町余りの所に社殿を建て、朱智天王と号したとされています。別の案内には「西方の西峯頂上」とあります。旧社地は不明ながら地名と距離から察するに、南西300mほどの「天王峯」という地でしょうか。
◎ご祭神の迦爾米雷王は第9代開化天皇の曾孫であり、神功皇后の祖父。第11代垂仁天皇の御代に当地を当地を拠点とし、その子孫が朱智姓となったとしています。
◎そもそも息長氏は山代筒城真稚王を祖としています。開化天皇の孫であり、日子坐王の子であり、そして迦爾米雷王の父。
息長氏は山代筒城(山城国綴喜郡)を拠点とするところから始まった氏族(近江国とする説の方が有力ですが…)。北東2km余り、かつて普賢寺という仏教施設があったとされる現在の同志社大学敷地内が有力。
社記には迦爾米雷王と大筒城眞若王の二座相殿とあるようです。
◎そこから見て南西方向で最も高い所に位置するのが当地。ここをいわゆる「神奈備」と見立てて祀ったのではないかと考えます。なお北西方向には「薪甘奈備山」と称される山があり、元々はこちらにおいても祭祀が行われていたのではないかと考えています。
◎建速須佐之男命が祀られるようになったのは桓武天皇の御代(781~806年)のこと。平安末期作の牛頭天王の神像があるようです。既にこの頃には息長氏は近江国へと拠点を移していたものと考えています。
一方、天照國照彦火明命が祀られる由緒は一切不明。
◎当社は式内社 天神神社の論社として挙げられていますが、京田辺市松井向山に鎮座する天神社が有力。上述のように神名帳編纂時には、既に牛頭天王を祀る社と化していたように思われます。したがって当社を式内社とする説は受けられ難いものかと。


当日は代車マーチにて。運転に自信のある方ならこの程度でも可能。かなりの狭小道路であり、急角度の切り返しが一ヶ所あります。
このクラスより大きな車、運転上級者以外の方は麓に停めて30分以上歩いて登る方がいいと思います。車はこの場所に。これより先は転回も不可能。


車を停めたところから一の鳥居が見えています。

是が非でも訪れたいと何度も夢見た一社。ようやく念願が叶いました。

一の鳥居正面。既にここからただならぬ雰囲気に。



社殿が見えて来ました。長年の夢がもうすぐで叶う瞬間を迎えます。