◆ 「阿蘇ピンク石」 ~海を渡った棺~ (10)
*追加修正
前回の記事において大変に重要なことが欠落していました。
今回は追加修正記事としてUPします。
同時に2~3つの記事を平行して書き起こしたりしつつ、休憩という名のおさぼり時間を挟みつつの記事作成。
集中力が散漫になっておりました…。
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■過去記事
(1) … 序章・「阿蘇ピンク石」石棺例一覧
(2) … 「阿蘇ピンク石」とは・石棺例一覧の訂正
(3) … 「大王のひつぎ航海実験」
(4) … 「阿蘇石」と「舟型石棺」 ~1
(5) … 「阿蘇石」と「舟型石棺」 ~2
(6) … 「阿蘇石」と「磐井の乱」
(7) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~1
(8) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~2
(9) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~3
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■ 継体天皇と物部氏
前回の記事で物部氏系の「阿蘇ピンク石」製の石棺を有する2基の古墳を取り上げました。
本来はその続きで上げないといけなかった内容です。
継体天皇二十一年(527年)のこと、「磐井の乱」が起こりました。
これは勢力を伸ばした新羅が加羅を奪取、それを奪い返すためにヤマト王権は任那へ軍を派遣しようとするも、新羅が筑紫の磐井に贈賄で買収、その磐井がヤマト王権の軍を阻んだことにより戦争が勃発したというもの。
任那に向けて派遣されたのは近江毛野(オウミノケナ)。6万の軍を率いて出発したと紀には記されます。
これを阻まれたヤマト王権は、物部麁鹿火(モノノベノアラカヒ)を将軍に任命し、筑紫以西の統治を付けて送り込みました。激しい交戦の末、遂に筑紫君磐井を討ったと記されます。
なお記の方では、物部荒甲之大連(物部麁鹿火)と大伴金村連を派遣したとあります。
麁鹿火は先代の武烈天皇の即位前から大連に。武烈天皇の崩御後は継体天皇擁立に働きかけたとされ、再び大連になっています。
そして筑紫君磐井の征討に成功。特に継体天皇からの信任は篤かったことと思われます。
麁鹿火は「石上・豊田古墳群」「杣之内古墳群」のどこかに眠っていると思われます。
別所鑵子塚古墳、東乗鞍古墳辺りは物部氏の首長級墓であり、麁鹿火の墳墓なのかもしれません。
*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。