伊賀国一ノ宮 敢國神社ご本殿



■表記
紀は大彦命、記は大毘古命
*「稲荷山古墳鉄剣」の銘文には意富比垝


■概要
◎崇神天皇十年に各地に派遣された「四道将軍」の一人。
北陸 → 大彦命
東海 → 武渟川別命

西道 → 吉備津彦命

丹波 → 丹波道主命
これは紀の記述によるもので、記には個別に事績を記すも「四道将軍」という表記は無し。記では大彦命は高志(こし)国へ派遣されたという記述になっています。

「四道将軍」が派遣された背景は、史実であるのかどうかも含めて様々に解釈されています。おそらくは第9代開化天皇の御代に、丹後の竹野媛が皇后となったことにより、ヤマト王権から「四道」へ一気に門戸が開かれたものとみています。またヤマトには致命的に「鉄」が欠乏、鉄資源を求めての派遣だったのではないでしょうか。大彦命が派遣された北陸は「翡翠(ヒスイ)」を含んでいたのかもしれません。

◎第8代孝元天皇の第一皇子。当時は末子相続制であったと考えられ、稚日本根子彦大日日尊(ワカヤマトネコヒコオオヒヒノミコト)が第9代開化天皇となっています。

◎四道将軍の派遣、そしてそれぞれの平定記述はあっさりしたもの。それに比して、大彦命が北陸へ向かう途次に起こった埴安彦の反乱は詳細に記されます。

これは進軍途中の山城国(おそらく大和に近い辺り、祝園神社近辺か)で、童女が口ずさむ歌に怪しみを感じたため軍を引き返し報告、西道へ派遣されていた吉備津彦命(彦五十狭芹彦命)らとともに埴安彦らを討ったというもの。

◎「会津」の地名説話として記には、派遣時に大毘古命と武渟川別命とが出会った地を「相津」としています。


◎紀には安倍臣・膳臣(カシワテノオミ)・阿閇臣(アヘノオミ)・狭々城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣ら7族の祖と記されます。

◎「稲荷山古墳鉄剣」の銘文に刻まれる系譜、「意富比垝」を大彦命に宛てる説があります。
系譜は以下の通り。

意富比垝 ━ 多加利足尼 ━ 弖已加利獲居 ━ 多加披次獲居 ━ 多沙鬼獲居 ━ 半弖比 ━ 加差比余


■系譜
父 … 孝元天皇
母 … 皇后 鬱色謎命(ウツシコメノミコト)
后妃 … (不明)
子 … 武渟川別命(東海に派遣された四道将軍の一人)、御真城姫(崇神天皇皇后、垂仁天皇母)、比古伊那許志別、波多武彦命、紐結命
孫 … 磐鹿六雁命(イワカムツカリノミコト)など

◎「新撰姓氏録」には、「河内国 皇別 難波忌寸 忌寸 大彦命之後也」として続けて以下の注釈が付されています。
━━安倍氏遠祖大彦命、磯城瑞垣宮御宇天皇(崇神天皇)の御代、蝦夷を治むるに遣わされる時、兎田の墨坂(参考 : 墨坂神社)に至り、嬰児が泣くのを聞き棄てられた嬰児を得たと考えた。大彦命は大いに歓び乳母を訪ね求め兎田の弟原媛を得た。(中略) 成人になるまで愛育した。名付けて曰く得彦宿祢。異説がある━━(大意)

どうやら捨て子を得て育てたようです。名は得彦宿祢。記紀に見えない神名。なぜこのような注釈を載せたのか不明、難波忌寸というのが得彦宿祢の裔ということでしょうか。ただし次の「難波」は「難波忌寸同祖」として「波多武彦命之後也」としていますが。


■祀られる神社等(参拝済み社のみ)
(かなり漏れがあると思われます、分かり次第追加します)
[飛騨国] 大津神社(記事未作成)
[伊勢国多気郡] 相鹿鏡神社
[伊勢国多気郡] 豊原神社
[伊勢国鈴鹿郡] 川俣神社(鈴鹿市庄野町)

[伊賀国] 敢國神社
[山城国相楽郡] 幣羅坂神社


*配祀・合祀等
[伊勢国鈴鹿郡] 忍山神社(合祀)

[伊賀国] 玉瀧神社(合祀)


*摂末社等
[大和国十市郡] 若桜神社(桜井市谷)の境内社 高屋安倍神社

*関連する社等
[伊賀国] 佐々神社

[伊賀国] 名居神社
[紀伊国名草郡] 射矢止神社


*陵墓(候補地)
[伊賀国] 御墓山古墳
[大和国城上郡] 桜井茶臼山古墳
[大和国十市郡] メスリ山古墳




[伊賀国] 御墓山古墳