前編>の続きから。


武埴安彦と吾田媛軍が攻めてきました。

夫婦は行く手を分けました。夫は山背国(やましろのくに)から、妻は大坂から同時に。

→吾田媛は、第8代孝元天皇が河内の青玉の女 波邇夜須毘売(ハニヤスビメ)を娶って生まれたとあります。つまり河内国系であったと考えられます。また名前から推測するに吾田隼人族の血筋ではないでしょうか。
これは河内政権の大和政権打倒計画の事件ではないかとも考えられています。ということは、この夫妻を通して河内政権と山背国が手を組んだのではとも考えられています。

武埴安彦軍に対したのは、大彦命と和邇氏の祖 彦国葺命(ヒコクニブクノミコト)。吾田媛軍に対したのは、五十狭芹彦命(イサセリヒコノミコト)。

→大彦命は<前編>でも登場した四道将軍の一人です。また武埴安彦命の異母兄弟でもあります。
五十狭芹彦命も四道将軍の一人、別名 吉備津彦。

まず五十狭芹彦軍が吾田媛軍を討ち、兵士を皆殺し。また大彦命と彦国葺命を山背に派遣しました。
そして忌瓮(いわいべ、祭祀に用いる器)を和珥の武鐰坂上(タケスキサカノウエ)に鎮座しました。

→これは戦勝祈願の祭祀だと思われます。

那羅山(ならやま現在の奈良阪辺りか)でいよいよ戦闘開始、それから輪韓河(わからかわ、木津川か)に至り河を挟んで対峙しました。
武埴安彦が彦国葺命になぜ兵を挙げたのかと問うと、彦国葺命は「天に逆らい王室を傾けようとしている、だから天皇の命によって討つのだ」と。

そして両軍は弓を射ます。先に射た武埴安彦軍は当たらず、彦国葺軍が射た方は胸に命中。兵士は逃げ出したものの河の北で撃破、半数以上が斬首されます。それで当地が羽振苑(はふりその、祝園)と名付けられました。

→葬園(はふりその)ということです。「葬」の字は縁起が悪いので、「祝」に変えられました。

その後、軍は現在の石清水八幡宮辺りまで遁走したとされています。
武埴安彦の首は川を越えて飛び、その地は史跡として残されています。またすぐ近くに祝園神社が鎮座しています。
その祝園神社和伎坐天乃夫岐売神社との木津川を挟み対岸に鎮座する両社で、奇祭「いごもり祭」が行われています。これは武埴安彦の荒ぶる御霊を鎮めるための祭りです。