崇神天皇の御代、四道将軍の一人として東国に派遣された大彦命が和珥坂上(わにさかのうえ、天理市)に差し掛かった時にある少女と出会います。

その少女は歌を詠みました。「御間城入彦(ミマキイリビコ)はや 己が命を 死せむと 窃(ヌス)まく知らぬに 姫遊(ヒメナソ)びすも」と。
→ミマキイリビコは崇神天皇のこと。

大彦命は怪しいと思い少女に問い詰めるものの、ただ歌っただけとしか答えませんでした。

大彦命は都にとんぼ返りし天皇に報告。天皇の叔母である倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトビモモソヒメ、箸墓古墳の被葬者で卑弥呼とも)はその歌の怪(しるし)を知って天皇に報告します。武埴安彦(タケハニヤスヒコ)と妻の吾田媛(アタヒメ)が謀叛を起こそうとする表(しるし)であると。

さらに妻の吾田媛は密かに倭の香山(かぐやま)に来て土を取り、領巾(ひれ、たすき状のもの)の端に包んで「是は倭国の物實(ものしろ)」と呪いをかけました。

→物實(ものしろ)とは、「物」が「霊」のことで「實」が「中核」のことです。
→天香山は神聖視された特別な山であり、またその土も特別なものとされていたようです。天神地祇を祀る聖なる土器を造るための土があると。
武埴安彦は神名に「埴」があるように、「埴輪」など土と関連の深い神であったと考えられます。

崇神天皇は将軍(いくさのきみ)たちを集めて協議している間に、武埴安彦と吾田媛の兵は攻めてきたのです。


後編>に続きます。