和伎座天乃夫岐売神社 (湧出の宮)
(わきにいますあめのふきめじんじゃ)


山城国相楽郡
京都府相楽郡山城町平尾里屋敷54
(P無し、二の鳥居がある南側から入り空きスペースに駐車か)

■延喜式神名帳
和伎座天乃夫岐売神社 大 月次新嘗 の比定社

■旧社格
郷社

■祭神
天乃夫岐売命
田凝姫命
市杵嶋姫命
湍津姫命


姫神を祀る社として、非常に華やかな社殿が印象的な社。「木津川」東岸、JR棚倉駅近くに樹叢に覆われ鎮座します。
◎称徳天皇766年に伊勢国の五十鈴船原磐部郷に鎮座する天乃夫岐売尊をこの地に遷し、後に三女神を遷したとされています。現在は伊勢国に天乃夫岐売命を祀る当社の本宮とおぼしき社は見当たりません。どこかに合祀されたのでしょうか。
或いは天乃夫岐売尊はアメノフキネ神(天之葺根命)と同神ではないかとする説も有り。八俣大蛇から出た草薙剣をアマテラスに届けたと、紀に記される神。記には天之冬衣神(アメノフユキヌノカミ)として登場。スサノオの五代子孫、大国主命の父。こちらも出雲国の日御碕神社背後の「隠ヶ丘」等に足跡は見いだせるものの、知り得る限り伊勢国には見当たりません。
◎当社の実像を探るに当たり着目するのは3点。まず始めに社名にある「和伎」、周辺には関連するものが見当たりません。「座(坐)」というのは「○○○坐(います)□□□神社」、つまり○○○というのは場所(鎮座地)を指します。それを「湧出森」であるとするなら、ここで何かが「涌き出た」ということ。水なのか、鉄なのか、はっきりしません。周囲に山は無いので鉄ではなさそう、鉄が「湧く」というのも不自然、温泉でも湧き出たのでしょうか。宗像神を祀る社ということから察して水なのかもしれません。山城国祈雨神11社の一つに数えられているので、近くを流れる「木津川」の水源が枯渇、ここから水が涌き出たのでしょうか。
◎次に当社で「いごもり祭」が行われているということ。これは武埴安彦神の鎮魂の祭祀です(武埴安彦の謀叛の記事参照)。「木津川」を挟んだ向かいの祝園神社で斬首された首が、当社まで飛んで来たという伝承があります。こういう書き方がなされている場合、生前にもっともゆかりがある場所に御魂が還ったと考えるべきでしょうか。当地が武埴安彦の本拠地だったのかもしれません。わずか1kmほど南の椿井大塚山古墳も彼の墓なのかもしれません。だとすればここで祀られていたのは武埴安彦だった可能性もあります。
◎最後に、この辺りでは弥生中期の住居跡や土器などが発掘されているということ。人が生活していたということは信仰があるはずで、おそらく自然神といったようなものが祀られていたはずです。
◎以上から原初は何らかの自然神が祀られていた、武埴安彦の御魂を祀る社となった、彼の荒れ狂う御魂が鎮まってきたからか姫神を祀ることにした。当社のたどった歴史をこのように推測してみました。