☆中山茶臼山古墳 (大吉備津彦命墓)
備中国賀夜郡
岡山市北区吉備津
(P不明、吉備津神社から30~40分ほど歩きました)
■形状
前方後円墳(崇神天皇陵の1/2相似形)
■全長
105m
■築造時期
古墳時代前期頃(詳細不明)
■埋葬施設
(発掘されていないため不明)
■出土品
埴輪片が出土
■周辺の状況
「吉備の中山」の中腹に築造
麓には吉備津神社、吉備津彦神社が鎮座
■被葬者
大吉備津彦命の治定墓
「まかねふく吉備の中山…」と古今集に歌われた「吉備の中山」に築造された古墳。
この「吉備の中山」には麓に吉備津神社、吉備津彦と両一ノ宮が鎮座(両社とも記事未作成)。また山中から麓にかけて当古墳を始め、矢藤治山古墳や尾上車山古墳などが築かれています。山中には巨岩や奇岩など、磐座らしき古代祭祀場が点在(いずれも現地未確認)。太古からの信仰の場であり、山そのものが神奈備山として仰がれていたようです。
この「中山」を制したことにより、吉備国を制したのが大吉備津彦命(彦五十狭芹命)。四道将軍の一人。両一ノ宮に鎮まり、またおそらく当古墳に眠っているのであろうと思われます。
この地に大和朝廷から四道将軍の一人(一柱)が派遣された理由はもちろん「鉄」資源の確保。「まかね(真金)ふく(吹く)…」とあるように、吉備国は豊富な鉄資源を糧に強大な大国が営まれていたと考えられています。逆にヤマト王権は鉄に恵まれない国、とにかく渇望していたであろうことは容易に想像されます。
四道将軍が果たした役割は相当大きなものであり、その後の大和朝廷の躍進は、この四者(四神)の活躍無くしてはなかったと考えています。
*写真は2015年5月撮影のものです。
当日は吉備津神社参拝後に、当古墳まで歩きました。距離は1km程度。ただそれまでに吉備津彦神社、吉備津神社をくまなく歩き回った後なので、合計5kmほどは歩いたでしょうか。かなりキツかったのを覚えています。