今城塚古墳 *フリー画像より
◆ 「阿蘇ピンク石」 ~海を渡った棺~ (12)
ついにこのシリーズも今城塚古墳の所にまでたどり着きました。
いよいよか~といったところ。
もう気軽な気分で記事を上げられなくなりました(笑)
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■過去記事
(1) … 序章・「阿蘇ピンク石」石棺例一覧
(2) … 「阿蘇ピンク石」とは・石棺例一覧の訂正
(3) … 「大王のひつぎ航海実験」
(4) … 「阿蘇石」と「舟型石棺」 ~1
(5) … 「阿蘇石」と「舟型石棺」 ~2
(6) … 「阿蘇石」と「磐井の乱」
(7) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~1
(8) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~2
(9) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~3
(10) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 (追加修正)
(11) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~4
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■ 摂津国島上郡の今城塚古墳
真の継体天皇との御陵とされるのが今城塚古墳。一方で宮内庁の治定墓は三嶋藍野陵(太田茶臼山古墳)。
事実上、それこそ99%ほどの確率で今城塚古墳なのでしょうが、宮内庁は改めることをしません。
立場上、簡単に間違いを認めるわけにはいかないということは理解できますが…。
あくまでも私の個人的な見解ですが…
宮内庁が治定墓として認めると発掘調査は不可能。古代史を紐解くため、考古学界からは全国の治定墓の調査が可能になることを切望していますが、現在は不可能なまま。
宮内庁としてはそれを譲歩するという穏便な策で、今城塚古墳を治定墓に変更しないのではないかと。既に地区民の憩いの場ともなっていますし。
宮内庁は、発掘調査が可能なこと、憩いの場であり続けることを微笑ましく傍観しているのではないかと。そんな想像をしております。
恒例の余談が過ぎました。本題へと。
*全長190m(二重の周濠有り)
*前方後円墳(剣菱形前方後円墳か)
*「祭祀区」から日本最大点数の埴輪が出土
*6世紀前半に築造
石棺は数百点の破片が出土していましたが、石橋として使われていた近くの石材が当古墳のものとみられ、これが「阿蘇ピンク石」であることが判明しました。
長さ110cm、幅66cm、厚さ25cm
「家型石棺」の底面または底部とみられるとのこと。
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■ 第26代継体天皇の概要
◎在位期間/507年(58歳)~534年
(* ただし記は、~527年とする)
◎応神天皇の来孫(5代後の子孫)
◎諱/[紀] 男大迹王(ヲホドノオオキミ)、[記] 袁本杼命(ヲホドノミコト)
◎父/彦主人王(応神天皇四世孫)、母/振媛(垂仁天皇七世孫)、皇后/手白香皇女
◎第25代武烈天皇の崩御後、有力な皇位継承者が見当たらず継体天皇が擁立されたとする。
◎生まれは近江国高島郡三尾野(「琵琶湖」北西部)。その後、紀では幼くして父を亡くしたため母の実家の越後国で育ったとあるが、記にはその記述無し。
◎天皇に擁立されることとなり、紀は越後国から、記は近江国から迎えたと記されます。大伴金村や物部麁鹿火の推挙があったとのこと。
なお幼少期から、天皇に迎えられる57歳までは紀記に事蹟は記されていません。
◎翌507年、河内国の「樟葉宮(くずはのみや)」(大阪府枚方市)にて即位。
◎即位五年(511年)、「筒城宮(つつきのみや)」(京都府京田辺市)、即位十二年(518年)に「弟国宮(おとくにのみや)」(京都府長岡京市)に遷都。
◎即位二十一年(526年)、「磐余玉穂宮(いわれたまほのみや)」(奈良県桜井市)に遷都。
◎即位二十二年(527年)、「磐井の乱」が起こる。紀には翌年に平定したとある。
◎紀には即位二十五年(531年)、皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位。翌日崩御。記には即位二十二年(527年)崩御とある。これは「磐井の乱」より前のこと。
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■ 継体天皇の謎
継体天皇にまつわる事蹟等に関しては不可解なことが多く、古来より多くの議論がなされてきました。
「阿蘇ピンク石」製の石棺という主題からは外れるため、ごく簡単にのみ挙げておきます。
◎継体天皇はクーデターにより政権を打ち立てたのではないか?
◎それは息長氏系による政権奪回だったのではないか?
◎即位から大和入りまでなぜ18年もかかったのか?高齢なのにあまりに不自然。
◎「磐井の乱」は崩御前?崩御後?
天皇の名(漢風諡号)というのは奈良時代に淡海三船が付けたものですが、古代の天皇のうち「神」や「応」「継」等が付く天皇は政権交代などがあったとする説も。
つまりそれは神武天皇・崇神天皇・神功皇后・応神天皇・継体天皇のこと。
応神天皇の次代の仁徳天皇以降、息長氏の息のかかった天皇からどんどん外れていったために、息長氏系の男大迹王が政権奪還に成功し即位したのではないかと。
そうみるとなかなか大和入りができなかったことにも頷けます。
「よそ者感」があるとは言え、これほどの高齢で大和入りに躊躇しているのは不自然過ぎます。
古墳時代の15歳以上を超える寿命は男性で30.5歳とされます。いつ崩御してもおかしくないほどの高齢。
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■ 継体天皇と息長氏
継体天皇は応神天皇の五世孫とありますから、これを信じるなら紛れもなく息長氏の血筋。
高祖父に当たる稚野毛二派皇子(ワカヌケフタマタノミコ)が、応神天皇と息長真若中比売との間の子。また息長真手王の娘、広媛が継体天皇に嫁いでいます。
このように継体天皇と息長氏との関係は密なものだったと思われます。
息長氏が近江国で拠点としていたのは坂田郡(→ 日撫神社・山津照神社)。こちらは琵琶湖の東側。ところが継体天皇の出生地は高島郡で、こちらは琵琶湖の西側。紀氏を通じて水運を握っていたとすれば、琵琶湖を渡ればすぐとも言えますが。
日本海の越前国から琵琶湖の近江国、「淀川」水系を通じて山城国や摂津国、そして瀬戸内海へも。想像のスケールは広がります。
継体天皇所縁の水尾神社(近江国高島郡) *画像はWikiより
*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。