日撫神社
(ひなでじんじゃ)


近江国坂田郡
滋賀県米原市顔戸77
(一の鳥居前に駐車できるスペース有、ただし参道沿い民家の車の出し入れに要配慮)

■延喜式神名帳
日撫神社の比定社

■旧社格
県社

■祭神
少彦名命
應神天皇
息長宿禰王


鈴鹿山脈の北西末端、「天野川」北岸の古い集落の北端、「日撫山」の麓に鎮座。地名「顔戸(ごうど)」は「神戸」からの転訛とする説も。
◎当社は古代の謎多き氏族であり、古代の鍵を握ると思われる息長氏のルーツの一つ。息長氏の実態を紐解く上で、また日本古代史を紐解く上で、甚だ重要な社と考えています。
◎鈴鹿山脈を源流とする「丹生川」が、「伊吹山」を源流とする「天野川」に合流しています。霊峰「伊吹山」は当地から北東10km程度、当地から美しく遥拝できます。
◎社頭案内、滋賀県神社庁ともに当社創建について以下の内容を掲げています。
創祀年代は詳かではないが、「神祇志料」では、「新撰姓氏録を案ずるに、山田造火撫直ありて、共に後漢霊帝4世の孫阿知使主の族也と云う。之によれば、二氏の俗或いは此地に居る者、其の祖先を祀れるか」と。また「神社覈録」でも、「祭神火撫直祖神譽」と記されています。…と。
◎この二書に見る限りでは、祖神 阿知使主(アチノオミ)を奉戴した氏族、つまりは東漢氏(ヤマトノアヤウジ)ということになります。
ところがやはり当地は息長氏が拠点としていたところであり、霊峰「伊吹山」を崇めつつ、社殿の建つ「日撫山」を御神体山とし、また「神奈備山」としていたと思われます(登拝記事については下部にて)。
◎滋賀県神社庁も、「社伝および明治の神社誌によると」として以下の内容を挙げています。
当地は、神功皇后の祖先代々住まわれし地なるを以て、皇后此の地を深く慕われ、三韓より凱旋の後、此の地に祠を建て、少毘古名命と御父息長宿禰王を祀られたのが創祀と、由来を説いている。…と。
◎息長氏の出自を探ることは困難であり、諸説飛び交っていますが、一説を挙げておきます。
知り得る限りもっとも古いもので、第9代開化天皇の御子 彦坐王の妃となった息長水依比売命が見られます。製鉄鍛冶氏族の始祖とされる天之御影命の娘。丹後国加佐郡の彌加宜神社がこのことに関わると思います。天之御影命を祀る総本社は近江国野洲郡の御上神社
彦坐王の孫に息長宿禰王が見られます。こちらは当社ご祭神に神名を連ねる神。こちらの娘が息長帯比売命(神功皇后)。
◎また別に日本武尊の御子に息長田別王という神名が見られます。こちらの裔に、第15代應神天皇(神功皇后の御子)の妃となった息長真若中比売がいます。
なお應神天皇と息長真若中比売との間の孫に、若沼毛二俣王、さらにその御子に意富富杼王(オオオドオウ、第26代継体天皇)がいます。
彦坐王の御子であり息長宿禰王の父(神功皇后の曾祖父)である山城筒城真稚王がいます。こちらは山城国南部の始祖であり朱智神社に配祀されています。その御子は加爾米雷王であり、朱智神社の主祭神。
◎当地一帯には息長古墳群が形成され、息長氏の墳墓とされています。東方の山津照神社境内には息長宿禰王のものとされる、山津照神社古墳が築かれています。



◎「日撫山」登拝記事




赤い車が駐車した場所。

参道は緩やかな坂道を5分ほど登らねばなりません。

刻まれた文字は小野道風のもの。








戦国時代に浅井家の家臣と朝倉家の家臣とが力比べをしたという「力比石」。古代からの磐座であったように思いますが…。