久米御縣神社


大和国高市郡
奈良県橿原市久米町786
(いつも境内の南側に停めています、久米寺に停めてもいいのかどうかは未確認)

■延喜式神名帳
久米御縣神社 三座 の比定社

■旧社格
村社

■祭神
高皇産霊神
大来目命
天槵根命


大和国内に鎮座する「御縣社」と冠する7社の一。ところが「延喜式」の「祈念祝詞」に記されるのは6社(大和国六御縣神社)で、当社はなぜか含まれていません。
◎当地は「久米部」が拠点としていた地。「久米部」とは「久米直」が伴造として管掌した部族のこと。軍事氏族であり、後の時代に大伴連の統率下になったとされます。
◎「久米直」は、「新撰姓氏録」には高御魂命(=高皇産霊神)八世孫 味耳命(ウマシミミノミコト)の後裔とする部族と、神魂命(=神皇産霊神)八世孫 味日命(ウマシヒノミコト)の後裔とする部族の2系統があったおされます。当社では高皇産霊命が祀られていることから、その系統であることが分かります。
◎大来目命は記と紀では異なる記述に。
記では、天忍日命(大伴氏の祖)と天津久米命(大来目命、久米氏の祖)とが瓊瓊杵尊降臨の先導をしたと記されます。これに対し紀では、天忍日命が大来目命を率いて先導したと記されます。いずれにしてもその論功行賞により、当地「来目邑」を賜っています。
◎そもそも久米部は隼人の海人族であったとされ、特徴は目の入墨。神武天皇が大物主神の娘神である比売多多良伊須気余理比売を后として迎える際に、大来目命が間に入っていますが、この入墨の特徴が生かされました。
◎天槵根命(天櫛根命)については不明の神。当社案内板には「久米氏の祖神と関係の深い神」と、少々濁したような記述。
「五郡神社記」には「天櫛根大久米命」という一柱の神を挙げており、「式内調査報告」では近世に分裂して二柱の神となったとあるようです。
◎当社創建については、紀の垂仁天皇二十七年の条に「是歳屯倉を来目邑に興す」とあり、この頃から何らかの祭祀が行われていたのであろうと考えられています。
◎久米部伝承の「久米歌」というものがあり、神武東征神話にもみえます。久米部が出陣の際に歌われた軍歌であったものが、後の時代に儀式に歌われるものと変わり、現在でも宮内庁で歌われています。また合わせて「久米舞」も現在に引き継がれています。

◎向かいの公園(かつては当社境内)に「來目邑傳稱地」碑と、「臥竜石」が座します。


*写真は過去数年に渡る参拝時のものが混在しています。


向かいの公園越しに当社を。





狛犬は名工 丹波佐吉によるもの。


こちらが「臥竜石」。

「臥竜石」越しに「畝傍山」を。



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。