◆ 「阿蘇ピンク石」 ~海を渡った棺~ (17)
「火の国」の「阿蘇国」の記事が
一記事では収まりきらず
前回の記事の続きとなります。
ここ数回の記事は「阿蘇ピンク石」から少々遠ざかる記事が続いています。
このテーマ記事そのものが、
何でわざわざとあんなバカでかい石棺を
「火の国」から遥々と畿内へと運び込んだのか?という謎に迫るもの。
その理由と背景が主題であるが故のこと。
面白いように繋がるパズルを楽しんで頂けたらと思います。
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■過去記事
(1) … 序章・「阿蘇ピンク石」石棺例一覧
(2) … 「阿蘇ピンク石」とは・石棺例一覧の訂正
(3) … 「大王のひつぎ航海実験」
(4) … 「阿蘇石」と「舟型石棺」 ~1
(5) … 「阿蘇石」と「舟型石棺」 ~2
(6) … 「阿蘇石」と「磐井の乱」
(7) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~1
(8) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~2
(9) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~3
(10) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 (追加修正)
(11) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~4
(12) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~5
(13) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~6
(14) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~7
(15) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~8
(16) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~9
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■ 阿蘇国(後編)
神武天皇が「阿蘇国」への赴任を命じたという健磐龍命(阿蘇都彦)。景行天皇の九州遠征の際には、現人神(あらひとがみ)として妻神の阿蘇都媛を伴って登場しました。
◎阿蘇氏と「宇治」
「阿蘇郡誌」においては、健磐龍命が神武天皇の命で「宇治」から赴任されたとあります。実際に後の時代には「宇治」姓を名乗っていた時代もあります。
第20代阿蘇国造で、阿蘇神社の初代「大宮司」とされるのが宇治友成。延喜年間(901~923年)の人物。ところがさまざまな系図を拾い出すと、その前に20数名の「宇治」姓が見受けられます。
「宇治」とは律令国制で言うところの「山城国宇治郡」のこととされています。
現在の京都府宇治市と京都市伏見区や山科区などを含みます。あの平等院がある地域と言えば分かりよいでしょうか。京都市の南東部から外れ辺り。
健磐龍命が「宇治」から阿蘇国へ赴任したというのが史実なのかは分かりません。
したがって多氏とは朧気ながら繋がりが窺える息長氏や紀氏とは、この地で交流を見出だすことは可能かと思われます。
*太田亮氏説
前回の記事でも示したように、氏姓制度研究の第一人者である太田亮氏は、阿蘇氏の本宗家である多氏が、逆に九州から大和へ移住したとしています。
*神宮司庁「古事類苑」(1913年)
健磐龍命は大和国から阿蘇へ下向したとしており、その出発が「宇治」であったとしています。
ただしこの「宇治」については、もう一つの可能性を考えています。それは次回の記事にて。
■ 阿蘇氏と秦氏・茨田連
◎「茨田屯倉」
紀の第28代宣化天皇元年(536年)の段に、
━━天皇は飢饉対策のため阿蘇仍君を遣わして河内国茨田郡の屯倉(茨田屯倉)の穀物を加え運ばせた━━
とあります。
「屯倉(みやけ)」とはヤマト王権の直轄領のこと。「茨田郡(まむたのこほり)」は現在の大阪府門真市・守口市・寝屋川市・枚方市の一部等。「淀川」沿いの南岸に広がる地。ちなみに真の継体天皇陵(第26代)とされる今城塚古墳は上流すぐ。
これは筑紫国「那津」(現在の博多)に官家(みやけ)を修造。ここに河内国・尾張国・伊賀国の屯倉、また筑紫・肥・豊三国の屯倉の稲穀を集積させて非常事態に備えたというもの。
その河内国の屯倉が「茨田屯倉」。非常事態とは朝鮮半島において起こり得る、外交交渉上のものを指してのこと。筆頭に「茨田屯倉」が記されます。
問題はなぜ「阿蘇仍君」が遣わされたのか。
阿蘇氏は勢力を広げ、讃岐国や河内国、京の都にて阿蘇宿禰となった者もいます。ここでの「阿蘇仍君」は河内国に居住した者と思われます。
「茨田屯倉」が初めて記されるのは、紀の第16代仁徳天皇十三年秋九月の段。
◎「茨田堤」
その二年前のこと。
同天皇十一年冬十月の段、「淀川」の度重なる氾濫で沼地化した広い土地があったため、「茨田堤(まむたのつつみ)」を作らせ、それが完成しています。大層大がかりな土木工事であったため、大変な困難を極めたと言います。
これは先進の土木技術を持っていた、渡来系帰化人である秦氏や茨田連(マムタノムラジ)によるもの。
記の仁徳天皇の段に、
「茨田連」とは「新撰姓氏録」に、「右京 皇別 多朝臣同祖 神八井耳命男彦八井耳命之後也」とある氏族。
「新撰姓氏録」において、彦ハ井耳命は神八井耳命の子としていますが、記においては同母弟となっています(紀には登場していない)。
「多朝臣同祖」ということで、阿蘇君も茨田連も近しい氏族とみていいかと思います。
仁徳天皇の御世に一気に進められた、一連の大がかりな土木事業。
中国王朝や朝鮮半島との本格的な外交を始めた時期。瀬戸内海に面した「難波の津」に都を遷し(高津宮)、背後の河内平野の開拓に着手します。この時代には「河内湖」がだんだんと縮小し、「草香江」と「淀川」氾濫により形成される湿原地帯となっていました。
この時に高度な土木技術を有していた秦氏が大活躍したというわけです。
「茨田郡」から「讃々良郡」にかけて、「秦町」「太秦町」など秦氏に因む地名がいくつか残っています(→ 細屋神社)。
阿蘇氏は「阿蘇ピンク石」製の石棺が畿内へ運ばれたことなどから、秦氏などの氏族との交流を深めたのではないでしょうか。
*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。