吉備津神社(記事未作成、写真は2010年頃撮影したもの)






◆ 「阿蘇ピンク石」 ~海を渡った棺~ (14)






ここ数年来、
私の中で再び熱くなり始めているのが「吉備王国」。


長らく行ってもしないのに、
少々熱くなり過ぎて2記事にまたがることとなりました。

これでも頑張って
かなり端折ってるつもりなのですが…。


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■過去記事
(1) … 序章・「阿蘇ピンク石」石棺例一覧
(2) … 「阿蘇ピンク石」とは・石棺例一覧の訂正
(3) … 「大王のひつぎ航海実験」
(4) … 「阿蘇石」と「舟型石棺」 ~1
(5) … 「阿蘇石」と「舟型石棺」 ~2
(6) … 「阿蘇石」と「磐井の乱」
(7) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~1
(8) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~2
(9) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~3
(10) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 (追加修正)
(11) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~4
(12) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~5
(13) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~6
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温羅神社(吉備津彦神社 末社、写真は2012年撮影のもの)



■ 「吉備」と「出雲」

4世紀頃までの「出雲」の勢力圏は「吉備」にまで及んでいたのでしょうか。



◎「温羅」は出雲族か?

四道将軍の一人として吉備に派遣された吉備津彦命、「温羅(ウラ)」を討伐したのが3世紀末~4世紀初め頃と仮定します。

この「温羅」の出自については諸説あるようです。主なものは以下の通り。
*出雲渡来説
*九州渡来説
*百済渡来説
*加耶渡来説
*新羅渡来説

前回の記事では、吉備までが出雲勢力圏であったのではないか、また「温羅」は百済王子だったのではないかとされる説を上げておきました。

もし「温羅」が出雲族となると、百済系よりも新羅系となるのでしょうか。

出雲の勢力圏が吉備まで及んでいたことは、いくつかの事象から紐解けると考えます。
そもそも令制国制度以前のことですから、境界などはなく、また明確にさせる必要性もありませんが。


石上布都御魂神社 本宮の御神体磐座と祠



石上布都御魂神社 (備前国一ノ宮)

スサノオ神が八岐大蛇を斬った「布都御魂剣」(十握剣)は、備前国の石上布都御魂神社に鎮まった後に、大和国の石上神宮へ遷したとされます。

これは紀の仁徳天皇の段に記されること。また石上神宮の「石上神宮御由緒記」にも仁徳天皇の御代に遷されたとあります。

一方で「吉備温故秘録」には崇神天皇の御代に遷されたとしています。
仁徳天皇の時代ではなく、崇神天皇の時代でないとつじつまが合わないことがあるのです。

第9回目の記事にも登場し、石上神宮の創祀当初にも大いに関わった五十瓊敷入彦命
紀の垂仁天皇三十九年の段にこうあります。

━━「茅渟(ちぬ)」の「菟砥川上宮(うとのかわかみのみや)」に居て、剣一千口を作った。それを石上神宮に収め、その神宝の管理者となった━━

これを史実とするのであれば、石上神宮はこの時代に既に創祀されていなければなりません。

石上神宮に鎮まる三座のうち主となるのは、「布都御魂大神」(「布都御魂剣」の神霊)。この神が鎮まっていてこその石上神宮
それが仁徳天皇の時代に遷されてきたとなると、つじつまが合わないのです。

少々脱線気味となりましたが、この出雲の息がかかる石上布都御魂神社が「吉備」にあるのです。

そしてここでも五十瓊敷入彦命と「菟度(宇土)」、物部氏と「阿蘇ピンク石」との繋がりが垣間見られます。





◎「比婆山」

伊邪那美命が葬られたとされるのが「比婆山」。そのもっとも有力な候補地とされるのが、備後国恵蘇郡(広島県庄原市)の「比婆山」。

山の北側は出雲国に、墓所等がある山頂から南側にかけては備後国に属します。
この辺りはかつて「出雲」と呼ばれていたのではないかとも考えられます。

スサノオが子のイソタケ神を伴い、新羅の「曾尸茂梨(そしもり)」から、出雲国「簸之河上」(「斐伊川」上流)と安芸国「可愛之河上」(「江の川」上流)にある「鳥上峰」に降臨しました。

この「鳥上峰」の最有力候補地は「船通山」ですが、「比婆山」も候補地の一。こちらにも「鳥取上」などの小字名が残っています。「船通山」や「比婆山」などの一帯の山々は「比婆道後帝釈国定公園」となっています。


「比婆道後帝釈国定公園」内の「帝釈峡」。*画像はWikiより



◎産鉄技術は吉備から出雲へ?

いつ頃?どこから?
中国地方で産鉄が行われたのかは分かりようもないですが、吉備から出雲へと広がったのではないかとも考えます。

そもそも産鉄族は「鬼」などと恐れられるように、人里離れた山中で仕事を行い、そして生活していました。鉄を取り尽くせば、鉄が採れる違う山へと移ります。

彼らにとっては「出雲」や「吉備」などとといった区分の概念は存在せず、ただ鉄が採れるかどうかのみ。最も多く採れる「吉備」から、次第に「出雲」まで広がったのかもしれません。また吉備津彦命により「吉備」が制圧され、「温羅」一族は次第に「出雲」方面へと追いやられたのかもしれません。


総社市の「鬼ノ城 西門」。*フリー画像より


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■ 吉備氏とは(後編)

ここで前回の記事の続きをいきなり始めます。時代的に先になるものを前に挟みました。



◎「吉備王国」の夢は消える。

敬仰する鳥越憲三郎氏の「吉備の古代王国」より引用しました。私の「吉備王国」への憧憬はこの書から始まりました。

ヤマト王権に匹敵するほどの強大な勢力を蓄えた「吉備王国」。「夢」とはもちろん勢力拡大。そしてヤマト王権の支配からの脱却でしょう。

この「夢」が儚くも幻に終わり、勢力は削がれてヤマト王権の完全な支配下になりました。



◎二つの「吉備氏の乱」等

*「吉備上道田狭の乱」
雄略天皇七年(推定463年)、吉備上道臣田狭が新羅と手を結び起こした反乱。史実とは異なるとする説も多くみられますが。これで二つの「吉備氏の雄」のうちの一つ、「上道臣」の勢力が削がれました。

*「吉備下道前津屋の乱」
同じく雄略天皇七年(推定463年)、吉備下道前津屋が起こした反乱。前津屋を含む「下道臣」一族70人が誅殺されたもの。

*「星川皇子の乱」
雄略天皇二十三年(推定479年)、田狭の元妻で、雄略天皇の妃となった稚媛にまつわる反乱。星川皇子は雄略天皇と稚媛の間の子。

これらの反乱で吉備氏は勢力を削がれました。紀のみの記載で記には記されていないため、史実かどうかは疑わしいところ。星川皇子そのものすらも記には登場していません。

ただしこの時期に吉備氏が一気に勢力を弱めていることが窺えるため、少なくとも何らかの史実を反映しているものと思われます。

これが5世紀後半のこと。
この後、つまりヤマト王権下に完全に支配された後、「阿蘇ピンク石」製の石棺を有する築山古墳が築かれたのです。





今回はここまで。

あと一基、「阿蘇ピンク石」製の石棺を有する古墳を残していますが、その前に、「吉備」と繋がりがある一記事を挟みます。



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。