熊本県宇土市の「神輿来海岸」。*フリー画像より






◆ 「阿蘇ピンク石」 ~海を渡った棺~ (15)






昨日の記事UPはお休みを頂きました。

自身の身体の具合等を考慮し、
今後はこのような感じで進めます。

あと4~5年くらいは動けると思ってましたが
こんなに早くガタがくるとは…。



さて…
今回は再び「肥国」へと戻ります。

肥国には「阿蘇ピンク石」製の石棺は、未だ発見されていません。これからも発見されないのかもしれません。

まだ一例、「阿蘇ピンク石」製の石棺例を大和国内に残していますが、先にこちらの方へと進めていきます。


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■過去記事
(1) … 序章・「阿蘇ピンク石」石棺例一覧
(2) … 「阿蘇ピンク石」とは・石棺例一覧の訂正
(3) … 「大王のひつぎ航海実験」
(4) … 「阿蘇石」と「舟型石棺」 ~1
(5) … 「阿蘇石」と「舟型石棺」 ~2
(6) … 「阿蘇石」と「磐井の乱」
(7) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~1
(8) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~2
(9) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~3
(10) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 (追加修正)
(11) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~4
(12) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~5
(13) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~6
(14) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~7

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同じく「神輿来海岸」。*フリー画像より



■ 「吉備国」と「火の国」

「吉備国」と「肥国」とは古くから繋がりがありました。既にこの時代より「阿蘇ピンク石」製の石棺が「吉備国」へ運ばれる下地が出来上がっていたと言えます。もちろんヤマト王権とも。

「肥国」の令制国制度以前の古い時代をみていきます。

古い時代の肥後の国造は、「火国」「葦北国」「阿蘇国」の三国に分かれていました。

諸説あり、「肥後国」は「阿蘇国」の後だというものもあります。また天草国などというものも。

ここでは一般的な上記の三国に分かれていたとして進めます。


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「有明海」から仰ぐ「雲仙普賢岳」。*フリー画像より



■ 「火国」

こちらでは「肥国」の総称の「火国」ではなく、「肥国」の中の一国の「火国」とします。

◎具体的な領域は不明。熊本県だけでなく、佐賀県や長崎県にまで跨がるか
◎初代国造/以下の通り。
[紀 1] … 豊戸別皇子(景行天皇と襲国の襲武媛との間の子、大分国造を兼ねる)
[紀 2] … 市鹿文(イチカヤ、熊襲梟帥の娘)に「火国」を与えたとある
[記] … 建日向日豊久士比泥別(タケヒムカヒヒトヨクジヒネワケ、伊邪那岐神と伊邪那美神の神生みの段で登場)
[先代旧事本紀 国造本紀] … 遅男江命(チオヘノミコト、神八井耳命を祖とする多氏系の志貴多奈彦命の子)
[肥前国風土記] … 建緒組命(健緒純命)

このようにバラついており史実は不明。
「肥国」は「火国」とも呼ばれますが、「阿蘇山」があっての「火国」。「阿蘇国」があっての「火国」。



◎建緒組命の「肥前国風土記」での記述

━━崇神朝に益城郡の「朝来名峰」に「打猿」と「頸猿」という二人の「土蜘蛛」がおり、百八十余人の軍勢を率いて山頂に隠れ住み、天皇に服従しなかったため、天皇は肥君(火君)等の祖・健緒組に「土蜘蛛」を征討するように勅命を下したとされる。
健緒組は勅命を奉じて悉く「土蜘蛛」を討った後、国内を観察して日が暮れたため、八代郡の「白髪山」で止まった。その夜、虚空に火が出現して自然に燃え上がり、徐々に降下して山に火が就いた。それを見て驚いた健緒組は不思議に思い、朝廷に参上して戎征討を復命した際にこの出来事を奏上した。すると、天皇は「奏上したようなことは未だ聞いたことがない。火が下った国だから火国と謂うべきだろう」と勅した。そこで健緒組の勲功を挙げて姓名を与え、「火君健緒組*といった。そのまま健緒組に国を統治させ、火によって火国といったとされる━━(Wikiより引用)

これは次回の「土蜘蛛」テーマ記事にて上げる予定だったもの。重複しますが、まんま流用しようかな~と。

健軍神社という建緒組命を祀っていたとされる社が、熊本市東区に鎮座します(未参拝)。熊本市最古の神社であるとのこと。また「火国造の祖である健緒組命を祀る」としています。

社伝では建緒組命の「土蜘蛛」討伐は景行天皇のこととされています。

出自は不明。阿蘇国造と同じく「多氏」の血筋とする、景行天皇皇子とする、など諸説あります。

当時の様子からして、景行天皇の熊襲征伐からの九州「土蜘蛛」退治の流れの中、地元豪族の建緒組命が駆り出されて討ったということでしょうか。


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■ 葦北国

◎領域/水俣市・八代市・葦北郡の周辺
◎初代国造/三井根子命



◎三井根子命

「先代旧事本紀」の「国造本紀」に、吉備津彦命の御子とあります。

この時代(景行天皇の時代)から「吉備国」と「肥国」との間で密接な繋がりがありました。
文献等には現れないものの、景行天皇の下で活躍していたのでしょうか。


大伴金村(「前賢故実」より) *画像はWikiより



◎大伴金村と「葦北国」

この時代、しかもこの地で大伴金村の名がよく出てきます。当地を紐解く鍵を握る人物の一人と考えています。

大伴氏は天孫降臨の際に先導役を担った天忍日命を遠祖とする氏族。また神武東征の際に、こちらも「久米部」を率いて先導役を担った道臣命を始祖とする氏族。軍事氏族であったとみられます。

大伴金村の主な事蹟は以下の通り。この時代に天皇と同等、或いは凌ぐほどの権力を有していたことが窺えます。
仁賢天皇の崩御後、武烈天皇を即位させ自らは大連となる
*武烈天皇の崩御後は、物部麁鹿火とともに継体天皇擁立に働きかける
*「磐井の乱」においては、物部麁鹿火を将軍に任命し筑紫君磐井を討たせた(紀)。物部麁鹿火とともに筑紫君磐井を討った(記)。

継体天皇の次代、宣化天皇の御代に大伴金村の命で、火葦北阿利斯登(ヒノアシキタアリシト)が百済に派遣されています。この阿利斯登は三井根子命の子で、「葦北国」の国造。

なお「阿利斯登」という古代朝鮮語の匂いを感じる名前。「大首長」と訳する説も。


そして阿利斯登の子の日羅は百済の高官となっていました。次代の敏達天皇の御代に百済から呼び寄せられたとあります。

日羅は物部守屋の保護を受け、河内国「阿斗桑市」に住んだとされます。
*→ 跡部神社

阿利斯登も日羅も、ヤマト王権や大伴金村の命ではなく独自の意思で動いたという説もあるようですが、大伴金村、物部氏の支配下で動いたと考える方が自然ではないかと思います。


日羅(「三国七高僧伝図会」より) *画像はWikiより



今回は長くなったので
ここまでで留め置くことにします。

「阿蘇国」だけ残しました。
ちょっぴり長くなりそうなので。


ここまで見てきたことで、
ヤマト王権、継体天皇、吉備国、紀氏、物部氏、大伴氏などがさまざまに絡み合って「阿蘇ピンク石」製の石棺輸送が成し遂げられたことが分かります。

もう少し大事な氏族がまだまだ登場しますが。



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。