「大日本名将鑑道臣命」月岡芳年作
*画像はWikiより






◆ 「阿蘇ピンク石」 ~海を渡った棺~ (20)






前回の記事をUPしてから
1ヶ月あまり中断しておりました。

ついに再開します!


これは記事をどんどん進めていく中で、
遥かに予想を上回る、古代の深層を学ばねば次へと進めないことが判明したため。

数年先に学ぼうと考えていたことが
今すぐにせねばならなくなったので。


突貫工事的に一気に勉強を進めました。
そして現在は記事にできる程度のレベルくらいにまでは、かなり近づきました。

あまり間隔を空け過ぎるのもよくないので
まだ途中ながら進めていきます。


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■過去記事
(1) … 序章・「阿蘇ピンク石」石棺例一覧
(2) … 「阿蘇ピンク石」とは・石棺例一覧の訂正
(3) … 「大王のひつぎ航海実験」
(4) … 「阿蘇石」と「舟型石棺」 ~1
(5) … 「阿蘇石」と「舟型石棺」 ~2
(6) … 「阿蘇石」と「磐井の乱」
(7) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~1
(8) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~2
(9) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~3
(10) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 (追加修正)
(11) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~4
(12) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~5
(13) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~6
(14) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~7
(15) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~8
(16) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~9
(17) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~10
(18) … 紀氏・秦氏・葛城直
(19) … 紀氏・船木氏

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「日本百将伝」より道臣命像(歌川国芳)
*画像はWikiより



■ 軽くおさらいを。

5~6世紀、古墳時代のこと。
熊本県宇土市(うとし)から、古墳に鎮められるための石棺が、瀬戸内海を通り遥々と畿内まで運び込まれました。

およそ35t、航海は推定1ヶ月。

漁民たちは何事だと驚愕し、陸送においては多くの人民が駆り出されました。

この石棺の航海は神事でした。天皇など大王級の石棺も含まれていることから、国家を上げての祭祀であったとも言えます。

用いられた用材は「阿蘇ピンク石」。石棺の用材としては「二上山」凝灰岩が近くで産出されていましたし、なんなら播磨の「竜山石」でもずっと運搬には楽なはず。

なぜ「阿蘇ピンク石」製の石棺でなければならなかったのか。その理由を解いていくのがこのテーマの主題。

その理由には古代の有力氏族が多く関わっていることが分かってきました。神武天皇に関わる多氏、そして息長氏、造船に関わる船木氏、海運に関わる紀氏など。

紀氏のところまで進めてきました。そして紀氏に浅く関わっていたと当初は考えていたある氏族が、このテーマの「肝」となっていたことに途中で気付きました。そうすると、謎のあの氏族にも…。

それは古代の根幹に関わる氏族。例え突貫ででも一定の水準までは勉強しておかないと、これ以上進められないな…と。

その先ず一つ目が「大伴氏」でした。


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河内国志紀郡に鎮座する伴林氏神社。道臣命を祀る日本唯一の社とされ府社に列格、「西の靖国神社」と称された。



■ 大伴氏

◎大伴氏の概要

天孫降臨の際に先導役を担った天忍日命(天押日命)を始祖とし、神武東征の際に先鋒役を担った道臣命(初めは日臣命、途中で道臣命に改名)を祖とする氏族。原始ヤマト王権の軍事を担った有力な中央豪族。

雄略朝に初めて大連となった室古、武烈朝~欽明朝において華々しい活躍をした金村の二代が全盛期。金村は継体天皇(今城塚古墳は「阿蘇ピンク石」製の石棺とされる)を擁立したことでも知られます。

金村は任那4県割譲問題で失脚、その後は大伴氏は勢力を弱めます。
ところが「壬申の乱」で吹負(フケヒ)が大車輪の活躍で復活。飛鳥時代から奈良時代にかけては旅人・家持(ヤカモチ)が歌人として活躍、平安時代には「伴氏」と改姓しています。

大伴氏の古代の軍事的役割について、Wikiでは以下のように記しています。

━━「大伴」は「大きな伴造(とものみやつこ)」という意味で、名称は朝廷(※ヤマト王権)に直属する多数の伴部を率いていたことに因む。また、祖先伝承によると来目部や靫負部等の軍事的部民を率いていたことが想定されることから、物部氏と共に朝廷の軍事を管掌していたと考えられている。なお、両氏族には親衛隊的な大伴氏と、国軍的な物部氏という違いがあり、大伴氏は宮廷を警護する皇宮警察や近衛兵のような役割を負っていた━━

※ 「朝廷」とするのは問題があると考え、当ブログでは「ヤマト王権」という表記で統一しています。

道臣命は下部に記すように、神武天皇即位後に東征時の大功により大和国高市郡「築坂邑」(現在の橿原市鳥屋町か)を与えられ、そこを居住地としました。
時代は降って6世紀、大伴金村の子である佐氐比古命(サデヒコノミコト)が、紀伊国名草郡の「岡の里」を与えられます。そこに創建し奉斎したのが刺田比古神社。刺田比古は不明ながら道臣命の父(天忍日命の子)とする説があります。

この地は紀氏の本貫地のど真ん中と言ってもいいようなところ。これで大伴氏と紀氏との関係が見出だせます。その前から関係はあったとも思われるのですが、それはまた後に。




紀伊国名草郡 刺田比古神社



◎天忍日命の天孫降臨先鋒

「阿蘇ピンク石」製の石棺とは直接関係はありませんが、後々大いに関係することなので取り上げておきます。

*紀の巻二 九段 一書第四の記述
━━大伴連遠祖 天忍日命は来目部遠祖 天槵津大来目(アメノクシツオオクメ)を率いて、背中に天磐靫(あまのいわゆぎ)を負い、腕に稜威高鞆(いつのたかとも)を着け、手に天梔弓(あまのはじゆみ)・天羽羽矢(あまのははや)、及び八目鳴鏑(やつめのかぶら)を持ち、また腰に頭槌剣(かぶつちのつるぎ)を帯び、天孫の先払いをした━━

*記の記述
━━天忍日命と天津久米命の二人は、天之石靫(あめのいわゆき)を負い、頭椎之大刀(くぶつちのたち)を取り佩き、天之波士弓(あめのはじゆみ)を取り持ち、天之真鹿児矢(あめのまかこや)を手挟み、邇邇芸の御前に仕え奉る━━

*「古語拾遺」の記述
━━大伴遠祖 天忍日命は、来目部遠祖 天槵津大来目(アメノクシツオオクメ)を帥いて(率いて)、仗(つわもの、=武器)を帯刀させて、前駆させた━━



◎神武東征の記述

*紀の巻第三 八咫烏登場の段
━━(熊野で毒気に当たり長い眠りから目を覚まし)中洲(大和のこと)へ向かおうとした。ところが山は険しく右往左往していたが、夢に天照大神が現れ、八咫烏を送るので道の案内者とするようにとのお告げがあった。大伴氏の祖先の日臣命は大来目を率いて将軍とし、山を踏み開いて進み、烏の向かう所を探し仰ぎ見て追った。遂に菟田下縣(うだのしもつこほり)到達。それでそこを「菟田穿邑(うだのうがちのむら)」と名付けた。天皇は日臣命を誉め「汝は忠臣で勇敢、そして先導の功があった。これを以て汝の名を道臣と為す」と言った━━

神武東征にここで初めて登場。いつの時点から従軍していたかの記述は無し。もし途中で従軍したのならその旨の記述があって然るべきか、そうすると出発時から従軍していた可能性が高いと思われます。

紀ではこの後、
・菟田の兄猾(エウカシ)の誅殺
・その勝利を労い「久米歌」を歌ったこと
この2ヶ所で道臣命が登場します。


*紀の巻三 菟田の高倉山で国見をした段

敵の八十梟帥(ヤソタケル)軍等が進路全てを阻んでいることを悟ります。これを天神からの神託、天神への祭祀により打開していこうと計ります。
━━天皇は道臣命に勅した。「今、高皇産霊尊を朕が祀ろう。汝を齋主(いはひぬし)と為し嚴媛(イツヒメ)という名を授けよう。祭壇に置く埴土で作った瓮(へい)を嚴瓮(イツヘ)と為し、火の名を嚴香来雷(イツノカグツチ)、水の名を嚴罔象女(イツノミヅハノメ)、薪の名を嚴山雷、草の名を嚴野椎(イツノノヅチ)としよう」と━━

神武天皇は道臣命になんと…
「嚴媛(イツヒメ)」という名を授けました。

え?えええええええ~?

女やったん??????

おそらくは男。
他の登場シーンすべての所作からも、男としか考えにくい。これは巫女(シャーマン)の名残を引きずったというくらいにしか考えようもありませんが。

紀ではこの後、
・八十梟帥(ヤソタケル)の誅殺後、その残党と宴を開き「久米歌」を合図に懺滅させる
・神武天皇即位の日に道臣命は大来目部を率いて、秘密の策を受け「諷歌・倒語(そへうた・さかしまごと)」を以て妖気を掃蕩した(「逆さ言葉」で妖気を祓ったか)
・即位二年には論功行賞として、道臣命は「築坂邑」(橿原市鳥屋町か)に宅地が与えられ、大来目には「畝傍山」の西の川辺(高取川)の地(来目邑)が与えられた
以上3点が記されます。

*記の道臣命登場場面
・宇陀に居た兄宇迦斯・弟宇迦斯(エウカシ・オトウカシ)兄弟に天皇に奉るよう迫るも、兄宇迦斯は反抗。天皇を殺そうと作った「大殿」に、大伴連の祖の道臣命と久米直の祖の大久米命に先に入れと迫られ、その罠にかかり死ぬ
・兄宇迦斯誅殺後に「久米歌」が歌われる(ただし主語が欠落し道臣命が歌ったのか、大久米命が歌ったのか不明)
・八十健(ヤソタケル)に対して刀を持たせた八十膳夫(ヤソカシワテ、=料理人)を送り込み、料理を振る舞う。「久米の子」の歌を合図に一斉に斬りかかった(八十膳夫は大久米命の兵士だったと思われる、歌ったのは天皇か)
・登美毘古(長髄彦)との決戦前に「久米の子」の歌が歌われる
・即位後に天皇が野遊びをしていたところで見つけた7人の娘たちの1人に、大久米命が仲介役として歌垣を行う。この娘が大物主神の娘である比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)で皇后となる

*「古語拾遺」の記述
━━大伴氏の遠祖 日臣命は将軍となり兇渠(あたども、=敵たち)を駆逐、その活躍の勲は比肩するものがない━━

*ついでに「古語拾遺」の「大嘗祭」の記述を部分引用(冒頭に記される)しておきます。
━━日臣命は来目部を率いて宮門を護衛し、その開閉をつかさどっていた━━


久米御縣神社前の「來目邑傳承地碑」



◎大伴氏は祭祀氏族

以上の紀の記述から分かることは、大伴氏が軍事氏族であったというだけでなく、祭祀氏族でもあったということ。しかも片手間に…というレベルではなく、ガチの祭祀氏族でした。

*天忍日命・日臣命
大伴氏の祖神を並べ立てました。日臣命は神武天皇に改名させられた道臣命の元名。

この二柱の神名から、「太陽祭祀」を行っていたのであろうことは明白。大伴氏は日置部氏との関わりがあると考えられます。いずれこのテーマ内で近いうちに触れることになります。



◎「忍(オシ)」について

「忍」の字義については定説はなく諸説あります。字の通りに「忍ぶ(しのぶ)」とするもの、「押し潰されたような地形」とするもの、「凡(おほし、=大いなる)」とするものなどがあるようです。なかには「磯」と同義とするものも。

地名では大和国内に「忍海郡(おしみのこほり)」や、十市郡に「忍阪(おしさか、現在は「おっさか」)」が見られます。

*前者は渡来人の居住地として、葛上郡と葛下郡に挟まれた小さなエリア。海や鉄(銅)に関わりが強いとされる飯豊天皇(飯豊青皇女)の宮があった地(→ 角刺神社)。
飯豊天皇は若狭国の西端、つまり丹後国加佐郡の東端に隣接した地に所縁があります(→ 青海神社)。丹後国加佐郡と言えば…丹波道主命(母は息長水依比賣)が奉斎した彌加宜神社が東部(東舞鶴)に鎮座します。


*後者は第19代允恭天皇の皇后である忍坂大中姫などで知られますが、おそらく地名を冠したものと思われます。継体天皇の同母妹。当初は近江国坂田郡に住んでいたとされ、これは息長氏の本貫地。

允恭天皇の御世に名代部(天皇直属の奉仕集団)として、「刑部(おしさかべ)」が設置されています。そのうちの一つが火葦北国(→ 第15回目の記事参照)にあったと。これには「阿蘇ピンク石」製の石棺が関わっていたとする説があります。

なお「忍坂」の奥地にひっそりと大伴皇女墓が築かれています。「忍坂街道」の終着地点。大伴皇女(大伴王)は欽明天皇と堅塩媛(キタシヒメ、蘇我稲目の娘)の子。欽明天皇は継体天皇の子。
大伴皇女は大伴氏との関係を見出だすことはできませんが、母の堅塩媛のそのまた母は不明。大伴氏系の人物だったのでしょうか。

金屋の「ミロク谷石棺」はこの御陵のものだったのではないかと、密かに思っているのですが…。


さらに忍坂大中姫の娘は衣通姫(ソトオリヒメ)。絶世の美女であったものの、小野小町と混同されてしまい、小野小町が絶世の美女となっていますが…。その衣通姫を祀る玉津島神社が紀伊国名草郡「和歌の浦」に鎮座します。

もう一つ。
石上神宮には垂仁天皇が五十瓊敷命に命じて作らせた太刀一千口が鎮められていますが、なぜかそれに先立ちこの「忍坂」に一時的に収められているのです。
五十瓊敷命が「阿蘇ピンク石」製の石棺に間接的に関わりを持つことは、第10回目の記事で記しました。


いろんなことが面白く繋がっていきます。
だから深層にまで自身のレベルを持っていかないと、次の記事へと進めないのですが。


◎もう既にお気づきかも…?

記紀等の記述を多く引用しましたが、ここまでご覧頂いた方は既にお気づきになられてるのではないかと思うのですが…

「久米(来目)」がやたらと出てくるな…と。
記の方では大久米命の事蹟も含めて上げておいたのですが。

大伴氏と同格に書いてるものもありますし、道臣命と大久米命は常に帯同しています。そして紀では道臣命が「久米歌」なるものまで歌っていたりと。

「深層」と書いてきたものは「久米(来目)」だったのです。そしてそれがこの「阿蘇ピンク石」製の石棺の「肝」となるものだったのです。

このテーマのクライマックスとなるもの。まだ登場はさせられません。現在鋭意勉強中!もうしばらくお待ち下さいませ。



河内国石川郡 降幡神社跡
大伴氏の支族の本貫地であったとされる式内社。現在は廃社、小祠が残るのみ。





今回はここで留め置きます。

一つ二つ調べものをすると、あれも書かねば…これも書かねば…と次々と際限なく出てきて、どれから手を付けてどのように繋げていこうか悩ましいところ。

多少行ったり来たりしていくと思いますが、最後までやりきりたいと思います。



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。