◎ 「忍阪街道」浪漫ウォーク (令和三年 8/21)
…とは言っても
夏場に生い茂る雑草を掻き分け
山道を30分ほど歩いただけなのですが。
ロマンチストなO型男子さんなので
お許し下さいませ。
登拝、散策等の記事は
いつものようにカジュアルにて。
記憶が確かなら
20年ほど前に歩いたきり。
誰も登らない山の中のお社を拝して…などと思っていたものの
雨続きでぬかるんでるしムリかと。
ちょうど程よいええとこあるやん!と。
「忍阪(おっさか)」と読みます。
古代から今も変わらず。
厳密には古代は「おしさか」ですが。
ちょびっとだけ削られたようですね~
奈良県の北半分にどっかと居座る大和盆地の
南東端から丘陵地に入ったところ。
ここから先は深い山地になります。
終点のもっとも高い所で標高300mほど。
起点は「外山(とび)」交差点かな?
いや…もうちょっと南かな?
まずは集落内、麓のお社を。
恒例の玉津島明神へ。
このお社が好きなんですよね~
衣通姫伝説(ソトオリヒメ)にまつわる
姫のお母さまのご出身地。
姫はここで出生なされたのでしょうか。
小さな境内は常に美しくされているものの
ちょっぴり雑草が…。せっせと草刈りを。
既に汗だくだ。
続いて忍阪坐生根神社へ。
造替工事だ!
既に鳥居は美しいものになってる!
10月に再拝やね。
どんなお姿になるんやろ~
いよいよ丘陵方面へ。
まずは神籠石(じんごいし・ちごいし)から~
このアングルで撮るのは初めて。
もっと低いところからいくとカッコええんかな?
同じ紹介するなら
美しく!カッコ良く!神々しく!
最近は特にそんな思いが強くなっています。
神がちょっとでも喜んで下されば…
でっかいです!
日本史上初のハ角墳です!
舒明天皇陵の麓の横をすり抜け~
ここからがお楽しみゾーン。
写真ボケてる…。
犬養先生が建てられたもの。
昔は万葉歌碑って好きやったのにね…いつの頃からか…。
小学生の時から
「万葉ウォーク」などに参加してたし。
当時の引率は中西先生だったような記憶が微かにあるんやけど…ちゃんと覚えていない。河上先生やったんかな?
この歌が詠まれた地は
ここなのかどうかは微妙なところ。
昔はこんなん無かったな~
ビューポイントの具体的な場所がよく分からんけど。
「鳥の声・風の音だけの世界」とあるが
「せせらぎの音」も忘れんといてほしいな~
鏡女王墓に到着!
左手のこんもりとした中に。
鏡女王は藤原鎌足の正妻。
昔は藤原氏系は避けてたものですが
歳のせいかそんなこだわりもなくなりつつあります。
最後の御陵へ向かいます。
3つの御陵が築かれた街道。
幽界と考えられていたのでしょうね。
近付いてはならぬ!と。
今では万葉浪漫たっぷりな里山に。
この「忍阪」という地
実は垂仁天皇の条にも登場しています。
五十瓊敷命(イニシキノミコト)に命じて
太刀一千口を作らせますが、これは石上神宮に収められました。
ところがその前に
一旦「忍阪邑」に収められたとあるのです。
なぜに?
紀は淡々と記すのみ、理由の知りようもありません。「忍阪邑」のどの辺りなのかも不明。
特別な地であったということだけは分かります。個人的な思量としては、かなり奥地の方ではないかと考えているのですが。
こちらが「忍阪街道」の終点。
心配していたほど雑草は伸びてなくて
スムーズにスイスイと。
辿った道を引き返します。
少々長くなりますが…
犬養孝先生は「万葉とともに」の中で以下のようにしたためられているようです。
「ここから南を振り返れば、中央すぐ下にこんもりとした鏡王女墓をおいて、遠く左手に音羽山のおおきな山塊を、右手には多武峰の山容をのぞみ、こんにちの大和では珍しく、ただ一軒の家もなしに、晩秋もみじの頃など、四周は黄に褐色して紅に染められ、満山椒として声なしといってよい。静寂の山ぶところとなるのである。将来はわからないにしても、せめてこのやまぶところの静けさだけでも、この国の未来にかけてこのまま残っていってほしいものである。そこには千三百年の声々が、心と言葉の美しさに昇華してまざまざと生きづいているのだから」
やはり見え方は異なるもので。
麓でボーイスカウトの集団5~6人と遭遇。
まさか誰とも会わんと思てたのにビックリ!
慌ててマスクしたがな(笑)
雑草を踏み慣らして
伸びるのを減らしてくれたら…。
集落に降りると小祠を発見!
この後、意を決して
石位寺という仏教施設へ突入!
穢を纏わないように強い気持ちで!
境内に天神社が鎮座しているのではないかという情報から。
入口で清掃をなされている方に伺えば、明治時代に忍阪坐生根神社に合祀されており、こちらには存在しないとのこと。
良かったとしておこう!
この後、道中各所の記事を上げていきます。
《長い記事にも関わらず、最後までご覧下さりありがとうございました》