忍坂坐生根神社
(おしさかにますいくねじんじゃ)


大和国城上郡
奈良県桜井市忍坂871
(境内に駐車可、100mほど南方に多目的P有り利用可)

■延喜式神名帳
忍坂坐生根神社 大 月次新嘗 の比定社

■旧社格
村社

■祭神
少彦名命


「忍坂山」(現在は「外鎌山」)を神奈備とする神社。「忍坂山」は古代の聖地の一つでもあり、現在は寂れた古社ながら往古は幣帛にも授かる式内大社でした。
◎ご本殿は無く、拝殿の横に磐蔵(磐座)が座すのみ。神体山の神霊を祀る古代祭祀の有りようをそのまま残しています。「磐座」というよりも「磐境」ではないかと見受けられますが。
創建由緒はベールに包まれており不明。「大和国正税帳」に天平二年(730年)の神戸授与が見えることから、創建はそれ以前ということが確実。
◎神名帳に記されるご祭神は一座。少彦名神、天津彦根神、生根神の三説ともう一つの謎の説が上げられています。
三神ともに「彦」と「根」でつながっており、長い歴史のうちに混同があったのかもしれません。少なくとも神名帳が出された10世紀には生根神が祀られていたはず。
◎生根神は記紀には登場しない神。当社と摂津国に鎮座する生根神社(住吉大社の北すぐ)のみに見られます(分霊社有り)。少彦名神と同神とする説、生津彦根神と同神とする説があります。
また生津彦根神は同じ摂津国の生國魂神社のご祭神と同神とする説も。そうすると八十島祭のご祭神と同神ともなり、「大八州(おおやしま、日本の国土)」の神霊であるという壮大な話となります。
◎少彦名神については、当地周辺に「江田見薬」や「西乃久保薬」が平安初頭に伝えられていたという伝承があり、医薬の神として当てられたのでしょうか。
その記述があるのは「大同類聚方」という医薬書。そこには「生根神社(当社)の所伝には額田部連等の伝承薬」とあります。「大和志料」はその額田部連の祖神である、天津彦根神こそが当社祭神であると記しています。
天津彦根神は鍛治神ですが、「忍坂村」がかつて武器庫であったと言われることからつながりを見出だすことができるでしょうか。
◎もう一つの謎の説は「三輪流神道探秘抄」に記されるもの。「二ツ神 松ノ本ノ神 忍坂宮イクネ大明神、イヅレモ三輪ノ大明神ノ御子ノ神トイヘリ」とあります。「二ツ神」と「松ノ本ノ神」については不明、廃滅したか他の神社に合祀されたか。忍坂宮は当社で間違いないと思われ、この記述を信用するなら大物主神の御子神ということになります。
◎近隣に第34代 舒明天皇陵があります。和風諡号は「息長足日広額天皇(オキナガタラシヒヒロヌカノスミラミコト)」。当地は息長氏の拠点の一つでもあったようです。
隅田八幡神社所蔵の人物画像鏡に「意柴沙加宮(忍坂宮)」が記されています。これは第26代 継体天皇が磐座穴穂宮での即位前に拠点としたところ。具体的な場所は不明ながら「忍坂山」を意識した地であったと思われます。

*2021年に境内全体が大幅に改修されました。改修前と改修後の写真を分けて掲載します。


「忍坂山」(宮山とも、現在は外鎌山)

境内に停める場合はこのように。多目的Pが空いていればそちらがおすすめです。

以下、改修後の写真を5枚。




こちらが磐座。これでも以前に比べれば随分整いました。21箇のうち19箇が確認されています。土に埋もれたか持ち去られたか現在は10箇余り。案内等は無く、夜中に境内でたむろしている若者達に荒らされていることかと。

以下、改修前の写真。







こちらが以前の状態の磐座。この数年前は雑草も多くさらに酷い状態でした。磐座(磐境)の外側の雑草を抜くことも参拝時の恒例となっていました。

陽石でしょうか。


大和国城上郡の神社