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●都内に「上野・浅草通り神仏具専門店会」がある。東京メトロ銀座線の上野駅から、浅草駅までの東西の広い範囲に40軒を超える仏具屋が林立しているのだ。途中には、下谷神社、稲荷町駅、かっぱ橋道具街通り、本山東本願寺、田原町駅、そして金龍山浅草寺(前1項後85項)などがあるが、国内でも屈指の神仏具専門店街だろう。
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寺社を巡って散策していると、この商店会の中の店が提供、謹製した天水桶に出会う事がある。販売店として受注し、鋳造を依頼し、あるいは自社製造し、設置までを請け負っていると思われる。従って、仏具屋の店名が印刻されている事がある。

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すでに、前34項などで紹介済の桶もあるが、そんな桶たちを見ていこうと思う。まずは、浅草を代表すると言えよう、昭和22年(1947)の創業で、関東近辺に8店舗を数える巨大店、台東区元浅草の(株)翠雲堂さんから。画像は、現在の本店だ。

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●まずは葛飾区東新小岩にある、新義真言宗、八幡山来迎院上品寺(じょうぼんじ・前18項)。山門を入ってすぐ左側にある、閻魔堂の閻魔大王坐像は、江戸十六閻魔の一つとして信仰されてきたが、高さは2メートルを超え区内最大だという。

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区の掲示によれば、「閻魔大王は、地獄に住み18の将良と8万の獄卒を従え、死して地獄に落ちくる人間の生前の善悪を正し、罪あるものには、苦しみを与える冥王として信仰する人が多い」という。獄卒とは、地獄で亡者を苦しめるという鬼、看守だ。

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●天水桶は、「昭和47年(1972)5月」に新築された堂宇と同時に設置されていて、「檀信徒一同」の奉納だが、ふっくら感のある鋳鉄鋳物製の1対だ。4枚葉の蓮華が天空に向けて開口し、末広がりな8葉の反花(前51項)との対比が見た目の安定感に大いに寄与している。

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開口部の大きさは口径Φ1.080、龍神(前1項)や獅子が配された台座の高さは300ミリ、本体の高さは1mとなっている。ちなみに、本堂前には、「昭和50年(1975)3月 栄孝代」と表示された、青銅製のハス型天水桶が1対ある。

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厚めの塗装が施されていて腐食は見られない。「浅草 翠雲堂 謹製」とあるが、この当時、自社内に鋳造設備があったのだろうか。同社によれば、昭和39年(1964)1月に、千葉県松戸市稔台に製造工場を開設しているが、今は無いその工場での鋳造であったろうか。

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●昭和22年(1947)の創業という翠雲堂の、その6年後の銘を持つ銅鐘があるので見ておこう。葛飾区柴又の真言宗豊山派、石照山真光寺真勝院だ。寺は、大同元年(806)の創建と伝えられ、柴又七福神の弁財天を祀っている。

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鐘身には、「東京浅草 株式会社翠雲堂 謹製」と凸に陽鋳造されているが、たどたどしい感じの筆致だ。時期は「昭和28歳次癸巳(1953)12月吉日」となっている。この当時は、浅草に鋳造工場があったのではなかろうか。


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●創業11年後の銘を持つ銅鐘は、茨城県桜川市富谷の施無畏山小山寺、通称富谷観音にあるが、国宝の三重塔と共に、県の指定文化財となっている鐘楼塔に掛かっている。口径Φ570ミリという小ぶりな梵鐘で、縦帯(前8項)には、「南無観世音菩薩」と掲げられている。その銘は、「昭和三十三戊戌歳(1958)初秋九月十八日」の造立で、「東京浅草 翠雲堂 謹鋳」だ。

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●下の画像は、新京成線の五香駅近くの、松戸市五香西の現在の工場の様子だが、公道からは巨大なブロンズ製の仏頭が見え、圧倒される。過日の取材によれば、実は、ここに鋳造設備は無く、製作しているのは原型となる木型などだけだ。

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敷地内の倉庫には、大量の原木らしき木材が置かれていたが、同市千駄堀にも木材の乾燥場があるようだ。その木型を基にオスメスの砂型を起こし、組み合わせて出来た隙間に溶鉄を一気に流し込み製品を造るのだが、その実際の鋳造は、京都や山形県の業者に依頼しているという。

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前27項では、「山形市銅町 (株)鈴木鋳造所」が登場したが、ここなどでの鋳造だろう。なお、平成25年(2013)からは青森県青森市字小橋福田にも工場を立ち上げているが、主に、本堂や楼門、鐘楼、須弥壇など、大きな木製構造物製造の拠点となっているようだ。

翠雲堂

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●板橋区赤塚の赤塚山乗蓮寺には、名物の東京大仏が鎮座していることで知られるが、近隣には、「大仏そば」と銘打った店が立ち並ぶほどの名所となっている。応永年間(1394~)に、「英蓮社信誉上人 生阿了賢無的大和尚」が山中村に開創していて、天正19年(1591)には、徳川家康から10石の朱印地を与えられている。8代将軍吉宗が鷹狩りの際に雨宿りしたのが縁となり、それ以降将軍家の鷹狩りの小休所や御膳所となったようだ。

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掲示板によれば、阿弥陀如来の大仏は、国道17号線の拡幅工事により、昭和46年(1971)から7年の歳月をかけ現在地の赤塚城二ノ丸跡に移転した際に、戦災等の無縁仏の供養や恒久平和、万民救済を祈願して建立されている。時は、中興24世の成蓮社正誉上人 覚阿悟三隆道大和尚」の時世であった。

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ここではかつて、川口鋳物師が活躍した記録が残っている。昭和60年(1985)刊行の増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」によれば、「享保14年(1729)10月 銅鐘 岩田五郎兵衛 岩田権左衛門 岩田長七」銘であったが、残念ながら昭和初期の火災で損壊、破棄されてしまっている。この岩田一家は、前35項で見たが、19世紀半ばに、川口鋳物師の頭領格として活動した岩田庄助の先祖に繋がる家系であろう。

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●青銅製の大仏は、台座を含めると12.5メートル、重さは32トンにもなるが、鋳造仏としては、奈良、鎌倉の大仏に次いで国内3番目の大きさで、製造は、「翠雲堂 謹製」だ。この原型木型も同社の工場で作られたのであろう。上述の公道から見える仏頭は、これと全く同じに見えるが、だとすれば、頭だけで3mもある。仏具メーカー「翠雲堂」の象徴として2つを鋳造したのかも知れない。

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本堂前のハス型の天水桶も、「昭和52年(1977)1月吉日 翠雲堂 謹製」で、時は、「23世 成蓮社正誉隆道代」であった。徳川家との縁が深いから「葵紋」が前面にあるが、「諸堂落慶 大佛開眼記念」として設置されたものだ。大きさは開口部、高さ共1mほどとなっている。

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大仏前のこの香炉も、賽銭箱も東大寺型の八角銅灯籠(前33項)も、同時期に「翠雲堂」が謹製している。奉納理由は当然同じだが、乗蓮寺にとっても同社にとっても一大プロジェクトであった訳で、翠雲堂の名を国内外に知らしめたのは間違いなかろう。

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●大田区鵜の木の浄土宗、大金山宝幢院光明寺。縁起によれば、天平年間(729~)に行基が開創し、弘仁年間(810~)に、弘法大師空海(774~835)が再興しているという名刹で、「関東高野山」の異名をとったともいう。木造四天王立像は、都の指定文化財だ。鎌倉から安土桃山時代にかけて造られた多数の板碑があることでも知られていて、近くの五差路には、今も寺の位置を示す道標が立っている。

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1対の青銅製天水桶の銘は、「善導大師 第壱千参百年 御遠忌記念」で、近隣の旧家「天明家(てんみょう)」の奉納だ。天明家は農家で、江戸時代には村役人の年寄役を務めたという。現在、ここの旧家屋は、都内小金井市桜町の江戸東京たてもの園(後82項後86項後99項後103項後113項後123項)に移築保存されている。

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●旧家屋は、旧武蔵野郷土館が収集した、小金井市指定の有形文化財だ。正面に千鳥破風をもつ主屋や長屋門、枯山水(かれさんすい)庭園などに高い格式がうかがえると説明されている。この庭園は水のない庭の事で、池や遣水などの水を用いずに、石や砂などにより山水の風景を表現する庭園様式だ。

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家屋の提供者は、「天明茂光」氏であったが、光明寺の天水桶の奉納者は、「天明半蔵 天明玄之輔」氏となっている。銘は、「光明寺 第64世 覚誉代」、「維持昭和55年(1980)春彼岸 東京浅草 翠雲堂 謹製」とあり、青銅製でよく見かけるタイプだが、この木型も先の工場で作られたのであろうか。

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●銀座線の田原町駅にほど近い台東区寿に、昭和3年(1928)創業の中野三佛屋(前29項前34項後105項)がある。以前の項でも何回かアップしてきたが、さらに3例ほどを見てみよう。練馬区西大泉にある、日蓮宗の新井山大乗院だ。

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江戸期においては、4万8千石の関宿藩主久世大和守の祈願所であった。明治期の火災で本堂などが焼失したが、焼け残った山門は、宝暦2年(1752)の建立だという。(境内の案内板による)

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●青銅製の天水桶は、「宗祖七百遠忌 開山六百遠忌 報恩記念」での奉納だ。さらに、現本堂は昭和53年(1978)に新築されているので、「本堂新築之砌(みぎり)」ともある。「砌」は、「~の折に」という事だ。1対の裏側には、「昭和53年6月吉日 製作責任者 中野三佛屋 謹製」とある。「新井山大乗院 第39世 戸田浩暁日新」の時世であった。

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日蓮上人は、鎌倉時代の承久4年(1222)2月16日に安房国長狭郡東条郷片海の漁村で生まれ、弘安5年(1282)10月13日に武蔵国で没しているから、没後、差し引き696年目での奉納だ。入滅した池上宗仲邸は、現在、大本山池上本門寺(前22項)となっている。立正安国論、開目抄ほか多数の書を著わした事で知られる。

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●千葉県の京成中山駅近く、市川市中山の正中山院家法宣院は、中山法華経寺(前55項)の参道を通って行った五重の塔の右奥にある。寺号は無く、一塔両尊四士を本尊としている。

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法華経寺2世日高の兄の大田五郎左衛門藤原茂明が、居宅を改めて一寺とし、日高の甥の日胤を開山として正和2年(1313)に創建したという。法宣院2世の智鏡院日貞は、法華経寺院家職・学頭評定職に就いた他、5世久遠成院日親(なべかぶり日親)など高僧を輩出した寺院であるという。

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●裏側に「宗祖生誕 七百五十年記念」とある。天水桶正面の寺紋で判るように、ここは日蓮宗だから、当然、日蓮上人のことだ。青銅製の1対には、「昭和48年(1973)会式之砌 浅草 中野三佛屋 謹製」という銘が見える。「納主 遠藤日基 遠藤日津」、「法宣院 第47世 日基代」の時世であった。

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こちらは、日蓮上人の誕生を基準にして奉納されている。差し引き751年目だ。生涯60年間の活動中には、4大法難と呼ばれる、松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、小松原の法難、龍の口の法難(後114項)など数々の災難に遭遇した事はよく知られている。

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●都心の池袋駅東口から徒歩5分の所、豊島区南池袋に、清慶山本立寺がある。本尊を曼荼羅、日蓮坐像としている。「豊島の寺院」によれば、元和4年(1618)創立、文政11年(1828)9月、威光山法明寺(前31項)の末寺となり、山主の隠居所として使われていたが、その後、身延山久遠寺末(後121項)となる。第7世日意が、姫路城主榊原家の宝延寿院の帰依を受け、以来、榊原家の裏方菩提所となったという。

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堂宇前に青銅製の天水桶1対があるが、ここも日蓮宗で、「宗祖御降誕 七百五十年」での奉納だ。先の「立正安国論」だが、正嘉元年(1257)8月、鎌倉地方に大地震があり大きな被害が出た。日蓮はこの災害の原因を仏法に照らして探求している。

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そして3年後に「立正安国論」を時の権力者の第5代執権、北条時頼に提出している。その内容は、大規模な災害や飢饉の原因は、人々が正法に違背して悪法に帰依しているところにあると主張、災難を止めるためにはこれを正し、正法に帰依することが必要であるとしている。

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●銘として、「昭和46年(1971)10月吉日 清慶山 第32世 日威代」、「製作責任者 浅草 中野三佛屋 浩延」と見えるが、「浩延」は同社の代表者の名前だ。そうと判るのがこれの次の画像だ。

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中野区江古田の日蓮宗、星光山蓮華寺には、「京都 高橋鋳工場(後84項) 謹鋳」という梵鐘がある。「梵鐘再興協賛会」を立ち上げての奉納であったが、銘文には、戦時に金属供出(前3項)され「英魂の慰霊を兼ね、平和の梵鐘として永久平和の佛国土建設に精進すべく」再建されている。銘を読んでみると、「昭和39年(1964)10月15日 浅草三佛屋 代表製作責任者 中野浩延」となっている。「浩延」は代表者の名前であった。

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●稲荷町駅から徒歩1分、JR上野駅からは歩いて8分くらいの所、台東区東上野に中田佛具店がある。目印は下谷神社の真っ赤な大きい鳥居だ。仏具販売のほかに、寺院、家庭用仏具の修理もしているらしいが、ここも天水桶を謹製している。

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千葉県松戸市中矢切にある日蓮宗、法教山淨安寺だ。歌手の細川たかしの演歌、「矢切の渡し」で知られる地域だが、この渡しは、江戸川をはさむ矢切と葛飾区柴又を結んでいて、現在も観光向けに運行されている。「房総の魅力500選」にも選定されているが、寅さんの映画にもしばしば登場することで知られている。

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●ここもまた日蓮宗だから、「日蓮聖人 第七百遠忌報恩記念」での奉納であった。辞書によれば、「遠忌」とは、「死者の祥月忌日を一周忌、三周忌と重ねていって 50回忌以上の年忌になるとこれを遠忌と呼ぶ。100回忌以上になると50年ごとに遠忌を行う」とある。

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青銅製の1対に見られる銘は、「昭和60年(1985)5月吉祥日 東京・上野中田佛具店 謹製」、「法教山淨安寺 第35世 日孝法嗣玄規 造之」の時世であった。大きさは口径Φ1.080、高さは1.040ミリとなっている。

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●都内町田市金森が本拠の「お仏壇の日本堂」は、正式会社名は「日本宗教用具株式会社」であった。創業は寛保2年(1741)、300年弱の歴史で、十数店舗を構え、埼玉県川口市にも画像の支店がある。特徴としては、「東京都伝統工芸士」を抱え、仏壇製造を得意としているようだ。

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ホムペによると、「現在、弊社は家祖前田平祐より9代目にあたり、代々京都御所に出仕しており、6代目は明治天皇東遷に際し、御供なし道中飾付一切を勤めました。大正13年(1924)、8代目より関東にも支店を開設し・・」とある。

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しかし、浅草仏壇通りに支店はないようだ。前21項の品川区南品川の鳳凰山天妙国寺に次いで、2例目となるのが、都営大江戸線豊島園駅そばの田島山受用院。住所は練馬区練馬で、「田島山十一ケ寺」に属するが、これは、練馬区にある浄土宗の寺院群を言う。浄土宗の寺院で、寛永3年(1626)に、浄蓮社清誉円授和尚(慶安2年・1649年3月12日寂)が、田島山誓願寺の塔頭として創建している。

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●1対は青銅独特のいい色合いで、存在感充分な樽型の天水桶だ。寺紋は、徳川家の葵紋のようにも見えるが、花びらの配置や形状が違う。呼称不明な紋章だ。

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「平成12年(2000)春彼岸 日本堂仏具店 謹製」で、かなりの人数の檀家名が刻まれているが、ここまで多いのはそうそう見かけない。皆が少しずつ出資し合って設置したのが判る。先の鳳凰山天妙国寺で見たのは、タイプライターで打ったかのような陽鋳造文字であったが、ここのは印刷したかのような整然とした文字表示だ。

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●大田区多摩川の東急多摩川線の矢口渡駅近くの安方神社は、明治末期ごろ、安方字黒川にあった八幡神社に、天祖神社、釈護子神社、第六天社などを合祀して命名されている。祭神は、誉田別命、応神天皇で、学問や文化興隆の神様として崇められている

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昭和36年竣工という権現造りの社殿の前に、「開運堂 謹製」銘なる青銅製の天水桶が1対ある。対面し合う龍が目を引き、ドンと構えている桶の存在が、社格を数段アップさせている。氏子の「蔵方清右衛門 外33名」の寄進だ。石造明神型の鳥居は、「昭和38年(1963)11月吉日」に「蔵方初太郎」によって奉納されているが、両者は由縁ある方であろう。

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●「昭和52年(1987)5月吉日」の造立だが、開運堂さんのことがよく判らない。世田谷区に仏具を取り扱っている「(株)開運堂」さんがあるが、ここの謹製だろうか。開運堂さんが仏具取り扱い商だとすれば、鋳造先はどこであろうか。

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次の画像は前38項で見たが、大田区本羽田・羽田神社の天水桶で、「平成7年(1995)2月 (富山県)高岡市 (株)竹中製作所」が鋳造した青銅製の1対だ。桶本体の形状は似通っていて、対面し合う龍のデザインがほぼ同じに見える。竹中さんが鋳たのかも知れない。

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●杉並区堀之内の日蓮宗、正住山福相寺にもある。掲示板によれば、天正17年(1589)、身延山久遠寺(後121項)20世の一如院日重により台東区下谷に開創されていて、本尊は十界諸尊と日蓮上人坐像という。病気平癒に御利益があり、また福を授けてくれるという「願満大黒天」が安置されている。

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江戸後期には、その「来縁の記」を刷物にして参詣者に配ったほど庶民の信仰を集め、また、遠く関西方面からも参詣者があり、その人々が奉納した石塔が今も境内に残っているという。泉州堺(大阪)の人が奉納した、ネズミと米俵のこんな石像がそうであろう。

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量産品の天水桶1対だが、「昭和50年(1975)8月15日 開運堂 謹製」だ。「檀信徒一同」の奉納で、「正住山 日乗代」の時世であった。

杉並区堀之内・福相寺・開運堂

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●田原町駅から徒歩2分のところには、創業100年という(有)大日堂仏具店がある。前34項後105項でも登場しているが、ここが手掛けた鋳鉄製の天水桶2例に出会っているので見てみよう。まずは、練馬区高野台の真言宗豊山派、東高野山妙楽院長命寺だ。

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説明板によると、「寺域は紀州高野山に倣ったもので、東高野、新高野と呼ばれました。江戸幕府より9石5斗の御朱印を受け、御府内八十八ケ所霊場17番霊場になるなど関東における有数の庶民信仰の霊場となりました」という。

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●1対は鋳鉄製なのでサビてはいるが、これは安定的な黒サビ(後95項)だ。それが完璧な皮膜となっていて半永久的に腐食から保護されているのだ。「東高野山長命寺 第26世 林亮海」の代に、「檀信徒中」が奉納しているが、裏側にはその氏名が並んでいる。大きさは、口径Φ950、高さは、970ミリだ。


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銘は、「昭和38年(1963)4月21日 東京都浅草 大日堂 謹納」となっている。「謹納」という意味は「謹んで納入する」という意味に違いなかろうが、ネットで検索してもなぜかヒットしない。造語なのであろうか。口縁下には雷紋様(後116項)と丸いボッチが廻っている。

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また堂宇前にあるのは、よく見かけるタイプの青銅製の常香炉だが、これも「昭和56年(1981)4月21日 浅草 大日堂 謹納」となっている。

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●ここ長命寺には、かつて川口鋳物師が鋳たという梵鐘がある。川口大百科事典や、昭和60年(1985)刊行の増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」には存在が記録されていて、区の指定文化財となっている。現存する川口鋳物師製としては3番目に古い銅鐘であり実に貴重だ。大きさは、目測ながら2尺強ほどであろうか。

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刻銘を望遠撮影してみた。「谷原山長命寺 于時(うじ=時は・前28項) 慶安三庚寅(かのえとら)暦(1650)九月廿一日(21日)」という日付けだが、旧山号が刻まれている。現在は、「東高野山」だ。鋳造者名の陰刻は、「武刕(州)下足立郡河口村(後131項) 冶工 矢沢治郎右衛門吉重」だが、経年の風雨による摩耗も激しく、かなり不鮮明だ。

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●当サイトで見る鋳造物の中で、「河口(川口) 矢沢」という2つのキーワードが1つの領域に同時に存在する実例を見ていない。これが初見だが、この「矢沢」は川口鋳物師であった。後92項で詳細に見るが、昭和16年(1941)当時の「川口鋳物工業組合」の会員名簿を見ると、「川越市大字神明町 矢澤鋳物工場 矢澤四郎右衛門」の登録がある。

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参考になるのは、川越の地誌「多濃武の雁」(たのむのかり)で、「(川越の)鍋屋五ケ村の元祖四郎右衛門は、足立郡川口村の者にて矢澤四郎右衛門と云い・・」とある。これは天正年間(1573~)の話だが、そのころ元祖四郎右衛門が、川口から川越へ移住して鍋屋家業を始めたというのだ。


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●川口鋳造業の創成期については諸説あるが(後100項)、少なくとも天正年間以前には、この矢澤家(後65項)が川口の地で鋳造業を営んでいたようだ。時が下って近代、その後川越の鋳造業は衰微、会員数540社を数え隆盛していた川口の巨大組織の下、矢澤家は参画していたのだ。

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梵鐘造立当時、分家など一部の矢澤家は居残ったのだろう。これが、矢澤家が川口鋳物師である理由だ。なお、現在の鋳物組合員の中には、「川口市川口 (株)矢澤工場」の登録がある。関連する企業だろうか。

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●(有)大日堂仏具店の2例目は、杉並区上高井戸にある明星山遍照院医王寺だ。区の掲示によれば、『承和元年(834)、弘法大師が東国を巡行した際、箱根山で彫った薬師如来像を海星和尚がここ上高井戸に草庵を建て、本尊として安置したといわれています』とある。

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『江戸時代以後、この寺が「おめだま薬師」、「眼病にきく薬師様」といわれ、寺の境内に毎月12日、「おめだま薬師大護摩供」が修行されて参詣者でにぎわっています。また旧境内の薬師の池は湧水であったので渇水することがなく、また眼病平癒のため放した魚が一眼になるという伝説があります』という。

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●1対の鋳鉄製天水桶の口径と高さは、共に3尺サイズだからほぼ900ミリだ。世田谷区の個人が納主となり、「本堂再建記念」として奉納されているが、「医王寺 再興二世 興憲代」の時世であった。

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鋳出されている紋章や文字以外、形状の意匠は先例にほぼ近しい。口縁の広がり方、雷紋様(後116項)の渦の大きさとその下に連続している独特な丸いボッチ、3本の獅子脚(前33項)のデザイン、どこを見ても同じ様だ。

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●作者銘として、「昭和丗五(35)年(1960)十月 大日堂 謹納」となっている。鋳造メーカーが製品を納入すると、「謹鋳」と刻まれることがある。これも造語で、「謹んで鋳た」という意味になろう。だがここでも「謹納」だ。大日堂さんには、今も当時も、自社鋳造設備は無いと思われるが、ではどこで誰が鋳造したのだろうか。

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実は、ほぼ特定できるのだ。次の画像の天水桶は、後86項で登場する神奈川県藤沢市片瀬の龍口山本蓮寺の青銅製の天水桶1対で、大きさは口径Φ1.050ミリ、高さは1mだ。「昭和34年(1959)8月20日 富山県高岡市 老子次右衛門(前8項) 謹鋳」銘で同等の意匠だが、ここにも雷紋様の下に丸いボッチが存在する。

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●もう1例は、後93項で見る、関東三大不動の1つの埼玉県加須市不動ケ岡の不動ケ岡不動尊總願寺の鋳鉄製の1対で、大きさは口径Φ920ミリの3尺サイズだ。紋章や文字は当然違うが、寸胴型であり大きさもほぼ同等だ。これにも丸いボッチが存在する。

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こちらも、銘によれば、「高岡市 鋳物師 老子次右衛門」製だと確定している。造立も「昭和29年(1954)5月」であり近しい。現存する老子銘の鋳鉄製での天水桶は、知り得る限りこの1対だけだ。

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●決定的なのは、この4例に共通する独特な丸いボッチではなかろうか。他の鋳物師の作例でこのデザインに出会ったことが無い。その意味する所は不明だが、あるいは、梵鐘に見られる、煩悩の数ともされる乳と同じ意味合いだろうか。よって先の東高野山長命寺と明星山医王寺の2例の鋳造は老子社であろう。

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老子社のこの丸いボッチは、実は梵鐘にも存在する例がある。後75項で参詣する鴻巣(こうのす)市本町の天照山勝願寺だ。「昭和44年巳酉(1969) 冶工 老子次右衛門」銘だが、最下部の駒の爪(前8項)の上にボッチが連続している。このデザインの意味する事は何なのであろうか。108個の煩悩の数を表すという、乳と同じような意味合いであろうか。

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●川口鋳物師が鋳た銅鐘が登場したので、さらに2例を見てみよう。まずは、文京区向丘の浄土真宗本願寺派の涅槃山西教寺で、東大農学部キャンパスの隣だ。寛永年間 (1624~)の建立で、朱塗りの表門は、明治7年(1874)に、幕末の大名、酒井雅楽頭の屋敷から譲り受けて移築したものといい、区指定の有形文化財だ。江戸幕府最後の大老である酒井忠績(さかい ただしげ)は、播磨姫路藩第8代藩主で、雅楽頭系酒井氏21代だ。

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梵鐘の縦帯には、陽鋳文字で「南無阿弥陀仏」とあり、「天明四甲辰歳(1784)十二月吉日」、「武州豊島郡岩淵下村 惣村講中 願主 善入」の奉納だ。撞座の真上には、1輪の蓮の花が咲いているが、長年に亘り打鐘され続けてきた圧接感があり摩耗が進んでいる。ここでは毎年、檀信徒により除夜の鐘が打たれているという。

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●現物を見ると、経年の摩滅で陰刻は不鮮明だが、「天明伊賀守後胤 武州足立郡川口宿 永瀬次良右門 藤原廣○」銘だ。「川口大百科事典」にも記録があり、「川口鋳物師 永瀬治良右衛門」となっているが、実際の刻みは「次良右門」だ。

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次良右門は、京都真継家(前40項)の文久元年(1861)の「諸国鋳物師控帳(川口市・増田忠彦蔵)」にも記載がある藤原姓(前13項)を名乗った勅許鋳物師であった。「安政4年(1857)12月 当家並自分継目」となっていて、引き続いて鋳物師としての営業を認められている。

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1世紀ほどの差異があるが、明治19年(1886)10月18日付の浅草廣栄堂の廣瀬光太郎が刊行した、「東京鋳物職一覧鑑」にも名前が見える。見難いが、最下段の「吹元」の欄には13名の記載があり、「キカイ(機械鋳物鋳造) 永瀬次郎右エ門」とある。代々が世襲してきた名前だ。「吹元」は送風装置である「たたら」設備を保有していた訳で、それなりの所帯の工場であったのだ。

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●実に興味深いのは、「天明伊賀守後胤」と称して野州佐野天明鋳物師(後108項)の「後胤」、子孫である事を自ら名乗っている事だ。「伊賀守」は、天明鋳物師の伊賀守藤原信茂であり、信茂は大川天命と称し、天明鋳物師の中枢にあった由緒ある家柄であった。その後継者であると言っているのだ。

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文久元年の「禁裏諸司 真継家 名寄牒写」を見ると、「武蔵 足立 川口宿」の欄には、「大川治郎右衛門」という記載がある。名の文字の表記は違うが、「次良右門」だ。大川姓から永瀬姓に代わった経緯は、後108項で記述している。

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川口鋳物師の発祥に関しては、後100項で縷々解説したが、この梵鐘の造立時期の18世紀の時点では、川口鋳物師らは、佐野天明鋳物師の流れを受け継いでいた訳で、「後胤」という2文字は、かなり貴重な証言なのだ。

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●ここ涅槃山西教寺の「天明四年(1784)十二月」銘の梵鐘は、現存する江戸期造立の7例の梵鐘の内、川口鋳物師製としては、知り得る限り7番目の古鐘だ。先の東高野山長命寺が3番目であった。

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古鐘の2番目は、「埼玉県川口市本町・宝珠山錫杖寺 寛永18年(1641)9月銘(後108項)」、最古は「都内武蔵村山市中藤・龍華山真福寺 寛永15年(1638)3月21日銘(後131項)」だが、他の古鐘も登場しているので、是非ご参照いただきたい。

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●また、奇妙なのは「帰命山西蓮寺(前7項)」と陽鋳造されている事だ。この銘は、都内北区志茂にある真言宗智山派の寺院だが、本来そこ宛に奉納された梵鐘であった。この事は、昭和50年(1974)2月に公に確認されているが、戦時に金属供出(前3項)されたが鋳潰されず、混乱の中、文京区西教寺の檀徒らが手に入れたようだ。

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つまり、西教寺の本来の銅鐘は、戦時に供出され鋳潰されたのであろう、現存しないようだ。大正3年(1914)刊行の、香取秀眞(ほつま)の「日本鋳工史稿(後116項)」によれば、「天明4年(1784)正月 遠州森庄住人 山田七郎左衛門 本郷追分 西教寺鐘」が記録されているが、同人の他の作例などの記載は無い。

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「諸国鋳物師名寄記」や明治12年(1879)の「由緒鋳物師人名録」の「遠江周智森町(静岡県周智郡森町)」の項を見ると、登録されている京都真継家傘下の鋳物師は、この「山田七郎左衛門」1人だけだ。

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●なお現在、帰命山西蓮寺には後年鋳られた銅鐘が掛かっているが、画像の様に、縦帯にある銘は、「帰命山阿弥陀院西蓮寺 昭和34年(1959)3月吉祥日」、「当山第36世 正至代 東京浅草 翠雲堂 謹鋳」となっている。池の間には、初代の銅鐘が天明4年(1784)に鋳造された旨刻まれ、「仏具一切と共に国に供出し 今回檀信徒一同の発願協力に依り 新たに鋳造せり」と、先の経過が陽鋳造されている。

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●また、西教寺の境内には雑然と口径1尺の半鐘が置かれている。「文政8年(1825)正月12日 田茂山村 次工 及川千次郎」銘で不明な鋳物師(後124項)だが、「奥州玉造郡名生村 浄泉院15代 依宗叟」と刻まれている。

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この地名は、江戸期には陸奥国に属し全域が仙台藩領であったが、今の宮城県にあった郡だ。「浄泉院」は、宮城県大崎市古川大崎字名生北館に現存する曹洞宗の寺のようだ。本来そこに置かれるべき半鐘であろうが、先と同じ経緯で今日現在は、文京区向丘の西教寺にあるのだろう。(後110項参照)

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●さて昭和の時代に、川口鋳物師が鋳た梵鐘は余り無いようだが、鳩ケ谷の詩歌人にして郷土史家の岡田博氏は、「まるはと叢書」の中で、1口(こう)を紹介している。小谷三志の高弟で、百歳まで生きたという金子吉之丞の墓があり、その墓参の際に知り得た情報と思われる。

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川口市西川口の浄土宗、安養山西福寺で、16世紀末の開山という。本堂前の青銅製の天水桶は、ウエストがスリムな1対で、「昭和43年(1968)秋 第31世等誉(覚順)代」の時世に、「書院改築記念」として奉納されている。

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●刻まれた銘文によれば、鐘楼塔にはかつては、「宝暦5年(1755)1月 鋳工 粉川市正 藤原宗信(前52項)」作の梵鐘があったというが、今は、「昭和22年(1947)3月21日」に奉納された縦長な印象の銅鐘だ。戦時に金属供出された旨も記されているが、戦後のかなり早い時期に製作されたのが判る。

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縦帯にある「南無阿弥陀仏」の謹書は、「増上寺82世 椎尾辨匡(しいおべんきょう)」によるが、ここは港区芝公園・三縁山増上寺(前52項など)の末寺なのだ。俗字の「辨」は、「弁」を代替文字とするが、同氏は、昭和46年(1971)に没していて、仏教学者にして政治家で、大正大学学長を歴任している。

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真裏の帯には、「川口市仲町二丁目 奉納施主 大場之一」と陽鋳されている。仲町で最後までキューポラの火を点じ続けたという、(株)大場鋳工所の初代だ。創業は昭和10年(1935)で、最盛時には従業員70名を抱えていたという。その後不況の波を被った2代目の彦一氏は、59年後の平成5年(1993)に工場を閉鎖している。

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●こちらは堂宇に掛かる半鐘で、同じく「昭和22年(1947)3月21日」、「為大場家先祖代々菩提 施主 大場之一」と陰刻されているが、両鐘の銘はどちらも鋳造者名を示す線刻ではない。大場の工場では当初は、かまどや鍋、風呂釜を、後期は機械鋳物を手掛けていたというが、当然それらに鋳造者銘は記されない。

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人々の文化生活の中で使用され消え行く運命のものだからだ。岡田氏は、「自社製品を飾るものとして、人類文化の消耗品ではない、永久寿命の梵鐘を、従来品同様、製造者名・鋳工銘を鋳込まず出荷したのではないか」と言っている。

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●しかし、いくら大場氏が鋳造業者だからといっても、慣れない梵鐘作りをそう易々とこなせるものではなかろう。ノウハウがなければ無理であり、大場氏も自分で鋳ることなど想定外であったはずだ。これは案の定であり、実際の鋳造者名の答えは、銘文に刻まれていた。

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文面は、第31世住職の等誉によるが、「当山篤信の大檀越(だんおつ=布施をする信者) 大場之一氏はこの失われたる洪鐘(後124項)を再鋳して、世人の長夢を警覚せんことを願し・・」とあり、大場氏は、終戦で気落ちしている人々に、先々を見るよう戒め気付かせるために奉納を決意したようだ。

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続けて、「鋳造を山形市銅町、鈴木鋼一氏(前27項後124項)に嘱して・・」となっている。現在、銅町に本社を構え、鋳物町に工場を持つ、大正8年(1919)創業の(株)鈴木鋳造所での製造であったのだ。今日この梵鐘は、「当山常什物(じゅうもつ=寺宝)として 永く奉安されるに至ったのである」とされ、大場氏の願念は今なお受け継がれている。つづく。