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●寺社の中には梵鐘が備わっている処も多い。見る度に撞いてみたくなるものだが、多くは侵入防止柵があって立ち入り禁止だ。せいぜい持参の単眼鏡で覗き込むのが精一杯で、従って作者銘を確認しづらい。そんな中、思う存分に近づいて触れる梵鐘がある。乳または、螺髪(らはつ、らほつ)の形状、吊り輪部分の龍のデザインまでとことん見て堪能できる。

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まずは、港区赤坂の霊凰山種徳寺(後105項)だ。相州小田原に創建後、天正19年(1591)の小田原の陣の後に当地へ移転したという。鐘楼塔が焼失してしまったのだろうか、見当たらずだが、梵鐘が下に降ろされているのだ。もう長らくこうなっているようだが、このような事例は各地で見受けられる。

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ついつい手で小突いてしまうが、当然、本来の音の響きは期待できない。池の間や草の間、縦帯の部分には必ずと言ってよいが、文字がタガネで陰刻、あるいは凸に陽鋳造されている。寺社の由来や作者名が後世に伝わる訳で、受け継ぎたい文化だ。

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●「竜頭」と呼ばれる吊り輪部の形状が良く判るが、1トンはあるだろう全重量をここで吊り下げるのだ。この銅鐘の大きさは、Φ660ミリ、総高は1.3mだ。通常この部分は、本体とは別に鋳造しておいて、本体鋳造の時、一体化させる手法をとる。

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それが「鋳ぐるみ」だ。なお画像の紫色の部分はケレンの痕跡だ。鋳造時の偏肉防止のための金具で、やはり同時に鋳造され本体に取り込まれてしまうが、これは鉄製だから磁石に反応するのだ。(後95項も参照)

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こちらも展示物で、北区浮間の真言宗智山派、無動山妙智院観音寺(後46項)で見た竜頭だが、かなりリアルな龍の頭だ。竜頭は、「りゅうず、りゅうとう、たつがしら」とも発音されるが、強さの象徴であり、兜の前立物や船首に付けられる装飾(後88項)にも見られる。

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●さらに、盲目の国学者・塙保己一(はなわ ほきいち)の墓があるのは、新宿区若葉の独鈷山光明寺愛染院(後22項)だ。ここには神田鍋町の小幡内匠(後49項後100項)が鋳造した梵鐘が展示されており、間近に見て触る事ができる。この人は、江戸時代中期に、「藤原勝行」を名乗った勅許鋳物師であったが、神田鍛冶町に住した時もあったようだ。

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大きさは総高136cm、口径71cmだ。鐘銘は、「宝暦10年(1760)7月8日」の鋳造で、江戸幕府は第10代将軍、徳川家治の時代であった。小幡は、他にも江東区白河・道本山霊巌寺(後77項)の梵鐘や、港区芝公園・三縁山増上寺(後52項後126項)の銅灯籠なども鋳ている。

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●説明書きによれば、「およそ鐘の聲(声)は黄鐘調(おうしきちょう)なるべし、これ無常の調子、祇園精舎の無常院の聲なり」という名鐘であった。さらに「乳の間 百字真言を陽刻、銘叙は、江戸湯島霊雲寺 第四世 法明識す(しるす)」とある。

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よく見ると撞座や乳の頭にまでキリーク(梵字・後47項)がある。後91項後105項後131項などでも見ているが、これが貴重な存在とされ、戦時の金属供出(前3項)を逃れた理由であった。

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●見せることに前向きな寺社もある。相撲の大関、雷電為右衛門が寄進した梵鐘で有名な、港区赤坂の真宗大谷派の笑柳山報土寺だが、右上に見える鐘楼塔の軒瓦には、「雷」の文字が配されている。1800年前後に活躍した力士で、勝率0.962を誇り未曾有の最強力士とされている。

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長野県東御市の出身で、本名は関太郎吉、身長は1m97cmで体重は170kgであったと言う。大柄の割りに几帳面な人柄であったようで、27年間にも亘り、「諸国相撲控帳」、通称「雷電日記」を残している。墓所は、同県上田市の水石山長昌寺だ。

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銅鐘は、雷電が文化11年(1814)に寄進したが、側面に雷電自身の姿を鋳出し、そのへそに撞木が当たるようにしたりなど、異形であった。特にその上部に「天下無双 雷電」と刻んだことが問題視され、寺社奉行によって直ちに没収されたという。「天下」という2文字の使用は、はばかるべき時代だったのだ。その処罰は重く、住職共々、江戸処払いになっている。(後124項参照)

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●画像の現在の鐘は作者不明ながら、「明治41年(1908)5月成就」とあり、1世紀後のものだが、雷電の鐘に刻まれていた銘と同文であるという。旧鐘の最下部、「駒の爪」部分は、土俵の俵の意匠であったが、これには踏襲されていない。

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表面には「初鐘 横綱 大砲 萬右衛門」とあるが、同門の方であろうか。なおこの鐘は、戦時に金属供出後、都内あきる野市戸倉の臨済宗建長寺派、福王山普光寺にある事が判り、平成3年(1991)に報土寺に帰還している。(後110項参照)

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●1人1回限りだが、叩いてみたい方はここ、台東区今戸の曹洞宗、霊亀山慶養禅寺だ。16世紀ごろ、龍門寺12世良寮和尚が開山している。これは、主に火災時などに乱打して報知するための小さい半鐘だが、都会では、自由に撞ける梵鐘にはほとんど出会えないようだ。

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これらの梵鐘の材質は、青銅製だ。叩かれるのが本来の目的で、しかも良い音色を求められる梵鐘にはうってつけの材質だ。鉄鋳物では不可能、鉄は衝撃に弱く成分密度が低いから、どちらかと言うとスカスカで、音の余韻が期待できないのだ。立て札には、「御自由にお撞き下さい 但しお一人佛様を念じ一撞のみ 住職 合掌」とあるが、文字は丁寧に陽鋳造されている。

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●日本の梵鐘は、長く響く余韻と程よい唸りが特徴的で、欧米の「カラ~ン」と鳴るベルとは全く異質だ。正岡子規の「柿くへば 鐘が鳴るなり法隆寺」からは、ベルの響きは想像できないし、平家物語にある「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」からは、世の無常観を思い起こされる。

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和鐘の余韻の響きに含まれる「1/f ゆらぎ」が心身をリラックスさせるが、小川のせせらぎや小鳥のさえずりと同じで、心を癒す音だ。「わびさび」という日本文化の根幹とも言えようが、その象徴が和鐘なのだ。寺院における梵鐘の音は、苦しみを払って、悟りに通じる功徳を与えてくれるという。「梵」とは、サンスクリット語で「清浄 神聖」を意味する言葉だ。

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●梵鐘の各部にはそれぞれ呼び名があるが、詳しく見ておこう。山形県天童市の(有)渡邊梵鐘(後127項)さんは、梵鐘の製作や修理で名を馳せるメーカーだが、ここのサイトからそのまま引かせていただこう。「頂上に竜頭があり、ここで鐘を下げる。竜頭と云うのは俗称で蒲牢(ほろう・後116項)と云うのが正しいとされている。

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蒲牢は竜の九子の一で鯨が蒲牢を打つと蒲牢が大きな声を出して鳴くと云う伝説に依り、打たれて大音を発するとう云ので、蒲牢を附すのだと云はれている。竜頭の下が笠形と云ひ、その下の所で乳のある形の場所を乳の間と云ひ、その下を池の間、又は池の町と云う。銘文等ここに表される場合が多い。文字をいけ込む事から起つた名称であろうと云はれている。

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●その下の横に細長い場所には、種々の唐草模様が描かれる事が多いので草の間と云う。乳の間、池の間、草の間を区画しながら二本づつ走つている線を紐と云ひ、紐に依つて区画された帯状の部分の内、横のものを横帯、縦ものを縦帯と云ふ。横帯には上帯、中帯、下帯の三つがあり、縦帯は九十度を隔てて一つづつ合計四つある。

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撞木で打つ場所を撞座と云ひ、両側に各一個計二個あり、八葉萼(がく)の蓮弁である場合が多いので八葉とも云ふ。鐘の最下端は特別な膨みを持つており、その切口が似ている処から駒の瓜と云う、又玉縁とも云はれる。

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又これ以外に乱の無いものや、上帯の無いもの等あり、稀には紐の全く無いものもある。」画像は、後127項の都内港区高輪の演暢山正覚寺で見る「昭和36年(1961)11月 鋳匠 山形 渡邊壹郎」銘の引退した銅鐘だ。

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●当サイトでは、この後続々と多種多様な梵鐘が登場してくる。一部ではあるが、その主だった項番をここに記しておこう。タイトルとしては、「後65項 川越時の鐘」、「後106項 半鐘の話」、「後112項 真壁鋳物師・小田部庄右衛門の梵鐘」。

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後122項 川口鋳物師・鈴木文吾らの梵鐘」、「後124項 梵鐘の刻銘や傷跡が今に伝える来歴や伝説」、「後126項 現代に聞こえる江戸時代の時の鐘」、「後127項 相州相模国・鎌倉市で見られる梵鐘」などだ。

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●次の後9項では、越前鋳物師の新保佐治平、後27項などで山形鋳物師、後78項で豊川市金屋町・中尾工業、後80項で滋賀県五個荘鋳物師・西沢吉太郎、後91項で宇都宮鋳物師、後92項で京都市右京区の鋳匠・岩澤徹誠。

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後105項で八王子・加藤鋳物師、後111項で滋賀県湖東町・金寿堂黄地佐平、後117項では、画像の甲斐鋳物師が登場している。これは、静岡県三島市円通山龍澤寺の「宝暦3(1753)盂夏 冶工 豆州河原谷住 沼上忠左衛門祐重」銘の銅鐘だ。

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●さらに、人間国宝の香取正彦の作例は、後116項など多項で、その弟子の鴇田力は後120項などで見ている。また、後述の富山の名匠・老子製は後86項など多項で、江戸鋳物師の「椎名、小幡、西村、粉川、河合、田中」ら、現存する文化財扱いの銅鐘も多項で見ているので、検索いただきご参照願いたい。

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あるいは上述もしたが、後110項には、鐘に関するエピソードについて全てのリンクを貼ってあるし、後59項後122項後131項では、川口鋳物師が手掛けたという古鐘を数例見ている。画像のこれは都内西多摩郡日の出町の瑠璃光山東光院の鐘で、「元禄17年(1704)臘月(12月) 武蔵国下足立郡河口町住 永瀬権右(衛)門尉 勝之作」銘だ。

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●さて、変わり種の天水桶をアップしてみよう。まずは天下祭で名を馳せた、千代田区永田町の日枝神社から、青銅製の芸術作品の桶だ。ここは、鎌倉時代初期に江戸太郎重継が、居館に日吉の大神を勧請したことに始まるという。重継は、平安時代末期の武将で、武蔵江戸氏の初代当主だ。 居館は、江戸の桜田の高台、後の江戸城本丸、二の丸周辺に構えたという。ここの拝殿の脇に青銅製の天水桶がある。

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2基1対は、「昭和53年(1978)6月15日」に、「江戸山王御鎮座五百年祭記念 日枝神社葵会」として奉納されている。下方部はかなり細くなっているが、花瓶のイメージだろうか。高さは、850ミリもある。ここの神紋は、「二つ蔓葵の丸」のようで、点対象に葵の葉が描かれている。葵は地味な植物だが、江戸時代には観賞用にも供されている。

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人となりについては不明だが、作者は、関氏と橋本氏だ。草書体で刻まれているので、難解で下の名は判読できないが、2人はデザインと鋳造を手掛けたのであろうか。他に例を見ない芸術的な天水桶だ。なお、ここのワニ口については、後87項を、全景の画像に写り込んでいる2基の銅灯籠については、後17項をご覧いただきたい。

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●台東区浅草の本龍院待乳山聖天(まつちやましょうでん・後89項)は、本尊を聖天様とし、毘沙門天を祀っている。紋章には巾着と二股大根が組み合わされており、巾着は砂金袋のことで商売繁盛を、二股大根は無病息災、夫婦和合、子孫繁栄を意味し、大聖歓喜天の福徳を示している。(ホムペより)

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天保年間(1830~)に刊行された「江戸名所図会」を見ると、「隅田川西岸」となっているが、聖天のすぐ側まで隅田川が迫っていたのだ。「東の方を眺望すれば、墨田河の流れは長堤に傍(そ)ふて溶々たり。近くは葛飾の村落、遠くは国府台の翠巒(すいらん=緑色に連なる山々)まで、ともに一望に入り、風色もつとも幽趣あり」であった。待乳山は10mに満たない都内で一番低い山だ。

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現在、隅田川までは150mほど離れている。山谷堀は、江戸初期に荒川の氾濫を防ぐために日本堤下まで掘られたが、昭和の末までに全て暗渠となり公園となって、今は桜の名所地になっている。かつては待乳山を横目に、隅田川から猪牙舟で吉原遊郭まで遊びに行くという堀であった。

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●それにしても奇抜なデザインの天水桶だが、巾着のイメージだ。紋章は、「四つ銀杏」だ。銀杏は生命力が強く長寿の象徴の木なので、神霊が宿ると信じられていて、御神木である事も多い。通常、葉の枚数は3枚であるが、ここの紋様は4枚葉だ。

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大正3年(1914)刊行の、香取秀眞の「日本鋳工史稿」を見ると、かつての桶は、「袋型銅水鉢 文化7年(1810)夏5月 鋳工 粉川市正(後52項)」作であったようだ。袋型という表現は今一つ曖昧だが、この巾着袋と同じような意匠であったのだろう。なおその時の奉納者銘は、「新吉原角町松葉屋半蔵」であった。ここは、遊郭の吉原にごく近い地なのだ。

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「昭和44年(1969)5月」の奉納で、富山県高岡市波岡の「佐野清銅器(株)」が作っている。「青銅」ではなく「清銅」だが、大きさは、最大部でΦ1.1m、高さは98cm。当然青銅製だが、参詣には磁石を持参して、材質確認すると良い。鉄にはつくけど、青銅にはつかないはず。時は、「現住 大僧都真祐」の時世であった。

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更に、変わり種では無いけれど、境内にある社務所前の青銅製の天水桶1対も、「佐野清銅器謹製」だ。やはり、「四つ銀杏紋」が見られ、「昭和48年5月吉日」に「諸講中」が奉納している。また境内には、同社が鋳た銅灯籠も2対あり、こことは縁深いようだ。なおここへは、後84項で再度参詣しているのでご参照いただきたい。

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●次に高岡市の流れで登場願うのは、何度も出てくる台東区浅草の金龍山浅草寺(前1項前6項など)。梵鐘などの青銅鋳物に関しては有名な「老子(おいご)製作所」製で、同じ大きさの樽型のものが、堂宇の左右と背面に6基もある。

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昭和32年(1957)から平成22年(2010)までの製造で、奉納時期も寄進者も様々だ。深緑色で感じのいい色合いだが、この色出しは塗装ではなく染色(後62項)によるものだ。因みに、かつてここに鎮座していたのは、前6項で見たように川口鋳物師の手による天水桶達であった。

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(株)老子製作所は、富山県高岡市戸出栄町に所在するが、江戸時代中期に起業していて、屋号を「老子」としたのは明治元年(1868)の創業時だ。現在は、初代老子次右衛門より13代目を数え、梵鐘の他、仏像仏具、銅像、モニュメント等を中心に製作する鋳物総合メーカーだ。

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●なお老子次右衛門は、鋳造物にその名を刻む際、「次右エ門」とする事も多い。込み入った漢字の「衛」を略して表示しているようだが、当サイトでは、省略していても正式な「次右衛門」と記載している事もあるのでご了承いただきたい。

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全国の寺院に納入した梵鐘は大小合わせて3万鐘を超えるといい、国内シェアは約70%にも上るが、京都の西本願寺や三十三間堂、千葉県の成田山新勝寺(後52項)などに納入されている。あるいは、台湾国台北市の法鼓山には、同国最大級の口径8.5尺、25トンの大梵鐘、兵庫県加東市の念仏宗無量寿寺には国内最大級の口径11尺(3.6m)、 高さ5.5m、48トンという超巨大梵鐘が納まっている。

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●文政11年(1828)の「諸国鋳物師名寄記」や、明治12年(1879)の「由緒鋳物師人名録」の「越中射水」の項を見ると64名もの鋳物師名が並んでいるのに、「老子姓」の登録は一人もない。鋳物師の総元締めの京都真継家(後40項)の傘下ではないという事だ。

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真継家は、朝廷の権威を背景にして鋳物師達の市場保障や、紛争解決に乗り出してくれていて、皆が進んで所属しているのにだ。これは、屋号を「老子」としたのが明治元年であったという事からして、当時、特に独立した鋳物師ではなかったという事であろう。

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中興の7代目次右衛門(後86項)は、明治11年(1878)に高岡市金屋町で生まれているが、14才になった明治25年、かつて前田利長の産業振興策により招かれた鋳物師7人衆の子孫、喜多万右衛門(現釜万鋳工・後120項)の職工となっている。技術習得後、33才の明治43年(1910)に独立し、昭和23年(1948)に(株)老子製作所を設立、昭和37年(1962)に84才で没している。

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●功績としては、デザイン技術指導者として、人間国宝の香取正彦(後88項)、秀眞(ほつま・後116項)親子を迎えたことが、名匠、有名企業として不動の地位を築いた一因でもあろう。香取はここの工房で、富山県高岡市二上山の、口径3.3m、重さ11トンという大梵鐘を鋳ている。

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あるいは画像の広島県の平和記念公園の「平和の鐘」などを製作している。この常設の鐘は、昭和39年(1964)9月に建立され、口径約1m、高さ1.7m、重さは約1.2トンという。表面には、国境のない世界地図が浮き彫りにされ、撞座には原子力のマークと丸い鏡が表現されている。

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広島の平和の鐘はいくつかあるが、画像は、資料館東館1階にある高さ77cmという小ぶりな銅鐘だ。「平和」の2文字は元総理の吉田茂の揮毫となっているが、昭和42年(1967)に香取正彦が寄贈している。年に1度、8月6日午前8時15分に平和記念式典内でに鳴らされる5代目の平和の鐘という。平和の鐘は、環境庁の「残したい日本の音風景100選(後65項など)」にも選ばれている。

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●さて、浅草寺の天水桶の裏側の銘を見ると、「東京都 堀川鋳金所」との「謹鋳」のようだ。同社については、後34項で再度登場する。6基の大きさはほぼ同じで、口径Φ1.200、高さも1.200ミリほどだ。共作ではあるが、堀川の工場でこの大きな天水桶を鋳造するのは無理そうだ。

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得意とするのは、建築物の装飾金具や銘板、ぐい呑みなどの美術鋳物などだからだ。察するに、都内に所在する堀川が受注し、ノウハウを持った老子が鋳造したのであろう。奉納は、「平成22年(2010)11月改修 (株)市川鉄工所」で、初鋳は、昭和32年(1957)10月20日、2基だ。画像は、本殿の真裏からの情景だ。

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●さらに、「昭和33年4月吉日 社団法人 江戸消防記念会」で2基。これの外周には、第1区1番組から始まる組頭ら数百名の名前が陰刻されている。もう2基は、「昭和32年3月吉日」で「東京九段一口坂」の個人の奉納だ。鋳造に関連した両社は、1年ほどの間に全てを鋳たようで多忙であったろう。

浅草寺・堀川

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寺の拝殿正面に並んでいる下の画像の左側のハス型の天水桶も、「昭和30年(1955)秋」に、「東京 製作 堀川鋳金所」が謹納していて、単独名だがこれも老子との共作ではなかろうか。「御宝前」として、参道の「仲見世商店会」が奉納している。右側は前1項で見た、「川口市 山崎甚五兵衛 製作」だ。

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●仲見世は日本で最も古い商店街の1つだ。「浅草仲見世商店街振興組合 2008」によれば、「徳川家康が江戸幕府を開いてから、江戸の人口が増え、浅草寺への参拝客も一層賑わいましたが、それにつれ、浅草寺境内の掃除の賦役を課せられていた近くの人々に対し、境内や参道上に出店営業の特権が与えられました。これが仲見世の始まりで、元禄、享保(1688~、1735~)の頃といわれます。」

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大正時代(1912~)中期の仲見世通りは、画像のように赤レンガ造りであった。しかしこの直後の関東大震災で地域一帯は消失、急遽、木造の仮設の仲見世が誕生したという。画像は、某地下鉄駅で見られるパネルを撮影して抜粋した。

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●続いては、浅草寺のお隣りにある、毎年5月に行われる例大祭の三社祭で知られる浅草神社(前1項)の天水桶だ。江戸三大祭りとも称されるが、江戸時代から謳われている江戸期の狂歌「神輿深川(深川祭) 山車神田(神田祭) だだっぴろいは山王様(山王祭)」の中には含まれていない。

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推古天皇36年(628)に、草創に関わった土師真中知(はじのあたいなかとも)、檜前浜成(ひのくまはまなり)、武成(たけなり)を主祭神とし、東照大権現(徳川家康)、大国主命を合祀している。

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●天水桶は、江戸消防記念会の第五区三番組の「と組」の奉納であったが、この第5区には9つの番組が属し、その範囲は、台東区全域と荒川区の大部分、千代田区の一部となっている。大きさは、直径はΦ920×高さ800ミリの3尺サイズだ。

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鋳鉄製の1対だが、銘は「文政6年(1823)」、深川鋳物師の釜六こと「太田近江大椽(だいじょう) 藤原正次(後17項など)」だ。「大椽」は、優秀な職人に与えられた名誉号で、階級としては、大掾、掾、少椽の3階級であった。鋳出し文字はシャープで、かつ塗装がされていて読み取りやすい。なお、後57項をご覧いただくと、この天水桶鋳造の秘密を知れるので、是非ご参照いただきたい。

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●これらの天水桶は、とにかく巨大だ。浅草寺の「川口市 山崎甚五兵衛作」の手桶乗せタイプの本体上部の直径はΦ1.530ミリ、高さも1.400ミリもある。その上に手桶と金物製の屋根であるから、総高は、3mといったところだろう。なお、口径の大きな桶に関しては、後55項から見られるのでご参照いただきたい。

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通常見かける桶の外径はΦ900、高さも850ミリくらい。つまり正面から見るとおよそ、3尺×3尺サイズだ。では、どれくらいの水が入るのか。当然、内寸法は小さいし、抜け勾配がついていて下すぼまりに傾斜している。つまり、下部ほど小さくなっているから、平均Φ800ミリ、内側の深さを800ミリとすると、約400L入る計算になる。入浴2回分の水量だ。

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なるほど、本来の存在理由は消火用水槽だ、それくらい入っていたって不思議はあるまい。浅草寺の手桶乗せタイプのものは、昔の尺貫法で言うと内径は5尺弱の桶だ。同じ考えで計算すると、なんと、1.800リットル超。とてつもなく巨大な天水桶だ、変わり種に違いあるまい。続きはまた次回だ、つづく。