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●散策を兼ね寺社仏閣を訪ねていると多くの天水桶に出会う訳であるが、本項に至るまでには未アップの天水桶達も数多い。まず多いのは、近年に鋳造された作者不明の、ハスの花弁形や酒樽形の青銅製桶で、量産志向で画一的であり、面白みが今一つだ。

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さらに、戦時中に金属供出(前3項)してしまった後に造立されたと思われるが、コンクリート製の桶も多い。経費の問題もあろうが、実に味気ないと感じてしまう。存在感が希薄なのだ。次に多いのが花崗岩製(前11項)だ。作者個人名が彫り込まれていることはあまり無いが、しかしそのデザインは個性豊かで、しばし見入ることもままある。

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●ではそんな桶を手始めに、最近出会った天水桶を見てみよう。まずは船橋市東中山の、日蓮宗宝珠山多聞寺。開山は日傳聖人で、永仁6年(1298)、宗祖に帰伏し弘法の守護神として毘沙門天を賜わり、一宇を開創している。千葉氏一族の手厚い保護を受けた寺社であるというが、本堂の屋根に見られるように、寺紋は「九曜」だ。

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1対は縦長で寸胴型だが、蓮花弁をイメージした形状であろう。本体と台座との接地面に見える花弁は、天地逆の意匠になっているが、これは、「反花(かえりばな・前51項)」と呼ばれるもので、桶に限らず、灯籠や香炉にもよく見られる。

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これは、1つの大石から一切の形状を彫りだすのであろう。一昔前なら、職人のノミ1つによる仕事であったが、現代では工作機械による切削のようだ。雄々しい龍に注目だが、この龍の細工だけは職人の手によるのかも知れない。龍は、古代中国に発する想像上の動物で、水を司る龍神信仰として日本各地で祀られているが、雨乞いの儀式には欠かせない神だ。水を呼び寄せるべく設置される天水桶に描かれるのはこのためだ。

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●板橋区赤塚の曹洞宗、萬吉山(ばんきざん)宝持寺松月院(後122項)は、江戸期には、40石の御朱印寺であった。ウィキペディアなどによると、房総に勢力を持っていた、桓武平氏末流の武将・千葉自胤(よりたね)が、康正2年(1456)に現千葉県の市川から赤塚城に移り、その後の延徳4年(1492)に当地にあった古寺・宝持寺を自身の菩提寺として定め、松月院と名を改めさせたのが始まりであるという。

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幕末の天保12年(1841)には、砲術家として名高い高島秋帆(しゅうはん)が、近隣の徳丸ケ原で西洋式の砲術訓練を行った際に、本陣がこの松月院に置かれている。この訓練は当時の大名などを驚かせ、秋帆に大きな名声を与えたものであり、この松月院の名を有名なものにもしたとある。

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●寺は、什物を展示する寺宝館を持ち幼稚園を運営するなど、今なお広い敷地を擁している。上の画像のように江戸名所図会を見ても、左下の「赤塚大堂」に至るまでが現在も管理地であり、本陣を置くに相応しい名刹であった。

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ここの1対の天水桶はコーヒーカップ型の花崗岩製で、「昭和56年(1981)3月」に檀家が寄進しているが、「松月三十六世 祖学哲應代 新添」であった。大きさは口径Φ1.2m、高さは950ミリで、立派な堂宇に見合った大きさだ。中央に千葉家の家紋の「月に星」が燦然と据わっているが、これは、平将門の挙兵に参戦して窮地に陥った際、天上の星に力を与えられ危機を乗り切ったという伝説に由来している。

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●近辺は「高島平」付近で、この地名は洋式砲術家の高島秋帆に因んでいるが、この寺にそのモニュメントがある。青銅製の砲身だが、本体中央には、秋帆が晩年、自ら名乗ったという「火技中興 洋兵開祖」の文字がある。これは実際に使用されたものでは無く、顕彰のためにわざわざ鋳造されたものだ。

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目測ながら総高は4mほどで、囲みの石柱は砲弾型になっていて、台座の4隅には、火炎を噴き上げている「ボンベン弾」の模造品が配されている。この呼称は、英語の爆弾、「Bomb」の訛りだ。

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●この原型は、秋帆が砲弾に似せて作った鉄瓶や茶釜で、表面には、「報国芹誠」とあり、裏には「乙丑(慶応元年・1865)小春 七秩翁 高島秋帆清玩」の銘がある。ボンベン釜と愛称されてもいるようだが、直径は20cmほどだ。製造は、後述の川口鋳物師の増田家だろうというが、ここ松月院の寺宝館の「松宝閣」に現存している。(撮影の許可は得ました。)

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近くの板橋区赤塚の区立郷土資料館(後82項後97項)では、このボンベン釜をモチーフにした暖簾も作られている。「報国芹誠」、「火技之中興 洋兵之開祖」と染められているようだが、この元の絵は、「秋帆先生自画賛 砲丸形茶釜」という掛け軸に描かれている。秋帆の砲術訓練に対する評価が高まった安政5年(1858)頃の書画と言う。

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●さて、モニュメントの砲身の鋳造は、「大正11年(1922)6月14日」に「東京砲兵工廠」で行われている。資金は、大正天皇からの下賜金200円や寄付金など計¥7.777円70銭で、寄付団体は99カ所、寄付した人員は212名に及んでいる。「大正11年6月 銘板鋳造寄付」をしたのは、「武州川口 増田芳松 鋳」であったが、この人はどんな方であろうか。

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前2項後82項で、160年前の幕末に、大砲や砲弾を鋳造した川口市鋳物師の増田家のことを記述しているが、この人は、昭和2年(1927)7月31日に没している、6代目の俗名増田清助のようだ。鋳出し文字の存在によって、少なくともこの時期までは、高島家とのつながりがあった事が判る。

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●なお秋帆は、文京区向丘の曹洞宗、金龍山大円寺に眠っている。開創は慶長2年(1597)というが、八百屋お七の事件(天和3年・1683)は、ここからの出火が原因であった。本堂前の青銅製の天水桶1対は、「昭和51年(1976)初冬 増築記念」での奉納だ。

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川口鋳物師がかつてここで手掛けた天水桶の来歴を、昭和9年(1934)刊行の「川口市勢要覧」で見てみると、「嘉永4年(1851) (増田)金太郎(前13項など) 水盤(天水桶) 半双(1基) 駒込大円寺」という記載がある。増田家との縁を偲ばせる銘だ。

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●区の説明によれば、秋帆は、寛政10年(1798)8月、長崎町年寄の高島四郎兵衛茂起の3男として長崎に生まれている。26才の時、シーボレトと共に来日したオランダ商館長のスチュルレルから西洋砲術について学び大いに啓発された。

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天保11年(1840)のアへン戦争に際して日本を憂い、西洋の進んだ軍事技術を導入して海防する必要性を説き、時の老中水野忠邦の命で、上述のように、西洋式砲術訓練を行っている。訓練に参加した者は、秋帆以下百名で、見物には諸大名をはじめ、数千名が徳丸ケ原を埋めたという。慶応2年(1866)、小十人町の屋敷(現文京区白山)で享年69才で没している。画像は、増田家の安次郎が秋帆から受けた褒章状だ。(前30項参照)

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●続いては、世田谷区北烏山の真言宗豊山派、金剛山悲願寺多聞院。寛永5年(1628)に述誉上人が新宿角筈村に開山、昭和30年(1955)に当地へ移転している。玉川八十八ケ所霊場44番札所で、御府内八十八ケ所霊場3番札所となっている。後者は、弘法大師ゆかりの88ケ所の寺院を祈願のために参詣するもので、有名な四国遍路を模して、宝暦5年(1755)頃に、ここ多聞院に墓所がある正等和尚が開創したという。

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青銅製のハス型の天水桶は、量産品の1対だ。「昭和54年(1979)10月吉日」に、「弘法大師千百五十年御遠忌記念」として奉納されているが、「第28世 博一代」の時世であった。

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●次は、京成大神宮下という駅名の由来にもなっている、船橋市宮本の船橋大神宮だ。天照皇大神を祭神とする意富比神社(おおひじんじゃ)のことで、船橋大神宮は通称だが、「日本一小さい大神宮」の異名もある。景行天皇40年(110)、日本武尊が東国御征討の途次、船橋に到着し天照皇大神を奉祀して創建したといい、延喜式にも「意富比神社」と記載されている古社だ。

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天保期(1830~)に刊行された「江戸名所図会」にも、「舩橋 意富日神社」として描かれている。説明では、「意富日、古へは日を比に作る。天正(1573~)以来、台命によりて比を日に改めらるるといへり」だ。やや左側中央に本殿があり、門前には宿泊所や茶屋が見られ、賑わっていただろうことが判る。

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●1対の鋳鉄製の天水桶は、「嘉永六癸丑年(1853)五月吉日」に、「薩摩芋問屋」によって奉納されている。表面に10人の世話人の名前が並んでいるが、地域に根差して商売していた人々であろう。「船橋屋源次郎 舟橋屋佐七 舟橋屋萬五郎」らの名も見えるが、文化2年(1805)に初代の勘助が創業した、「元祖くず餅 船橋屋」の方々であろうか。

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「武州川口住 鋳工 永瀬源内 藤原富廣」銘による鋳造だが、同氏による四角形状の桶はお初だ。これまでに見てきた11例は全て丸型であったのだ。上部の額縁には、雷紋様(後116項)が廻っているが、これも稀で、同氏の作例としては2例を知るのみだ。

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もう1例は、前49項の「港区元麻布・麻布山善福寺 武州川口住 鋳工 永瀬源内 安政4年(1857)8月」の丸い天水桶であった。なお源内の作例は、前14項に全てのリンク先を貼ってあるのでご参照いただきたい。

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●18世紀の半ば、法度によって街中に天水桶が設置され始めた当初、使い終えた丸い酒樽(前22項)が水受けとして再利用されていた。時が下り19世紀になると、四角い桶が登場している。安政3年(1856)の歌川広重の浮世絵、「猿若町 夜の景」を見てもそれが溢れている。

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四角い天水桶は、現代でもオブジェとして見ることができる。画像の桶は、台東区浅草の「伝法院通り」の一角にあるが、酒樽のイメージとはほど遠い。この通りは、浅草寺の本坊である伝法院に因んでいる。一般公開はされていないが、寺院の境内には、小堀遠州の作と伝えられる回遊式庭園がある。客殿や玄関は安永年間(1772~)の建築で、客殿は山内二十四ケ寺の住職の修行道場という。

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こちらも浅草で、助六の宿を謳う、江戸情緒溢れる旅館「貞千代」前だ。全てが和室部屋で、床の間や障子、ちゃぶ台など古風な家具や内装が揃っていて、客室の呼び名も「い組一番」などと洒落ている。現役で活躍している水溜、天水桶ではないが、往時を偲ばせるに充分なアイテムだ。

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●続いては、板橋区四葉の四葉稲荷神社。説明板によれば、元亀3年(1572)6月に創建されたといわれ、幕府が編纂し、文政11年(1828)に成立した地誌「新編武蔵風土記稿」には、「四葉村鎮守なり、村持下同じ」と記されており、江戸時代以来、鎮守として崇敬を集めてきたことが判る。

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天水桶は「四葉町水道組合」の奉納だ。作者不明ながら、これが何と鋳鉄製鋳物としては鋳造年の最新記録更新をした1対であった。大きさは口径Φ800、高さは700ミリだ。同色に塗装された2段の台座も鋳鉄製で、最下部の1段は石製だが、4隅の角部のへこみなど、その意匠を模して鋳造されたようだ。1辺が1.3mもある大きなものだが、存在感は充分過ぎる。

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●「平成8年(1996)9月吉日」の造立で、青銅製や花崗岩製の天水桶には多く出会うが、平成時代製の桶としては稀な鋳鉄製だ。作者銘が見られず残念だが、サビなどのメンテナンスの問題などからも、もはや作られる事は無かろうと思っていたのである。

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知る限りを調べてみると、最新の鋳鉄製の桶は、「江戸川区西小松川町・無量山中台院 平成元年(1989)年4月4日(後74項)」であるので、7年半ほどの更新だ。一方最古の桶は、「越谷市相模町・真大山大聖寺 鋳物師 江戸深川 釜屋七右エ門 文化8年(1811)3月(後130項)」銘であったから、その差は185年だ。鋳鉄製天水桶の歴史は、約2世紀であると言えようか。

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●板橋区南常盤台にある、板橋天祖神社。かつては「神明宮」と称され、日の神、皇室の祖先神の天照大御神を祀っている。東武鉄道によって開かれた「ときわ台」の地名は、ここの神木である柊で、「常磐なる木」にちなんだといわれる。

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寛政9年(1793)に、蜀山人・大田南畝(前16項)が当社を訪れた時の記録が残っているが、それによると、「神明宮ありて古老松杉枝を交えて大なる柊もあり 宮居のさまもわら葺きにて黒木の鳥居も神さびたり・・」と書き記している。(区の掲示板を要約)

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●ここに川口鋳物師、「山崎甚五兵衛(前41項など)」が鋳造した桶がある。正面に「三つ巴紋」があり、その上の額縁には、水を司る「水龍神」が居る。古来より、井戸などの水場は、水龍神が行場として住みついているとして神聖視されきた。その意味合いでの表示であろう。

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鋳鉄製の1対は「昭和55年(1980)9月吉日」の造立で、同氏作の中でも比較的後期のものだが、奉納は「氏子総代」であった。しかしこの3本の獅子脚は、先代の寅蔵(前20項など)から受け継いだ古い意匠だ。後113項で登場する台東区西浅草の西浅草八幡神社の天水桶の脚を見てもそれは一目瞭然なのだ。

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●最後は、千葉県市川市中山の正中山法華経寺だ。京成本線の京成中山駅を降りると長い参道が始まっていて、やがて、市有形文化財の荘厳な黒門をくぐると、次に仁王門の赤門が見えて来る。日蓮宗の六大本山で、寺領50石1斗の御朱印状を拝領していたが、現住は新井日湛で、145世を数える古刹だ。

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ホムペによると、「当山は、緑に囲まれた静寂な日蓮大聖人五勝具足の霊場として宗門屈指の巨刹であり、大聖人より直授された多くの御聖教を格護(かくご=助勢、保護、扶養)し、永くその伝統を誇っております」という。

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●大祖師堂前に、圧倒されるほど巨大な鋳鉄製の天水桶が1対ある。直径Φ1.8mだから6尺で、高さは1.65mだが、これまで見てきた中でも最大級の口径だ。改めて当サイトで見られる4尺サイズを超える巨大桶を記しておこう。

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順不同ながら、「千葉県・成田山新勝寺 Φ1.35m×高さH1.4m 前52項など」、「台東区・金龍寺浅草寺 Φ1.53m×H1.4m 前1項など」、「伊勢原市大山・大山阿夫利神社 Φ1.23m×H1.13m 後65項」、「東京都・高尾山薬王院有喜寺 Φ1.38m×H1.24m(前35項)」。

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そして「神奈川県・川崎大師平間寺 Φ1.6m×H1.7m 前24項など」、「成田市・鳴鐘山宗吾霊堂 Φ1.6m×H1.34m 後57項など」、「大田区・長栄山池上本門寺 Φ1.75m×H1.8m 前22項など」、「鴨川市・小湊山誕生寺 Φ1.8m×H1.5m 後90項」、「宇都宮市・二荒山神社 Φ1.43m×H1.7m 後91項」であったが、どれも目を見張る巨大さだ。

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●外周には、世話人の名前がビッシリだ。「施主 商人出入中」、「施主 出入職工中」の奉納で、「中山門前 鳶」、「行徳 提燈屋」、「市川 左官」などの住所や生業が見られ、近隣の出入業者の寄進であることが判る。また、「中山駅前」ともある。当時すでに電車が開通していたが、京成電鉄の京成中山駅の開業は、大正4年(1915)11月3日であった。

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このサビ具合が社殿の雰囲気にマッチしているが、額縁の全周には、寺紋の「桔梗紋」が連続している。日蓮宗紋がセンターに大きく見えるが、この紋章と「奉納」の文字は青銅製だ、磁石に反応しない。

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銘を見ると、「武州川口 製作人 山﨑寅蔵善末(前20項など) 昭和6年(1931)10月13日」の造立だ。「宗祖六百五十遠忌之砌(みぎり)鋳造」で、「正中山120世 日修代」の時世であったが、長い歴史がある古刹だ。

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もう片方には「善末」の文字は無いが、「山﨑寅蔵」の名前の下に四角い印影、落款(後65項)の陽鋳造がある。寅蔵は、左右の桶で作者銘を違えているが、この落款がここに存在する重要な意味を後113項で知るので、ご参照いただきたい。

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●少しここの境内を散策してみるが、祖師堂の前には、比類なく独特なデザインの常香炉が置かれている。全面が蓮弁に覆われているが、大きさは口径Φ600ミリの3尺サイズで、高さは850ミリだ。香炉にしては随分と高さがあるが、底にまで灰が詰まっているのだろうか。

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台座には蓮花の葉脈が線彫りで表現され、その正面には、「安政三辰年(1856)二月吉日 願主 豊田氏」の陽鋳文字があるが、画像の背面では、「施主 豊田重三郎 納之」の陰刻となっている。「下総中山法華経寺 常什 百六代 山主 院代 妙修院」の時世であったが、その左側に鋳造者銘がある。「東都住 鋳物師 村田勇治郎」だ。

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●この江戸鋳物師は、蝋型鋳造で知られる「村田整珉(後110項)」系の人であろう。整珉は、大正3年(1914)刊行の香取秀眞(ほつま・後116項)の「日本鋳工史稿」によれば、宝暦11年(1761)8月13日に生まれ、天保8年(1837)11月24日に没している。

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墓地がある、画像の文京区白山の曹洞宗、醫王山妙清寺の過去帳によれば、享年78才だ。その墓石には、「極楽も地獄もままよ死出の旅 ここは追分鳥渡一ぱい 整珉」の辞世の句が刻まれているという。

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●神田龍閑町に住し、16才でやはり神田住の多川民部(後109項)に師事、総次郎と称し整珉北玉叟と号している。名乗りからして、整珉は次男であったろうか。文化12年(1815)4月、日光東照宮の二百年忌に際し、時の11代将軍徳川家斉や紀伊尾張大納言の命により、幣串を建てる台を進献した事で名を広めたようだ。

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文政12年(1829)、木村渡雲を養子に迎え2代目とし、その後、一子の仙次郎が3代目を継いでいる。弟子には、仏像の鋳造に長けた栗原貞乗、村田保徳らの名が挙がっている。保徳は、明治17年(1884)4月に没しているが、その子には村田政次郎が居たようだ。盛時は、先の常香炉の「村田勇治郎 安政3年(1856)」と同時期だろうか、私見ながら近しい間柄に思える。

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●この香炉は蝋型によるものでは無いが、名匠整珉の工芸品は、現在でもオークションなどで高値で取引されている。あるいは、台東区上野公園の東京国立博物館には、銅鋳造の「五具足」が展示されている。これは、真ん中の香炉とその両脇の花瓶1対、両端の燭台1対の5点を1セットとした仏具だ。それぞれに鶴亀や麒麟などの吉祥の動物がデザインされているが、緻密な蝋型鋳物の極致であろう。

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なお蝋型は、鋳型から中子型を取り出す必要が無く、流し込む溶鉄が型の中の蝋を溶かし、形状に置換される鋳造法だ。量産は出来ないが、細密で複雑精緻な工芸品向きの鋳金技法なのだ。現代で言えば、後125項で見る発泡スチロール模型による鋳造に近い方法だ。

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●次は、銅造宝篋印塔(ほうきょういんとう)だが、右側に見えるのは大正5年(1916)に国の重要文化財に指定された五重塔だ。印塔には、二層の屋根を備え回廊が廻っていて、「一天四海 皆帰妙法 天下泰平 国土安穏」と陽鋳造のお題目が掲げられているが、実に巧緻な造りだ。

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さらに「文化四年(1807)卯三月 再建立 当山八十九世 日近代 院代 正恵代」での奉納と刻まれている。なお、現存する江戸期の青銅製の宝篋印塔は類例が稀有だが、後63項後89項でも見ているのでご参照いただきたい。

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●作者の銘が、台座に陰刻されている。「江戸神田鍋町 鋳物師 土橋源助 源次良 甚太良 太良兵衛(後65項)」だ。源助は、千代田区・神田神社(前10項)の天明2年製(1782)の龍紋銅洗盤(後109項など)に名が見られた鋳物師だ。

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この現存しない洗盤には80余名もの鋳物師や工人、世話人の名があったという。さながら当時の「鋳物師一覧表」であり、当時の業況を知る上で、先の香取は「頗る(すこぶる)快事」と表現している。

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その洗盤の「奉納 東都鋳物師」として並ぶ親方株相当18名の次に、3名の「世話掛」として「土橋源助」の名が連なっていたのだ。そこそこ名の知れた、頭領格とも言うべき鋳物師であったかも知れない。

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また宝篋印塔の、源助以下の3名は縁者、あるいは従者のようだが、「甚太良」は、洗盤では居並ぶ工人の末端に「土橋甚太良」として記録されている。土橋姓が付与されている訳だが、公に姓の乗りを認められ、年季が入り始めた頃の鋳物師であったろうか。

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●なお、土橋に関しては、後65項では、杉並区堀ノ内の厄除け祖師妙法寺で、「天明5年(1785) 神田金澤町 鋳物師 土橋源助」銘の銅壺(どうこ・前30項)や銅灯籠を見ている。

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後110項では、港区虎ノ門の金刀比羅宮(ことひらぐう)で、「文政四辛巳(かのとみ)歳(1821)十月吉祥日」に建てられた銅製鳥居が、「鋳工 土橋兵部作」である事を記述しているし、信州長野の善光寺の香炉は、「武江神田住 鋳物師 土橋大和作」である事を知った。ただ、源助と兵部、大和が同一人物であるかどうかは判らない。

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●祖師堂と宝殿門の後ろには宇賀神堂がある。法華経寺の守護神である宇賀徳正神の本社で、財福の神として知られる。宇賀神は人間に福徳をもたらすという神で、弁財天とも同一視されるが、日本神話に登場する宇迦之神に由来するともいう。

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ここに掛かっているワニ口の銘は、「鋳物師 長谷川刑部富永作」で、かなり達筆な彫りだが、鋳造年代は不明だ。あるいは上部の目の届かない位置に刻まれているかも知れない。「刑部」は、日本の律令官制における八省(中務・式部・治部・民部・兵部・刑部・大蔵・宮内)の長官職(卿)だが、長谷川はこれを名乗っている。詳細不祥な鋳物師だが、以下の記録を見ても、江戸近郊で活動した人で、青銅鋳物の鋳造だけを得意とした家系のようだ。

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●史料も乏しいが、当サイトで登場した「長谷川」姓の鋳物師の項を記しておこう。前7項では、「台東区上野公園・東叡山輪王寺 慶安4年(1651)12月20日 鋳師 長谷川舎吉(家吉)」銘の現存する梵鐘を、前37項では「神田住 御鋳物師 長谷川兵部」銘の記録を見ている。

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後99項では、江戸城跡の皇居、平川橋の擬宝珠に「寛永元年甲子(1624)八月吉日 大工 長谷川越後守」の刻みがあったし、後116項では、「足立区西新井・五智山西新井大師 弘化4年(1847)3月吉祥日 神田住 御鋳物師 長谷川兵部正源良壽」銘の現存する青銅製の井戸側を見ている。

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後118項で、静岡県伊豆の国市にある韮山反射炉の臼砲(きゅうほう)、モルチールと呼ばれる大砲では、「伊豆韮山 長谷川刑部秋貞造」の刻みを確認してる。なお、長谷川家は、後126項などにも記述しているが、家康が江戸開府に前後して、城下整備のために召喚した鋳物師の家系だ。

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●また、先の史料の調査記録を記しておくと、「千代田区外神田・神田神社(前10項) 銅燈台両基 天明3年(1783)5月 鋳物師 長谷川刑部」、「相州鎌倉・海光山長谷寺(後127項) 銅鉢 天和3年(1683)6月 長谷川刑部国永」。

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さらに、著者の秀眞が「国永の子か」とする、「武州小机・瑞雲山吉祥院 鐘 元禄6年(1693)仲春 大工 江戸住 長谷川伊勢大掾 藤原国永」銘などがある。彼らが同じ家系であるのか、これらが現存するのか不明だが、人知れず役目を続ける、記録に無いこのワニ口の存在は貴重だ。

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●そして大祖師堂の北東側に本院があり、その奥に江戸三大鬼子母神の1つの鬼子母大尊神堂を構え、その隣には、「日蓮宗大荒行堂」と呼ばれる常修院殿がある。法華経寺の開祖の富木常忍(ときじょうにんつねのぶ・建保4年1216~永仁7年1299)の尊堂だ。日常と号した常修院は、鎌倉時代の下総国の豪族で、因幡国(鳥取県)の出身にして、中山門流の祖師とされている。

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堂宇前に1対の鋳鉄製の天水桶が置かれている。大きさは口径Φ1.080、高さは880ミリだ。正面には当然、日蓮宗紋の井桁に橘が大きく配されているが、他に目に付く紋様などは一切無い。奉納者名は裏側に「池田忠兵衛」と鋳出されているが、何の肩書も見られない。

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鋳造者銘は、「明治三十年(1897)二月吉日 田中七右衛門」となっている。「江戸深川鋳物師」であった通称釜七に関しては、前18項で詳細に見ているが、明治期半ばに会社を改組、同末期には廃業している。ここでは肩書のない簡潔な名乗りとなっている。他所では見られる「○七」の社章も無いが、組織が混乱している中での鋳造であったろうか。つづく。