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前19項の最後に、「山寅作」と鋳出されている天水桶をアップした。川口鋳物師の山﨑寅蔵だ。今回はこの簡潔な銘について解析していくが、その前に埼玉県戸田市(後72項)笹目の真言宗智山派、普門山蓮花院平等寺にある銅像を見てみよう。

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寺の創建年代は不詳というが、本尊は、行基作と伝わる木造の聖観音菩薩立像だ。境内には、市指定文化財の「明応三年(1494)の板碑」や「貞享元年(1684)の石幢」がある。

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境内に溶岩で築かれた塚があり、その上に「不動三尊像」が載っている。中央の不動明王像と、脇侍の八大童子の矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制吒迦童子(せいたかどうじ)の2像だ。火炎光背を背に抱え、忿怒の形相の不動明王銅像は、身長650ミリほどで、火炎を含めば850ミリほどの高さがある。

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●説明板によれば、「不動三明王は五大明王の中心的存在で、大日如来の使者として悪を断じ、善を修し、真言行者を守護する役割を担っているのです」というが、密教の根本尊である大日如来の化身なのだ。

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右手には、魔を退散させると同時に人々の煩悩や因縁を断ち切るという三鈷剣を持ち、左手には、悪を縛り上げ、また人々を縛り吊り上げてでも煩悩から救い出すための投げ縄であるという羂索(けんさく)を握っている。

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●続けて「不動明王は火を観想して動ぜず、あらゆる障害を大智の火を身から出して焼きつくすといわれ、つまり、物事を明確に判断する知性を持ち、罪人を縛り正義をもって決断し、慈悲によってあらゆる生きものを結びつけ、生きものたちの悪や悩みを焼きつくしてくれるという有難い御仏です」という。

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光背の裏側に陰刻がある。達筆な彫りで「製作人 川口市 山﨑寅蔵」となっているが、鋳造年月は不明だ。同氏作の同等の銅像は、後97項の川口市本町・成田山不動院分院でも登場しているが、そこでは「昭和11年(1936)」としているので、ここ平等寺のものも近しい年代であろう。当サイトで見る、寅蔵の主たる遺作例は天水桶だが、本項末にも記述の通り、寺社仏閣に関する色々な物を鋳ていたのだ。

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●さて本題だが、「山寅作」の銘は、新宿区西早稲田の穴八幡宮にある、昭和2年(1927)造立の笠倉鋳工所製の天水桶に見られた訳だが、この両者、山寅と笠倉氏の関係が今ひとつ不明なのだ。

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拡大してみよう。確かに落款の様に「山寅作」とある。自署として陽鋳された印影(前13項)だ。

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●次に、前4項でアップした千代田区神田須田町の柳森神社の桶をもう一度見てみよう。浅倉庄吉製で、「昭和5年(1930)8月」の鋳造だが、「山寅作」の印影がある。

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左下を拡大してみると・・ やはり縦書きで「山寅作」とある。文字の囲み線は、真四角ではなく角が面取りされているようだ。浅倉庄吉と山寅はどんな関係なのであろうか。

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●続いて後38項の文京区千石の簸川(ひかわ)神社で見る、「埼玉懸川口町 (そ=社章) 永井惣次郎 鋳造 昭和5年(1930)9月吉日」銘の天水桶だ。永井が鋳造していると思ったら、「山寅作」だ。

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そしてこちらは、後83項で見る千葉県我孫子市の緑香取神社の「昭和4年(1929) 川口町 増幸鋳造部」製であるが、ここにも「山寅作」の印影がある。以上の4例は、造立時期がかなり近しいが、山寅と4者はどんな関係なのであろうか。

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●次の5例は、「山寅」とあるだけで他社の銘が存在しないから、山寅単独での鋳造だ。後々の登場となるので、印影の部分だけを見てみると、後34項では、「台東区上野公園・五条天神社 昭和3年(1928)9月改鋳 川口 山寅作」銘となっている。

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後43項では、「品川区小山・芳荷山長応寺 大正13年(1924)6月 山寅製」の横書きの銘となっているが、鋳物師の情報としてはこの印影だけの表示であり、「川口」などの地名は見られない。また、「作」ではなく、「製」となっている。

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後69項では、「江東区大島・子安稲荷大明神 大正15年(1926)9月吉辰 山寅製」銘だ。先例と同じく横書きで、作者を特定できる情報は「山寅」だけだ。

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後70項では、「中野区弥生町・神明氷川神社 大正15年(1926) 埼玉縣川口町 山寅作」という銘だ。上の2例とほぼ同じ時期の作例だが、縦書きになっていて、ここでは「製」を「作」に変えている。

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後106項では、「世田谷区経堂・経堂天祖神社 昭和8年(1933)9月吉日 川口 山寅作」となっているが、四角い囲みが無く、右から左へと「川口」の文字が配されている。

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●さらには、中央区茅場(かやば)町の日枝神社日本橋摂社。ここは、千代田区永田町にある山王日枝神社の摂社だ。摂社とはその管理下にあり、祭神と関係が深く、系譜的に連なる神や地主神などを祀った神社をいう。

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この摂社は、山王天下祭りの神幸祭の折り、神輿や山車が巡幸の途中で休息する場所として定められた御旅所であり、現在でもその風習は続いている。ここに、鋳鉄製の天水桶がある。大きさは幅1m、奥行き70cm、高さは1mほどだが、鋳肌の鈍く輝く独特な質感が堂宇前の顔となっている。

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●神田界隈ではよく見られたが(前10項)、四角い桶に出会ったのは久しぶりだ。「日枝御防講(おふせぎこう)」という消防組織の奉納で、裏側には、「日本橋数寄屋町」、「京橋南鍛冶町」などの講員の氏名が並んでいる。

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この講は、火災その他災厄の時に、真っ先に駆けつけて消火と神霊を奉護する講社で、いつの日か自然消滅していたが平成22年(2010)に再興されている。その活動は、元日の神門開門、節分祭、例祭などの警護、神社の美化などだという。

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●製造者を特定できる情報は、下の画像の「山寅製」だけだが、こちらは右から左への横書きで、「昭和4年(1929)4月吉日」に鋳造されている。社殿は、大正期の関東大震災後の昭和3年に造営されているが、天水桶も同時期に設置されたようだ。

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造営では境内末社が合祀され、例大祭が盛大に行われていて、その記念石碑も建っている。東京大空襲で罹災もしているが、天水桶に被害はなかったようで、戦時の金属供出(前3項)も逃れた貴重な1対だ。

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「山寅」は川口鋳物師、「山﨑寅蔵」を意味する略号、印影だ。下の画像の同氏の作例は、前1項でも紹介しているが、世田谷区豪徳寺の大谿山豪徳寺の天水桶で、「大正15年(1926)7月竣功」であった。よく見ると、「町」の文字には、個性的なアレンジがなされている。

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●山﨑寅蔵の作例をさらに4例見ておこう。まずは墨田区文花の香取神社だ。説明板によれば、「永萬元年(1165)の葛西御厨の文書、応永5年(1398)の葛西御厨注文等に鎮守村名が見られ、平安時代の末期、当地開拓のために千葉県香取郡から六軒の人々が移住し、小村井の氏神様として鎮守しました」という。

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社殿は、昭和29年(1954)の建立で、本殿は流れ造り、拝殿は入母屋流れ造りの総桧造りだ。広い敷地ではないが、灯籠や天水桶がバランスよくきっちりと、当たり前の位置に納まっている。

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ここに、「埼玉県川口町 山﨑寅蔵善末作 大正12年(1923)4月吉日」という1対の鋳鉄製天水桶がある。「氏子中」の奉納で、雷紋様(後116項)が連続した額縁の口径が、本体より一回り大きいのが特徴だ。

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大きさは、最上部の口径がΦ900ミリだから、呼び3尺だ。高さは820ミリあるので存在感充分で、小さ目な社殿の顔となっている。厚めの塗装で文字が読みにくくなっているが、同じ傾向の鋳出し文字だ。

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●逸れるが、境内社の諏訪社前に区の登録文化財の「禊盥(けいかん)」があるので見ておこう。禊盥とは何やら難しそうな漢字だが、要は「みそぎのたらい」だ。これは、手水鉢(ちょうずばち)の事だが、かつては本殿前に据えられていたという。この右側面には「文政11年(1828)戌子6月吉祥日」、裏面には「氏子中」と能筆で刻まれている。

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掲示板によれば、『手水鉢は神仏を礼拝するにあたって、参拝者が手を洗い、口をすすぐための器であり、その行為のことを「手水を使う」ともいいます。この習慣は古代から行われていた「斎戒沐浴」の名残で、水で心身の罪や穢れを清める、「禊」を簡略化したものと考えられます。

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そのために本堂や社殿の前には必ず水を満たした盥や「手水桶」、「手水鉢」などが常備されています。 現在香取神社境内の諏訪社前にある手水鉢が「禊盥」と刻まれていることは、江戸時代後期の篤信社たちがただ単に手を洗うだけではなく、こうした禊の習慣をよく理解したうえで神前に奉納している貴重な例といえます』という。なお、現存する稀有な金属製の手水盤などは、前7項後95項などで詳細に見ているのでご参照いただきたい。

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●埼玉県さいたま市大宮区高鼻町にある大宮氷川神社は、武蔵国一宮だ。氷川神社名を冠する神社は、1道1都19県に289社が存在するが、その総本社だ。この内、埼玉県、東京都、神奈川県の一部である旧武蔵国には、243社もある。県内を流れる荒川は、度々氾濫する荒ぶる河だが、氷川神社は、その流域の農耕の開拓神として篤く崇敬されてきている。

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天保年間(1830~)に刊行された「江戸名所図会」は、主に江戸御府内の寺社仏閣の事典だが、ここが最北の地だ。ここの境内に、少彦名命を祀る摂社(上述)の天津(あまつ)神社がある。この神は、大己貴命と共に国土経営に携わった神で、医学薬学の神でもある。社殿は、御嶽神社と共に寛文7年(1667)に造営された、かつての女体社と簸王子社の本殿を移築したものだ。

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●ここに大きな鋳鉄製の天水桶が1対ある。大きな基台が目を引くが、本体は口径Φ1.050ミリだから、3.5尺のサイズで、小さ目な堂宇とはいささか不釣り合いだ。かつては拝殿前にでも置かれていたのであろうか。奉納者は「埼玉縣川口町 納人 岩田幸作」だが、この人も川口鋳物師だ。前3項の新宿区須賀町の法輪山勝興寺では、幕末から明治初期にかけて川口鋳物師の中でも頭領格であった岩田庄助が登場しているが、この人の子孫だ。

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作者は「大正12年(1923)1月吉日 鋳造人 山﨑寅蔵善末」と陽鋳造されているが、「町」や「人」という文字は、やはり個性的だ。川口鋳物師が手掛けたここ氷川神社の天水桶の来歴を、昭和9年(1934)刊行の「川口市勢要覧」で見てみよう。

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すると、「文久元年(1861)11月 吹屋市右衛門(後67項など)」、「慶応元年(1865)9月 増田金太郎(後38項など)」、それぞれ「水盤(天水桶) 一双(2基)」となっている。これらは、戦時に金属供出(前3項)してしまったのだろうか。

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●次は、JR品川駅のほぼ正前、第一京浜を挟んで反対側の雑踏の中にある、港区高輪の高山稲荷神社。かつては神社の前面は海辺で、船舶航行の目標となっていて、高輪町の鎮守の神として崇敬を集めたという。創建時期は不祥というが、およそ500年前に、有馬邸(現在毛利公邸)の丘上にあったので、高山稲荷と称したという。

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「氏子中」が1対の天水桶を奉納している。鋳鉄鋳物だ。先ほどと同じような意匠だが、獅子の足であろうか、洒落た3本の脚がある。後33項では、この脚について解析しているのでご参照いただきたい。

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「川口町 鋳造人 山﨑寅蔵 昭和6年(1931)9月吉辰」という鋳出し銘だ。現在の社殿その他は、昭和6年9月に氏子崇敬者の浄財によって造営されているので、同時に設置されたようだ。

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拡大してみると落款というべき印影が確認できる。後113項ではこの印影につて詳細に解析しているのでご参照いただきたい。鋳出し文字には、先に見てきた天水桶同様、「町」や「人」の文字に、波打ったような共通の癖が見られる。

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●最後は、台東区鳥越の鳥越神社(後132項)。境内の説明板によれば、白雉(はくち)2年(651)の創建で、日本武尊、天児屋根命、神君徳川家康を合祀している。格式の高かった、家康を祀っていた松平神社(現、蔵前4-16付近)は、関東大震災で焼失したため大正14年(1925)に当社に合祀されている。

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ここの天水桶は青銅製の1対だが、かなり珍しいデザインで、かがり火台のイメージであろう。辞書を引くと、かがり火は古来の照明具の1つだ。主として屋外用のもので、手に持って移動するときは松明 (たいまつ) を使い、固定するときはかがり火を使う。松の木などの脂の多い部分を割り木にして、鉄製のかがり籠に入れ火を点けるもので、「かがり」の名も細長い鉄片を編んだ容器からの命名といわれる。

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弁当箱の曲げわっぱのようにも見えるが、丁寧に留め金の形状も鋳造で表現されている。見事な鋳造物だ。奉納者として、鳶頭の「今井仁右衛門 今井龍次郎」ら6人の名が見えるが、みな今井姓であり、今井一家だ。

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●大きさは口径Φ810、高さは880ミリだが、肉厚は6ミリほどと薄く、左側には重なり合っている形状もリアルに表現されている。右側の2ケ所の穴は、外側の4本の脚を固定するためのビス穴だ。

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「武刕(ぶしゅう)川口町製作人 山﨑寅蔵 昭和7年(1932)5月吉日」銘だが、「武刕」とは、武州のことだ。かなり鮮明な陽鋳文字で、先程と全く同じ印影があるが、難解な読み方やここに存在する奥深い理由は後113項で判明している。

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異例なデザインでありしばし見入るが、それこそ多くの天水桶を見てきた中でも、比類なく見目麗しい崇高な1対だ。戦時の金属供出(前3項)を、幾多もの災禍をも逃れここに現存している事に心底感激だ。

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「山寅」こと山﨑寅蔵は、実に多彩な天水桶の鋳造を手掛けていた。角型、樽型、異形型、蓮弁型、巨大桶、鋳鉄製、青銅製だ。特に、昭和初期の鋳鉄製が当たり前の時期に、青銅製桶を世に送り出した功績は大きかろう、ほかには見当たらない。当時のトップメーカーとして、いかに研鑽を重ねていたのかが、今に残る作品群を見れば判る。他に追随なき名匠であったと言ってよい。

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●鳥越神社から近い場所で、興味を惹かれる天水桶に出会っているのでここで見ておこう。台東区松が谷の矢先稲荷神社で、徳川家光が寛永19年(1642)11月23日に創建した、三十三間堂の守護神として祀られた稲荷大明神を起源としている。三十三間堂は、元禄11年(1698)の勅額の大火後に深川へ移転しているが、稲荷大明神は当地に残り、弓矢の練成道場である由来から、矢先稲荷神社と称している。

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堂宇前に1対の天水桶がある。正面に稲荷紋が据わっていて、裏側には「奉献 上野信用金庫 昭和37年(1962)11月吉日」の銘版がはめ込まれている。上述と同じく、かがり火台をモチーフにしているようだが、これは、コンクリートの成型品だ。鳥越神社を模して造られたのであろうか。

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●さて、まだまだ未アップの寅蔵製の天水桶もあり追々紹介していくが、アップ済みも含めその項番をここに挙げておこう。前1項後36項後38項後43項後46項後49項後55項後113項後132項だが、主に鋳鉄製だ。大正初期(1912~)から昭和26年(1951)までの、本項分も含む33例ほどで、年月日不明分や2代目甚五兵衛が父の名を借りて鋳た分もカウントしている。

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後34項では、賽銭箱をイメージした見事な青銅製の天水桶1例を、後106項では奇跡的に寅蔵作の半鐘1口(こう)を発見しているし、前13項では、鋳鉄製の鉄碑を見ている。また、後69項後70項では特集を組んでいるのでご参照いただきたい。次の画像は、後113項の台東区西浅草・西浅草八幡神社で見る、「武刕川口町 製作人 山﨑寅蔵 印影 昭和6年(1931)6月吉辰」銘の、数々の災禍を逃れてきた天水桶だ。

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●最後に冒頭の疑問に戻るが、「笠倉鋳工所 浅倉庄吉 永井惣次郎 増幸鋳造部」と「山寅」は、大正末期から昭和初期の時代に活躍していて、同一地域にありながら同業他社として深いつながりがあったのだ。

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笠倉や浅倉、永井や増田が、伝手あって受注した天水桶を、確かなノウハウを持っていた「山寅」こと山﨑寅蔵に鋳造を依頼し納入したのだ。つまり、自社製品の相手先ブランドによる生産、OEMだ。その証明が、鋳出された「山寅」銘であった。つづく。