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●天水桶の製造年月日を見てみると、昭和時代後期から平成時代製が多い。戦時中の金属供出で、郵便ポスト(後123項)や街路灯、寺社の多くの天水桶や仏像までが鋳(い)つぶされた訳だから、戦後、新規に調達せざるを得なかったのだ。民間においても日用品の鍋釜やドラム缶など、全ての金属製品が対象であったが、お国のために供出を余儀なくされ、大砲やら銃弾やらに替わってしまった訳だ。

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古老の話を聞き取ると、かなりリアルだ。「昔はどこの家にも蚊除けの蚊帳(かや)があって、それを鴨居に引っ掛ける金具があったんだけど、その輪っかまで出したの」、「あたしは、はめるほど豊かじゃなかったけどさ、指輪まで持ってかれたのよ」、「近くの商家の鉄柵はもちろん、煙草を包んでた銀紙まで集めたよ」。子供たちは、ブリキのおもちゃやベーゴマも供出したという。

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何とポスターまで製作されている。「お国の為に金を政府に売りませう」と掲げられ、「大蔵省 内務省 後援」とある。金1グラムが「14円43銭7厘5毛」のようで、「手続きは凡て銀行信託会社で致します」となっている。金の指輪やネックレスを、別れを惜しむかのように高く掲げた女性がまとっているタスキには、「金も総動員」と書かれている。

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●千代田区九段南にある昭和館の展示物は驚きだ。強度が必要であるはずの防護用のヘルメットが紙や竹材で作られ、鋳鉄製であるべきガスコンロが耐熱性の高い特殊な陶器で作られ、陶器製で代用されたアイロンは、その中に熱湯を入れて使用したという。

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扉の蝶つがいは、本来、鉄製や真鍮(しんちゅう)製などが多い中、何と木製で代用されているが、耐用年数に難があっただろう事は容易に想像できる。庶民は、金属供出した一方で、不可欠な日用品を鉄材以外の何らかの材質で工夫し製作したのだ。

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●金属類回収令は、昭和16年(1941)に公布され、昭和18年8月11日に全面改正されているが、、日中戦争や太平洋戦争下での金属資源不足を補うための勅令であった。勅令は、天皇が直接発する命令であり、かつては絶対的な強制法令であった。昭和20年には、回収対象にアルミニウムが追加されたが、同10月19日、「戦時法令の整理に関する件」が決定され、廃止されている。

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まさに、国家国民総動員が現実だったのだ。寺社仏閣の仏具には金属製のものが多くある訳で、当然それらは好対象であり例外ではなかった。沼口信一編著 「ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 川口」には、馬車に曳かれて今正に運ばれんとする梵鐘が写っている。川口市上青木の青木山専称寺(後42項)の銅鐘だが、後ろに見える、主が居なくなった鐘楼塔がやけに空しい。

金属供出

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その後、専称寺の梵鐘は戦争終了後も帰還せず、現在もその鐘楼塔は空き家のままだ。しかし鐘楼塔は、当時の部材はそのままで、その後化粧直しされている。この情景は、金属供出したという遣る瀬無い寺歴を伝え遺しているかのようだ。なおこの供出してしまった銅鐘は、「宝永元年(1704)6月 永瀬権右衛門勝之(後131項)」銘であったという。

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●滋賀県草津市にある真宗佛光寺派の真教寺の鐘楼塔に掛かるこの物体は、何であろうか。これは梵鐘の金属供出後に造られたコンクリート製の「梵鐘もどき」だ。鐘楼塔は、重量物が吊り下げられていてこそ安定する構造物だ。その倒壊防止のために、ここでは重りとして下げられたようだ。

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●栃木県栃木市万町の浄土宗、三級山天光院近龍寺には、花崗岩製(後11項)の梵鐘が置かれている。花崗岩は、大陸地殻を代表する深成岩石だが、堅牢で風雨に強く、磨くと光沢が出るという特徴があるから、墓石としても利用されている。石工がそれを使って、供出前の梵鐘をほぼ完璧に模して彫り出したようで、刻銘も詳細に再現されている。

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大きさは、高さ1.25m、口径は、Φ65cmほどだが、「高五尺(1.5m) 口径二尺五寸七分(78cm) 重量 五二二瓩(522kg)」と刻まれているから縮小版のようだ。通常108個という乳の数が100個しか無いのは、省略されているのだろう。

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一目見て違和感を感じるのが、蓮華紋の撞座(後8項)の位置だが、通常は、縦帯と中帯の交差点にあるのが一般的なのだ。「南無阿弥陀仏」と彫り出された裏側ではそうなっている。この位置の高さ方向の違いは、音色に影響するので重要だ。石工の彫り違いであろうか、本物を鋳造した鋳物師の意図的なものであろうか。しかし、この様な例は他に見受けられない。

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●鉄の吊り輪も備わっているので、一時は実際に懸垂されていたのだろうが、現役の銅鐘は、「昭和31年(1956)8月 鋳物師 高松市藤塚町 多田丈之助宗春」銘となっている。14代ほど続いた名門で、香川県高松市の多田鋳造所製(後15項)だ。

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石梵鐘にある刻銘を記しておこう。「昭和十八年(1943)十月二十七日 近龍寺 第二十六世鏡誉」とあるのは、供出した当時の情報だ。「供出價額 四百六十四円五十銭(464円50銭)」とあるので、無償では無く代価があった事が判る。

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そして「元禄十丁丑歳(1697)十月二十七日」、「鋳物師大工 野村惣兵衛 藤原久信」、「同名 六郎兵衛」という2人の名がある。親子兄弟であろうか。惣兵衛は、藤原姓(後13項)の名乗りからして、御用達鋳物師であったろうか。しかし、江戸末期の真継家傘下(後40項)の鋳物師の一覧表には、野村姓を名乗るものは1人もいない。いずれにしても、供出を惜しんで彫り出されたこの石梵鐘の存在は貴重だ。

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●さて、大きな鉄の天水桶はもちろん、鉄柵やチェーン、画像の狛犬も金属製であったのだろうか、「献納品」と掲げられてお国のために供出されている。寺社仏閣の仏具や法具は、重量物でもあり格好の餌食であった訳だが、画像はとある寺社の供出寸前の一場面だ。

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寺社にとって梵鐘は、資源物ではない。歴史であり教義であり、檀信徒の拠り所であるはずだが、しかし、お国のため赤たすきを掛けられ供出されたという。「応召」やら「出征」とこじ付けられ、戦意高揚の宣伝に利用されたのだ。とある村では近隣の銅鐘がかき集められ、最後に記念撮影をして別れを惜しんだようだ。

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●こちらも、とある一寺の供出場面のようで、檀家らは、正装して最後の記念撮影に臨んでいる。巨大な天水桶を中心に、香炉や梵鐘、小さな蝋燭台のようなものも見える。大小を問わず、全ての金属が対象だったのだ。それほど戦況がひっ迫してしたとも言えよう。

金属供出

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立派な梵鐘と最後の記念撮影だ。刻まれていたであろう銘文の写しは残されているのだろうか。何とも遣る瀬無く空しい限りで、今では想像さえできない写真だ。梵鐘はかなりの重量物であり、口径によっては1トンを超えるものもざらだ。昭和18年(1943)には、148トンもの金属が回収されたが、その内の半分以上の78万トンが一般家庭からの回収品であった。

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●銅鐘の表面には、ペンキで供出先の寺名などが書かれているようだが、この様な情景は現代でも見る事が出来る。軍部による事務的な書き込みだ。画像の台東区根岸の長久山永称寺(後21項)に掛かる梵鐘の表面には、「應(応)召鐘(後46項)」とペンキらしきもので書かれている。

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「召し出しに応じた鐘」であったが、ここのは戦後無事に返還された銅鐘であろうか。鐘身には陰刻文字があるが、故意に消された様な痕跡もあるようで、本来のここの鐘ではないのかも知れない。なお、この様にペンキ書きされた梵鐘は、後75項後129項後131項でも見ているのでご参照いただきたい。

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●次の画像は、各地から集められ、工場で潰される間際の銅鐘たちの状況だが、左右に見えるのは、それらを上げ下げするクレーンのフックだ。全国から集まった梵鐘の総数は、4万5千口(こう)にも及んだという。仏具法具には言い尽くせない檀信徒の願念が染み込んでいるはずだ、悲惨な光景であり残念でならない。

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当サイトでは、「金属供出」という言葉が頻出する。関東近辺の情報しか持ち合わせていないが、この数量からして勅令が全国区で徹底された事は明らかだ。戦後に鋳られた梵鐘の鐘身に、かつて供出した経緯の銘文が刻まれている例は実に多いのだ。

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●一方で、梵鐘や銅像は兵器や工業製品向けの材質としては不向きであった訳で、一部の彫刻家らは、効果薄を理由に回収の撤回を求めたと言うが、受け入れられるはずも無かった。大々的な国家挙げての施策としたために、非国民呼ばわりまでされたが、もはや撤回できなかったのだろう。

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回収に際しては、美術的な価値があるもの、慶長時代以前や地元の鋳物師作の梵鐘などは、1口(こう)に限り対象外であったが、軍国主義まっしぐらな時代背景は、それさえも容認せずであったという。実に悲しい事実だ。それさえ無ければ、年代物の梵鐘も天水桶も、今なお数多く残っていたに違いないのだ。なお供出はしたが、後年、元通りに返還された梵鐘などのエピソードについては、後110項にまとめてあるのでご参照いただきたい。

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●さてそんな中、なぜか供出を逃れた逸品に出会うことがある。不思議とうれしくなるものだが、画像をアップしてみよう。まずは、明治から昭和の評論家で、詩人の窪川鶴次郎の墓がある、港区赤坂の真宗大谷派道教寺だ。外周にある陽鋳文字をみると、「三河屋新兵エ 寄進」とあり、「安政三丙辰(ひのえたつ)秋」の年だから、1856年製、156年前だ。

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正面の「光闡山(こうせんざん)」がここの山号で、1基だけ存在するが作者不明の鋳鉄製の天水桶だ。1対であったろうが、もう片方には作者の銘があったかも知れない。あるいは、戦時に金属供出されてしまったのであろうか。樽型だが、特異なのは末広がりな形状である事で、通常最上部に位置する、最大口径であるはずの額縁部分が最下部にあるのだ。

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●これは間違えて、天地を逆さまにして鋳造してしまった感がある桶だ。鋳型製作時に、文字の上下を取り違えてしまい、型ばらしをして出てきた製品を見てビックリ、逆だ、だろうか。いくら何でも文字が上下逆じゃどうしようもない。次の画像の開口部は、鋳造時は閉じられていたはずだが、はつって開口させたと思わせる様な痕跡がある。

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あるいはこれは本来、掘り井戸の崩落を防ぐための井戸側(後64項後68項後81項後98項後101項後116項など)であったかも知れない。ならば、1基しか無い事や末広がり形状である事の説明はつくだろう。画像は、都内文京区本郷の東京都水道歴史館で見た井戸端の情景の模型。

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●千代田区平河町の平河天満宮(後10項後95項)は、文明10年(1478)、江戸城主太田道灌公(後89項)が城内に江戸の守護神として創建したという。天正18年(1590)、徳川家康が江戸入城後、本丸築造に当たり上平河村に奉遷している。

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さらに慶長11年(1606)、2代秀忠の時の江戸城増築に伴い現在地に奉遷されている。菅原道真公を祀っていて、現在も学問や医学芸能、商売繁盛の信仰が篤く、合格祈願の参拝者も多い。(境内掲示より)

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拝殿への階段の両脇に、下1/3ほどが土中に埋没してしまっている鋳鉄製の天水桶が1対ある。浮き出た文字は、「奉納 麹町平川町三町目 施主 三河屋弥吉 家内中」で、正面には梅紋と「山に弥」の三河屋の家紋が配されている。大きさは口径Φ1.080だが、実際の総高は判らない。

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●もう1基は、ほぼ半分が土の中で、見えている部分の高さは450ミリほどだ。「天保十五甲辰年十一月吉祥日」銘だから1844年製で、「御鋳物師 江戸深川 太田近江大椽(だいじょう)藤原正次」、通称釜六の作例だ。同鋳物師の人物や作例については、後々、項を重ねて解析してゆこうと思う。(後17項など)

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時を経ても鮮明な鋳出し文字だが、亀裂があって痛々しい。ここは昭和の戦災でほとんどの堂宇を焼失しているが、その際の損壊であろう。左下に「正樹龍眠」と見えるが、同人は、後29項後95項でも登場している。

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そこでは「正木」と名乗ってもいるが、安政3年(1856)に「小倉百首」を発刊した書家で、安政6年(1859)に73才で没している。これらの書体は正樹によるものだと考えられるが、現存し間近で見られるので貴重であり、文化財として保存管理されるべき1対だ。

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●少し境内を見てみるが、本殿に向かって左手前に平河稲荷神社(後10項)がある。創建や来歴は不明ながら、古くから平河天満宮の境内摂末社として祀られていたようだ。宇迦之御魂神を祭神とする稲荷社であるが、掲示板によれば、商売の神として崇められてきたという。毎年2月には初午祭、10月には平河稲荷神社例大祭が執り行われている。

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この一角に、やはり土中に埋没している天水桶が1基ある。地上の露出部分の高さは560ミリだが、口径はΦ1.020ミリであり、先の物より少しだけ小さい。同じく梅紋があるが、額縁には、羅紗紋様であろうか唐草模様であろうか、何らかの紋様がデザインされ廻っている。

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●見える鋳出し文字を記しておくと、「万延二年辛酉(1861)正月」、「や組 補助」、「加うじ町(麹町) 店中」だが、隠れた下半分に位置するのであろう鋳造者の銘は確認できない。先にも登場したが、もしかするとこれも本体の半分が土中に埋められる運命にある井戸側であるかも知れない。

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ほぼ全ての鋳出し文字が上部に集中している事や、下へ向けて末広がりである形状が、井戸側である事の証左なのだ。画像は、先にも掲載した都内文京区本郷の東京都水道歴史館で見た井戸端の情景の模型だが、かなり下膨れなのだ。

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●入り口には、平成6年(1994)4月に区の有形文化財に指定されている、高さ5mほどの銅鳥居がある。この鳥居は、天保年間(1830~)に刊行された「江戸名所図会」にも描かれている。銅製の扁額には「天満宮」と表示され、10個の梅紋が装飾されており、主柱には別鋳造された「麹町中」の金文字がある。

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ここ平河町のすぐ北側の町だが、そこの人々の奉納だ。「当山 現住 文海代」とあるが、どこかの寺の住職が世話人であったろうか。「福寿増長 災患消除 町々安全 商職繁昌」と陰刻されているが、これが主たる奉納理由だ。

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柱の裏側には、「天保十五申辰歳(1844)十二月吉祥日」と刻されているが、その下にある数個の穴は、戦時の空襲で受けた機銃掃射の傷跡だという。期せずして、戦争の凄まじさを生々しく今に伝える証人となっているが、穴から覗いている下地は、石だ。この鳥居は無垢の鋳造物ではなく、中身は石製で、銅板が巻き付いているのだが、あるいは、石の鳥居自体を鋳型の中子として鋳造したのだろうか。

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●「奉寄進 華表(かひょう) 再建 願主 四家某」と刻まれているので、元々の石製の鳥居を銅材で覆う事によって再造したようだ。画像の丸く囲っておいたボッチの部分は、固定するリベットのような役目をしているのだろう。

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華表は、中国の伝統的な建築様式に用いられる標柱だが、日本では鳥居を称する事もある。主柱は外径Φ430ミリだが、長さ70cmのものが縦に6本連なって構成されていて、最下部の脚には、四方に4体の獅子が座している。

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鋳造者の銘は、保護する金網に阻まれて読みにくいが、「御鋳物師 西村和泉 藤原政時作」と陰刻されている。この江戸鋳物師については、後89項後110項で登場し詳細に見ているのでそちらをご参照いただきたいが、西村家は、主に梵鐘造りの大家で、元禄期(1688~)から12代に亘って連綿と続いた鋳物師の家系であった。

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●また、江戸期に鋳られた、関東近郊に現存する銅製の鳥居は数少ないので、この後に登場する項を記しておこう。後45項では、「本庄市児玉町児玉・東石清水八幡神社 享保11年(1726)4月 野刕(栃木県)安蘇郡佐野天命住 御鋳物師 井上治兵衛 藤原重治 同太郎左衛門重友」、後65項では、「神奈川県伊勢原市大山・大山阿夫利神社 武江神田鍋町住 粉河市正宗信」。

 

後79項では、「文京区湯島3丁目・湯島天満宮 安政6年(1859)9月 鋳工 長谷川兵部正源良寿」、後94項では、「新宿区市谷八幡町・市谷亀岡八幡宮 文化元年(1804)12月 御鋳物師 西村和泉 藤原政平作」、後107項では、「日光市山内・日光二荒山神社 寛政11年(1799)9月 鋳物師 西村和泉(政寿)」。

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後110項では、「港区虎ノ門・金刀比羅宮 文政4年(1821)10月 江戸大門通角 伊勢屋長兵衛扱い 鋳工 土橋兵部作」と「埼玉県秩父市三峰・三峯神社 弘化2年(1845) 御鋳物師 西村和泉守 藤原政時作」。

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後129項では、「神奈川県藤沢市・江の島 文政4年(1821)3月再建 鋳物師 粉川市正 藤原國信作」と「同平塚市浅間町・平塚八幡宮 万延元年(1860)8月 江戸神田住 鋳物師 太田近江大掾 藤原正次」を見ている。

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●さて、「首切り山田浅右衛門」が奉納した天水桶があるのは、新宿区須賀町の法輪山勝興寺だ。浅右衛門は、江戸時代に御様御用(おためしごよう)として刀剣の試し斬り役を務めていた。実際に、罪人の体を使って切り刻んだという。山田家は浪人の身であり、幕府から知行を受け取る事は無く、最大の収入源は「死体」であった。

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処刑された罪人の死体は、同家が拝領する事を許されていて、刀の試し斬り用として使われ、その技術料を受け取っていたのだ。また、副収入として人間の肝臓や胆汁等を原料とし、労咳(結核)に効くといわれる丸薬を製造、「山田丸」、「浅右衛門丸」、「人胆丸」の商品名で販売され莫大な収入を得ていたという。何とも残忍な時代であったことか、今では想像すらできない。
 

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●緑青がはびこっているように見えるが、鋳鉄製の天水桶なので、そういう色の塗装だ。正面の寺紋は植物由来のものであろうが、判別し難い。湾曲具合や太めに強調された葉脈、そして葉のギザギザの様子からして、モクセイ科の常緑樹、「丸に抱き柊(ひいらぎ)」であろうか。

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また、この寺紋の金具は別鋳造されて固定されているが、経年の劣化で割れて損傷している。その割れ目から判るのは、無垢の鋳造物ではなく、肉厚5ミリほどの部品であるという事だ。

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●1対の大きさは、口径Φ1.050、高さは、900ミリで、鋳造銘は、川口の「鋳物師 岩田庄助(後35項など)」だ。文久期(1861)の「諸国鋳物師控帳」には名前が見えるが、諸書の鋳工の作品一覧にも、享保14年(1729)ごろから「岩田姓」が登場している。特に幕末から明治初期にかけては、鋳物師の中心的存在で、頭領格であった。

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昭和初期の川口商工便覧には、「明和年間(1764~)の鋳物師」として人物の紹介がされている。「現代の岩田幸作氏(後20項)の祖先である、初代庄助氏は天保3年(1832)、2代目は弘化3年(1846)、3代目は安政2年(1855)に没している。

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4代目幸作氏は、実兄甲斐蔵氏が、廃絶せしめた岩田家を盛り返した、いわゆる中興の祖となった人で、先代億之助氏を経て、現代の幸作氏に及んでいる」となっているが、作品一覧からして、初代の前の1世紀ほど前から活躍していた鋳物師であったようだ。

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●表面の鋳出し文字は、奉納理由を記しているので非常に興味深い。「天明7年(1787年)7月18日 山田朝右衛門吉昌出生」、「嘉永元年(1848年)7月18日 誕生日剃髪改 山田松翁」とある。吉昌は、一般に流布している「浅」ではなく、「朝」の字を使用していたようだ。

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この「剃髪改」とは一体、何であろうか。よく、この時代には、隠居と同時に出家して剃髪することがあったようだが、そういう事なのだろう。つまり、満62歳の誕生日の7月18日に隠居し、「山田松翁」と名乗ったのだ。

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●文献によると、吉昌(よしまさ)は6代目で、1787年生まれ、嘉永5年(1852)没とある。次の画像を見ると「于時(うじ=時は・後28項) 嘉永四辛亥年十月」の鋳出し文字が見られるが、没する前年の奉納ということになる。

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なお、安政の大獄(1858年)で吉田松陰を処刑したのは、7代目山田朝右衛門吉利だという。吉利の墓は、ここ勝興寺と港区白金の正源寺とにある。これは吉利が養子であり、遺言で葬式は勝興寺、屍は、実家の後藤家の菩提寺の正源寺としたためだ。一方、豊島区教育委員会では、画像の豊島区池袋の曹洞宗、瑞鳳山祥雲寺も墓所だとしているようだ。

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●都内文京区白山に、白山神社がある。天暦年間(947~)に、現本郷1丁目付近に創建されたと伝えられている。徳川4代将軍家綱の生母桂昌院の崇敬が篤く、元禄3年(1690)には、社領30石の御朱印状を拝していた。

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ここは、「白山」という地名の由来でもある神社だが、1対の鋳鉄製天水桶は、火消しの「万組」が奉納している。願主は、「頭取 五郎兵衛」だ。この組は、享保7年(1722)頃には、都内飯田町周辺を担当していて、人足 50人足らずの小さな組織であった。

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いろは組は、隅田川を境として西側の区域に組織されたもので、「へ」、「ら」、「ひ」、「ん」の4文字の組は、その語呂の悪さから「百」、「千」、「万」、「本」に変えられている。万組を画像を見ると、町火消の装束が描かれていて、纏(まとい)の図柄は、「籠目菊花」であった。(東京消防庁による)
万組纏

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桶の大きさは、口径Φ930、高さは830ミリだ。「鋳工 川口住 永瀬源内 藤原富廣 文政九丙戌年(1826)六月吉日」の建立で、この永瀬一族系統も川口市の名士であるが、当サイトでは、この後続々と登場する由緒ある鋳物師だ。詳細については、後14項などをご参照いただきたい。

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●さて、前項で全国区の鋳物師をご紹介申し上げると記述した。現代の鋳物師であるから、昭和平成時代の作品が多いが、2代目鈴木文吾だ。残念ながら、平成20年、2008年7月6日他界、86才であった。

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同氏の有名な功績と言えば、昭和33年(1958)に東京で開かれたアジア競技大会のために、東京都渋谷区神南の国立代々木競技場にある聖火台を製作したこと。この後、聖火台は昭和39年の東京五輪、平成10年の長野冬季五輪でも使われている。


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●出身地の川口市西青木の青木公園(後26項)では、そのレプリカ(後73項後132項)を間近に見ることができる。上部の直径が約Φ2.1メートル、底部はΦ90cm、高さ2.1メートル、重さ2.6トンの真っ黒なそれは、植木鉢形状で、正にそびえ立っている。下方へのすぼまりがシャープで、印象に残る鋳造物だ。

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表面の紋様は、炎か波をイメージしたものであろうか、リアルだ。レプリカと言うと、最近は強化プラスチック製のものが主流のようだが、これは材質も形状も、国立代々木競技場の聖火台と全く同じ鋳鉄製だ。後述のようにこれが、破裂して失敗した作品を、後日、鋳掛け(後72項)補修し直した本来の聖火台なのだ。

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●父子の姿が写る説明板も併設されている。聖火台設置の賛が綴られているが、「東京オリンピック聖火台レプリカ改修事業実行委員会」の寄贈で、書道家の宮澤静峰による謹書であった。

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昭和32年11月、寺社仏閣の天水桶などを手がけていた文吾の父、萬之助の元に「東京オリンピックの招致を狙って開催されるアジア競技大会に合わせ、聖火台を製作してほしい」と依頼が舞い込んだのだ。同氏は、上野の西郷隆盛像(後100項)つくりにも参加した名鋳物師だ。後97項

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●当時、回し型を回転させながら外型や中子型を作り出す、惣型法の技能継承者は少なかったという。外型の内側に直接模様や文字を彫り、レンガ状に焼き固め、その内部に中子型をはめ溶鉄湯を流し込んで成型する訳で、個性的な一品料理向きであるが、量産には適さないのだ。

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しかし、数ケ月もの段取り後の昭和33年(1958)2月14日、1回目の鋳造は破裂し、失敗に終わっている。鋳型を囲っていた金枠の固定法が弱く、湯の圧力に耐えられずタガが外れ、湯が漏れ出してしまったのだ。事の重大さにショックを受けた萬之助は、過労で持病のぜん息が悪化し寝込んでしまい、同23日に亡くなっている。

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●後継者の文吾は、昼夜を問わず再挑戦、兄らの力を借りて期日までに無事完成させている。父の葬儀にも参列せず、出棺ぐらい立ち合えよと言われ急いだが、間に合わなかったという。鋳型への溶解した湯入れの前には、家族全員が仏前で祈り、文吾は水で身を清めている。破裂以来1ケ月ほど後の3月15日のことであったが、切羽詰まった突貫作業であった。

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鋳型をばらすと、威風堂々たる聖火台がそこにあったというが、その感激たるや、我々の想像を絶するものであったろう。萬之助の妻のはなをはじめ、皆が大声で万歳を連呼したという。奇しくもこの日は初午祭りの前夜祭の宵宮で、太鼓の音が夜空に響いていたが、完成の祝砲でもあったと後日に述べている。

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聖火台横のフタの内側には、「鈴萬(鈴木萬之助)」銘の角印が刻まれている。文吾が、師匠萬之助の名誉を、命を賭して守り抜いた証明書だ。このエピソードは、川口市の小中学校の道徳の教科書にも紹介されているという。掲載は文吾が生前の事であったが、存命中に名が載るのは稀であろう。なお、聖火台に関しては、後71項後132項などもご参照いただきたい。

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●では早速、鈴木文吾作の天水桶をアップしてみよう。まずは、3枚の絵馬で高名な、川口市八幡木の八幡神社。掲示板によれば、縦126、横163cmの「武者絵図」は、宝暦11年(1761)に中居村上新田の惣若者中から奉納された、鳩ケ谷地区最古の絵馬だ。

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「祭礼絵図」は嘉永7年(1854)の奉納で、山車の上では囃子が奏されていて、祭りの様子が生き生きと描かれている。「曳き馬絵図」は慶応3年(1867)の奉納で、ガラスに直接彩色を施す大変貴重なものという。

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●天水桶の裏面には、「昭和の初期に奉納された天水桶は、戦時に金属供出され、その後復元された」旨の説明がされている。奉納者は、「川口市幸町 (株)大熊商店 大熊三郎 大熊不二(後5項)」らだ。

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1対の鋳鉄製の天水桶は、「昭和47年(1972)9月吉日」の奉納で、「設計者 山下誠一 鋳物師 鈴木文吾」銘であった。大きさは口径Φ98cm、高さは1mだ。

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●次は、富士塚もある川口市青木の鎮守様、氷川神社だ。埼玉県神社庁の埼玉の神社によれば、「勧請年代は明らかではないが、見沼を神沼とする大宮氷川神社(後20項)の祭祀圏の中にあり、現存する棟札などの造営史料から、室町期には足立郡芝郷青木村の惣鎮守として広く崇敬を集めていたことがわかる」という。夫婦神として、櫛稲田姫命を主祭神として祀っているが、境内の御神木は、2本の椋が根本で1つに結ばれていることから縁結びの「夫婦椋」として崇められている。

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社殿よりこっちの天水桶が主役ではないのか、大きさは口径Φ98cm、高さは1mだが、目立つ存在だ。同じく、「設計者 山下誠一 鋳物師 鈴木文吾」銘であったが、「濱長工業(株)」とも鋳出されていて、そこで間借りして鋳造されたのが判る。同社は、後5項など数項でも登場しているのでご覧いただきたい。

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1対の鋳鉄製天水桶は、「昭和61年(1986)3月吉日」の造立であった。同年5月25日には、氏子崇敬者の奉賛により「新社殿御造営大事業」が成されているが、それを記念しての奉納であろうか。

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●最後は、川口市本町の宝珠山錫杖寺(後53項)で、天平12年(740)、行基菩薩が光明皇后の病気平癒祈願のため当地を訪れ、草庵を結んだという。後の元和8年(1622)、2代将軍徳川秀忠が日光社参の折、御休息所となって以来吉例となり、徳川家と深い関わりを持つ事になった寺だ。

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3代家光の時にはここで昼食をとり、朱印状20石を拝し、以後の代替わり毎に書き換えられている。4代家綱は自身の病気平癒祈願の命を下し、8代吉宗も鷹狩りの際、しばしば同寺を訪れている。嘉永5年(1852)の川口の大火では、尊像は無事ながら諸伽藍を焼失しているが、13代家定は品川御殿山の館を移し、再興を命じている。

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●ここの1対の天水桶は青銅製で、昭和50年(1975)に再建された本堂の2階に置かれている。「平成三年辛未(かのとひつじ、しんきんのひつじ、しんび・1991)十二月吉日」の奉納であったが、使用を許された葵の御紋が誇らしく、ハスの花弁形で、葉脈までクッキリ見て取れる。

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鋳造銘は、その葉脈を寸断させながら鋳出されているが、「錫杖寺 第三十六世 俊則代」の時世で、「鋳物師 鈴木文吾 謹造」であった。本体の大きさは、口径Φ1.2m、高さは1mとなっている。

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両基の裏側には、多くの奉納者名が刻まれている。歴代市長、有力な鋳物工場主らと並んで、「朝日三(丁目) 瀧山 登」とあるが、江戸城大奥の最後の御年寄、瀧山のご子孫の方であろう。現在の瀧山家のご当主は川口市在住で、5代目の瀧山宣弘氏だ。同家には、瀧山が拝んでいたであろう本尊様が仏壇に祀られているが、その扉には、葵のご紋が刻まれているという。

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●御年寄の瀧山は、13代家定、14代家茂、15代慶喜の3代に亘って仕え、大政奉還の時には250人の奥女中に拝領物を与え、大奥最後の締めくくりを行っている。仕えていた侍女の仲野を頼り、江戸城から「瀧山の駕籠」で川口市朝日町へ来ているが、その駕籠は今も錫杖寺に保存されていて、その中には、本人のものとされる草鞋が遺っているという。

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瀧山は、文化2年(1805)生まれで、14才で大奥に上がり、明治9年(1876)1月14日に行年71才で没している。幼名は多喜とも言われ、勝海舟の母・信の従姉妹でもあったという。墓碑には、「瀧音院殿響誉松月祐山法尼」とおくられている。その裏には、「東京府士族 東京南伊賀町住 七代目主 大岡権左衛門長女 徳川家大奥老女 俗称滝山」とある。

川口・錫丈寺

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●なお余談ながら、ここ錫杖寺には、一風変わったお墓があったという。この古写真は、昭和の半ばごろの撮影らしいが、基台、昇降階段、鉄柵の全てが、鋳鉄製だというのだ。鉄の墓碑には、「上条家累代之墓」とある。今は現存しないようだが、鋳物の街、川口ならではの墓ではないか。

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この様に川口鋳物師、鈴木文吾は、昭和中期から平成にかけての鋳物師であったが、まだ多くの作例があるので次項もアップしよう。また文吾に関しては、後58項後71項後115項後122項など多くの項でも登場しているので、ご参照いただきたい。つづく。