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●東京メトロ南北線の川口元郷駅の地下通路の壁に、金属プレートがはめ込んである。川口市(後100項)の地場産業である鋳造の作業風景をアニメチックに表現しているのだが、説明文を読んでみよう。

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最初のタイトルは、『川砂・粘土の採取 ~荒川や芝川で鋳型の製品に適した砂や粘土が産出した。』 草創期には取り放題だった砂も、やがて河川改修工事のため自由採取という訳にはいかなくなった。すると船で川底をさらって採取するという商売が、明治時代末に始まったという。

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『鍋釜の鋳型作り ~板を回転させて鋳型をつくる。挽き型(ひきがた)技法(前33項)と呼ばれる。』 コンパスで円を描くイメージだが、梵鐘や天水桶など丸形状の砂型はこうして作られた。

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●『わりや ~製品となった鋳物製品を再利用するため溶解炉にはいる大きさに割る。』 判りづらい説明だが、鋳損じた、つまり割れてしまったなど、鋳造に失敗した製品をまた素材として利用すべくハンマーで細かくする、という意味だろう。また、湯口や湯道、セキ(堰)は返り材とも呼ばれ再利用されている。

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次の画像は、溶湯の注ぎ口である漏斗状の受け口と細長い湯口だが、受け口は、ノロとも呼ばれる不純物、カスの湯溜りでもある。ここでカスが鋳型に流れ込まないように溜め込む訳だ。受け口は湯口につながり、その先、画像の右先に湯道とセキが連なっている。セキは、製品の鋳型に入る直前の部分だ。これらは製品ではないため、細かく割られ、再び原材料として利用されるのだ。

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●『たたらふみ ~足踏み式の大型フイゴ(たたら)で溶解炉に風をおくる。』 鞴(ふいご)とも呼ばれ、吹子とも表記されるが、特に、大勢の人力が足踏式で風力を作り出す装置を「たたら」と呼ぶようだ。大物の鋳造ともなると、日の出から連続で交代しながら送風、溶解し、日暮れになってやっと型へ湯入れをした。

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この作業者は「番子衆」と呼ばれ、交代要員として休憩待機する作業者を「替わり番子」と呼んだ。「かわりばんこで運転しようよ」などと常用されるが、ここからきていると言う。また、たたらを「高殿」と称する文献も散見できるが、これは、山の斜面に炉を置き、谷間からの天然の風の上昇気流を利用して送風加熱していた事による。人力ではなく、自然力だ。

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『こしき溶解 ~伝統的に使われてきた溶解炉。白石炭と銑鉄を交互に入れて溶解する。』 当初は、耐火性のある土砂で壺形状に成型し、外回りには鋼鉄のタガを巡らして補強していた。いわゆるレンガ炉だ。

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●『鍋釜小物の鋳込み ~溶けた鉄を「湯」と呼び、鋳型に流し込む作業を「湯入れ」と言う。』 絵では、取鍋(とりべ)と呼ばれる柄杓で湯を注いでいる。湯は千1.470℃にも達するというからかなり危険な作業だ。

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『大物の鋳込み ~大型の鋳物は、炉から直接樋で「湯」を流し込む。』 湯入れ速度は、迅速でなければならない。のんびり柄杓ですくって注いでいる場合ではない。現在の大物鋳造でも湯口が何カ所か設けられ、注湯時間は、同時で一瞬だという。

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次の画像は、「川口鋳物の歴史(平成22年・2010年8月)」の表紙からの転載だ。この資料は、川口鋳物工業(協)創立105周年と第5回「川口鋳物の日」記念として出版されているが、現代の湯入れ作業の様子だ。火花が飛び交う豪壮な光景だが、中央で放物線を描いているオレンジ色の流れが、今まさに鋳型に注がれている溶湯だ。

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●最後は、『仕上げ ~出来た製品のバリを取り、表面(鋳肌)をきれいにしあげる。』で、納入前の最終段階だ。特に砂型の合わせ面からどうしてもはみ出てしまうバリは厄介で、これをそのまま残しておく訳にはいかないのだ。

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この後、製品によっては、刷毛で漆を塗るなどの着色をしたり、900℃ほどの炭火で焼き、サビ止めの酸化被膜を作る釜焼きをしたりする工程もある。これらは、鋳造工程を垣間見れる川口市ならではの金属プレートであった。

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●ところで江戸時代の職人の給料とは如何ほどであったのだろうか。その前に、江戸時代後期の164種もの職種が書かれた「諸職人大番附」を見てみよう。右端の欄外には「江戸之花 鳶の者」、「別物 神田 纏屋(まといや)」、「うなぎさき(鰻裂き) あんまはり(按摩張り)」とある。

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当時ならではの面白い趣向の番付表だ。東西の横綱相当の大関には「番匠大工」と「刀鍛冶」、関脇には「壁塗左官」と「屋根葺き」、小結には「舟大工」と「橋大工」が挙げられている。

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前頭には「たたみ師 乗物屋 立具師 桶大工 指物屋」などが見えるが、家屋に関するものや木材を扱う職種が大半で、東の前頭7枚目に、やっと金属を取り扱う「鋳物師」が登場している。家大工は多くの職工を統括するが、今でも大工は、他の職種を「下職(したじょく)」と言うように、1つの建屋を完成させる頭領格でもあった。

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●では、鋳物師職人の給料についての史料は中々見つからないので、大工職人について見てみよう。19世紀初頭の栗原柳庵の「文政年間漫録」には上級大工の収支が記載されている。それによれば、収入である手間賃は、1日で飯料込みで銀5匁4分だから、月に25日働けば、月収135匁だ。元禄期(1688~)以降の幕府の公定相場では、1匁が銭100文ほどだ。現代との比定には多少無理があるが、1文を25円とすれば、月収は¥337.500円となる。

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一方、夫婦と子供1人所帯の支出は、大ざっぱに家賃が10匁、食費は30匁、その他としては、酒、味噌、薪炭など58匁、衣類、交際費、道具代が30匁で、合計128匁となっている。外にも湯屋にも行くだろうし、子供の小遣いなどの出費もあったろうから、ギリギリの生活であったろう。上下の浮世絵は、葛飾北斎の「富嶽三十六景」の中の「遠江山中」、「本所立川」で、木挽き職人の作業の様子だ。

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大工職は、雨天では休みだ。米代が高騰した時もあったろうし、病気にもなったろう。妻は家計を助けるために、内職もしたし女中として手伝いもしただろうが、これでは、貯蓄もままならなかったはずだ。江戸っ子は、よく、「宵越しの金は持たない」という。しかし実態は、「持ちたくても持てない」に近かったのかも知れない。次の浮世絵は、同じく46図の「尾州不二見原」で、大きな木桶を作る職人の姿だ。

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●さて前72項に引き続いて、川口鋳物師・鈴木文吾が手掛けた聖火台(後132項など)に関して考察していくが、渋谷区神南の国立代々木競技場のそれは五輪の象徴であったので、マスコット的な製品も多く作られたようだ。川口市内の、(株)川口工芸社も手掛けたという文献も散見できるが、この灰皿のような物であろうか。

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こちらは後年の追記で、画像のオブジェは、「東京1964聖火台レプリカ(オリンピックヘリテージ)」だが、ヘリテージとは、「遺産  継承物 伝統」という意味だ。令和3年(2021)に、川口鋳物工業(協)と川口木型工業(協)の協力を得て製作されたという限定500個のミニチュア版だ。

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競技に参加する各大陸の民族や人々を意味するという横線のリングや、波紋が浮き立つ大海原を俯瞰したような紋様も緻密に表現されている。私が所持するのはナンバリング「382/500」だが、鋳造は、川口市本蓮の(有)岩宗鋳造所、代表は荻山孝夫だ。同社は、2トンのキュポラ(前68項後81項など)を設備し、月産能力は最大80トンだという。

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●高さは105ミリ、最大口径は110ミリで、20分の1のサイズであるとこの説明書きにあるから、本物は2.1mの高さで、口径Φ2.2mとなる。製作者が精査しているはずだから間違いのないサイズであろうが、ただ、ウィキペディアや前3項などで記した諸資料を見ると、口径は2.1mとなっている。

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これはレプリカであるから、下すぼまりのシャープさを強調するために、多少アレンジされたのかも知れない。次の画像の物は、ナンバリング「000/500」で、川口キャスティー内にあるが、この番号は、岩宗さんらも所持しているので、「000」は数個存在する。因みに「001」は川口市長だ。(前71項後115項参照)

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●では聖火台が教育現場で利用されている様子を見てみよう。まずは、川口市榛松(はえまつ)にある榛松中学校。ホムペによれば、昭和53年(1978)に市立東中学校より分離し開校しているが、川口市教育大綱の「一人ひとりが輝く、しなやかさとたくましさをそなえた人材を育てる」にのっとり運営されている。校庭の片隅に聖火台が置かれているが、左側にある茶色の石碑には、「より速く より高く より美しく」とある。

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職員室に声がけして撮影させていただいたが、聖火台は、平成元年(1989)の設置だ。外周には、「心技体」と鋳出されているが、選書は、第3代校長の「倉林 隆」氏で、この石碑も手掛けている。この聖火台の大きさは、本物の2分の1の大きさになっているというから、高さ1.05m、口径はΦ1.1mだろう。

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鋳出し文字は、「贈 為 榛松中学校 祈念 健康安全 平成元年(1989)三月吉日」で、鈴木文吾(前3項)に依頼して鋳造されている。体育祭などの行事ごとに点火されているようだが、’20東京五輪の開催が決定した時にも、点火して祝福したという。

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●続いても、同じく川口市東領家にある、市立元郷中学校だ。昭和23年(1948)に開校されていて、初代校長は原誠助であったが、現在は、21代目を数えている。聖火台の近くにある石碑は、昭和38年(1963)に設置された「財団法人日本学校体育研究連合会」からの表彰状であるが、指導が前向きであることを褒めている。

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同校のシンボルであるこの聖火台は、昭和33年(1958)に創立10周年を記念して設置されているが、本物と同年の製作だ。毎年の体育祭では聖火ランナーが火入れをして盛り上げているという。やはり、本物の2分の1であるが、当時のPTA関係者により寄贈されている。鋳造所は市内の浜長工業(株)だが、当然、文吾の技術指導を受けている。真黒に塗装されているが、外周には何の鋳出し文字も見られない。

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因みに、浜長工業(株)製作の現存の天水桶は、1ケ所だけ確認できている。前5項でアップ済みだが、川口市末広の金剛山吉祥寺で、「製作 浜長工業(株) 鋳造 和田昇三 昭和62年(1987)3月吉日」であった。文吾の工場は手狭であったので、間借りをして鋳造しているが、場所提供者として浜長の名を鋳出した天水桶には何度か出会っている。

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●この元郷中学校は、藤の花が見事だという。聖火台設置と同時に制定された校歌には2つのシンボル「藤の花と聖火台」が歌い込まれている。「服部嘉香 作詞  芥川也寸志 作曲」であるが、歌詞を見ておこう。永遠に歌い継がれるだろうと考えると、聖火台の存在意義が一層重厚に思えてくるではないか。

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1  藤の花ぶさ 友情の かげ濃き所 我らあり

   希望は明るし聖火台 若き瞳は輝くよ

   たえず学びて日に新しく 正しき道を開きゆかん

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2  郷土の誇り 産業の 花咲く所 我ら住む

   協和と感謝を目ざしつつ 若き血潮は高鳴るよ

   清く楽しく日に健やかに 誠をつくし励みゆかん

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3  世界は招く明日の日の 日本の使命 我ら知る

   文化と平和を築くべく 若き力をたくわえん

   よき師よき友この幸せ 個性を生かし進みゆかん

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[コーダ]  いざ 今日もいざ 緑の並木の香りを浴びて

       入りゆく 我らの真理の門

       歌声あげん 我らの窓 高らかにたたえばや

       稲穂のほまれ 我らが元郷中学校

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●もう1ケ所は、埼玉県秩父市の大滝小中学校に現存する。かつて大滝村は、埼玉県の最西端に位置していた村であったが、平成17年(2005)年4月1日に、秩父市と吉田町、荒川村と合併し新たに秩父市となっている。

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秩父山地の主脈を村域とし、97%が山林であったが、村内には標高2千メートル級の山々が12峰も連なり、そこから荒川が流れ出しているので、「荒川の源流郷」でもある。同校のホムぺを見ると物悲しい。少子化のため閉校が決まっているようで、カウントダウンがなされているのだ。もう1年を切っている。

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●サイトを見ると、設置までの経緯の説明もなされているが、聖火台という呼称ではなくて、「炬火台」と称されている。「炬火」を辞書から引くと、「きょか」や「こか」とも発音するようだ。「炬燵(こたつ)」の「こ」だ。

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意味は、「松明(たいまつ)の火。また、かがり火。炬燭(きょしょく)。」で、「炬」は、かかげる火の意。 薪を束ねて立てて火を点じ灯火とするもの、となっている。デザインは国立代々木競技場の聖火台とほぼ同じで、ミニチュアというが、大きさもかなり近しいと思われる。

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●「昭和40年(1965)当時、(埼玉県秩父市三峰の)三峯神社(前44項後110項)の会計であった山口弥六氏と(株)興亜社社長、大村寿郎氏(栃本の関所)の取り計らいで、炬火台が興亜社より、そして、基礎の土台を三峯神社から寄贈された。炬火台の形やデザインは、前年に開催された東京オリンピックの聖火台(国立競技場設置)のミニチュアである」という。

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銘板を見ると、「(株)弘亜社」が正しいようで、「昭和40年(1965)9月」の造立となっている。製作者としては、「(株)川口工芸社」と鋳出されている。上述したマスコット的な灰皿のメーカーだが、意匠やノウハウのこともあろうから、文吾も関わっていただろうと想像できる。学校のホムペには、今日ここに至るまでの使用状況も明記されているので、次に転記させていただこう。

秩父・大滝中学校

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●「昭和39年(1964)10月 東京オリンピック開催

昭和40年9月 炬火台完成(校庭 松の木の横に設置)
同10月 大滝村民体育祭で初めて点火(以降、昭和62年まで体育祭で点火される)

昭和42年10月 埼玉国体(清新国体)が開催され、三峯神社で採火された炬火が、大中生によりリレーされ炬火台に点火される

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昭和55年(1980)3月 校庭拡張工事に伴い、現在の場所に移設

昭和62年(1987)10月 大滝中学校会場での最後の村民体育祭(炬火点火)
昭和63年 神庭グラウンド会場での村民体育祭~平成10年 (平成10年「健康・元気まつり」に改称)

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平成9年(1997)9月 大滝中学校体育祭で最後の炬火台点火

平成11年 村民体育祭再び大滝中学校に会場が移る(炬火点火なし)

~平成22年 (平成17年秩父市に合併)
平成24年(2012)9月 大滝小・中学校合同運動会で15年ぶりに炬火台へ点火」となっている。

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翌平成25年(2013)9月14日には、’20の東京五輪の開催も祝して最後の運動会が開催され、それが最後の点火になったようで、メディアの取材も入っている。閉校後の炬火台の行方が気になるところだが、廃棄などという最悪の事態だけは避けていただきたいものだ。これらの3例は生きた教材であり、本家の国立代々木競技場の聖火台とともに、川口市の誇り高きレガシーとして、永遠に受け継いで欲しいと願わずにはいられない。

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●ここからは、後年の追記だ。年号が改まった令和3年(2021)10月、JR埼京線の戸田公園駅前に鋳鉄製の聖火台のモニュメントが登場している。「ボートのまち 戸田」を謳う戸田市(前72項)では、「未来へつなぐプロジェクト」として「埼玉県ふるさと創造資金」の補助を受けこれを造立しているが、大きさと高さは、共に直径1.4m、下部は60cm、重さは約1トンという。

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川口鋳物ニュースによれば、戸田ボートコースの聖火台(前72項)と同様に、逆円錐台の胴部に計22本の横線と波模様があしらわれている。1年前には完成していたが、コロナ禍の影響による五輪開催の延期もあって、倉庫で保管されていたようだ。製造にあたっては、(株)モリチュウ(後130項)が設計・製作管理、永井機械鋳造(株)が鋳造管理、富和鋳造(株)(後82項後130項)が鋳造をそれぞれ手掛けているが、製作費は1千万円という。

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●これは、昭和39年(1964)開催の東京オリンピックの聖火台と同じデザインであり、令和3年6月3日(木)に戸田市役所前でお披露目され、その後この駅前に本設置されている。東京2020オリンピック・パラリンピックの開催に先立って、令和3年7月6日(火)には、聖火リレーが戸田市を通過しているが、その記憶を留めようという訳だ。

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台座にある説明書きによれば、『市内在住の小学生と中学生がこのモニュメントに、20年後の自分に宛てた手紙「未来の君へ想いをつなぐメッセージ」を投函しました。子どもたちがモニュメントに託したメッセージは、2041年の自分へ届き、想いは未来へと継承されます。』となっている。市内の学生らは総勢1万2千人弱だが、皆がその日を待ち望んでいるに違いない。つづく。