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●前項では、現役を退き、水が溜まるのを防ぐために、逆さに置かれている天水桶たちを紹介した。悲しいかな、いずれ朽ち果てるのを待っているのだ。過去にも、江東区三好の祥雲山善徳寺の釜六製(前17項)、足立区関原の関原山不動院大聖寺の永瀬源内製(前14項)の引退桶もアップしてきたが、いずれも欠損や損壊でもう使えない。ではさらに、2例を見てみよう。



文京区向丘の曹洞宗金峰山高林寺には、大坂に適塾を開き天然痘治療に貢献した、日本近代医学の祖と言われる緒方洪庵の墓があり、同区の指定史跡だ。この塾からは、大村益次郎や橋本左内、福沢諭吉らを輩出した事で知られるが、ここにも引退した天水桶がある。

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鋳鉄製の1基の桶は、信徒会館の庭の中にあると言うので、案内をいただいた。下側の3分の1が埋没していて、大きく「高」の文字が見えるが、「高林寺」の一部に違いない。

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●かろうじて「武州川口住 鋳工 増・・」まで読める。川口市の鋳工史研究家、増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」によれば、「慶応二丙寅年(1866)十二月吉日 増田金太郎」作となっている。彼の調査時には、すべてを読み取れたのであろう。人物については、前2項後107項などをご参照いただきたい。

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平成11年(1999)の川口大百科事典の記録はもう少し詳細fで、「口径89.5cm、高さ73.8cm」となっている。埋没している鋳物師の肩書は、「武州川口住 鋳工」だ。致命的にひどいサビではない、まだ間に合う。手入れをすれば生き長らえる桶だろう。願念のこもった檀家の寄進物なのだ、救いの手を待っているような気がしてならない。

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●ここのはもう駄目だ、助けようがない。墨田区向島、隅田公園近くの牛島神社で、かつては牛御前社と称されていたという本所地区の総鎮守だ。縁起によれば、貞観年間(859~79)の頃、慈覚大師が一草庵で須佐之男命の権現である老翁に会い、「師わがために一宇の社を建立せよ、若し国土に騒乱あらば、首に牛頭を戴き、悪魔降伏の形相を現わし、天下安全の守護たらん」との託宣により建立したという。

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撫牛は区登録の文化財だが、説明板には次のように書かれている。「撫牛の風習は、江戸時代から知られていました。自分の体の悪い部分をなで、牛の同じところをなでると病気がなおるというものです。牛島神社の撫牛は体だけではなく、心も治るというご利益があると信じられています。

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この牛の像は、文政8年(1815)ごろ奉納されたといわれ、それ以前は牛型の自然石だったようです。」2世紀もの長きに亘って、崇拝者によって撫で続けられた、テカテカに光ったお牛様なのだ。


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存在感がある堂宇前の現役の天水桶は、「昭和32年(1957)9月」に「牛島講」が奉納した大きなコンクリート製だ。大きさは口径Φ1.3m、高さは1.22m、台座の高さは30cmとなっている。この年には「鎮座壱千壱百年(1.100年)祭」が執り行われ、境内整備もなされたようで、それを記念する石碑も立っている。

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●宮司さんにご案内いただいたのだが、拝殿に向かって右奥にある1基の鋳鉄製天水桶は、ボロボロになって崩れ落ち、上半分は原型をとどめていない。先の川口大百科事典によれば、「大きさは口径90.5cm、高さ75cm」と記録されているが、今は半分の高さしかない。

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左側には、「丁亥年」という鋳出し文字が辛うじて読み取れる。「丁亥(ひのとい)」は干支の1つで、十干の「丁」と十二支の「亥」の組み合わせの24番目だ。西暦年を60で割って27が余る年が「丁亥」の年となる。

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60年周期で廻りくるこの組み合わせは、天水桶奉納という慣習の芽生え始めを考えると、1827年、文政10年だ。因みに前回は1767年(明和4年)、この後は1887年(明治20年)だ。事典の記録の「文政十丁亥年(1827)二月吉日」と合致する。


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●左奥のもう1基もほぼ限界に近く、苔がサビを促進しているが、崩壊も間近だろう。正面に見える文字は何と鋳出されていたのだろうか。先の事典には、苔むす前のもう少し判りやすい白黒写真がある。

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見ると「陸尺屋鋪(ろくしゃくやしき)」と読める。「陸尺」は、駕籠舁(かごかき)や掃除夫、下男などの雑役人を言うが、この場合は、駕籠担ぎの人々の事だろうか。あるいは、「屋鋪(後61項)」は「屋敷」で長屋の事だが、神社の近くに住まわった雑用係りの人達の奉納であろうか。


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辛うじて「文政」らしき文字が読めるが、鋳造者銘は判読不能だ。事典には、「文政十丁亥年(1827)二月吉日 川口住 (永瀬)源内(前14項)」作とあった訳だが、現物での確認はほぼ不可能だ。因みに、早めにリニューアルすれば、後79項で見るような天水桶達のように魂を注入されたかのように立派に甦ったはずなのだが、残念だ。

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●ところで過去の前9項で記述したが、逆さになっているからこそ判った事がある。なぜ底面が球状になっているのか。その時は、「この方が設置した時に、安定するのか」などと述べた。多くの天水桶の底面は、明らかに凸球形状だ。

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そうではなかった安定性の問題じゃない、鋳造方法からして球状になるのだ。鋳造の際、天水桶は逆さまの状態で注湯されるのだ。下の画像は、天水桶の砂型を作る時の様子を模型にしてあらわしたものだ。

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挽き型(引き型)とか廻し型とか言われる、画像のような断面形の平板型を、コンパスを廻す要領でグルグル廻し、桶の外側の形状の砂型、外型を造るのだ。従って、この方法では、丸い形状の物しか造れない。

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●次にその中に砂を詰めて取り出し、桶の肉厚分をそぎ取って中子(なかご)とするのだ。そしてその中子を逆さにして、その上に先ほどの外型をかぶせる。こうして外型と中子との間に隙間ができる訳だが、それが欲しい製品形状ということになる。そして真上に注湯口の穴をあけ、そこから溶けた金属の湯を注ぐのである。冷えて固まったら砂型を破壊して中の製品を取り出すという段取りだ。


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しかし、あえて底面を凸R状にしなくてもいいではないのか。そうはいかない。注がれた湯は、凝固中にガスを発生するのだ。上昇してくるガスを凸R状にする事によって一点に集中させ、排出しなければならないのだ。だから底面は凸球形状なのだ。これは、丸くても四角でも同じで、どうしても必要な丸みなのである。画像は、前32項で見た江東区亀戸の亀戸天神社の、逆さに置かれていた天水桶だ。

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天水桶を受ける台座の方であるが、下の画像のようにR球状になっていて、安定良く設置できるようになっている。画像の台座の主は戦時中に金属供出してしまったのだろう、肝心な桶はもう無い。

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●では、最近見た青銅製の天水桶を3例見てみるが、一風変わった意匠の桶ばかりだ。まずは、上尾市原市の曹洞宗龍渕山妙厳寺。掲示説明を要約すれば、市指定の文化財、「西尾隠岐守一族累代の墓」があり、初代吉次が所持していたといわれる鞍と鐙(あぶみ)、「永楽通宝紋鞍」は県指定の文化財となっている。

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鞍は、長らく所在不明であったが、昭和60年(1985)に薬師堂解体の際、発見されている。黒漆塗りで、「永正弐年(1505)十月吉日」の年紀と花押の線刻がある。前輪と後輪に織田信長の旗印である永楽通宝紋の金蒔絵が施されており、西尾家の家譜には、吉次が仕えた信長から鞍を賜ったとの記載がある。

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堂宇には、睨みを利かせた立派な鬼瓦が上がっている。厄除けを目的としているというが、役目を完遂しそうな、邪悪を寄せ付けない面構えだ。

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●青銅製の天水桶1対は、「昭和62年4月吉日 株式会社メモリアルアートの大野屋 大澤伸光」の奉納だ。「お墓・お葬式・お仏壇のことなら何なりと」と謳う同社は、昭和14年(1939)に、創業者大澤良丈が多磨霊園裏門前に石材店「大野屋」を開業したことに始まっている。

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ハスの花弁が天に向かって大きく咲き、開放感一杯の1対だ。紋章は独特で、呼称が判らない。葉先の尖りが無いので「三つ柏」でもなく、葉脈の表現が明らかに違うから「三つ蔦」でもなさそうで、不明だ。

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●次は、中野区上高田の日照山東光寺。開山は法印秀範和尚で、明暦2年(1656)12月に入滅しているので、江戸時代初期の創建という。豊島八十八ケ所霊場の87番札所だが、これは、旧豊島郡にある弘法大師ゆかりの88ケ所を参詣する霊場巡りだ。

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青銅製の1対の桶は、コーヒーカップを連想させるようなデザインで、先端が丸い脚3本がこれを支えている。「昭和三十四年(1959)拾月吉祥日 11世 浄賢代」に「本堂再建記念」として奉納されているが、ここの建築物は、昭和の戦禍で全てを失っている。寺紋は、「丸に三つ柏」だ。

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●続いては、大田区久が原の日蓮宗法寿山本光寺。「池上の寺めぐり」によれば、慶長2年(1597)、池上本門寺12世の仏乗院日惺聖人の弟子、十乗院日能聖人(慶長14年没)が開創している。七面堂には、元禄12年(1699)5月に、紀州徳川家から寄進された七面天女像が安置されている。この像は、元禄の頃より盛んになった、末法の法華信仰の守護神だという。

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青銅製の1対は、先の日照山東光寺とほぼ同じデザインで、大きさは口径Φ920、高さは960ミリだが、後51項の足立区綾瀬の宝珠山薬師寺や後92項の千葉県柏市布施の紅龍山東海寺でも同等の例を見ている。上帯の紋様もほぼ同じで、作者名は見られないが同一人の手によるものだろう。

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「維持 昭和卅四(34)年8月8日 26世 日宣代」での設置であったが、時期も先例とほぼ同じだ。「卅」という見慣れない漢字は、「十」が3つ並んでいるという意味で「30」を表しているが、詳細は後86項で解説している。

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ただ一つ違うのが脚の本数で、こちらは4本だ。先端が真ん丸の愛らしい猫脚だが、辞書によれば、猫脚とは、「家具や膳の脚で、猫の足の形状に似ているもの」とあるが、見た目そのままだ。多くの天水桶を見てきたが、その多くは獅子脚であり、猫脚は珍しい。

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●獅子脚という言葉が出てきたので、そのいい例を見ておこう。まずその前に各所の寺社には、量産品の香炉が設置されていることがある。地域を限定せずに多所で見られるが、かなりの量が流通しているようだ。肉薄の鋳鉄製で、線香の煙が出てくる穴が開いているが、表面に見られる紋様はハスの花弁であろう。

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3本の脚の付け根に見られるのが、霊獣の獅子頭だ。恐ろしい形相だが、これには邪悪を寄せ付けない魔除けという意味合いがあるようだ。

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地面との接点部は、あたかも動物の足先で、簡素ながら爪や指の凹凸もリアルにデザインされている。これが獅子脚だ。

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●こちらは坂戸市塚越の、台湾や中国の道教のお宮である聖天宮だ。建て主の康國典大法師は、大病を患った際、本尊の道教の最高神「三清道祖」と縁起を持ったのを機に一命をとりとめ、お告げを授かったこの地にお宮を建てている。豪壮な建築物であり、いつまでも見入ってしまう。

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生国の台湾ではなく、当時、最寄の東武東上線若葉駅もなかった雑木林のこの地に、台湾の一流の宮大工を呼び寄せ、15年の歳月を掛け平成7年(1995)に開廟している。「五千頭の龍が昇る聖天宮」と謳っているが、上の天門や下の本殿は豪華絢爛で、日本の文化とはかけ離れていて全く異風だ。

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●黄色い屋根瓦と龍は、神様と皇帝の建造物にしか使われないらしいが、天空を仰ぐ彩色豊かな龍は見事で、今にも動き出しそうだ。龍は、王や皇帝の象徴とされる霊獣なのだ。

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前殿の両脇には、鐘楼と鼓楼もある。東の「陽鐘」、西の「陰鼓」で、定時に交互に鳴るが、始まりと終わりを象徴するという。陰鼓の下で紅色の蝋燭を灯すと、幸福や良縁を授かるといい、台湾の伝統的な花嫁衣装は紅色だ。鐘には「聖天宮」と鋳出され、下部には、渦巻きの雷紋様(後116項)も見られるが、この鐘は日本で言うベル形状だ。

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●香炉にも異文化を感じる。外周に下り龍が巻き付き、台座に見えるのは、「陰陽勾玉巴」だが、龍神信仰からくる防火祈念の水呼び役の意味がある。香炉に火は付きものだからここにこの紋があるのだ。本体正面にも龍がいて、「聖天宮 三清道祖 風調雨順 福賜民安」とある。「歳次己未年仲秋吉日」が製作された時期だろうが、昭和54年、1979年だからお宮の着工前だ。

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本体上部には、大陸由来の雷紋様(後116項)が存在する。元来、皇帝だけが調度品などに描いたという紋で、人知の及ばない畏怖の対象としての雷をモチーフにしている。天水桶にもよく描かれるが、これは日本古来の文化ではない。華美な4本の龍柱が支える笠の上では「蕨手」が6方に伸び、最上部を、受け花に載った宝珠で飾っているが、水煙が立ち揚がっている。

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日本では、蕨手は春日型灯籠などに、また、焔玉(ほむらだま)とも呼ばれる宝珠(前11項後94項)は、画像のように寺社の屋根最上部などに見られる。大陸由来の仏教発祥の宝物の如意宝珠であり、意のままに願いを叶える珠だともいう。炎のように見えるのが水煙だが、これは、火炎状の装飾金具だ。火事への連想を避け、同時に水難をおさえる意味も込めて名付けられたようだ。

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●香炉の真正面の紋様は、太陽と月のアレンジのようで、陰陽、つまり、道教の象徴たる概念の意味合いであろうか。因みに日本では、端的ながらこの道教思想から、平安期には陰陽道、江戸期には、転じて武士道が派生している。

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3本の脚が獅子脚だが、付け根の膝の部分には、金色の獣の顔が描かれている。リアルに爪が表現され、愛らしい丸い猫脚とは打って変わって雄々しさを感じる。畏怖感さえあるが、やはり、魔除けの意味合いがあるのだろう。

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●こちらは、文京区小石川の常光山源覚寺(後52項)の香炉だ。寛永元年(1624)に定誉随波上人によって創建されているが、別称にもなっている「こんにゃくえんま像」は、鎌倉時代の運慶派仏師の作と推定されている。像高100.4cmの木造閻魔王坐像で、像内に寛文12年(1672)の修理銘があり、区指定の有形文化財となっている。右端に見えるのは、「法燈」と刻まれた春日型の灯籠だ。

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先ほどとほぼ同等のデザインで、「昭和49年(1974)9月吉日 第24世徳誉代」に鋳られた鋳鉄製だ。正面には「蒟蒻閻魔 大法王前 香炉」と陽鋳され、「江戸消防第四区 奉献」となっている。

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「風調雨順 国泰民安」と願掛けされていて、先例より雄々しさは感じられずしなやかだが、3本の脚は獅子脚だ。いずれの例も堂々たる存在感で、思わず目を見張る香炉と言える。

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●次の例は、茨城県かすみがうら市中志筑の曹洞宗、鳳林山瑞雲院長興寺の常香炉だ。やはり左右に龍神が相対し、雄々しい3本の獅子脚が本体を支えているが、これが大陸由来の香炉のスタンダードなデザインなのだ。横側には、「公元一九八八年十月吉日 佛暦二五三二年」という銘版がビス止めされている。

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「公元」は中国語だが、意味は「西暦」だ。「仏暦」は、仏陀の入滅、没年を基準とする暦法で、主に東南アジアの仏教国で採用されている。仏陀は、歴史上に実在したお釈迦さまだが、仏教の開祖だ。入滅は、紀元前544年であったから、仏暦2532年と言えば、西暦では1988年、昭和63年だ。

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●ところで、先ほど「蕨手が伸びた春日型灯籠」という話が出たが、なぜ春日型と呼称されるのであろうか。それは現地、つまり、奈良県奈良市春日野町の春日大社へ行けば一目瞭然だ。ここは、神事や祭祀を司った中央豪族の中臣氏の氏神を祀るために、神護景雲2年(768)に創設された神社で、全国に散在する春日神社の総本社だ。

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数キロにも及ぶ長い長い参道沿いには、2千基とも言われる石灯籠が奉納されているが、実に壮観だ。平安期から現代にまで続く慣習だという。武甕槌命(たけみかづちのかみ)が白鹿に乗ってきたとされることから、鹿を神使としているが、石屋さんが扱う石灯籠を見ても鹿が描かれている。春日型灯籠の特徴は、節を伴った1本脚がすっきりとした円筒形だ。

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●こちらは、京都寺院の善導寺型と呼ばれる石灯籠だ。火袋に、茶碗や火鉢、茶釜や柄杓、五徳など茶道具が彫ってあるために茶人に好まれた形という。蕨手が挙がっているのは同じようだが、中台の側面にハート型の猪目(後51項)の彫り込みがあるのも特徴的で、柱は無節で丸みを帯びている。

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猪目は、猪の目の形を模した紋様で、火伏の魔除けとして神社などの建築物に多く見られる。最も、かつては「ハート」という概念が無かった訳で、現代のこれらは、存分にハート型を意識している様に思える。

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●石屋さんによれば、他にも「○○寺型」と称される石灯籠は、何種類かあるらしい。画像のこれは「蓮華寺型」で、鋭角な笠に蕨手があるのが特徴だ。呼称だけを挙げておくと、他には「永徳寺型 織部型 蘭渓型 勧修寺型」などがあるようだ。

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後74項では、「太閤型」や「聚楽型」という灯籠が登場しているが、これには豊臣秀吉の馬印の瓢箪があしらわれる事が多いようだ。呼称の由来からして、当然、16世紀末期頃からの発祥だろう。有力大名家が時の為政者に奉納した灯籠は、高価な青銅製が多いが、秀吉の威光にあやかって流行したものと思われる。

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●一方「東大寺型」は、当然ながら奈良市雑司町の東大寺由来だ。これは八角灯籠と呼ばれるが、雲の中を駆ける獅子や楽器を奏でる音声菩薩が透かし彫りされている。現存するのは8世紀前半の創建当初のものであり、日本最古最大の総高464cmという金属製で国宝だ。画像は過日に訪れた山号が無いという東大寺だが、大仏殿の正面中央に誇らしく立っている。

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この東大寺型の八角灯籠は、後59項の板橋区赤塚・赤塚山乗蓮寺や、画像の後58項の神奈川県海老名市河原口・海老山総持院などでも見られたが、スッキリした短めの竿と大きな角型の火袋の意匠が特徴的だ。今や流行は、全国区のようだ。

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●さて、堂宇の回廊には、銅製の吊り灯籠が下がっているが、それを見ながら堂内を歩くことができる。これは青銅製の鋳造物ではなく、薄い銅板を折り曲げたり、型取りして切り貼りした細工物だ。擬宝珠に吊り輪が貫通していて、笠からは天に向かって蕨手が伸びている。単純な延べ板状のものもあれば、蓮弁状のものもあるが、春日型と言われる特徴的な意匠と言えよう。そしてその下に火袋があり、明かりが灯るという構造だ。

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火袋の扉の6面を、透かし状にすることで文字や紋様を表現しているが、高名な戦国武将らが奉納した吊り灯籠も現存している。「慶長五年(1600) 越後国 直江山城守息女敬白」とあるのは、直江兼続の娘の於松だ。「慶長三年 備前中納言秀家敬白」は宇喜多秀家だが、「灯籠為 国家安全 武運長久也」を謳っている。

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●下の画像の右側1対は、「慶長十四年(1609)二月吉日敬白 将軍様為御祈祷也 藤堂和泉守」で、この前年に伊賀伊勢国22万石の津城主となっている、築城の名手、藤堂高虎(後56項)だ。「将軍様」とあるのは2代徳川秀忠の事で、その繁栄を祈願している。藤堂家は同社を氏神としていて、歴代は、50基以上の灯籠や警護用の槍56本を奉仕していて、縁は深い。

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拡大してみたのは、「諸願成就祈所 寛文七年(1667)十一月吉日 館林宰相正三位 源綱吉卿 室」だが、就任前の江戸幕府5代将軍の徳川綱吉だ。連名の「室」は、左大臣鷹司教平の娘で正室の信子だが、両家の家紋の三葉葵と牡丹も配されている。明かりが灯れば文字が浮かび上がるという洒落たアイデアであり、奉納者の心をくすぐるのであろう。

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●因みに、昭和初期刊行の「川口市勢要覧」には、「天保3年(1832)5月 春日大社 大西定泉 吊り灯籠 1基」というここ春日大社での記録が残っている。明治12年(1879)の「由緒鋳物師人名録」の「武蔵足立 川口宿」の欄には、「大西市五郎 大西周八」の名前が記載されているが、定泉は市五郎らの先達に通じる川口鋳物師だ。また、大西家の鋳造物に関しては、後81項後129項にも登場しているのでご参照いただきたい。

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この様に、石製にしろ銅製にしろ、これらの溢れかえる灯籠の奉納数は、恐らく国内随一であろう。そしてこの形状が模範、原型となって、春日型と称されるようになった理由と思われる。

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なお、本サイトに登場する色々な灯籠の、主な項番のリンク先を貼っておこう。前17項前19項後65項後74項後78項後86項後87項後88項後89項後91項後93項後107項後129項など多項だ。次回はまた、最近出会った天水桶をアップしようと思う。つづく。