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●江戸日本橋の絵巻、「熈代勝覧(きだいしょうらん)」について興味を持ち見入ったことがある。都内中央区日本橋室町にある、東京メトロの三越前駅のコンコースにあるレプリカで、これは、平成11年、1999年だからつい最近だが、ドイツで発見されたという貴重な絵巻だ。ウィキペディアやユーチューブなどでも見られるが、現地まで出向くことをお勧めしたい。

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作者不明ながら、縦43.7cm、横1.232cmの長大な絵巻だ。常展示は1.4倍に拡大された複製であるが、文化2年(1805)当時の様子が実に生々しい。ウィキペディアによれば、「絵師を示すものは何もなく、現在のところ不明である。佐野東洲は文化初年に一時期山東京山を婿養子にとっていることから、その兄であり、北尾政演の名で絵師としても活躍した山東京伝ではないかと見る説が一般的である」という。画像は、江戸名所図会に載る日本橋。

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続けて、『題字には署名がないが、「左潤之印」の白文方印及び「東洲」の朱文方印があり、書家佐野東洲の手によることがわかる。千代田区永田町の日枝神社(前8項前17項後87項)には、奇しくも同じく文化2年に佐野東洲によって揮毫された「山王大権現」の扁額が残されているが、こちらには「東洲左潤拜書」の署名がある』という。

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●時代を特定できたのは、室町2丁目付近の勧進集団の一人が、「文化二 回向院」と書かれた勧進箱を舁いでいた事による。この時代は、江戸幕府将軍、第11代徳川家斉の治世下だ。家斉の在任は、1787年から1837年の50年という長期に及んでいるが、就任時は15才であった。天保8年(1837)4月、次男の家慶に将軍職を譲っても幕政の実権は握り続け、大御所時代を過ごしたが、天保12年閏1月7日、享年69才で没している。

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熈代勝覧の意味は、「熈(かがや)ける御代の勝(すぐ)れたる景観」だが、1.671人もの人々が描かれているから、時間を忘れて見入ってしまい全く飽きない。人以外にも、野犬20匹、馬13頭、牛車4輌、猿飼の猿1匹、鷹匠の鷹2羽が描かれているが、当時の町の様子や賑わいが手にとるように判る。

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上の画像は、昭和19年(1944)当時の航空写真だが、日本橋川に架かる日本橋(後89項)から、神田今川橋までの南北約7町、764mを東から俯瞰している。なお、下の画像の「今川橋」に関しては、後35項の高尾山本社の飯縄権現堂の所でも登場している。

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●画像は「室町一丁目」付近だが、そこら中に木製の天水桶が置かれている。店舗前毎だからかなりの数量になろうが、前22項で記述した法度の内容が真面目に守られていそうだ。「防火桶の設置の件だが、前々から触れている通り、今後は一町当り片側に30個、両側で60個を酒樽でよいから家の前に置きなさい」であった。

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今日現在も営業する有名店も描かれている。「呉服物品々 現銀無掛値(げんきんかけねなし) するが町(駿河町)えちごや(越後屋)」の看板は、東京都中央区日本橋室町の日本橋三越本店(前16項後66項後103項)だ。ここの建物は、平成28年(2016)7月、国の重要文化財に指定されている。

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●室町で打刃物問屋として営業を続ける「木屋幸七」店は工事中で、「普請之内 蔵ニ而商売仕候」の札を掲げている。現在も中央区日本橋室町のコレド室町ビルで営業していて、主力商品は包丁だが、各種鋏や爪切り、刃物や鍋など金物全般も扱っている。現社長の加藤欣也氏は創業者初代の加藤伊助より数えて9代目だ。

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さらに、大手書店の須原屋も、善五郎と市兵衛の2店舗が見えている。画像は、創業が明治9年(1876)という、埼玉県さいたま市浦和区仲町に本店を置く、書店チェーンの株式会社須原屋だ。江戸時代の版元須原屋茂兵衛の流れを汲み、徳川吉宗の時代に和歌山県の栖原村(すはらむら)から江戸に出て本屋を始めた出身者が、須原屋の屋号を用いた事に由来するという。


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●ところで、日本橋三越の本館中央ホールには「天女(まごころ)像」がある。吹き抜けの5階に届くようにそびえる壮大な像で、三越の基本理念「まごころ」をシンボリックに表現する本店の象徴だ。

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名匠・佐藤玄々(後63項)が、京都の妙心寺内のアトリエで製作、 昭和35年(1960)に完成しているが、約10年の歳月を要したという。「瑞雲に包まれた天女が花芯に降り立つ瞬間の姿をとらえた豪華絢爛な美しさ」と三越が言う通りであり、絵巻鑑賞の折にはこちらも見ておきたい。

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●さて、最近出会った天水桶を見てみよう。まずは荒川区荒川の浄土宗、清国山快楽院浄正寺で、本尊を阿弥陀如来像としている。区の説明によれば、文亀3年(1503)、鏡誉存円による開創と伝わり、江戸期には3.500坪の広大な境内地を有したという。

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室町期の文安6年(1449)銘の板碑を所蔵するが、境内南側の池の底より出土したもので、中世の三河島を知る上で貴重だという。本堂前には、昭和37年(1962)5月3日の国鉄(現JR)三河島事故の惨事を今日に伝える三河島観音が安置され、犠牲者の供養をしている。この事故は、常磐線三河島駅構内で発生した列車脱線多重衝突事故で、「国鉄戦後五大事故」の1つといい、死傷者456名を出す大惨事であった。

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ここには、「昭和8年(1933)10月」製の鋳鉄製の天水桶1対がある。菩提供養のための奉納で、額縁を雷紋様(後116項)で飾っている。正面に据わっているのは、「三つ重ね松」だが、松は「松竹梅」のトップであるように、最も縁起の良い植物とされている。作者銘が無く不明なのが残念だ。不明だが、造立時期やデザインから推すに、個人的には、川口鋳物師の名匠山﨑寅蔵(前20項など)の作例であろうと思う。


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●埼玉県草加市高砂の浄土宗、草加山回向院観音寺は、草加宿七福神の布袋尊を祀り、本尊を阿弥陀如来像としている。村民の源右衛門が開基、専誉順広(元禄14年・1701年寂)が開山となり創建したという。堂宇前の1対は作者不明の天水桶だが、鋳鉄製で花弁形の桶は珍しい。「昭和54年(1979)3月吉日 修誉代」の奉納であった。

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大きさは口径Φ1m、高さは1.070ミリだが、8角形の台座も鋳鉄製となっている。塗装したその下からサビが浮き出てしまっている。さすがにこれは見栄えが悪い、空間にマッチしていないようだ。再塗装をすべき時期だろう。後述もするが、リニューアル(後79項)すれば、新品同様に甦るのだ。

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●石製の桶をアップしてみる。都内足立区鹿浜の押部(おしべ)八幡神社は、近隣の鹿浜村押部の鎮守社であるという。祭神として、誉田別命(ほむたわけのみこと)、応神天皇を祀っているが、この天皇は古墳時代の第15代天皇で、日本書紀での名は誉田天皇だ。実在は定かでないが八幡神として神格化されているという。


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銘は「昭和8年(1933)8月25日建」のみだが、小さな社殿に似合った1対だ。コンクリート製で作者名が無いが、この桶はうまく成型されている。遠目に一見して金属製に思えたが、堂宇前の顔として不可欠な存在と言える。


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●都内北区豊島の真言宗豊山派、医王山清光寺は、新築したばかりの真新しい社殿だ。12世紀に、寺号の基になった源頼朝の幕府創立にも参画した「豊島清光」の開基という。当寺に安置されている清光像は、銘によれば寛保2年(1742)の作で、区指定の文化財となっている。(区教育委員会掲示板を要約)

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「平成21年(2009)11月吉日 第37世豊誉代」と刻まれているが、新築と同時に設置したのであろう、花崗岩製(前11項)の6角形の天水桶もお洒落でなかなかいい。石は、その組成によって見え方が随分と違うが、石目の表情やメーカー、産地によって様々な呼称がある。

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白っぽい石では、「稲田石 天光石 深山吹雪 本糠目」などだが、国産であるとすれば神奈川県の「本小松石」であろうか、茨城県の「真壁石」であろうか、それとも香川県の高級ブランド「庵治石(あじいし)」であろうか。今は同県高松市に編入されたが、庵治町や牟礼町では、五剣山周辺から花崗岩の庵治石が掘れるので、今なお石材業が盛んだ。

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●埼玉県蕨市中央にある金峯山宝樹院は、臨済宗建長寺派で、正宗廣智(正慶元年・1332年寂)が創建している。蕨城主であった渋川公(宝樹院殿)の墓所で、市指定の文化財だが、市の掲示によれば、「永禄10年(1567)、渋川公(宝樹院殿)は上総国三舟山(千葉県富津市・君津市の境界付近)の合戦で里見氏に敗れて戦死し、その死を悲しんだ夫人(竜体院殿)も榛名湖に入水したといわれています。

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入水した夫人は竜神となり、榛名神社(後87項)に雨乞いに行くと雨が降るという伝説が生まれ、榛名湖まで水をもらいに行く雨乞いの行事が昭和初期まで行われていました。宝樹院殿・竜体院殿の石碑は、江戸時代初期の文化13年(1816)に、渋川公夫妻の250年忌に渋川氏の家来の子孫によって造立されたもので、それぞれに戒名と夫人の石碑には、渋川公の戦死を悲しみ榛名湖に入水したなどの口碑が刻まれています」という。

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●1対の天水桶は花崗岩製の蓮華型で、大きさは口径Φ930、高さは950ミリだ。「平成13年(2001)4月吉日」の奉納で、正面に彫り込まれた「丸に影二つ引両紋」が、渋川家の家紋であろうか。引両は、引竜、引霊、引領と書かれる事もあるが、2本線が主流で、その本数や太さ、配置によって差別化されている。

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この二つ引両紋は、室町幕府を開いた足利氏の家紋として広く知られるが、渋川家は、清和源氏の源義国流の足利氏の一門だ。影紋であるというのは、主家を憚るという意味合いもあるようだ。


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●さいたま市岩槻区長宮の花林山大光寺(後97項)の本尊は、阿弥陀如来だ。創建年代は不明で、祐真による開山というが、祐真の寂年(1508年)から戦国時代中期に創建されたものと推測されている。ここには十一面観音が安置されているが、この仏像は秘仏で、12年に1度午年に開帳される。これは武蔵坊弁慶が源義経とともに奥州藤原氏に身を寄せる際に、残したものとされている。


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艶めかしい曲線が目を引く天水桶だが、これはコンクリー製だろうか。正面に「奉納」とあり、「丸に片喰(かたばみ)紋」が置かれている。この植物はクローバーによく似ているが、別種だ。繁殖力が旺盛な事から子孫繫栄を祈願して多くの家で使われている日本十大紋だ。裏側には、「昭和5年(1930)4月16日」と「昭和53年(1978)4月」という2種類の銘版が埋め込まれている。

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●やはり、鋳鉄製の天水桶を紹介しないと収まりが悪い。北区豊島にある紀州神社。創建は鎌倉時代後期の元亨年間(1321~24)と言われ、紀州熊野の人・鈴木重尚が豊島清光に諮り、紀州一之宮の伊太木曽神社(いたきそじんじゃ)を勧請したのが始まりという。ウィキペディアによれば、勧請とは仏教用語で、諸佛、諸菩提、諸王、諸尊天を奉請する事や、神仏習合により、神仏の霊を迎えて祈願する事を言う。

 

 


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鋳鉄製の1基が、逆さにされて社殿の裏に放り投げられている感じで、雨水の溜まりを避けるためであろうが、これでは天水桶が泣いている。本項でも最後に2例が登場するが、前9項で登場した港区高輪の高輪神社や後48項
江東区富岡の富岡八幡宮などの天水桶もこんな扱いであった。

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神紋は三つ巴紋で、鋳造者の銘は、「武州川口 鋳造人 永瀬庄吉 明治34年(1901)11月」とある。裏面には、奉納者の人名が並んでいるが、大きさは口径Φ850、高さも850ミリだ。

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下は撮影した画像を、180度回転したものだ。川口の近代鋳造業の先駆者の作で、同市にとっては重要文化財だ、丁重な扱いを願いたいものだ。いずれスクラップ処理され、無に帰してしまうのであろうか。堂宇前への再登板を願って止まない。なお庄吉に関しては、後104項で詳細に解析しているのでご参照いただきたい。

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●ちょっと脱線。天水桶ではないが、神奈川県川崎市の川崎大師平間寺(前7項前24項)の境内には、同氏が鋳造した鋳物製の「橘樹郡(近隣地)出身 征清陣亡軍人招魂碑」がある。「明治29年(1896)1月」の造立で、文字は、陸軍参謀総長の川上操六の書だ。120年程が経過しサビきっているが、堂々とそびえている。

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高さは4~5m、丸塔は直径1mほどだ。日露戦争のものはよく見かけるが、これは日清戦争の招魂碑であり珍しい。これが戦没者の供養塔であるだけに、昭和18年(1943)頃の金属類回収令(前3項)の勅令の際にも供出を免れたという。とある1面には、艦船の錨や銃器が陽鋳造されている。

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鋳造者は、「埼玉縣川口町 鋳造人 永瀬庄吉」と読める。刻まれた多くの戦没者名と共に、この名が永久に残るのであろう。銘は鋳鉄製の8角形の台座に陽鋳されているが、本体の丸塔は青銅製だ。当時、庄吉の工場に青銅を鋳る設備は無かったようなので、丸塔の部分の鋳造は、義弟の小川治郎吉(後53項後63項)の手によるものだろう。

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●なお、近年にこの丸塔は再鋳造し更新されたようだ。鋳鉄製の台座は防錆処理されていて、招魂碑は濃緑の煮色が映えている。小川製の旧丸塔は、鋳潰されて無に帰してしまったのだろうか、どこかに保存されているのだろうか、心配だ。

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旧塔には鋳つないだ鋳境線があったが、現代技術からすれば稚拙とも言える。裂傷があり劣化が始まっていて見難いとも思えるが、唯一無二の文化財であり、再生は不可能だ。(平成29年・2017年12月17日追記)

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●もう2例、逆さに据え置かれている天水桶をアップしてみよう。まずは、江東区亀戸の東宰府天満宮、亀戸天神社。正保3年(1646)、菅原道真公の末裔で当社初代別当の、九州太宰府天満宮の神官・菅原信祐が創立している。天満大神こと菅原道真公を奉祀しているのは有名だ。

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ここの情景は、安政3年(1856)に歌川広重が、「名所江戸百景 亀戸天神境内」の浮世絵の中に描いている。第65図だ。当時から藤まつりで有名だが、絵にも描かれている太鼓橋の上からは、一面の藤棚を見渡せる。

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現在でも同じような情景が見られるが、太鼓橋には階段が備わっていて、誰でも楽に昇り降りできる構造となっている。風光明媚な情景は現在も変わらないのだ。

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●鋳鉄製の天水桶1対は、上の本殿前の画像には写り込んでいない。亀裂が入ってしまいお役御免で、境内の外れの倉庫らしき建屋の前に追いやられている。ぐるりは鉄柵で囲まれ保護されていて立ち入れない。さらに、これ以上の崩壊を防ぐためであろうか、針金で固く縛られている。大きさは、横1.150×780、高さは800ミリだ。

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外周には、多くの寄進者名が並んでいる。通常、桶の肉厚は15ミリ前後と思われるが、亀裂から見ても判るように、ここのはもっと薄くて、8ミリくらいだ。その薄さも手伝ってか、応力が集中し自然損壊に至ったのであろうか、あるいは戦争や地震災禍などによる焼損であろうか。「亀戸天満宮暦」には、「昭和20年(1945)3月、不幸にも戦災に罹り、御神庫一棟を残して一木一草に至るまで一切を烏有に帰してしまった」と記されている。

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●作者銘を180度回転させたのが次の画像だ。銘は「鋳工 増田金太郎 藤原栄相(花押) 天保七年丙申(1836)秋八月再興」とある。金太郎は、江戸後期の川口市の勅許鋳物師であり、1対は区の登録文化財に指定されている。過去に見た通り、同氏の名前は、文京区本郷の桜木神社(前13項)や新宿区西早稲田の穴八幡宮(前13項)などでも見かけたが、「藤原姓(前13項)」が刻まれている桶には、ここで初めて出会った。

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昭和60年(1985)刊行の増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」を見ると、金太郎は、この後の「天保10年(1839)3月」に「天水鉢1対」を再度鋳ている。恐らくは、社殿が火災にあったのだろう、3年後にもう一度鋳造する必要が発生したと理解できようか。現存の天水桶が損壊している理由はこれであろうが、再鋳されたはずのものが存在しないのは、昭和の戦時の金属供出(前3項)であろうか。

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また、川口鋳物師が手掛けたここでの鋳造物の来歴を、昭和9年(1934)刊行の「川口市勢要覧」で見てみると、「天保10年(1839)3月15日 大西定泉 灯籠 1基」が記載されている。大西家は、後33項の奈良市春日野町・春日大社や後81項の台東区今戸・今戸神社、後129項の品川区南品川・海照山品川寺で登場する川口鋳物師の家系だが、灯籠が現存するかどうかは不明だ。

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●続いては、墨田区東向島の白鬚(しらひげ)神社。境内の掲示板を要約すると、天暦5年(951)、慈恵大師が関東に下った時に、近江国比良山麓に鎮座する白鬚大明神の分霊をここに祀っている。殿前の狛犬は、山谷の高級料亭八百善(後52項後109項後129項)の八百屋善四郎、吉原の松葉屋半左衛門が、文化12年(1815)に奉納したものだ。

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ここの鋳鉄製の天水桶1対も社殿の裏に追いやられているが、火災で焼けただれたと言うから仕方なかろう。宮司さんにご案内をいただいて貴重な画像を撮影できた。2基のうち1基は、「武川口住 鋳物師 金太郎(花押) 天保次戊戌九歳(1838)春三月良辰」銘だが、「武州」の「州」の文字は表示されていない。痛々しく焼損しているが、幸いにも遺されていた文字は鮮明であった。

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川口鋳物師が手掛けたここでの天水桶の来歴を、昭和9年(1934)刊行の「川口市勢要覧」で見てみると、「天保9年3月 川口住 金太郎 水盤(天水桶) 半双」となっている。当時、存在をすでに知られていた1基なのだ。増田家の鋳物師に関しては、前2項後82項など多項で見ている。

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●そしてもう1基は、「東京深川 釜屋六右衛門(前17項など)」だが、何とも興味深い。2人で1対だ。再起復活するはずも無い天水桶だが、川口鋳物師と深川鋳物師の間に、多少なりとも親交があったのだろう。しかし冷静に見てみると、これは少しおかしい。「東京」の文字があるが、ならば明治期以降の造立でなければならない。既に「江戸深川」ではないのだ。

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釜六製で「東京」の文字が存在したのは、当サイトでは2例だ。画像の「横浜市中区海岸通・日本郵船歴史博物館(後39項) 東京深川 釜屋六右衛門 明治3年(1870)11月」と、「さいたま市南区内谷・一乗院(後40項) 東京深川 御鋳物師 釜屋六右衛門 明治5年(1872)正月」銘だ。よって、ここ白鬚神社のこの1基は、30年以上を隔てた後年に鋳造されたものであった。何度も災禍に出くわしたのだろうか。


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●後日、写真を探してみると、やはりそうであった。この写真は、昭和50年(1975)頃に撮影されているのでカラーだ。しっかりと形状を留めていて損壊の様子はない。とすると、現況の様子はこの後の災禍であろうか。裏側にある作者の肩書きは「御鋳物師」となっていて、「東京深川 釜屋六右衛門」銘だ。時代は「明治五壬申年(1872)三月吉日」なので、上述した事と合致しているようだ。

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それにしても、なんとも侘しいではないか。いずれ朽ち果て、ボロボロになるのを待っているのである。そして廃棄される運命なのだ。先の紀州神社や高輪神社の桶なら、手入れさえすればまだまだ数世紀に亘って現役を保てよう。保護すべき人は、団体は誰なのか、保護すべき程の事でもないのか。モヤモヤがふっ切れない。つづく。