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●川口鋳物師の永瀬留十郎製(前4項前15項前47項後68項後100項後103項)の天水桶を追いかけて、京急線沿線を軸に、神奈川県の三浦半島までを散策した。と言っても、本項で確認できている同氏作の桶の存在は1例だけであるから、歩くことが大方の目的である。

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10月下旬のとある朝、5時前に出発、始発電車に乗った。空は明け始めどころか、まだ真っ暗で、言いようの無い一抹の不安さえ覚える。暗黒の世界は、人間が活動すべき時間帯で無い事を肌で感じる。

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しかし、心配はいらない。必ず陽は昇るし、しかも天気予報は絶好の散策日和。品川から京急線で「三崎口行き」に乗車、三浦半島の突端だ。そこからバスに乗って、目的地の三崎公園到着は8時前。出立から早や、3時間が経過しているが、過密スケジュールを組んでいるから、長い1日になろう。

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●ネット上で天水桶の存在を確認していた、三浦市三崎の総鎮守、海南神社へ向かう。創建は貞観8年(866)で、藤原鎌足の後裔の、藤原資盈(すけみつ)の后である盈渡姫、及び地主大神を祀っている。ご神木は、社務所によれば、「この大公孫樹(大イチョウ)は、鎌倉時代(1192)に源頼朝公当社に敬神の念篤く、祈願成就の記念として寄進せしと伝えられる手植えの銀杏にて、樹齢約八百年なり」という。

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天水桶は、「昭和25年(1950)12月」の建立で、予想はしていたが、やはりコンクリート製の桶だった。水色の塗装は、海の色をイメージしたのであろう、風景に違和感はなく、この社殿にお似合いの1対だ。正面に据わっているのは、「上がり藤紋」だが、日本十大紋の中でも分布範囲は最も広い。

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●周辺には寺社が十数社あるが、すべてを廻ってみた。海辺近くは塩害が深刻なのであろう、サビに弱い鋳鉄製の天水桶には出会えなかった。三浦市白石町の浄土真宗本願寺派、最福寺の桶はハス型の青銅製1対だ。「本堂落慶記念 平成16年(2004)5月」での奉納であったが、江戸幕府の軍船「泰平丸」の名をとり、「泰平山」を山号としている。

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応永元年(1394)の創建で、鎌倉時代の名門・三浦氏の菩提寺であるという、三浦市三崎の曹洞宗海光山本瑞寺も同じ形状の天水桶だ。当然、同家の寺紋の「丸に三つ引き両」が見られる。源平の争乱期に、頼朝軍の主力の一翼を担って活躍したのは、三浦一族であった。鎌倉幕府でも重用され、三浦半島や相模国内に勢力を保持、支流家も諸国に所領を与えられている。奥州の蘆名氏、猪苗代氏も三浦氏の一党だし、駿河や三河にも一族が土着している。

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●このアップダウンの多い土地を、2時間ほど歩いたろうか。既に汗だく、Tシャツ姿だ。気がつけば朝食もとってない。三崎と言えばマグロ、ちょうど回転寿司屋がある、寄らずにはいられない。地魚と中トロを堪能、朝からビール、これも外せない。まだまだ先が長い一日だが、充実感一杯だ。

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江戸時代、マグロは「目黒(めくろ)」とも呼ばれた下魚であった。寛文期(1673ころ)の「古今料理集」には、「まぐろ下魚也 賞翫に用いず」とあり、貴人の食材には使えないとしている。時代が下っても、「鯛は諸侯に奉じ まぐろは下賤の食いもの」とある。下々が食す魚がまぐろであった。

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平成24年(2012)の現代人のマグロの年間購入額を見ると、全国平均が¥5.113、東京が¥8.068、京都が¥3.025で、東京人の消費が圧倒的だ。マグロ好きの食文化は、江戸人が脈々と継承しているのだ。

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●さて、京急線に戻って横須賀中央駅で下車、最大の目的地、横須賀市緑が丘の曹洞宗龍谷山良長院へ向かう。建長5年(1253)没の、長峯城城主、瀬尾重兵衛良長が創建していて、寺名の由来となっている。本尊は釈迦三尊像で、横須賀市内唯一の鋳鉄製の仏像だという。

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堂宇前に、鋳鉄製の天水桶1対が鎮座している。大きさは口径Φ1.210ミリの4尺サイズ、高さは1.070、額縁の幅は115ミリだ。正面に据えられた寺紋は、「上がり藤」であろうが、「龍」の文字が囲まれている。山号の「龍谷山」の意味合いであろう。「藤原氏が多用した「下り藤」と違い、縁起を担いで上向きになっている。「為當(当)山檀家精霊菩提」供養での奉納であった。

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銘は「埼玉懸川口町 請負鋳造所 永瀬留十郎之作(後68項) 明治三十五年(1902)七月吉日」とある。鮮明な陽鋳造文字だ。川口から離れた地での出会いだが、110年前のその時代、運搬する自動車などはまだ普及していないはず。先進の米国内で普及が始まったのは、1908年発売のフォード・モデルT以降だ。この重量物は、遥かこの地まで、やはり水運を利用し、さらに牛車で運ばれ旅したのだろうか。

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●京急線に戻って、追浜駅や弘明(ぐみょう)寺駅などで下車して駅前周辺を散策するが、目ぼしい桶には出会えない。やがて南太田駅で下車して、徒歩数分の所の横浜市南区南太田にある、西中山常照寺を参詣した。所蔵する文化財の鬼子母神像は、江戸時代に大奥で祀られていたものだという。

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ここには、4基もの花崗岩製(前11項)の、四角く大きめな天水桶が連座していた。2基には徳川家の「葵の紋」、そしてあとの2基には、日蓮宗の定紋である「井桁に橘」の紋が彫りこまれている。井桁は、井戸の地上部に組まれた枠の部分が象形化されたものだ。この紋は開祖日蓮が井伊家の出身であることに発するという説がある。

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高名な井伊直弼(なおすけ・前1項)を輩出した井伊家は、徳川家康の四天王として仕え、代々彦根藩主を務めたが、井戸、つまり水を制するものは天下を制すると言われ、この井桁の紋を使用しているという。

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●続いて横浜駅の1つ北側の駅、神奈川駅で下車。横浜市神奈川区高島台の曹洞宗、青木山本覚寺へ向かう。千光国師栄西禅師が嘉禄2年(1226)に創建したと伝わる古寺で、幕末の横浜開港時には、港が一望できることから、アメリカ領事館として利用された寺として有名だ。

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領事館は、中区関内の外国人居留地に移る、文久3年(1863)までの4年間ほど当地に駐在したが、その前年には薩摩藩士が英国人を殺傷した生麦事件が発生、負傷者が本覚寺へ逃げ込み治療を受けている。

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●高さがあって堂々とした天水桶1対で青銅製、「平成21年(2009)4月」の設置だ。社殿の新たな顔として一役を担っていよう。正面に「天水尊」とあるが、これは一体何であろうか。神奈川県内の会社が「雨水タンクの元祖・天水尊(後83項)」なる商品を扱っているが、スポンサーなのかも知れない。

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裏には、「道元禅師 御詠」の、「峰の色 渓の響きも みなながら わが釈迦牟尼の 声と姿と」が刻まれている。立正佼成会の機関紙、佼成新聞によれば、「峰の色谷の響き、鳥の声もみな仏さまの現れであり、命の本源に気づくことが、人間として一番大事」という教えだそうだ。

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●余談だが、ここに岩瀬忠震(ただなり)の石碑があった。「横浜開港之首唱者」と刻まれている。人となりは、ウィキペディアによると、『江戸時代期の幕臣、外交官である。列強との折衝に尽力し、水野忠徳、小栗忠順と共に「幕末三俊」と顕彰された。維新後に正五位を贈られた』とある。

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一般にはあまり知られていない名だが、その外交手腕はとりわけ優れていたのであろう、最近メディアでよくお目にかかる歴史研究家の磯田道史氏が、その功績を褒めちぎっていたのを思い出す。

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●さて次に、六郷土手駅で下車して、雑色駅までを歩いて、まずは、通称、落馬止め天神に詣でた。住所は、大田区東六郷だ。「悪い事は一切止める」、「決して落ちませんように」という北野天神様だが、案内板にはこうある。「落馬止め天神の由来から、願い事を神前の木馬にまたがり、天神様に詣でる神事を縁日に限って復活させました。8代将軍吉宗公の落馬を止めた天神様の御加護にあやかる伝統のある神事です。」

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近辺は「六郷の渡し」でも知られる地だが、説明文にはこうある。「旧東海道における八幡塚村と川崎宿間の渡しで、江戸の玄関口の渡し場として、交通上極めて重要であった。」数次の流出に遭ったようだが、のんびりした時代が偲ばれる。画像は、江戸名所図会「六郷渡場」だ。

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堂宇前に、「昭和60年(1985)5月吉日」設置の青銅製で、鋳造者不明の小ぶりな天水桶が1対ある。御祭神が菅原道真公だけに、神紋は梅紋で、「学問」と「落ちない」に掛けて、奉納された絵馬には志望校入学、選挙立候補者当選祈願などが多数見られる。また、乗馬関係者の絵馬は、落馬防止祈念であろう。

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●なお、昭和60年(1985)刊行の増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」には、この直ぐ近くでの川口鋳物師の作例の履歴が記録されている。「大正4年(1915)11月 小川新八 吉川鍋太郎(前12項) 六郷神社 天水鉢1対」だが、この神社は六郷一円の総鎮守様だ。

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天水桶は現存することになっているが、現在、社殿前には置かれていない。享保4年(1719)造営の本殿の改修は、昭和末期であったが、その際どこかに保管されているのだろう。小川家は、青銅鋳物に特化した鋳物師であったが、この天水桶はブロンズ製であろうか。

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●同じく大田区東六郷にある観乗寺は、日蓮宗で日経山東光院と号する。善恵院日経上人により、寛永元年(1624)に開創され、承応3年(1654)から、日蓮大聖人が生誕した千葉県鴨川市小湊の小湊山誕生寺(後90項)の末寺となっている。

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天水桶は青銅製の1対で、「昭和57年(1982)10月吉日」の設置だ。「為追善菩提」供養のための寄進で、正面には「五三の桐紋」が据わっている。

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●ここまでで、どれだけの距離を歩いただろうか。明日に差し障るから無理は禁物だが、しかし不思議と疲れはない。東急蒲田までの1駅を乗車して、すぐ駅前にある大田区蒲田の蒲田八幡神社に到着。ここは、延喜式にも記載されている、近くの「武蔵国荏原郡薭田(ひえた)神社」を勧請し、村の鎮守として慶長年間(1596~)に創建されているという。

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神社のサイトによれば、「蒲田村より新宿分村に当たり、鎮守の神として、薭田神社から行基作の神体三座のうち、春日の像一体を分かちお祀りしたところ、霊験あらたかであったといいます。新宿分村は慶長の頃と言われていますが、一説には平安末期か鎌倉初期ともいわれ、決定的な資料は残されていません。しかし、諸般の事情を推論して慶長五年を新宿分村、当社御鎮座とさだめ、平成十二年(2000)に御鎮座四百年祭を執行しました」という。

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●鋳鉄製の天水桶1対が、神輿倉庫であろう両脇に設置されているが、大きさは口径Φ910、高さは780ミリだ。正面に「今上(きんじょう)天皇即位紀念」とある。「今上」とは、実際に在位するその時の天皇を、その時の人民が呼称する言葉だ。当今(とうぎん)とも言うらしいが、「大正4年(1915)11月新調」の設置であるから、当然、大正天皇を指し示している。

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また、「紀念」という表現が気になったので調べてみると、ヤフー知恵袋に『「記念」は現代日本の用字。 「紀念」は中国語および昔の漢文由来の用字』とあった。センターには三つ巴紋が配されているが、幅100ミリの上部の額縁に廻っているのも同じ紋様だ。奉納者は、「荏原郡蒲田村新宿」の人々で、氏子総代らの名が並んでいる。それにしても賑やかな桶だ。前面の目一杯を使い切っていて、余白が全く無い。

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●銘は「武州川口町 製造人 山﨑○○ 大正4年(1915)11月新調」と読めるが、○は剥げかかった塗装と、凹凸の無さでかなり不鮮明だ。この時代の山﨑氏と言えば「寅蔵(前20項)」であろう。波打った「州」や「川」のデザインは独特だ。一方、「町」という漢字の「丁」の部分には、個性的な屈折した表現を確認できるが、これは山﨑寅蔵の多くの作例の中に見受けられる。

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例えば下の画像は、前20項で見た品川駅前の高山稲荷神社の銘だ。どうだろう、かなり近しいデザインに見える。少なくとも、これまで見てきた他の鋳物師達の作品には全く見受けられない。実は終項の後132項では、この不鮮明な鋳物師の銘がやっと判明し確定しているので、ご参照いただきたい。それにしても長い1日であった。そして一旦帰宅し、京急線沿線の散策の続きは、また明日とした。

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●ここからは後年の追記だ。本項では、「永瀬留十郎の天水桶を追いかけて」としたにも関わらず1例しか登場していないので、近年に発見というか、発掘した同氏の作例をここに挙げておこう。

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後77項では、江東区富岡の富岡八幡宮を参詣しているが、現在、ここには天水桶は設置されていない。明治後期の絵葉書には、「鳶中」と刻まれた台座に、金属製らしい桶が載っている事を知った。よく見ると子供が桶の縁に飛び付いているが、かなりの大きさのようで、口径と高さは4尺、1.2mほどと想像できる、とした。

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一方、境内には「横綱力士碑」をはじめ、大相撲ゆかりの石碑が多数建立されている。その右側に永昌五社稲荷神社が見えるが、ここは特に地元の肥料商関係者から絶大な信仰を集めているという。力士碑の真裏、神社の左側の狭いスペースに天水桶が保存されていた。

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●力士碑の裏側の刻銘を見ようと廻り込まなければ、この存在に気が付かなかったはずだ。雨泥の堆積を避けるために逆さにされて放置されているが、いつからこうなっているのだろう、神社からも忘れ去られた天水桶だろうか。

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こういった逆さに置かれている情景は、前9項前32項などでも見ている。大きさは口径Φ750、高さは680ミリほどで、中央に三つ巴紋が据えられているが、真下になっている額縁の紋様は、見覚えのない不可思議な意匠だ。

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雨ざらしの割には、鮮明な陽鋳造の鋳出し文字だ。奉納者に敬意を表して埃を清掃してみたが、「明治二十年(1887)第一月」の造立となっていて、「八官町」の人々の名前が見られる。八官町は、中央区銀座にあった町名で、元和年間(1615~)に、「八官」という中国人に宅地を給した事によるというが、帝都復興計画の一環により、昭和5年(1930)に廃止となっている。

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●天地を逆にしてみたが、鋳造者銘は、「武州川口町 永瀬留十郎製」だ。諸書の史料には見られない鋳鉄製の1対だが、どの堂宇前に鎮座していたのであろうか。冒頭にリンク先を示しておいたが、本サイトでは、留十郎の作例を合計8例見ている。

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明治18年(1885)6月から、大正9年(1920)5月までの期間だが、この引退した天水桶は2番目に古いものだ。人知れず、ここでこのまま朽ち果てるのを待つのであれば、川口遺産として是非とも保護して欲しいものだ。

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因みに、天保年間(1830~)に刊行された「江戸名所図会」には、本堂前に屋根が掛かり手桶を載せた1対の天水桶が描かれている。刊行の時期からしても、上述の明治後期の絵葉書のものでも留十郎製でもないが、富岡八幡宮の長い歴史の中では、一体何代の天水桶が存在したのだろうか。つづく。