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●散策しながら寺社仏閣を歩き廻っていると、本殿へと登る階段下の両脇や、賽銭箱近くなどに「天水桶」が設置されている事に気づく。消火用、水撒き用などに使用する目的での貯水槽だが、自然に落下してくる雨水を溜めておく訳だから、エコで手間いらずだ。

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19世紀初頭から天水桶を奉納するという文化が芽生え始めているが、最近では、時代を経て新規に更新されていたりして、江戸期の面影を失ってしまっている場合も多いのは残念でならない。

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商家の入口や木戸脇にも置かれていたりしたのは、設置を義務付ける法度があったからであり、江戸の町は常に火事と隣り合わせであった。歌川広重の浮世絵、「猿わか町 夜の景 安政3年(1856)」などを見ても、この一景の中に、5基もの四角い天水桶が描かれている。猿若町は、現在の台東区浅草六丁目付近で、後述の中村座などの芝居小屋が集まる町であった。

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●江戸の繁華な街中だけではない。天保年間(1830~)に保永堂から出版された全55図の「東海道五拾三次」の「鳴海 名物有松絞」の中にも、2基の酒樽型(後22項)の天水桶が見える。

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ここは40番目の宿場で、現在の愛知県名古屋市緑区らしいが、鳴海の名物であり地場産業でもあった有松絞(ありまつしぼり)に因んだ1枚だ。2階建ての立派な蔵造りの2軒の商家は、有松絞で潤っていたようだが、法度は全国区であったのだろう。

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●あるいは、建屋の屋根の上などにも天水桶が設置されていたりするが、これも消火用水である。ポテンシャルエネルギーを利用する訳で、つまり、火事の際、火消し人が屋根へ駆け上り水を下へ撒き落とすのだ。しかしその威力は、推して知るべしであったろう。

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墨田区横網の江戸東京博物館(後89項後123項後126項など)には、江戸三座の1つであった歌舞伎劇場の中村座が、原寸大で復元されているが、ここの屋根にも2基の天水桶が載っている。天保12年(1841)10月7日には、中村座からの出火により葺屋町の市村座ともに焼失、同年12月、天保の改革によって浅草猿若町へ移転させられている。この天水桶の水量程度では、火事を消火するには無力であった。

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また、江戸時代の龍吐水(りゅうどすい)という放水消火装置は、上へ撒き上げるポンプだが、容量的にも勢い的にもたかが知れていて、初期消火の際、多少は有効かな、程度であった。後10項でみるが、火事場へ飛び込んでいく火消し人に向けて放水し、その体を冷却することが主な目的だったという。

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●さて、その天水桶、石造製のものも見かけるが、多くは鋳物製品、要は、鉄や銅合金を使った工業製品だ。鋳物とは、ドロドロに溶かした金属溶解湯をオスメスの型のスキマ(製品形状)に流し込み、冷えて固まった後、型から取り出して作った金属成型品だ。

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型さえ作っておけば、短期間に安価で量産できるというメリットがある。しかも、出来上がりは同じもの。街中で見かけるマンホールのフタ(後5項)は身近で、その最たるものだ。石材などから人間がいちいち彫り出していたらこうはいかない。

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●その鋳物であるが、江戸時代も今も、埼玉県川口市(後100項)の名産品だ。車などのエンジンブロック、鉄柵などの景観品、鍋釜、ベーゴマなど用途は多い。近くを流れる荒川で良質な砂が採取できたこと、大消費地江戸への運搬にも河川は不可欠だったことが発展の理由だ。(後14項参照)

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では、寺社で見かける鋳物製の天水桶はどこで誰が造ったものであろうか。それは、桶の裏側を見れば判る。文字が鋳出(いだ)されているのである。「鋳出す」とは、砂型に刻み込まれた文字という形状に、「湯」と呼ばれる溶けた金属が流れ込んで文字を表現するのだ。

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●鋳出された凸文字は、陽刻とも陽鋳、陽鋳造とも言われる。対してノミやタガネなどの工具で彫り出された凹文字は陰刻や線刻と言われ、梵鐘など青銅製の鋳造物に多く見られる。

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例えば、江戸期の百文銭をご覧あれ。「天保通寶(宝)」と判読できるのは、文字が陽鋳造されて鋳出されているからだ。マンホールのフタの紋様や文字、ポスト(後123項)に記された〒マークや製造者名、ベーゴマ(後30項)の文字しかりである。

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●実は、この文字を凸に鋳出すという手法が、金属製天水桶の設置を流行らせる理由だったのだ。江戸後期の文化文政期(1804~)ごろから、檀信徒や氏子が寺社仏閣に天水桶を奉納するという習慣が芽生えている。設置には資金の喜捨が必要だが、寄進者は、自分の名前や屋号を桶の表面に浮き立たさせて表記することでその存在を示したのだ。

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天水桶の製作地を確認してみると、やっぱりだ、川口製の多いこと。近年更新されたものもかなりある。なぜ近年だと判るかと言えば、「川口市」と鋳出されているからで、古いものは「武州川口」、「川口町」などとなっていて、市制実行前なのだ。

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作者は、鋳物師(いもじ)と呼ばれている職人さん達である。川口鋳物師製の場合、「山崎甚五兵衛」作が多いが、他にも秋本さん、鈴木さん、永瀬さん、田中さんらの名が見受けられる。多くは市の有力者で、分家も含め現在でも鋳物業を営んでいる。

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●百聞は一見にしかず、早速、山崎甚五兵衛作を中心に、画像をアップしてみよう。まずは、台東区浅草の浅草寺(後6項後76項後85項など)だ。都内最古の寺で、山号は金龍山、本尊は聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)だ。天台宗の独立一派、聖観音宗の総本山で、年間参拝者数は3千万人とも言われる。

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さすが古刹浅草寺の拝殿前の天水桶だ、デザインといい風格といい存在感バッチリだ。大きさは、上部の額縁部で5尺サイズのΦ1.530、高さは1.400ミリだ。高さは安定化のため一部が石の台座の中に埋没していると思われるから、実際にはもっと高さがあろう。

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●堂宇正面の左右には、各2基づつが2対、合計4基の天水桶が存在する。後ろへ下がりきれないので、正面から全体を俯瞰して4基が写り込むように枠内に収めるためには、参拝者の少ない早朝にパノラマ撮影するしかない。

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右側の樽型の天水桶は鋳鉄製だ。その正面に見えるように日本橋「魚がし」の奉納で、屋根の頂上や6個の手桶にもこの表示がある。その横置きの方形の青銅製のベースには、青海波(後56項)の紋様が描かれている。なお、画像の左側のハス型の天水桶は青銅製だが、後34項で登場する。

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●本体上部の額縁には、赤く色塗られた「魚市場」の文字が陽鋳で連続している。本体のぐるりには、「東京築地魚市場仲買協同組合」や水産関連の社名がずらりと並んでいるが、造立は、「昭和33年(1958)10月」のことであった。

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存在感を示すそのダイナミックさは浮き出た文字の高さであろうか、「魚がし」の文字は25ミリも張り出している。これは後から貼り付けられたものでは無い。同時に一体鋳造された文字だ。

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手桶のタガもリアルで、多くの参拝者が目にするに相応しい堂々たる鋳造物だ。これも鋳鉄製だがサビは一切浮き出ていない。1個の高さは37cm、直径はΦ45cmだから1.5尺のサイズで、「魚がし」の丸い紋章は、Φ120ミリの大きさだ。

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●通常手桶は口径30cm、1尺サイズだ。なぜならば、上の画像のツノの部分に見える穴に横棒である腕木を通して、片手で運べる重さでなければならないからだ。1.5尺だと重くて運ぶのは難儀であろう。江戸時代の浮世絵を見ると、手桶には常時、腕木が通っている。オブジェじゃないから当然だ。いざという時、水を満たして運ぼうとしても、取っ手が無ければ意味がない。

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これに対して、2尺サイズ以上の桶を玄蕃桶(後75項)と呼ぶようだ。これは腕木を通して、2人が肩で担いで運ぶことを想定した桶なのだ。ジオラマに見る右端の人が持っているのが手桶サイズだが、比較すれば、玄蕃桶はかなり大きい事が判る。最もこの玄蕃桶は、人の背丈に比すればかなり大き目に誇張されているだろう。水を満たせば、重過ぎてとても運べない感じがする。

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作者銘の「川口市 山崎甚五兵衛 製作」が誇らしい。日々、多くの参拝客が目にするこの文字が、未来永劫、ここに居座るのだ。人々に日本一見られる天水桶と言ってよかろう。

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●下の天水桶は、すぐ隣りの浅草神社(後8項後57項)の境内にあるが、神社の堂宇からは離れた位置だ。この神社は、推古天皇36年(628)の時世に、草創に関わった土師真中知(はじのあたいなかとも)、檜前浜成(ひのくまはまなり)、武成(たけなり)を主祭神とし、東照宮(徳川家康公)と大国主命を合祀している。5月の例大祭である、その3者の祭神を祀る「三社祭り」は余りにも有名だ。

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その主祭神の聖観音菩薩像は、身の丈が1寸8分、5.4cmだ。この本尊は秘仏であり、住職でさえ直接拝んだ事がないという。しかし明治維新後の廃仏棄釈の際、太政官府の役人が強制的に臨検しようとしたため、仕方なく寺側が自主的に調べたところ、通説の通り、閻浮檀金製の1寸8分の観音様を確認したという。この金は、インド産の砂金のようだ。

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●刊行時期が記されていないので判らないが、江戸期と思われる「大小競(くらべ)」という番付表を見ると面白い。これは相撲の番付表を模しているので、通常の「蒙御免(ご免こうむる)」の部分にこのタイトルがある。

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その下の「行司」の欄には「三国一富士山」とあるが、静岡県と山梨県にまたがる3.776mの日本国の最高峰の霊山だ。これは大きい。そして「勧進元」の欄には、大きい側に16.15mの「奈良大仏」、小さい側に「浅草本尊」とある。当時の人々は、この観音様がごく小さい事を、既に良く知っていた訳であり実に興味深い。

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●1対の鋳鉄製の天水桶は、参道を挟んで置かれているが、大きさは口径Φ930、高さは1.100ミリとなっている。正面に白く飛び出ている紋様は、纏(まとい)の意匠で、江戸消防記念会の「第五区 四番組」の奉納だ。この第5区には9つの番組が属し、その範囲は、台東区全域と荒川区の大部分、千代田区の一部となっている。

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享保5年(1720)、大岡越前守忠相によって編成された「いろは四十八組」は、元文3年(1738)には「死」に通ずる四番組と、「しち」を「ひ(火)ち」と発音してしまう江戸っ子気質からか、七番組が廃されている。現在の記念会ではそれに囚われず、数字の並び上、「四番組」が復活しているようだ。イメージ画像は、嘉永4年(1851)当時の配置。

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天水桶の裏側の鋳出しの作者銘は、「製作人 川口市 山崎甚五兵衛」、「昭和38年(1963)3月18日再建」であった。石の台座には、「蔦中 明治二年(1869)三月」と見えるので、かつての先代の天水桶の奉納は、約1世紀前であったようだが、それは戦時に金属供出(後3項)されてしまったのだろう。

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●続いては、中野区新井の通称新井薬師(後84項)。天正4年(1586)、僧・行春により創建されていて、本尊は空海作伝の薬師如来と如意輪観音像。新井山梅照院薬王寺が正式名だが、2代将軍秀忠公の第5子和子が患った悪質な眼病が、祈願して快癒したことなどから「目の薬師」とも呼ばれている。

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1対の鋳鉄製天水桶は、現在はお役御免という事なのだろうか、大きすぎて参拝の邪魔という事なのだろうか、拝殿の裏に追いやられている。口径はΦ900ミリ、高さは1mほどだが、貴重な文化財だ、再登場を願って止まない。

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これも、「魚がし」の奉納品で、銘は、「川口市 山崎甚五兵衛 製作 昭和34年(1959)11月」だ。「第22世 大僧正聖道」の時世であったが、多くの世話人や寄進者名が列挙されている。

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●次は、台東区下谷の小野照崎神社(後23項)。祭神は、平安初期の漢学者・歌人として有名な小野篁(おののたかむら)で、仁寿2年(852)、この地の住民が上野照崎の地に小野篁を奉斎したのが起源と伝わる。寛永年間(1624~)、東叡山寛永寺の建立のため幕府より移転を命じられ、現社地に遷座している。江戸二十五天神の1つだが、これは、学問の神の菅原道真公を祭神とする天神・天満宮の巡礼コースという。

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鎮座するのは、「川口市 山崎甚五兵衛 昭和54年(1979)4月吉日」と鋳出されている1対の鋳鉄製の天水桶だ。大きさは口径Φ1.150、高さは900ミリとなっている。その正面には、その御祭神の2柱を示す左三つ巴紋と、影紋としての梅鉢紋が配されている。

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●境内には、昭和54年5月に、国の重要有形民俗文化財に指定された富士塚があるが、これを記念しての奉納であった。またここは、寅さんこと渥美清の禁煙エピソードでも知られている。仕事が全くない時代に願掛けをしたところ、「全てを望むな、何かを手に入れたければ何かを捨てなさい」と言われ、ここで禁煙を誓ったと言う。

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昭和9年(1934)刊行の「川口市勢要覧」には、「文化11年(1814)正月 永瀬喜市郎 水盤(天水桶) 一双(2基)」というここの記録がある。続けて「明治7年(1874)再建」となっているので、現存は少なくとも3代目である事が判る。喜市郎は、後28項で登場する川口鋳物師だ。

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●埼玉県蕨市中央の和楽備(わらび)神社は、「蕨」一文字では尊厳味が無いということで、万葉仮名から引用され命名された呼称だ。室町時代に蕨を所領とした足利将軍家の一族、渋川氏が蕨城を築き、その守り神として八幡大神を奉斎したのがはじまりであるという。

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真新しい社殿だが、これは平成8年(1996)に不審火により焼失、翌年に再建されているためだ。1対の鋳鉄製天水桶は、口径Φ90cmの3尺サイズだが、再建時に再塗装されたに違いない。上部の額縁には、古代中国に発する想像上の動物である龍神が据えられている。

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龍神は水を司る水神として日本各地で祀られているが、雨乞いの儀式には欠かせない神だ。水を呼び寄せるべく設置される天水桶に描かれるのはこのためだ。龍は辰だが、十二支の中では唯一の想像上の生き物だ。干支の起源は古代中国だが、龍は実在すると信じられ、神聖な生き物であり中国文明のシンボルであった。このため、十二支の中に入ったと考えられ、6世紀頃に仏教と共に日本に伝来したようだ。

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銘は、「製作人 川口市 山崎甚五兵衛 昭和37年(1962)4月」だ。明治期末の神社合祀55年を記念して、昭和39年に本殿の移築、幣殿と拝殿を新築しているが、その起工時期での奉納であろう。「学友一八会」が「50才天寿記念」として奉納している。

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●次は、北区赤羽西の鎮守、稲付香取神社。朱塗りの本殿は、徳川3代将軍家光公により、慶安3年(1650)に台東区上野公園の上野東照宮(後64項後74項)の旧本殿を移築したものとされる。境内には、260Kgもあるというものを筆頭に、力石7個が奉納されている。

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鋳鉄製天水桶の上部の額縁には、左流れの三つ巴紋が連続している。ここに限らず、随所でよく見られるこの渦巻きも龍神信仰からくるのであろう、防火祈念の水呼び役だ。龍は雨雲を呼ぶ神獣とされ、水神や海神として崇められている。農民には雨乞い祈願の、漁師には海の安全を願う対象だ。寺院においてもその霊験が期待され、火除けの守護神として受容されてきているのだ。

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1対の銘は、「昭和35年(1960)9月吉日」、「製作人 川口市 山崎甚五兵衛」だ。大きさは口径Φ760、高さは3脚を含めて820ミリとなっている。発起人や地域の氏子らが奉納していて、外周にはその氏名が列挙されている。名前の鋳出しの存在が、寄進した事実を満足させる手段なのだ。

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●荒川区西日暮里の富士見坂(後29項)近くの、諏方(すわ)神社。信濃国上諏訪社と同じ、建御名方命(たけみなかたのみこと)を祀っている。縁起によれば、元久2年(1205)、豊島左衛門尉経安泰の造営という。江戸時代の慶安年間(1648~)、3代将軍徳川家光の時代には社領5石を安堵された神社であった。

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周辺は、諏訪台と呼ばれる高台で、江戸時代にはひぐらしの里として有数の景勝地であったが、現在でも境内から下方の電車の行き来を眺められる。当時ここらで「土器(かわらけ)投げ」という遊びが流行った際、「花の散るたびに土器それるなり」という川柳も詠まれているが、ここから投げたのであろうか。

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最寄りの駅は西日暮里駅で、東京都交通局の日暮里舎人ライナー(NT02)、東京メトロの千代田線(C16)、JR東日本の京浜東北線(JK33)、画像の山手線(JY08)が乗り入れている。同駅は昭和46年(1971)の開業で、山手線の中では高輪ゲートウェイ駅に次いで2番目に新しい駅だ。

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●鎮座する1対の鋳鉄製天水桶は、最近の塗装であろう、映え輝いていて心地よい。大きさは口径Φ940、3脚を含めた高さは970ミリで、正面に見られるように、神紋は「立ち梶の葉」だ。これは長野県の総本社の紋様であり、全国で様々にアレンジされ使用されている。

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鋳造者の銘は、「川口市 山崎甚五兵衛」、「昭和41年(1966)5月吉日」の造立だから、既に半世紀が経過しているが、手入れが行き届いていて劣化を感じない。

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●鋳物の街の総鎮守様で、川口市金山町にあるのが川口神社(後5項)だ。創始は天慶年間(938~)と伝わり、かつて、武蔵一の宮の大宮氷川神社(後20項)より分祀勧請している。昭和後期までの「おかめ市」の際には、蛇女や牛女など見世物小屋も出張っていた神社だ。

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天水桶には、「川口神社総代会」の多くの面々の名前が鋳出されている。「岩田三史(初代・昭和8年・1933年4月~同9年10月・医師)」、「高石幸三郎(第4代・金物卸業)」、「大野元美(第7代・鋳物業・後127項)」は、市長経験者だ。因みに市長は、現在までに11人を数えているが、鋳物業関係者は6名いて、正に鋳物の街川口ならではだ。ほかに見られる名前の多くも鋳造業関係者が多い。

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●1対の鋳鉄製天水桶の作者銘は、「製作人 山崎甚五兵衛 昭和32年(1957)1月吉日」であったが、漆黒が社殿に映えている。川口鋳物師が手掛けたこの神社での天水桶の来歴を、昭和9年(1934)刊行の「川口市勢要覧」で見てみると、「万延2年(1861)2月 永瀬長右衛門(後24項後36項後131項) 水盤(天水桶) 一双(2基)」となっているので、現存は2代目であろう。

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大きさは、口径Φ1.060、高さは1.180ミリだ。口径を知りたくても、高所に位置していて直接メジャーを当てられない時がある。そんな円筒の直径を測定するときは、メジャーを外周沿いに扇状に当てて、円の4分の1の所の目盛りを読めばいい。あとは算数だ。掛ける4、そして円周率3.14で割れば直径だ。

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●埼玉県川口市安行(あんぎょう)吉岡の曹洞宗、富雙山金剛寺。明応5年(1496)の創建で、開基の中田安斎入道安行の名前が当地名の由来という。寛永19年(1642)、3代将軍徳川家光より寺領10石の御朱印状を拝領、近隣に十数ケ寺の末寺を擁する寺院であった。

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2世紀前に19世海牛禅師により始められた灸施術が有名で、「お灸の寺」として知られる。また、安行苗木開発の祖といわれる吉田権之丞の墓があるが、この記念碑は、前市長の岡村幸四郎による書だ。第19代から第23代の5期を務めたが、在職中の平成25年(2013)12月25日、急性腎不全のため惜しくも死去、従四位を叙され旭日中綬章を授章している。

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●1対の鋳鉄製天水桶は、「川口市 山崎甚五兵衛 昭和47年(1972)9月7日」銘の奉納で、「35世紹三代」の時世であった。本体の大きさは、口径Φ900、高さは830ミリだが、ベースメントがやけに大きく、その高さは350ミリもある。

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なお同鋳物師は、このサイトで後々度々登場するが、終項までに134例を数えている。特集を組んだ項をここに記しておこう。後24項後27項後41項後50項後56項後57項後84項後102項後106項後114項後128項後132項だ。

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●世田谷区豪徳寺の曹洞宗、大谿山(だいけいざん)豪徳寺(後126項)は、徳川四天王の井伊家の菩提寺だ。幕末近く、「安政の大獄」の反動の「桜田門外の変」で暗殺された井伊直弼の墓は、東京都の指定史跡となっている。招き猫発祥の地ともいわれるが、招福猫は右手を上げていて、小判などを持たない素朴な白い猫だ。

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本堂前の鋳鉄製の天水桶は、「埼玉縣川口町 山﨑寅蔵善末作  大正15年(1926)7月竣功」だが、鮮明な鋳出し文字だ。寅蔵(後20項)は、甚五兵衛の父で先代だが、この後度々登場してくる名匠だ。

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1対の奉納は、「豪徳寺復興会」であった。川口町は、埼玉県北足立郡時代に存在した町で、現在の川口市南西部に位置した。現在の川口市は昭和8年(1933)に誕生しているから、それ以前の鋳造だ。

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●色々と見てきたが、有名どころの寺社も多く興味津々だ。天水桶は、全ての寺社に備わっている訳でもなく、まだまだ全てを踏破できていないが、埼玉県川口市の鋳物産業界の歴史を感じる。今回は山崎氏の作品を中心にアップしたが、次回からは、有名な他の川口鋳物師の作品を徐々に見ていこう。

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なお、天水桶や梵鐘などの鋳造物に刻まれている造立時期を示す年号や月日などは、縦書きでもあるので、そのほとんどが漢数字「一 二 三・・」で刻まれている。当サイトは横書きという事もあり、これを基本的にはアラビア数字(算用数字)の「1 2 3・・」で表記している。ただ、江戸時代以前のものに関しては、洋文字という観念が無かったという事もあり、忠実に漢数字で表記しているのでご了承いただきたい。つづく。