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●ある日、人出が少ない早朝に、台東区浅草の金龍山浅草寺(前1項前6項前76項など)を詣でてみた。参道でもある仲見世の土産屋は開店前だし人影もまばらだが、昼間の雑踏の中では撮れないショットを見てみよう。

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画像の右奥の本殿前には、川口鋳物師の山崎甚五兵衛らが鋳造した緑色の天水桶が見えるが、通路中央には常香炉がある。この後詳細に見るが、その右の方へ目をやると、玄蕃桶(前75項)形状の鋳造物と手水舎には沙竭羅(さから)竜王が立っている。

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●その前に、浅草寺本堂の屋根瓦についてだが、これはチタン製だ。平成18年(2006)6月から4年半をかけて、清水建設(株)が外装改修工事を施工したが、屋根工事は、栃木県宇都宮市の(株)カナメが担当している。同社は、福井県吉田郡の曹洞宗大本山、吉祥山永平寺(後110項)の宝物殿の金属瓦なども手掛けているが、屋根瓦の専門業者だ。

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棟や鬼瓦なども全てチタン製だが、宝蔵門や五重塔の屋根もそうだ。原子番号22、元素記号Tiのチタンは、鋼鉄以上の強度を持ち、質量は約55%と非常に軽い金属だ。汚れが付着しにくいともいう、建屋に優しい瓦な訳だが、現在では、金属瓦を扱う業者も増えているようだ。

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都内大田区池上の(株)日高商事は、「長栄山池上本門寺(前22項)経蔵堂の銅屋根 真間山弘法寺(前64項)のチタン屋根」を担当した事を広告で謳っているし、都内墨田区石原の(株)小野工業所は、日蓮宗新聞の中で、「銅板・チタン・金属屋根葺き専門 身延山久遠寺(後121項)御用達」の広告を出し、各地で営業展開している。

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●屋根面積1.080㎡という宝蔵門の改修工事では、100坪当たりで土瓦38トンに対し、チタン瓦は5トンで、約8分の1に軽量化できたようだ。その総数は、大鬼瓦、小鬼瓦10個を合わせて約7万2千枚だ。 チタンは、金属素材では最高の耐候性を誇り、酸性雨などによる腐食や変色の心配もないという。瓦の落下や耐震性にも問題が無いようで、参拝客の安全性が確保されている。

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本堂の大鬼瓦も特別仕様の溶接構造のチタン製で、板厚1ミリの物を使用しているが、超軽量の素材と言えど、1個当たり60kgほどにもなるという。下の画像が、現在の屋根に掛かるチタン製の大鬼瓦だ。

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●大量、無数とも言える元の土瓦はどう処分されたのであろうか。画像は、浅草寺本堂真裏の、言問い通りに面した寺の境内地と思われる場所だ。沢山の瓦が無造作に積まれているが、該当する旧瓦であろう。

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こちらは、本堂を望める境内の一角で、トイレや喫煙所がある場所だ。土中に埋め込まれ一区画を囲っているが、これも旧瓦であろうか。

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●一方、旧鬼瓦は、観光客の目に付く所に残されている。通常、大鬼瓦は屋根の最頂部の左右に1対2基が存在するが、その内の1基で、展示の場所は、東京メトロ銀座線の浅草駅の1番出口を出た所だ。

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「浅草守護鬼瓦」と掲げられ、「この鬼瓦は、かつて浅草寺宝蔵門の大屋根に据えられていた1対のうちの1つで、絶えず上空から浅草の町を見守っておりました。浅草を知るこの鬼瓦は、当地を訪れる人々を護る新たなシンボルとしてここに設置されました」と説明されている。

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●さて、常香炉は、落ち着いた銅褐色で情景にマッチしているが、日中は人だかりで近寄ることもままならない。昭和33年(1958)10月に、「本堂落慶 開帳記念」として設置されている。パナソニックの松下幸之助が、火災消失した雷門の95年ぶりの再建と大提灯の奉納をしたのは、この2年後だ。

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6角形の台座に刻まれているように、デザインの設計は「浅草寺工事監理事務所」で、鋳造者は「京都市 高橋鋳工場」だ。前84項でも登場したように、現在は廃業したこの工場では、主に仏具の鋳造を手掛けていて、各地で梵鐘などの作例を見かける。

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初詣時のここの混雑は壮絶を極め、参道の真ん中にあるこの常香炉は通行の邪魔だ。画像は、大晦日の日の様子だが、左下にその設置の痕跡があるように、常香炉は「授香所」前まで移動させられている。新年を迎える準備なのだ。

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●その授香所前に置かれている、この玄蕃桶(前75項)形状の青銅鋳物は何であろうか。これも通行に邪魔な感じがするが、味わいのある存在だ。表面には奉納者の「江戸消防」という丸い紋章が鋳出されているが、そのデザインは実にセンスがいい。大きさは口径Φ555、高さは800ミリの1基だ。

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外周を廻る上下の帯にこの当時の寺紋の「卍」が見えるが、この紋は、ナチスのハーケンクロイツを連想させるとして、特に外国人観光客から悪評で、1970年代頃には、「鎹山(かすがいやま・前34項)」のデザインに変更されている。「昭和39年(1964)4月吉日」に「江戸消防記念会」が奉納しているが、これは線香の点火筒だ。

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その日付の左側に作者銘が陰刻されている。「川口市 山﨑作」だ。どちらかと言えば稚拙な彫り込み技術だが、本人が刻んだものであろう。下の名前が不明だが、この当時の「山﨑」は、冒頭の天水桶鋳造の大家の川口鋳物師、山崎甚五兵衛だ。こういった遠慮したかの様な刻みの光景は、前57項でも見ているのでご参照いただきたい。


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●手水鉢の真ん中には、頭部に龍を載せた「沙竭羅(さから)竜王」が立っているが、これは八大竜王の1つで海に住んで水をつかさどるとされる海竜王だという。「明治36年(1903)」に高村光雲が「奉安」しているが、実はこれ、文化財保護のため本物ではなくレプリカだそうだ。

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光雲は、嘉永5年(1852)2月生まれで、昭和9年(1934)に満82才で没している。日本の仏師、彫刻家で、詩人にして彫刻家の高村光太郎は長男だ。江戸下谷(現・台東区)に町人の兼吉の子として生まれ、仏師の高村東雲に師事している。

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積極的に西洋美術を学び、廃仏毀釈運動(前63項)の影響で衰退しかけていた木彫を、写実主義を取り入れることで復活させ、江戸時代までの木彫技術の伝統を近代につなげる重要な役割を果たしている。また上野公園の西郷隆盛像(後100項)の作者としても高名だ。

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●場所は変わって、次のここは都内大田区池上の長栄山池上本門寺だ。巨大な天水桶は前22項で、梵鐘に関しては前52項で紹介しているが、今回は常香炉を見てみよう。正面に見えるのは日蓮宗の寺紋だが、重そうな青銅製の香炉を3匹の邪鬼たちが肩で受け止め支えている。大きさは直径Φ1.8m、高さは1mもある。

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「昭和40年(1965)10月」に同地区の雲山堂が謹製している。この商店は、日蓮宗関連の冊子の広告でよく見かけるが、「池上本門寺御用達」を謳う仏具取扱い販売店だ。実際の「鋳造師」は、「越中國 高岡市 山本理八郎 関善一」となっている。ネットで見ると現在は、高岡仏具卸業協同組合の一員として、「山本理八郎商店」名で営業しているようだが、商店という社名からして、今は鋳造はしてない印象だ。

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●山本さんが手掛けた常香炉がここにもある。信州は長野市元善町の定額山善光寺(後122項)の大本願で、浄土宗の大本山だ。ここは、善光寺創建の西暦642年当初からその歴史を共にしてきた尼僧寺院で、代々の大本願住職、尼公上人が善光寺上人として、その伝統を継承してきている。

善光寺・香炉

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青々としていて味わいのある香炉だが、親子の獅子が唐草模様の蓋の上で睨みを利かせている。見惚れるほど洗練された意匠だと思うが、センスのいいデザイナーだ。「平成8年(1996)11月吉日」の、「第百二十世 善光寺上人 一条智光大」の時世に、名古屋の人が寄進している。この年には、善導大師像や法然上人像、歴代上人の位牌が安置されている本誓殿が落慶しているので、それを記念しての奉納であろう。

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「鋳造 高岡市本町8-12 山本理八郎」と金文字で鋳出されている。「鋳造」とあるから、実際に同社で鋳たものであろう。文政11年(1828)からの「諸国鋳物師名寄記」の「富山下金屋」の欄には、「山本五郎左衛門」という鋳物師がみえる。単に同姓というだけであるが、関連する家系であろうか。

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●話は変わって、鋳鉄製の羽釜(後94項)を何例か見てみよう。群馬県みどり市大間々町には、「にほんいち醤油」の工場があるが、天明7年(1787)の創業以来、木製桶仕込みでの天然醸造という暖簾を守り続けている。

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わたらせ渓谷鉄道を臨む、ルート122号沿いにある巨大な羽釜は、正に店のシンボルだ。平成16年(2004)には創作料理店、「天忠」をオープンするなど多角に経営していて、同25年には、工場店舗兼主屋と文庫蔵が、国の登録有形文化財に登録されている。ちなみに、本社は東京都町田市にある。

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●東京都福生市熊川に石川酒造(株)がある。石川家は熊川村の名主で、将軍家への玉川鮎の献上、朝鮮通信使の饗応といった御用を務めた家柄だ。文久3年(1863)、13代目当主和吉が酒造りを始めているが、「多満自慢」は、昭和8年(1933)から使われる銘柄名という。東京の地酒だ。

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敷地内外では、かつて使われていた鋳鉄製の羽釜が3基も見られる。その上に木桶が載っている状態だが、羽の外側で8尺、2.4mもあるから迫力ある大釜だ。鋳造者銘は、「三州 山サ(後97項)」と陽鋳されている。

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手前の赤ポストと比しても、その大きさが際立つが、そのポストの鋳造先は、川口市朝日に工場を持つ、昭和5年(1930)5月創業の吉村工業(株)(前69項後123項後132項)だ。裏側の真下には、「昭.31.吉村製」と記されている。

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●一角に、イタリアンレストラン「福生のビール小屋」があって、料理と様々なビールや酒を堪能できる。石川酒造では、明治21年(1888)2月からビールの醸造を開始しているが、現在知られる地ビールは、「多摩の恵」だ。左脇に見える6尺ほどの羽釜は、「三州 山十製(前78項)」の銘となっている。

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●これまでに見た鉄製の羽釜で最も古いものが、次の神奈川県足柄下郡箱根町の箱根神社にある。ここは天平宝字元年(757)、万巻上人が現在地に里宮を創建して、僧・俗・女の3体の神を箱根三所権現として祀ったと伝わる。その後の伝承では、万巻が暴れていた芦ノ湖の九頭龍を調伏し、境内社の九頭龍神社本宮を建立し、九頭龍を守護神として祀ったとされている。

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敷地内にある宝物館は、明治40年(1907)の開設だが、ここに国の重要文化財という鉄釜が2基展示されている。口径、高さともに1メートルほどで、ほぼ同じ形状、大きさだが、近年修理が施されたようで、清潔に管理されている。

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説明文によれば、鉄湯釜は関東最古のものだが、外周の羽の部分はほぼ欠落、胴部から底部にかけても激しく割れて崩壊してしまっている。口縁に鋳出された銘は、鎌倉期の「文永五年戊辰(1268)十二月二日」で、蒙古襲来の元寇に際し、「関東静謐 武家安穏」を祈念し鋳造されたという旨も刻まれているという。釜は、湯立てなどの神事に使用されたものだろうか。

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●こちらは「弘安六年癸未(1283)五月一日」銘で、浴堂釜と説明されているが、入浴用の風呂釜という事だろうか。湯釜より肉厚だといい、大きな損傷は無い。両基とも口縁に銘が廻っているが、摩滅していて現物での判読は困難だ。京大の調査によれば、ここに鋳造者の名前も存在するようだ。

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2基ともに、大筥根山東福寺にあった釜で、鋳物師の詳細は不明ながら「伊豆国 大工 磯部康廣」という。かつて箱根権現は、併設の東福寺住職の管理下にあったが、明治の神仏分離令によって箱根神社と改称した際に、金剛王院東福寺は廃寺となっている。なお磯部は、東福寺の梵鐘も鋳たようだ。

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また、2代目歌川広重の「諸国名所百景 豆州箱根権現(元治元年・1864)」や、小林清親画の「箱根神社雪(明治13年・1880)」にもその存在が描かれている。明治期の古写真を見ても、赤鳥居の脇に雑然と羽釜が置かれている様子が同じ構図で写っている。

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●太田氏釜屋六右衛門、通称釜六(前17項)が鋳たという最古の羽釜も見ておこう。東京都江東区大島にある中川船番所資料館だ。ここは、江戸時代に小名木川の中川口に設置されていた「中川番所」と水運に関わる展示を行っている。釜六の鋳造場は、ここから小名木川を西へ2.4km行ったところにあった。横十間川が交差している所で、現在、釜屋堀公園(前18項)となっている場所だ。

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大きさは目測で1尺強だから、これは茶釜であろうか、湯沸かし用の羽釜であろうか。口がすぼまっているので、炊飯釜ではないだろう。表面に「南無阿弥陀仏」とあり、二親の菩提を弔うために寄付された旨の文字が陽鋳造されている。「武州豊嶋郡葛西荘大嶋村 念佛堂(現大島3丁目)」とあるので、元はそこにあったのだろう。

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●鋳造日は、「于時(うじ=時は・前28項)寛文八年霜月廿五日」、1668年11月25日だ。「鋳物師 釜屋六右衛門」銘が確認できるが、釜六がこの地へ移転してきたのは、万治元年(1658)頃であったから、正に初期の頃の作例だ。

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なお、当サイトで知り得る釜六の最古の鋳造物は、徳川四天王の井伊家菩提寺の豪徳寺の梵鐘で(後126項)、「武蔵国荏原郡世田ケ谷郷 豪徳寺鐘 延宝7年(1679)7月8日 武州住深川大嶋村 冶工 近江大掾 藤原正次」銘であった。

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●続いて、最近出会った陶器製の天水桶を見てみよう。まずは神奈川県小田原市板橋の日蓮宗、象鼻山生福寺(しょうふくじ)。同地域にあった中山法華経寺末の妙福寺と、現在地にあった下総国葛飾郡平賀村本土寺末派の浄水山蓮生寺が大正時代の初めに合寺し、それぞれから1字をとって生福寺となっている。


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ここには陶器製の天水桶が1対あるが、「大正3年(1914)7月」と銘打たれている。鹿児島県の桜島が大噴火して大隅半島と陸続きになったのは、この年だ。半島の東部に位置する肝付町には、ロケット発射場である内之浦宇宙空間観測所が所在している。昭和45年(1970)には、日本初の人工衛星「おおすみ」を搭載した「L-4Sロケット5号機」が打ち上げられている。

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外周に文字や、宗紋を確認できるが、砂型を使う金属鋳物で言うなら凸文字の「陽鋳」だ。陶器製の天水桶はよく見かけるが、通常は量産品であり、どれも画一的だ。これはオーダーメイド品であったが、金属の鋳造と同じような方法で製作されるのであろう。

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●こちらも誂えられた陶器の天水桶だが、場所は神奈川県横須賀市緑が丘の、諏訪大(すわだい)神社だ。掲示板によれば、「神社の伝承によると、康暦2年(1380)に、この地の領主であった三浦貞宗(横須賀貞宗とも言う)が、信濃国(現在の長野県)諏訪から上下諏訪明神の霊を迎えて建てたという。」拝殿の両脇に天水桶が1対置かれているが、大きさは口径Φ890、高さは715ミリだ。

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正面に、飛び出さんばかりの躍動的な唐獅子牡丹が描かれている。一見して鋳鉄製と思われたが、磁石に反応しないのでこれは陶器製だ。横須賀市旭町の人が納主で、裏側には、「大正四年(1915)卯9月」という陰文字が刻まれている。

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●埼玉県加須市大門町の寺領22石の御朱印寺、浄土宗の無着山龍光院龍蔵寺(後97項)にも陶器製の天水桶がある。朱印状とは、免税の土地などを与えられた事を証明するお墨付き状の事だ。

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この書状に朱の印が用いられているところからその名があるが、将軍は朱の印を用い尊ばれ、将軍以外は朱印を使用できず、大名といえども墨印を用いていた。ここには、慶安2年(1649)に徳川家光から与えられた朱印状に始まり、14代家茂までの9通があるという。(掲示板より)

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●この桶には「TOKONAME KATAOKA」という印刻がある。「とこなめ焼協同組合」のページを見ると107社が登録されていて、「山秋」、「誠山」という陶号名を持った片岡姓の方がいるようだが、この人の手によるものであろうか。大きさは口径Φ1.2m、高さは720ミリの4尺サイズとなっている。

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常滑焼は、愛知県常滑市を中心とし、その周辺を含む知多半島内で焼かれる炉器で、日本六古窯の1つだ。平成29年(2017)、常滑焼は、瀬戸焼(愛知県瀬戸市)、越前焼(福井県越前町)、丹波立杭焼(兵庫県丹波篠山市)、備前焼(岡山県備前市)、信楽焼(滋賀県甲賀市)と共に、日本六古窯として日本遺産に認定されている。

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●次は、千葉県浦安市猫実の新義真言宗、海照山花蔵院だ。創建年代等は不詳ながら、賢融和尚が天正5年(1577)に中興したという。行徳・浦安観音霊場三十三ケ所の30番札所で、本尊を大日如来としている。

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ここでも陶器製の1対を天水桶としている。大きさは口径Φ730、高さは660ミリで、裏側に「用水」と見えるように、これは貯水を目的とした容器だ。同じものを各地で散見できるので、量産品のようだ。

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●次は、個性あふれる形状の天水桶を4例だ。川越市久保町にある成田山川越別院本行院は、真言宗智山派で、明治10年(1877)に千葉県成田山新勝寺(前52項など)最初の別院として認められていて、通称は「川越不動」だ。嘉永6年(1835)に、石川照温が廃寺になっていた本行院を復興し創建している。川越喜多院(後98項)の北隣に社殿を構え、商売繁盛や五穀豊穣をもたらす恵比寿天を祀っている。

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ブロンズ製の天水桶1対は、「平成4年(1992)11月10日」に開創140周年記念大祭が開催され、本殿改修の落慶記念として奉納されている。寸胴型は珍しく目を引くが、反花(前51項)の台座に乗っていて、花弁というよりつぼみをイメージさせるが、このモチーフは蓮華の花だろうか。鋳造者は不明だが、大きさは口径Φ800、高さは930ミリとなっている。

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●上の全景写真にも写っているが、堂宇左側の軒下に半鐘が吊り下がっているのが見える。陽文字は、「明治十一戊寅歳(1878) 新造」で、「下総国成田山新勝寺末 川越久保町 成田山本行院 開基 一心」だ。寄進者名は陰刻されているが、「喜多町 大塚村 西町 志多町」など地元の住所があり氏名が並んでいる。小さいながらも108個の乳が備わっていて、撞座の摩耗状態からすると使用頻度が少なそうな1口(こう)だ。

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鋳造者の銘は意外であった。「武州足立郡川口町 製作人 永瀬正吉」という陰刻だが、鋳造時期からすれば、2代目の正吉だろう。川口鋳造界の中興者と言われる3代目正吉(後104項)の事業継承は、明治17年(1884)、27才の時であった。

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代々は「庄吉」を名乗っているが、「正吉」銘は、先代が存命していた事などによる商標的ネームだ。永瀬家は、鋳鉄の鋳造に特化していたはずなので、この半鐘は、青銅鋳物を得意とした親戚筋の川口鋳物師、小川家(前24項前53項前63項)によるものではなかろうか。いずれにしても貴重な銘を持つ、知られざる銅鐘だろう。


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●ここにも似たような形状の天水桶があった。佐野市越名町の金蔵院だ。安土桃山時代初期(1570年代)に、安養坊法師と須藤六右衛門正行(唐沢城佐野家々臣)の尽力により「医王山金蔵院薬師寺」として開山され、「薬師如来」を本尊として祀っている。


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「平成20年(2008)5月吉日」の奉納で、大理石から削り出しているが、シンプルな輪違い紋が際立っている。これは金剛界と胎蔵界を表わすといい、真言宗豊山派の総本山である、奈良県の長谷寺の寺紋としても知られている。

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●お次は、浦安市堀江の日蓮宗、説江山正福寺。ここは、十乗院日詠律師が文禄2年(1593)に開基している。ここに「しなび地蔵尊」なるものがあるが、区の掲示板を読んでおこう。『昔、堀江村に「しなび」という屋号の家がありました。

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ある時、しなび家の主人が江戸に行商に行った時、焼け野原で首が欠けた地蔵尊を見つけました。主人は首を修復することを約束し、家に持ち帰って皮膚の病気が治るようお祈りしたところ、まもなく病が快復しました。主人はさっそく首を修復して元の形に戻し、丁重に供養しました。

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後年、しなび家の者が池田家の養子になり、地蔵尊は池田家の屋敷地先に移されました。昭和38年(1963)、同家の改築に伴い、正福寺の第19世住職の日忍が境内に祠堂を建てて、地蔵尊を安置しました。今日もこの霊験を伝え聞いた人々が参詣のため、同寺を訪れます』という。

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1対の天水桶は独特の細長い形状で、人の背丈ほどの高さがある。反花があるのでモチーフは、蓮華であろう。鋳肌が荒れ気味の青銅製だが作者銘は鋳出されていない。裏側に奉納者の名前が浮き出ているが、「平成5年(1993)3月吉日 当山20世 日奨代」の時世であった。

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●横浜市神奈川区神奈川本町の浄土宗、吉祥山慶運寺は室町時代に開かれているが、横浜開港当初はフランス領事館として使用されている。また、掲示板を要約すれば、浦島寺とも呼ばれていて、浦島太郎が竜宮城より持ち帰ったという観音像など浦島伝説にちなむ遺品が伝わっている。

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このお伽話は、一般に知られるあらすじでは、亀を助けた報恩として浦島太郎が海中に連れて行かれ、竜宮城で乙姫らの饗応を受ける。帰郷しようとした太郎は、「開けてはならない」と念を押されつつ玉手箱を渡される。

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帰り着いた故郷では、竜宮城で過ごした時間より遥かに長い年月が経っており、失意の余り玉手箱を開けてしまった太郎は、白髪の老人に化するというものだ。亀の背に乗って玉手箱と一緒に浦島観世音を持ち帰ったという太郎だが、ここの手水鉢は亀がモチーフだ。甲羅の部分を大きく窪ませ、そこに龍頭が水を注ぎこむ趣向となっている。

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●青銅製の小ぶりな球形の1対は玉手箱のイメージであろうか。この箱は、元々は化粧道具を入れるためのものとされ、「玉櫛笥(たまくしげ)」が玉手箱となったといい、貴族の女性はその中に贈り物などを入れて贈答を行うこともあったという。

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「玉」の文字は、球形を意味するものでは無さそうだが、これが降雨の水受けとして置かれている。中央には「浮線蝶」とか「鎧蝶」呼ばれる紋章が見られる。大きく広げた羽で円形をかたどっていて、平安期の平氏一門がこの紋を多用したというが、つながりやいかに。つづく。