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●今回は、各地で見た「擬宝珠」から見てみよう。まずこれの発音は、「ぎぼし、ぎぼうしゅ」のようだ。辞書によれば、「伝統的な建築物の装飾品で橋や寺院の階段、廻縁の高欄の柱の上にある飾り。ネギの花に似ている事から、葱台(そうだい)とも呼ばれる」とある。

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まずは、富山県高岡市伏木古国府の雲龍山勝興寺(前22項)。文明3年(1471)、本願寺8世蓮如が北陸布教の途中、砺波(となみ)郡土山(現福光町土山)に一寺を建て土山御坊と称したのが始まりだ。画像は、文化2年(1805)に建立された経堂で、内部は塗りを施さない欅の素木造りという。

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擬宝珠の各部の呼称としては、最上部が「宝珠」、その下のくびれが「欠首(かきくび)」、本体の「胴」には、3本のリング状の「節」が見られる。主柱が木製の場合、材質は銅板や青銅製である場合が多く、雨水などによる木材の腐食を抑える役目がある。

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●ここの青銅製の擬宝珠には多くの気泡、巣喰いが見られる。これは、水道水を冷蔵庫で凍らせた時に出来る、水泡と理屈は同じだ。理想的な純金属(純水)でない事や冷却に時間差がある事、凝固時に収縮、膨張する事などが発生理由だ(前67項)。当時は、溶鉄の温度管理にも大きな問題があったように思われる。

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我々は日常において、鋳造作業的な事を何気なく行っている。ハート形のクッキーを作ろうとしたなら、熱したフライパンにハート状の金枠を置き、そこに溶かした食材を流し込む。湯入れであり、正に鋳造だ。冷めて取り出したクッキーをよく見てみると、内包された気泡のブツブツがそのまま固まっている。これが巣喰いだ。

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クッキーならフワフワ感が出て、食感に程よく寄与しようが、擬宝珠は、人目に付くものであり見た目の美観は重要だ。精密機械部品向けの鋳物であったなら、強度にも大きく影響する訳で、不良品であり、作り直しだ。

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●さて、擬宝珠の鋳造者は、「鋳物師 藤田四郎右エ(衛)門 明治26(1893)年9月造之」だが、この人の先祖は元祖高岡鋳物師だ。文久元年(1861)の「諸国鋳物師控帳(川口市・増田忠彦蔵)」には、「越後国苅羽大窪村(現柏崎市大久保)」と並んで、「越中射水高岡金屋町」の欄には、多くの鋳物師名が並んでいる。

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数えてみると51人だが、「武蔵国足立郡川口宿」は27人だから、約2倍だ。しかし、苗字だけを基準に数えてみると面白い。金森家22、藤田家11、般若家7、喜多家6で、この4家だけで9割を占めているのだ。

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●ここは戦国武将の前田家に庇護されてきた地域であり、いくら分家を繰り返しても潤沢な仕事量があったのだろう。人名録は、京都の真継家傘下(前40項)の鋳物師ということであり、諸役の免除や新規鋳物師の参入禁止という独占権を得ていた訳であり、その結果の先の9割だろう。

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この「藤田四郎右衛門」は、慶長16年(1611)、加賀藩主の前田利長が城下の繁栄のため、高岡市金屋町に呼び寄せた元祖鋳物師7人衆の系統だ(前120項)。現在子孫の方の1人は、高岡市野村で、萬延元年(1860)創業の、(株)藤田銅器製作所を運営している。

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ホムペには、「前田利長公より鋳物師の許可証を授与」とあり、事業内容として「寺院用、在家用仏具・神具・美術銅器鉄器・輸出銅器・大型ブロンズ像等、各種記念品・各種企画制作」を挙げている。美術作品に刻まれる号は、「善祐」のようだ。

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●次の画像は、京都府の鴨川に掛かる三条大橋(前83項)の擬宝珠で、慶長6年(1601)に徳川家康によって定められた東海道五十三次の西の起点地だ。初代の架橋は不明といい、天正18年(1590)、豊臣秀吉の命により、増田長盛を奉行として石柱の橋に改修されている。

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430年前当時の擬宝珠がそのまま残っている様で、銘文には、「盤石之礎入地五尋」、「切石の柱は六十三本」などと記されているが、橋の構造を示すものであろうか。「天正十八年庚寅(かのえとら)正月日 豊臣初之 御代奉 増田右衛門尉長盛(前83項) 造之」と線陰刻されている。長盛は、豊臣五奉行の1人で、天文14年(1545)の生まれだから、45才時の普請だ。

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●次のさいたま市緑区中尾の天台宗、宝珠山十林院吉祥寺は、前46項で登場していて、「川越市 鋳工 矢澤四郎右衛門 昭和3年(1928)11月建設之」という、鋳鉄製天水桶1対の存在を見てきている。

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天台宗別格本山という事もあって、大きな堂宇であるが、廻っている高欄の柱には、6個の擬宝珠がある。広くはない表面に色々な情報が線刻されているが、「武州足立郡中尾村 宝珠山38世 法印良雄代」で、「文政8年(1825)9月吉日 寄附 普請講中」であった。

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●鋳造は、「鋳物師 永瀬嘉右衛門(前27項)」だ。この川口鋳物師とは、前15項の文京区本郷の金刀比羅宮東京分社で出会っている。「武州足立郡川口 鋳物師 永瀬嘉右衛門 文化13年(1816)5月15日」と鋳出された鋳鉄製の天水桶1対であった。

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近郊に現存する、嘉右衛門製と確認できる作例はこの2点だけであると思われるが、鋳造日から推して同一人であろう。先の真継家の史料にも登録された勅許鋳物師であったが、そこには「安政4年(1857)12月 当家並 自分継目」と記録されている。

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●続いては、山梨県甲州市塩山小屋敷の、臨済宗妙心寺派、乾徳山(けんとくさん)恵林寺。元徳2年(1330)創建の名刹であるが、永禄7年(1564)、戦国武将の武田信玄は寺領を寄進し当山を菩提寺と定めている。国重文の四脚の赤門、鎌倉期の太刀など見所は多いが、開祖の夢窓国師が築庭したという枯山水式の庭園の前に禅定閣方丈がある。

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周囲に回廊が巡っているが、柱には10個の鋳鉄製の擬宝珠が存在する。銅板からの叩き出しであったり、青銅鋳物であるのが通例だと思っていたので、鋳鉄製はかなりレアだ。人に触れられる機会も多い擬宝珠がサビては不都合だし、サビが木柱に悪影響を及ぼしかねないからで、現存例は少ない。

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●同じ鋳型による鋳造だから、同じ文字がそれぞれに陽鋳造されているが、それにしてもこういう所での凸文字は驚くほど珍しい。普通はタガネで刻んだ凹文字だ。「昭和27年(1952)2月11日 現住會元代」に施主が菩提供養のために奉納している。胴部には縦線が見え、これが型の分割線だが、3本の節もあり、典型的な擬宝珠の意匠だ。

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終戦間もないこの時期は、まだまだ物資不足であったと推測できるが、高価な銅材の入手は困難だったのだろう。より安価で手に入れ易い鋳鉄鋳物で代用するしか無かったのかも知れない。鋳造者銘は、「製作者 (正)株式会社 永瀬鐵工所」で、「正」は社章だ。

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●昭和初期の同工場の様子を写真で見ると、建屋に同じ社章を確認できる。前104項で解析したが、川口の鋳造業中興の祖と言われる3代目永瀬庄吉は、安政4年(1857)の生まれで、昭和20年(1945)4月20日に89才で没している。

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従って擬宝珠を鋳造したのは、明治23年(1890)11月5日生まれで、第3代目の川口市長(本項で後にも登場)を歴任した、次の画像の、長男である4代目永瀬寅吉(前4項前19項前75項前104項)62才の時だ。寅吉は、市議会の初代議長を歴任、川口商工会議所会頭、川口鋳物工業組合理事なども務めている。

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昭和8年(1933)当時の、寅吉時代の会社の写真を見てみよう。「埼玉県川口市本町一 所主 永瀬寅吉」となっているが、6千坪という広大な敷地の中、主力製品である大口径の鋳鉄管(前74項)が転がっている。寅吉の市長任期は、昭和10年7月1日から同13年4月1日であったが、巨大企業を切り盛りする中、多忙を極めた事だろう。

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●鋳鉄製の擬宝珠は、かなりレアで現存例は少ないとしたが、鋳造者は不明ながら、もう1例を見知っているのでここにアップしておこう。千葉県長生郡長南町にある、大悲山笠森寺、別称笠森観音だ。寺伝によれば、延暦3年(784)に、伝教大師最澄が、楠の霊木で十一面観音菩薩を刻み安置し開基したとされる古刹だ。

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ウィキペディアによれば、観音堂は、61本の柱で支えられた四方懸造と呼ばれる構造で、日本で唯一の特異な建築様式であり国の重要文化財だ。長元元年(1028)に、後一条天皇の勅願で建立されたと伝わるがその後焼失し、現在の建物は解体修理の際発見された墨書銘から、文禄年間(1592~1595)の再建とされている。

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仰ぎ見上げる高さの急な木造の階段を登り切ると、菩薩さまが鎮座している。回廊が巡っていて遠景を一望できるが、4隅に黒サビに覆われた擬宝珠がある。鋳鉄製だ。昭和35年(1960)に東京の人が寄進した旨、陰刻されている。

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擬宝珠は高所にあって、常に風雨に晒される過酷な環境にあるが、しっかりと木柱を保護している。この存在は不可欠であった。なお擬宝珠に関しては、前89項ではお江戸日本橋の、前109項では青梅市住江町の総鎮守・住吉神社のものも見ている。他にも多項で登場しているので、検索してご覧いただきたい。

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●川口市本町1丁目で天水桶に出会ったので見てみよう。とある民家だが、通りから1基の鋳鉄製の桶が見える。正面上部には横書きで「水溜」となっているのだろうか、下には縦書きで「永瀬」と陽鋳されている。

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上部の額縁に連続している紋様は、篆書体の「永瀬」だろう。3尺程度の大きさと思われるが、個人宅の消火用水桶として鋳造したのだろうか。これは平成22年(2010)刊の「川口鋳物の歴史」の中で、「永瀬邸 明治14年(1881)」とみえる1基のようだ。

金屋町・民家

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●川口市金山町に呼称不明な、小さな神社がある。金山町の信号の南東側、高層マンションのサウスゲートタワー川口のすぐ南で、昭和初期の古地図をみると、かつて金山権現社が鎮座していた辺りだ(前5項)。赤い鳥居は鉄製だが、扁額はなく不明な社だ。今の地図には記載がないようだが、古地図には神社である事を示す鳥居のマークはある。

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当時、近辺は鋳物工場の集積地であった。このサイトでも度々登場する、永瀬留十郎、永瀬庄吉、山﨑寅蔵、甚五兵衛らの工場だ。平成9年(1997)の川口市の調査によれば、この神社は、昭和35年(1960)ごろに金山稲荷を勧請した、私設の屋敷稲荷社となっている。

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所有者は、「小嶋善之助」となっているが、同家の祖先の寅次郎は、かつて「鍛冶寅(前5項)」と呼ばれ、鋳造用具のヘラやガス器具の部品を製作をしていたという。昭和初期からは機械工場を興していて、後継の隆善氏は、平成8年(1996)から川口機械工業(協)の理事長を歴任している。

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●鋳造の際の湯入れは、上述のように巣喰いが出来て不良品になるなど、「神のみが知る」的な部分が多分にあったようで、現代以上に神聖視された作業であった。多くの工場では、火や鉄の神様の、金山彦神(かなやまひこのかみ)や笠間稲荷、伏見稲荷らを祀った企業内神社(前62項)を設け、湯入れ前に職工全員が拝んで成功を祈願したという。

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「神聖視」という部分においては、現代の職工に話を聞いてもうなづける事がある。湯入れ作業は、昔も今も一瞬であると言う。小さい物でも巨大な鋳物でも等しく一瞬なのだ。鋳型が大きくなれば湯口の数を増やし、あちこちから湯入れして対応する訳で、必ず一瞬なのだ。

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●鋳造工程は簡略に言えば、机上の計算、方案の考察から始まり、木型や鋳型の製作、組付け、そして素材の溶解となる。巨大であるほど、ここまでに長大な時間と膨大な費用が掛かっている。湯入れは一瞬だが失敗は許されない。

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工場内の社に「神様お願い!」と神頼みする気持ちが判るが、現在でも、この神事を継承し実行する鋳物工場は多いという。鋳造するという事は、今昔を問わず神がかった神事なのかも知れない。実際、先の古地図を見ても30ケ所以上で鳥居マークが確認できる。金山町1丁目から3丁目の範囲だけでだ。画像は、近隣に今日鎮座するお稲荷様だが、かつては鋳物工場の敷地内におわしたのだろう。

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●さて、ここにある1対の鋳鉄製天水桶は、口径1尺、高さも30cmだ。奥にお狐様が1対見えるが、桶の正面にも、稲荷社の象徴の稲荷紋がある。石の台座に載った鋳鉄のベースは大きく、2、3尺サイズの桶ならば丁度釣り合いが取れそうな巨大なサイズだ。

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この地での設置であるから、川口鋳物師の作例であろうが、鋳出しは無く作者は不明だ。ベースは数段の同心円形状だが、デザイン的には、山崎甚五兵衛製(前84項など)であろう。田中鋳工所製(前68項など)はほとんどが2段構え、鈴木文吾製(前3項など)は通常、そこに菊か蓮の反花(前65項)を描きこんでいる。他の鋳物師は、ベースの製作自体していない。

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本体の最上部には、雷紋様(前116項)が廻っている。秋本鋳工場製(前81項など)のほとんどには、この紋様が見られるが、巻きがもっと細線でかなり多重に描いている。甚五兵衛は通常そこに、唐草紋様や寺紋と、龍の姿を鋳出していてるから、この天水桶は甚五兵衛調ではない。

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●しかし、ベース製作が甚五兵衛であるとすれば、本体も甚五兵衛製なのであろう。外周に鋳出されている文字は、「昭和27年(1952)」だけだ。先代の山﨑寅蔵は、昭和20年1月に行年59才で没しているから、2代目の山崎甚五兵衛による鋳造であろう。山崎家の製造であるとすれば、鋳造年からしてそれは断定できる。何故なら、この年月の鋳出し文字は凸の陽鋳であり、その造形は鋳造時と同時でなければ不可能だ。先代の寅蔵が残した在庫品でもないのだ。

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前114項では、神奈川県藤沢市片瀬にある寂光山龍口寺で、「昭和22年(1947)8月15日 製作人 山崎甚五兵衛」という桶を見た。これは同氏の銘の最古作であったが、上部に同じような雷紋様が連続している。この項に至るまでに、甚五兵衛作の天水桶を132例ほどを見てきているが、なんと、雷紋様を見れるのはこの1例だけだ。先代没後の間もない期間に、甚五兵衛は1度だけこの雷紋様を鋳出していたのだ。

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●では、先代の寅蔵はどうか。下の画像は前69項で見た江東区大島の子安稲荷の天水桶だが、大きさも1尺強ほどだし、デザインも不明神社のものとほぼ同じだ。寅蔵はその多くに雷紋様を描いている。経験がまだ浅い2代目甚五兵衛が、とりあえず先代寅蔵の意匠を踏襲したのだろう。

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なお寅蔵は、ベースというものをほぼ鋳造していない。画像のように樽型の本体のみのままか、3本程度の獅子脚付きだ。時代の要請であろう、地震対策など、安定的に設置できるベースの付属を要求されたのは、甚五兵衛の時代からであった。

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さらに考えれば、ここの呼称不明の神社のベースは、後年に別途置かれたのかも知れない。大きな石の台座とベースは、小さな本体とは余りにも不釣り合いだ。それに、3本の脚があるのも不自然に思える。最初からベースありきであったなら、不要ではないのか。いずれにしても、山崎家の手による鋳造であると言えよう。

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●ところで余談だが、この昭和初期の古地図の中に「馬車屋」という書き込みがある。屋号を「トリベヤ」といった竹ノ内さんの地所だ。まだトラックが一般的ではないこの時代、重い鋳物材料や製品の運搬には、人が大八車(前29項)を引くか、荷馬車に頼る外なかったのだ。この様な馬車屋は市内に何軒もあったという。

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あるいは、「西部屋」とも呼ばれた「トリベヤ」は、職人派遣業も兼ねていたらしい。2ブロックほど東には「行徳部屋 小林」もあって、工場からの派遣要請に答えたという。職人を寄宿させ待機させたようで、「部屋」の呼びがあったのだ。画像は、他所で見た米俵を満載した荷馬車で、昭和初期の様子だが、正に今のトラックだ。

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●また、川口神社(前5項)の周辺は歓楽街だったようで、2軒の湯屋、多くのカフェー、活動写真屋、マッサージ屋、易者、玉突き場、寄席、芸者置屋まであり、日頃多忙な鋳物職人の欲求に答えたようだ。画像は今も同地で営業する、写真屋「玉盛館」さんだ。右側に見えるY字状のオブジェは鋳鉄製だが、何がモチーフであろうか。

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先の屋敷稲荷社の多くは、お稲荷様を「火の神様」として崇めていて、3月の初午の日には太鼓を叩いてお祭りをしたという。平成9年の調査当時では、この伝統を引き継いでいるのは、永瀬留十郎工場だけだが、呼称不明の神社でも以前は叩いていたと記録されている。

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初午のこの日に火を熾すと火事になるという言い伝えがあり、鋳物屋の多くは吹きをせず休業日であった。2軒の湯屋も休業しているが、入りたい人は、荒川を超えた隣町の赤羽まで出向いたという。職業柄、鋳物職人は真っ黒に汚れるため、入銭料は他所に比べて割高であったようだ。

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●さて、新たに出会った、川口鋳物師が手掛けた天水桶を2例見てみよう。まずは、群馬県館林小桑原町の真言宗豊山派、瑠璃山密蔵寺。広い境内には1本のイチョウの大木がそびえ、子安地蔵尊と厄除け地蔵尊も祀られている。

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堂宇前の桶は鋳鉄製樽型の1対で、口径Φ400、高さは500ミリだが、近年施された塗装のお陰で経年の劣化を感じない。上部に雷紋様が巡り、「丸に片喰(かたばみ)紋」が正面に据えられている。繁殖力が旺盛で、子孫繁栄の象徴とされる、日本十大家紋の1つだ。

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館林下町の施主が、「昭和拾壹(11)年(1936)壹月」に奉納していて、四角く囲まれた枠の中には、「武州川口市 矢崎本店鋳造」と陽鋳されている。昭和12年(1937)の400社近い登録がある「川口商工人名録」や、昭和16年の540社の登録がある「川口鋳物工業組合員名簿」にも、社名も「矢崎」の苗字も見られない。

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●しかしここは、鋳造会社ではない。鋳物製品扱いの問屋、つまり販売商社だ。平成19年(2007)に、元川口市長の故永瀬洋治(前108項)はインタビューの中で、問屋について触れている。「(鋳物の)日用品の需要が減ってきたのです。もう石川商店さんなんて世界大戦が終わって儲かったんだけれども、不況の波で一ころで・・」と言っている。画像は、かつての石川商店の主の私邸。

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先の古地図を見ると、ここは銑鉄問屋の「石川嘉兵衛商店」で、先例の金山町の呼称不明神社のすぐ南隣にあった。広大な敷地で、1丁目の4分の1の面積を占めているが、広い庭園ばかりでなく、テニスコートとも記されている。「石川長屋」とあるのは、使用人の住まいであったろうか。

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さらに続けて、「それで矢崎本店は、これはもう戦後までありましたが、鍋平商店(前88項)はなくなってしまいました」と問屋について発言している。金山町の古地図では、鍋平は石川商店のすぐ東側にあるが、矢崎本店は市内本町なので確認できない。

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●昭和期の「川口市勢要覧」を見ると、「鍋平に入り一雇員より身を起こした」矢崎本店の矢崎健治は、「川口町」時代の最後の町長であったことが判る。「昭和7年(1932)10月29日、川口町長となり、僅かに5か月間に過ぎざる間に、川口市制実現の画期的大事業を遂行せる功績は永久に忘るべかざるものである」と記されている。

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沼口信一編著「ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 川口」には写真も載っていた。前列右端から、3代目市長永瀬寅吉(上述)、初代市長岩田三史、中央に2代目市長千葉寅吉(前19項)、4代目市長高石幸三郎、そして左端が、最後の町長の矢崎健治だ。

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●矢崎本店は本町1丁目にあったが、矢崎分店も本町にあったようだ。「日用品鋳物は 鋳物問屋 矢崎分店 店長 後藤真」と謳っているが、気になるのは、「二山の下に嶋」の文字を配した社章だ。鍋平、嶋崎平五郎商店の社章は、「一山に嶋」であったが、矢崎は、ここからの暖簾分け的な存在だったのだろう。

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本店の方の広告を見ても、同じ社章がある。「竃(かまど)類、釜類、鍋類、鉄瓶類、銅壺(前30項)及五徳類、火鉢類、今呂(コンロ)類、風呂釜類、ストーブ類、練炭用器類、ポンプ類、建築鋳物、其他日用品鋳物一式」と幅広い品揃えだ。「在庫豊富 出荷迅速」を謳い文句にした鋳物問屋であったが、ここに名の見える「矢崎健治」が、天水桶の銘の「武州川口市 矢崎本店鋳造」の主であった。

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●さて最後は、山梨県南巨摩郡身延町の身延山久遠寺(くおんじ)だ。三宝尊を本尊とする、日蓮宗の総本山で、海抜383mに位置する。斜行エレベーターを降りると本堂があるが、画像は、日蓮聖人の700年遠忌の主要記念事業として再建された、間口32m、奥行51mの大きな堂宇だ。

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それに見合った、人の背丈ほどのやけに縦長の青銅製の天水桶が1対ある。奇抜な意匠だが、蓮華の反花(前51項)の台座に載っていて、日蓮宗紋が飛び出ているが、情報を示す文字類は一切刻まれていない。

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●そばに「大鐘(おおがね)」と書かれた掲示板がある。寛永元年(1624)、21世日乾上人の代に鋳造されたことが鐘銘にあり、高さ2.4m、重さ約5トンという。しかし、大正3年(1914)刊行の、香取秀眞(前116項)の「日本鋳工史稿」には、「延宝8年(1680)仲秋穀日 冶工 田中丹波守 藤原重正(後122項)」という記載がある。現在の鐘は、再鋳されたようだ。

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池の間には、「身延山」、「久遠寺」と大きく陽鋳造されている。毎朝夕に撞かれ、その他には除夜の鐘と、身延山の緊急時以外は撞かないといい、撞木(前120項)は、全長4.3mでその胴回りは1mという。役僧が顔を天に向け、背中が地に着くほど体全体を使ってアクロバティックに鐘突きする場面をテレビで見た事があるが、誠に躍動的で力強い。

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●本堂から離れた位置に、「空 無相 無願」の三解脱をあらわす三門がある。大正期の第79世日慈上人による「身延山」の扁額が掛かっているが、日本三大門の1つという。寛永19年(1642)に建立され、以後2度の焼失に見舞われ、現在の門は明治40年(1907)に再建されている。因みに、現法主は92世、内野日總法主だ。

身延山久遠寺

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見上げるほどの大門だが、両サイドには、これまでに見た事が無いほど巨大な四角い天水桶1対が置かれている。横1.8m、奥行き1.1m、高さ1.3mで、大門に決して見劣らないが、一体どれ程の重量なのであろうか。四脚に支えられ、正面には金色に彩られた宗紋があり、「奉献」とある。

身延山久遠寺

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内側になる両側面には、奉納者名がある。「森岡興業株式会社 社長 森岡三郎」だ。近代名士家系顕彰会さんのブログ「近代名士家系大観」によれば、三郎は、森岡平右衛門が明治期に興した銅鉄商の後継者のようだ。他に見られる「森岡賢一郎 秀三郎 順三郎 謙次 英三郎」は、子供たちであり、その一門だ。

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●外側になる両面には、広い面積の中、小さめに鋳造者名が鋳出されている。「川口市 鋳物師 長谷部力衛」で、「昭和32年(1957)5月17日」の造立であった。ウィキペディアで久遠寺の三門のカラー写真を見ると、「撮影:2006年2月」となっているが、サビ付いている様子であり、近年にこのオレンジがかった朱色に塗装されたことが判る。

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また、「昭和初期の山門」となっている白黒の写真には、この桶が写っているが、32年は「昭和半ば」だ、間違いであろうか。それとも、金属供出(前3項)という過去があって、その後同じ意匠で再建されたものであろうか。

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上述の組合員名簿にも記載がなく、この川口鋳物師の詳細は全く判らない。日蓮宗の総本山という古刹での巨大桶の鋳造だ、そこそこ名の知れた鋳物師であったのだろうか。また、川口から遠いこの地で、どんな縁があっての受注だったのだろうか、とても気になるところだ。(後132項

久遠寺

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ただ1つ判ったのは、前25項で見た、都内江東区亀戸の亀戸香取神社の鋳鉄製の天水桶だ。「鋳工 長谷部カ衛 昭和31年(1956)8月」という銘で詳細不明な人としていたが、この人は川口鋳物師であった事が確定したのだ。長谷部の鋳造物は、知る限りこの2例だけだが、この先出会うことがあるのだろうか、楽しみだ。つづく。