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●都内港区新橋に、烏森神社(からすもりじんじゃ)が鎮座している。JR新橋駅に近接した、都会の真っ只中だ。かつてこの辺りは江戸湾の砂浜で、「枯州の森」とか「空州の森」と言われ、松林には多くのカラスが集まったという。それが社名の由来らしいが、その後、地名としては「新橋」に改められ、今では駅の「烏森口」にその名をとどめている。現在の社殿は、昭和46年(1971)に造営され現在に至っている。

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社伝では平安期の天慶3年(940)の創建というが、「江戸名所図会」によれば、「年歴、来由ともに詳らかならず」としている。日本橋堀留町の椙森神社(前25項)、神田須田町の柳森神社(前4項)と共に、「江戸三森」として古くから崇敬されてきたが、明治初期に、これまでの烏森稲荷社を烏森神社に改めている。

烏森神社

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ここの御朱印は派手だ。烏をあしらった社紋の周りに、4色の巴紋が散りばめられている。現在の宮司は山田氏であるが、「江戸名所図会」にも、「社司山田氏は、柳営(幕府の)御連歌の御連衆(歌を詠み合う人々)たり」とある。連綿として継承され、お努めでいらっしゃるのであろう。

新橋・烏森神社

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●同社のブログによれば、平成18年(2006)9月ごろまで、狭い境内に天水桶が置かれていたようだ。「衛生面、また痛みが激しい為と、境内整備の為、一昨日より作業をしております。天水桶は撤去する予定でおり、その後、幟等を立てたりする予定でおります」とある。画像はブログから転載させていただいた。

烏森神社

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スリムで縦長な印象のデザインのこれは、一見して、川口市の「田中鋳工所製(前6項前68項など)」だ。昭和60年(1985)刊行の増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」によれば、「昭和庚午五年(1930)九月吉日 武州川口町 (二)田中鋳工所製」銘での造立という事になっている。

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また「文政13年(1830)9月」には、やはり川口鋳物師の「永瀬源内(前14項)」が鋳造したという記録が、昭和9年(1934)刊行の「川口市勢要覧」に残っているが、これは、戦時に金属供出(前3項)したのだろうか。田中製の撤去された桶は、現在、別の場所で管理されているといい、廃棄は免れている。申し込んだ見学はかなわなかったが、いつの日かまた、陽の目を見て欲しいものだ。

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●続いては、川口鋳物師の山崎甚五兵衛作の天水桶を見てみよう。まずは埼玉県鴻巣市宮前の曹洞宗、美源院宮前山永林寺。扁額を見ると、「永林禅寺」となっているが、禅宗は「修証一如 只管打坐」で、悟りをめざして坐禅をするのではなく、坐禅の姿そのものが悟りの姿であると教えている。

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鋳鉄製の天水桶は、安定的な大きなベースに載っていて、同氏が最盛期に得意としたスタンダードなデザインの1対だ。大きさは口径Φ900ミリ、総高は1.2mとなっている。「永林寺護寺会」が、「本堂建築記念」として奉納しているが、「19世 小田垣禅隆」の時世であった。この時には、客殿も建立されている。

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作者の銘は、「昭和47年(1972)10月之立 川口市 山崎甚五兵衛」と鋳出されている。この当時、山崎は多くの天水桶を鋳造していて、この前後数年は最盛期であったといってよい。当サイトで見て来たものは、青銅製も含めると、前年には9対、この昭和47年には8対、翌年には7対を残しているが、天水桶鋳造の大家であった。

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●東京都清瀬市中里にある、天台宗の仲永山東光院。ホムペから要約すると、明治18年(1885)の火災で、過去帳などほとんどの文書を失っているが、墓碑から推定するに、江戸前期に惠廣法師が開山したという。本尊の薬師如来は焼失を免れたが、かつては治病の仏として民衆の信仰を集め、門前市をなすほどの賑わいをみせたという。

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堂々たる十六葉菊紋が前面にある。この地は徳川家康に仕えた旗本武蔵氏が知行していて、関ケ原の戦いや大坂の陣にも従軍したと言いい、新編武蔵風土記には、「除地五段」とあり、諸役や年貢を免除されていたようだが、これは幕府の施策であって、中央の朝廷の菊紋とのつながりは判らない。

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1対の鋳鉄製天水桶は、「昭和44年(1969)春彼岸 川口市 山崎甚五兵衛」銘で、檀家が菩提供養のために奉納しているが、「当山 第21世 義勝代」の時世であった。

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●中野区上高田の上高田氷川神社は、祭神を素戔鳴尊としている。地域一帯の鎮守として、武蔵国一の宮氷川神社より御神霊を勧請し、享徳2年(1453)に創建したと伝わる。大正15年10月(1926)に遷座祭が執り行われ今日の姿がほぼ完成、幸いにも戦禍はまぬがれ、昭和29年(1954)に神楽殿を新築、昭和63年(1988)には社務所が完成している。(境内掲示より)

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本殿のほか、幣殿、拝殿や神輿庫を備えたこの神社は、9.600世帯もの氏子が崇敬している。殿前には、3本もの鈴緒が下がっていて、参拝者の多さがうかがえるが、特に方位除祈願にご利益があるようだ。

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1対の鋳鉄製天水桶は、鈴木氏ら9名によって奉納されていて、上部の額縁と下部には、三つ巴紋と花紋様が配されている。鋳造は、「昭和39年(1964)3月吉日 製作人 川口市 山崎甚五兵衛」であった。

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●文京区小日向にある、浄土宗の安養山浄土院還国寺。寛永8年(1631)、龍芸和尚が今の新宿筑土町に庵を結び創建、明暦2年(1656)に当地へ移転している。古今亭志ん生、金原亭馬生、古今亭志ん朝ら著名な落語家の墓地でもあるが、彼らは親子関係であるという。

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ここには、山崎製としては珍しい、ハス型で青銅製の天水桶が1対ある。これまでに出会った全132対のうちハス型は8対だから、わずか6%強に過ぎず、多くは樽型なのだ。大きさは開口部でΦ1m、高さは900ミリとなっている。

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正面に「丸に抱き茗荷紋」を大き目に配しているが、高さ300ミリの台座の8面に見られる龍神(前1項)の鋳出しも見応えがある。「第19世 智誉定信代」の時世で、銘は「昭和52年(1977)11月1日 川口市 山崎甚五兵衛」となっている。

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●因みにここの梵鐘は、「茨城県真壁町 鋳物師三十六代 小田部庄右エ門 平成6年(1994)3月吉日建立 19世 智誉代」で、36代目の晩期の作だが、この鋳物師の詳細については、前21項などで考察している。

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この銅鐘が、遠目でも小田部製と判るのは、下部の駒の爪(前8項)あたりで外周を廻っている十六菊紋の存在で、これを見ただけで、それと判るのだ。同家によれば、「日本で唯一、菊の紋章の使用を許されております」という。

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●流れで、小田部製の梵鐘をもう1例見ておこう。鴻巣市本町の真言宗智山派、慈雲山医王院法要寺だが、長禄元年(1457)、亮恵上人による開基という。ここの寺紋は加賀藩の前田家と同じ「梅に鉢」だ。これは慶安年間(1648~)の頃、前田侯が参勤交代道中における宿所として法要寺を利用、その際に寺紋として許可されたものだ。鴻巣宿は、中山道六十九次の内、お江戸日本橋から数えて7番目の宿であった。

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銅鐘は、口径3.5尺、Φ1.050ミリもある巨鐘だ。「南無法界万霊 南無本尊界会」、「世界平和 萬民豊楽 寺門繁栄 檀信健勝」と刻まれている。やはり十六菊紋が見られ、雲と共に舞う天女が大きく描かれている。

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銘は、「茨城県真壁町 御鋳物師三十七代 小田部庄右エ門 平成19年(2007)10月吉祥日 鋳造人 広瀬一」で、次世代の小田部製だ。広瀬は、前112項でも登場していて、小田部ブランドを支える名工に違いないが、先代にも仕えた職工であろうか。

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●続いては、さいたま市西区宮前町の曹洞宗、宮前山興徳寺。天和2年(1682)、同町の見村伝右衛門が開基となり創建したという。教育委員会の掲示によれば、市の有形文化財である木造の虚空蔵菩薩坐像と地蔵菩薩坐像、弥勒菩薩坐像を有するが、室町期の様式変遷を物語る作例が、1ケ所に3体も存在するのは珍しく、貴重という。

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寄進は「檀家総代」らで、裏側にその名が連なっている。正面の丸に十字は、「轡(くつわ)紋」であろうが、馬に手綱をつけるための金具をデザインしたものだ。薩摩藩島津家のこの紋は有名だが、隠れキリシタンとの誤解を避けるため丸で囲み、轡であると主張したという。

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梨地基調の青銅製の1対は、「昭和50年(1975)9月 32世 耕雲代 川口市 山崎甚五兵衛」銘だ。正面に「寄進 本堂建設委員」と見えるので、特に鋳出されてはいないが、本堂新築記念での設置であろう。因みに、すぐ脇の石碑には、永平寺(前110項)の副貫主の慧玉がその旨の書を寄せている。それによれば、本堂の新築は、昭和49年4月であった。

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●神奈川県藤沢市片瀬にある、寂光山龍口寺(りゅうこうじ・後121項)は、龍口刑場跡に建つ日蓮宗の本山だ。日蓮聖人入滅後の延元2年(1337)に、弟子の日法聖人が、「龍ノ口法難の霊跡」として敷皮堂という堂宇を建立し、自作の祖師像を安置したのが始まりという。

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「法難」とは何であろうか。ホムペによれば、『鎌倉時代後期、日本は内乱や蒙古襲来、飢餓や疫病の蔓延など、様々な脅威に包まれていました。それらを憂えた日蓮聖人は、「立正安国論」を著し、幕府に奏上しました。

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しかし、幕府はこれを政策への中傷であると受け止め、文永8年(1272)9月12日、鎌倉松葉谷の草庵におられた日蓮聖人を捕らえ、斬首するために、刑場であったこの地、龍ノ口へ連行したのです。画像は、「日蓮聖人註画賛 龍ノ口法難」だ。

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●翌13日子丑の刻、土牢から引き出された日蓮聖人は、敷皮石(座布団状の石に皮を敷く)に坐らされ、評定の使者も待たず、あわや斬首になるときでした。「江ノ島の方より満月のような光ものが飛び来たって首斬り役人の目がくらみ、畏れおののき倒れ」(日蓮聖人の手紙より)、斬首の刑は中止となりました。

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龍ノ口刑場で処刑中止となったのは日蓮聖人をおいておらず、以来、この出来事を「龍ノ口法難」と呼び習わしています。』といい、日蓮聖人の四大法難の松葉谷・伊豆・小松原・龍ノ口の中でも、屈指の霊跡とされるのがこの龍口寺であった。

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●鐘楼塔の梵鐘は「延寿の鐘」と題され、刻まれた銘によれば、「龍口法難七百年記念事業の一環として」、「維持昭和44年(1969)12月吉辰 霊跡本山 寂光山龍口寺 第十世 新倉日林」の時世に掛けられている。鋳造は、「高岡市 鑄物師 老子次右衛門(前8項前93項など)」であった。

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●大本堂前にある鋳鉄製の天水桶1対は、口径、高さとも1.2mという目を見張る大きさで、「寂光山 九世日暉代」の時世であったが、寄進した横浜市の人など4名の名前が見られる。正面には井桁の宗紋が据えられ、上部の額縁には雷紋様(後116項)が廻っている。後121項で解析するが、これまでに甚五兵衛作の桶を132例ほどを見てきた中で、なんと、雷紋様が見られるのはこの1例だけだ。

藤沢市片瀬・龍口寺

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銘は「昭和22年(1947)8月15日 製作人 川口市 山崎甚五兵衛」だが、同氏の鋳造年の記録更新で、これは天水桶鋳造の大家、2代目山崎の最古の作例であった。これまでは、千葉県成田市宗吾の鳴鐘山東勝寺宗吾霊堂(前57項)で見た、「昭和27年(1952)5月吉日」であったから、5年ほど古い天水桶だ。

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●戦後の早い時期に発注され設置されたことが判るが、以前の天水桶は、戦時に金属供出(前3項)したのであろう。ここ龍口寺の鋳造物の歴史を、大正3年(1914)刊行の香取秀眞(ほつま・後116項)の「日本鋳工史稿」で見てみると、まず、「正徳2年(1712)6月 武州江戸住 長谷川伊勢守国保作 半鐘」、「寛政元年(1789)9月 江戸神田住 多川主膳作(前109項) 多宝塔」がある。

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続いて、「寛政12年(1800)4月 御鋳物師 江戸神田住 西村和泉守 藤原政時(前110項など) 大香炉」で、同人は、「天保9年(1838)9月 銅製燈台」1対も鋳造している。天水桶は、安政4年(1857)4月に「江戸深川 御鋳物師 太田近江大掾 藤原正次(前17項など)」、釜六が鋳ているが、これが金属供出されたのであろう。

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今回特集した川口鋳物師・山崎甚五兵衛は、昭和期を代表する天水桶鋳造のトップメーカーとして君臨していた。当サイトでは、山崎の作例が、終項までに延べ20項ほどで登場しているが、特集を組んだ項をここに記しておこう。前1項前24項前27項前41項前50項前56項前57項前84項前102項前106項後128項後132項だ。

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●久しぶりに出会った川口鋳物師がいるので、その2例を見てみよう。埼玉県川口市からは遠く離れた、千葉県匝瑳市(そうさし)西小笹にある八幡神社だが、祭神は誉田別命だ。この神は第15代応神天皇の諱だが、応永3年(1396)、現宮司家の始祖の若狭守主膳が、京都の石清水八幡宮の分霊を勧請し創建している。元来は、栗原山八幡大菩薩宮と称され、漁家商家の守護神として崇敬が篤いという。

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拝殿前の鋳鉄製の天水桶1対は、口径Φ850ミリだ。正面には、「御大典記念」での奉納と見える。大典は盛大な儀式のことだが、かつては殷賑を極めたという講社大祭であろうか。あるいは、この上ない祝典という意味では、通常、天皇の即位の礼、御大典を指すようだ。

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奉納者は、「本銚子通町 海産物問屋 山崎石松」で、「武州川口町 製造人 田中虎吉 昭和3年(1928)11月吉日」と陽鋳造されている。虎吉は、久しぶりに出会う川口鋳物師だ。前19項では、江東区東砂の陶首(とうしゅ)稲荷神社で、「武州川口町 田中虎吉 製造 昭和4年9月吉日」という天水桶を見ているが、人となりについてはその項をご参照いただきたい。

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●もう1例も、意外な地の神奈川県小田原市だ。ウィキペディアによれば、「同市は人口19万人で、戦国時代には後北条氏の城下町として栄えた。また、北条早雲から北条氏直まで北条5代の隆盛を影で支えたという風魔忍者の里である。江戸時代には小田原藩の城下町、東海道小田原宿の宿場町として盛えた。箱根峠より東側の宿場町として、現在も箱根観光の拠点都市である。」

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●あまり知られていないが、この街にも時の鐘(後126項)がある。小田原城大手門櫓台の北側の石垣があった場所だ。説明文を記しておこう。『この鐘は現在、朝夕6時につかれ、時を知らせている。時を知らせる「時の鐘」は、長い間、昼夜の隔てなくつかれていた。江戸時代の貞享3年(1686)の「貞享3年御引渡記録」の中に「小田原町の時の鐘は昼夜ついている。

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鐘つきの給金は一年金六両で、この内金三両は町方から、三両は町奉行所から遣わしている」という記事があり、300年以上前からつかれていることになる。この鐘は、初め浜手御門(ここより約150m南)のところにあったのを、明治29年(1896)裁判所の東北隅に移され、さらに大正年間に現在の場所に移された。

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昭和17年(1942)には、太平洋戦争の激化により、軍需資材が欠乏したため、政府は金属類の供出命令(前3項)を出し、鐘は応召される(「時鐘応召」と呼ばれた)。その後、時報は鐘に代わってサイレンやチャイムになったが、城下町に似つかわしくないということで、昭和28年(1953)小田原寺院団によって新しい鐘が作られた。これが現在の鐘である。』鐘身の「平和鐘序並銘」にはこれらの事が刻まれている。

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●日蓮宗、今正山大乗寺は栄町にある。繁華な小田原駅のすぐ北側に位置するここは、日養上人(慶長17年・1612年卒)が開山し創建したというが、境内には、第六天王を祀る社がある。辞書によれば、日蓮上人は、第六天の魔王を、仏道修行者を法華経から遠ざけようとして現れる魔であると説いた。しかし、純粋な法華経の強信者の祈りの前には第六天の魔王も味方すると説いている。

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本堂前の1対の鋳鉄製の天水桶の大きさは、口径、高さ共に約900ミリの3尺サイズだ。前例とほぼ同等の意匠だが、寄進者などの情報は見られず、正面に宗紋が据えられ、裏側に「大乗寺」とだけ浮き出ている。鋳造は「昭和6年(1931)6月吉日」となっていて、「川口町 田中長蔵製 田中虎吉作」だ。共作のようだが、長蔵の人物像は不明だ。山だれに「浅」とあるのは、社章だろうが、長蔵は、そこの社主であったろうか。

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この2例ともに、昭和8年(1933)4月1日の市制施行前の作例であり、表示は「川口町」だ。虎吉は、その直後の昭和9年(1934)3月9日に、50才の若さで没している。前19項では、「関東近郊に現存する、虎吉製の桶はここの1対だけだ」とした。これで3例目となった訳だが、川口市から遠く離れたこれらの地にどんな縁があったのだろうか、予想外な地でのこの2例の再会に感激だ。つづく。