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●世田谷区の東急田園都市線、桜新町駅に降り立った。この一帯は万治年間(1658~)に開拓された農地で、「世田谷新町村」と名づけられている。地名の通り桜の名所地であるが、毎年、呑川(のみがわ)沿いでは、愛らしい桜が咲き誇っている。

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駅前では、ブロンズ製のサザエさん一家が出迎えてくれる。この地の商店街振興組合の企画による設置らしい。当地域には、漫画「サザエさん」の原作者、長谷川町子が居住していたのだ。

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国道246号沿いにあるセブンイレブンの前身は、「三河屋」という酒店であったが、漫画に登場する「三河屋さん」のモデルだ。同地には、長谷川町子美術館やサザエさん公園もあり、微笑ましい街だ。

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●さて、各地で見た天水桶を見ていこう。まずはこの地、新町にある曹洞宗、家岳山善養院は、大老井伊直弼が眠る大谿山(だいけいざん)豪徳寺(前1項)の末寺で、豪徳寺第2世門解蘆関大和尚が、元和年間(1615~)ごろに開山している。本尊は、如意輪観音菩薩像という。

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青銅製の1対は、「檀信徒有志一同」の奉納で、紋章はこの天水桶や屋根瓦などにも見られるが、「切り竹に笹」で、通常は1本のところ2本の竹がありアレンジされているようだ。

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「昭和60年(1985)11月吉日建之 善養29世 尚道 東堂 真道」銘で、「東京 翠雲堂(前59項)」が謹製しているが、鮮明に浮き出た文字が心地よい。

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●地下鉄半蔵門線の清澄白河駅近く、江東区平野の日蓮宗、長晶山玉泉院は、清澄庭園の南側にある。境内の石碑によれば、明暦年間(1655~)に長昌院日覚上人が開山創始しているが、祖師尊像は、関東大震災と戦災でも焼失を免れていて、「火伏せの祖師」の由縁でもあるという。入口にあるこれは、天水桶ではない、青銅製の雨水受けだ。蓮華の形状だが、口径Φ430ミリでありかなり小さい。

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実は、ここには「昭和9年(1934)」に川口市内の「芝川鋳鉄所(前19項前76項)」が鋳造した天水桶があった事になっている。昭和59年に編まれた、増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」にはそう書かれていた訳だが、今は無い。察するに、平成12年(2000)に完成している現本堂や葬斎場・玉法会館の建設に伴って撤去されたと思われるが、スクラップ処理されてしまったのだろうか、行方が気がかりでならない。

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●富山県の仏具メーカーの名匠・老子製作所(前8項)さんは、それこそ多くの天水桶を鋳造したに違い無いが、ほんの一部ではあるが何例か見てみよう。台東区東上野はJR上野駅のすぐ東側だが、浄土真宗大谷派の高龍山謝徳院、坂東報恩寺はこの地にある。

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寺が伝持してきた「顕浄土真実教行証文類」は、通称「坂東本」と呼ばれるが、国宝の指定を受けている。「坂東本」は、鎌倉時代初期の僧、親鸞の著作で、全6巻からなる浄土真宗の根本聖典だ。

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●区の有形文化財である銅鐘は、口径Φ1.030ミリで、「慶安元年(1648)6月初」の鋳造だ。作者は、初代御用釜師、堀浄栄の息子の2代目浄甫(前74項など)で、「鋳成大工 堀山城守 藤原清光」銘であった。

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浄甫の作例は、香取秀眞の「日本鋳工史稿・後116項」によると、渋谷区広尾の瑞泉山祥雲寺(前19項)の銅鐘、日光東照宮(後107項)や上野東照宮(前64項)の銅灯籠などが記録され現存している。

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●ここには、かがり火台をイメージした青銅製の天水桶が1対ある。大きさは口径Φ1.180ミリ、高さは1.2mで、4本の脚は、別鋳造したものをあとから取り付け固定している。「平成5年(1993)10月」に、「株式会社 老子製作所」が謹製しているが、「檀信徒一同」の奉納だ。

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香取の史料によれば、ここでもかつて、「文化12年(1815)2月」と「文政12年(1829)3月」の2度にわたって、川口鋳物師の「永瀬卯之助」が桶を鋳造した事になっている。これらは戦時に金属供出(前3項)してしまったのだろうか。

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●かつて川口鋳物師の中に、寛政13年(1801)生まれの本家4代目の永瀬宇之七がいた。長男の宇之助も「宇之七」を襲名し跡目を継ぎ、勅許鋳物師として、「藤原清秀(前68項)」 名を賜っている。

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鋳物師職状など、諸書の資料には「卯之七」、「卯之助」と記されている事もあるが、同じ人物であろう。今に残る作例は、品川区南品川・普海山心海寺(前15項)の「武州川口宿 永瀬宇之七 安政2年(1855)4月」など3例だ。


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●杉並区梅里の浄土宗松苔山西方寺の院号は、峯巌院だ。境内の説明板によれば、開基は、江戸幕府3代将軍徳川家光の弟で、家康の孫の駿河大納言忠長といわれ、その戒名「峯巌院(殿前亜相清徹暁雲大居士)」を院号としている。忠長は、家光に疎まれ改易処分を受けていたが、寛永10年(1633)、幕命により配流地の上野国高崎で自害、享年28才であった。


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青銅製の1対は、口径1.3mの典型的なハスの花の形状で、「新本堂落慶記念」の「昭和56年(1981)5月」に、「高岡市 株式会社 老子製作所」が謹製している。忠長と豊臣家との縁により、寺紋を「五三の桐(後98項)」にしたという。

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●ここの鐘楼塔に掛かる銅鐘は、「鋳物師 江戸神田鍋町住 小幡内匠作」だ。藤原勝行を名乗った御用達鋳物師であったが、前8項前49項後100項などで登場している。鐘身には多くの寄進者名が見られるが、「享保五庚子歳(1720)九月吉日 松苔山西方寺 八世 運誉秀傳代」の時世であった。縦帯(前8項)にも、花押(前13項)と共に、ゴージャスな囲い込み彫りで「運誉」の名があるが、中興の上人であったろうか。

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興味深い鐘銘は、「大日本国東武豊嶋郡四谷追分」と刻されている事だ。西方寺は、元和3年(1617)に、「四谷追分」、現在の新宿区新宿3丁目の新宿駅北側付近に創建されたという。

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その後の大正9年(1920)、JR中央線の拡幅と道路の拡張のため当地へ移転しているが、当時の住所が刻まれているのだ。それに続いて長文の寺歴も見られるが、先の史料にもこの銅鐘の記録は無い。また区の文化財にも指定されていないようだが、それ相当の存在ではなかろうか。

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●茨城県筑西市大町甲にあるのが、地域の氏神様の下館羽黒神社だ。文明13年(1481)、下館城城主の初代水谷左近将監勝氏が、領内の安泰を祈願して、出羽三山から羽黒大神を勧請した事に始まっている。出羽三山は、山形県村山地方や庄内地方に広がる月山、羽黒山、湯殿山の総称で、修験道を中心とした山岳信仰の場として現在も多くの修験者や参拝者を集めている。

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地元では下館城の鬼門の稲野辺村と大根田村、風門の下岡崎村、病門の外塚村と口戸村、天門の岡芹村の羽黒神社を総称して「七羽黒」と呼んでいるようだ。青銅製の天水桶1対は、自然石を台座に利用して置かれているが、見栄えのいい梨地基調の桶で、三つ巴の流れ紋の上では、龍が対抗している。

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昭和52年(1977)に老田敬三、キヨ夫婦が、「金婚記念 喜寿記念」として寄進奉納している。街道沿いには、老田インテリア百貨店があるが、ここの経営者であろうか。鋳造者銘は、「高岡市 鋳物師 老子次右衛門」であった。

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●同じ意匠の天水桶が、千葉県銚子市台町の荒城山宝満寺にもある。浄土真宗本願寺派であろうことは、インド風の仏教建築様式からして判るが、寺域は1万坪強の台地にあり、お墓はその斜面に並んでいる。ここは、県内に散らばる同派千葉組(ちばそ)、50ケ寺ほどの内の一寺だ。

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寺紋の下り藤が正面に据えられ、「高岡市 鋳物師 老子次右衛門」、「昭和51年(1976)5月2日 勝如上人 御巡教記念」と浮き出ている。この勝如は法名で、西本願寺23世の大谷光照だ。

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昭和天皇の従兄弟にあたるといい、桶奉納の翌年には在位50年で門主を退任しているが、平成14年(2002)に90才で寂している。上人は、昭和13年(1938)から国内教区の巡教を始めていて、同51年には、ここ宝満寺にも巡教に来ていた事が判る。

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●江戸川区東小岩に10石の朱印寺、星住山善養寺がある。国の天然記念物に指定されている、境内にある「影向(ようごう)の松」は繁茂面積が日本一で、昭和56年(1981)9月には、第44代の横綱であった春日野清隆氏から「日本名松番付」で横綱に推挙されている。

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香川県さぬき市の真覚寺境内に生育していた「岡野マツ」とは、双方とも「わが松こそ日本一」と譲らなかったが、その争いを見かねた大相撲立行司の木村庄之助が仲裁に入り、「どちらも日本一につき、双方引き分け」と粋に裁いている。

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●一角にある小岩不動尊は、室町時代の開基だという。高さ1.2mの不動明王像(前20項)が祀られているが、この像は三国伝来毘首葛摩作といわれる。紋は、「輪宝」で、元来は古代インドの想像上の武器であるというが、日本に伝来して密教の法具となっている。

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ふっくらとしたハス型の青銅製の天水桶1対は、「昭和59年(1984)3月」に、「弘法大師1.150年御遠忌 境内諸堂大改修記念」として奉納されている。鋳造は、「高岡市 鋳物師 老子次右衛門」銘であった。大きさは口径Φ1m、高さは1.1mとなっている。

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この梵鐘も老子製で、「昭和58年(1983)4月 35世 名取盛雄代」の時世に、「弘法大師1.150年御遠忌記念」として設置されている。「南無大師遍照金剛 真言の鐘」と掲げられ、「改鋳」と記されているが、以前のものはどんな鐘だったのだろうか。

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●埼玉県行田市駒形の真言宗智山派の遍照院は、医王山常福寺梅本坊と号している。寛仁年間(1020~)の草創といわれ、寺領25石の御朱印寺であった。本尊の薬師如来座像は、掲示板によれば、行基菩薩の彫刻で、奥州平泉城主藤原秀衡卿の守護仏とも伝わり、像高は86cmという。桧木の寄木造り二重円光飛天光背で、平安後期中葉の製作と推定され、温容端麗な藤原仏の代表作だ。

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樹木に遮られて堂宇は見にくいが、1対の青銅製の天水桶は存在感のある4尺サイズで、口径Φ1.2m高さは1.080ミリだ。多くが3尺サイズである中、目を見張る大きさだ。「為各家先祖代々菩提」として寄進者の芳名が並んでいる。「平成15年(2003)3月吉祥日 遍照院 第24世 光弘代」の時世に「高岡市 鋳物師 老子次右衛門」が鋳ている。

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●埼玉県加須市不動ケ岡の不動ケ岡不動尊總願寺は、関東三大不動の1つで、元和2年(1616)に高野山の總願上人によって開基されていて、地名の「不動ケ岡」はここに由来している。本尊は智証大師作と伝わる不動明王で、開運、商売繁盛、火防を守護としている。

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境内には、埼玉県行田の忍城の北谷門から移築された、有形文化財の総欅作りの「黒門」のほか、文化年間(1804~)に造られた青銅製の灯籠が1基ある。隅々まで手ぬかりなく装飾された見応えのある灯籠だ。脚部は1m角で、高さは目測ながら4m程であろうか。

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頂上部には龍が巻き付き、「輪宝紋」が見え、屋根裏の桟も細かく表現されている。下部の4本脚の真上では獅子がにらみを利かせ、回廊を巡らした中心部には、蓮華に載った透かし紋様の精緻な火袋が据えられている。真下から内側から見ると、いくつかの部品がそれぞれ鋳造され、鋳ぐるみされ結合されているのが判る。

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●作者銘は、「江戸大門通角 伊勢屋満之助 源満正 造之」だ。「伊勢屋」は、銅鉄製品取り扱いの商人であり、鋳造者で無い事は前37項の品川区北品川・荏原神社の所で述べた通りだ。

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その時の銘は、「東都大門通 鋳工 伊勢屋彦助 源吉定 天保6年(1835)」であったが、年代的に、満之助と彦助は親子であろうか。また「万之助」は、前28項の港区元麻布の明見山本光寺でも登場しているのでご参照いただきたい。

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この当時の「伊勢屋」が世襲の何代目かは不明だが、大正3年(1914)刊行の、香取秀眞(ほつま)の「日本鋳工史稿(前47項)」には、「伊勢屋佐治兵衛 清兵衛 元文5年(1740)」、「伊勢屋長兵衛 文化7年(1810)~天保2年(1831)」という記載がある。この元号は商品を取り扱った時代だが、皆が「鋳工」を名乗り「大門通角」に住しているので、分家したりなど、数代に亘って続いた商店であったろう。

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●満之助は、ここ總願寺の他にも千葉県・成田山新勝寺(前52項)の銅造宝剣やワニ口を納めている。史料では、「山門池の上の銅剱碑 文化12年(1815)9月吉祥日 鋳工 江戸大門通角 伊勢屋満之助 源満正 造之」となっている。剱(つるぎ)と表現しているが、これは新勝寺が言うところの「天国宝剣(あまくにのほうけん)」だ。

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総高は、3メートルはあろう。奉納は、江戸消防の第二区の一番組から六番組で、火消し人6人の銅造人形がその周りを囲っている。実際の天国宝剣は成田山第一の霊宝で、開山の寛朝大僧正が朱雀天皇より賜った刀剣であり、「大原左衛門尉 藤原天国」の作と伝わっている。この銅造宝剣の意匠は、それを模しているのであろうか。

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●成田山では年に一度の祇園会の期間に限り、不動明王の本地仏である大日如来を祀る光明堂(前53項)裏手の奥之院を開扉する。そして天国宝剣を特別奉安、多くの信者がその御加持を受ける。天国宝剣頂戴だ。お堂には、それにあやかって各地から納められた模擬の宝剣の額が多数存在するのだ。

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銅造宝剣の表側には大勢の寄進者名が、立錐の余地なく線刻されている。一方、裏側の下部は作者が名を刻む不可侵の領域だ。そこには史料にあったように、一字一句違わない銘が残っている。「鋳工 江戸大門通角 伊勢屋満之助」だ。

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実際の鋳造者では無いが、ここでも「鋳工」を肩書としている。それにしても、先達の香取氏の功績は感嘆に値する。情報伝達網や交通インフラも未熟な時代に、江戸近郊限定とはいえ、膨大かつ正確な鋳物師の業績の記録を残されている。只々感謝だ。

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●では、總願寺の青銅製の灯籠の実際の鋳造者は誰であろうか。それは回廊の台座に陰刻されている。「鋳匠 江都神田住 土橋兵部」だ。土橋家に関しては、後110項で詳しく見ているのでそちらをご参照いただきたいが、そこでも伊勢屋と土橋のコンビが登場している。なお現存する江戸期の、金属製の灯籠などは数少なく稀有だが、それらは前33項にリンク先を貼ってあるのでご参照いただきたい。

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●さて、ここ總願寺の天水桶は青銅製ではなく鋳鉄製だが、老子製としては稀に見る材質だ。台座に見られる山号は、玉嶹山(ぎょくとうさん)で、都内の人々が寄進しているが、寺紋は「輪宝」のアレンジ形のようだ。大きさは口径Φ920、高さは930ミリの3尺サイズとなっている。

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「昭和29年(1954)5月」、「高岡市 鋳物師 老子次右衛門」の銘を確認できるが、丸みを帯びた鋳出し文字は鮮明で、黒サビ(後95項)に保護され経年の劣化も見られない。

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時期的には、老子社中興の7代目によるものだが、鋳鉄製の天水桶として現存する老子製は他に例がなく、貴重だ。長く鎮座し続けて欲しいものだ。なお前86項でも登場したが、前59項では、画像に見えるこの丸いボッチのデザインが意味を持つ天水桶を見ているのでご参照いただきたい。つづく。