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●10月も終わりに入りかなり秋めいた。夏のあの酷暑が恋しくさえもある。早くも、年の瀬の到来を意識し始める時期だが、江戸時代の旧暦では、この月を「神無月」といった。その語源は、島根県の出雲大社の「御師(おし)」が全国に広めた俗説とされるが、よろずの神々が大社に集合しサミットを開くため、地方では神々が留守で居なくなるからという。

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従って、逆に出雲の国では、「神在(かみあり)月」であるとする説である。「御師」とは、特定の寺社専属の旅行手配師であって、参詣者を案内し宿泊などの世話をする者のことで、言わば、参詣勧誘の営業マンであるから、ズバリ、戦略が大当たりということであろうか。

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●また、ウィキペディアによれば、各地には色々な伝承が残っている。長野県諏訪大社の祭神の諏訪明神が龍の姿で出雲へ行ったが、それがあまりにも巨大であったため、驚いた出雲に集まった神々が気遣い、「諏訪明神に限っては、出雲にわざわざ出向かずとも良い」ということになり、神無月でも諏訪大社には神が居る事から神在月とされている。

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茨城県鹿嶋市宮中の鹿島神宮(後108項)の祭神は、地震を起こす原因と考えられた「地中に棲む大鯰(おおなまず)」を押さえつける「要石」を鎮護するものであり、過去に神無月に起きた大地震のいくつかは、鹿島の神が出雲に出向いて留守だったために起きたと伝承されている。

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●さて、最近出会った天水桶を見てみよう。都内北区赤羽の真言宗智山派、廣照山平等寺真頂寺は、本尊を大日如来像としているが、天平12年(740)創建の川口宿錫杖寺(前3項)の末寺であるという。ここは、北豊島三十三ケ所霊場9番札所、豊島八十八ケ所霊場69番札所だ。後者は、明治40年(1907)に開かれたもので、旧豊島郡にある弘法大師ゆかりの88ケ所の札所巡りだ。

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天水桶は「昭和59年(1984)4月吉日」の造立で、作者不明の青銅製だ。裏側の銘によれば、「宗祖弘法大師 千百五十年 御遠忌記念」での奉納であった。正面の寺紋は「桔梗紋」だが、万葉集では、秋の七草として詠われている名花だ。

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●台東区上野公園の清水(きよみず)観音堂は、国指定の重要文化財だ。京都東山の清水寺を模した舞台造りのお堂で、寛永8年(1631)に、慈眼大師天海大僧正により建立された。本尊も清水寺より恵心僧都(えしんそうず)作の千手観音像を迎え、秘仏として祀っている。堂宇は経年による老朽化のための、全面的な解体修復工事は、平成8年(1996)5月に完了したという。

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近辺には、徳川家の威容を示す構築物が多い。菩提寺の東叡山寛永寺(前13項など)は、平安京と比叡山の関係に倣って建築されているし、上野の山に時を告げる時の鐘(後126項)の鐘楼塔も寛永寺の管轄だ。

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上野東照宮は後74項後107項などで、上野の大仏様は後64項で登場している。目前に広がる不忍池は、滋賀県琵琶湖の竹生島になぞられているが、明治半ばの浮世絵には、ここが競馬場であった情景が描かれている。

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●この清水観音堂もしかりだ。この情景は、安政3年(1856)に歌川広重が、「名所江戸百景 上野清水堂不忍ノ池」の浮世絵の中に描いている。広重は、このグルグル巻いた松を拡大した別の図も残しているが、現在もなお花見の名所である上野は、江戸一番の桜の名所であった。天保年間(1830~)に刊行された「江戸名所図会」を見ても、「この辺ことさらに桜多し」とあり、「秋色桜」という名物桜があったようだ。

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輪っか状の「月の松」は、明治初期の台風で消失したままとなっていたが、平成24年(2012)に「NPO法人 和の会」によって150年ぶりに寄進され、再現されている。NPOとは、非営利で社会貢献活動や慈善活動を行う市民団体のことだ。

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堂内には、上野戦争の戦況を描いた絵馬が掛けられている。上野の山は激戦の地であったが、この堂宇は難を逃れていて、当時飛び交ったであろう砲弾が、絵馬と共に堂内に掛けられている。

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●1対の青銅製天水桶は、「昭和48年(1973)10月1日」製で鋳造者は不明だが、「国際親善 文化交流」を祈念しての奉納である。主旨の志す所は大きいが、石の台座には、多くの奉納者名が見える。大きさは、口径Φ900の3尺サイズ、高さは1.050ミリだ。

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なお、前19項で見たが、昭和60年(1985)刊行の増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」などには、「明治34年(1901)5月 清水観音堂 天水桶1対 永井文治(次)郎」という川口鋳物師の実績が登録されている。今は世代交代して現存しないが貴重な記録だ。

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●JR青梅線の軍畑(いくさばた)駅から登山すること2時間弱、標高759mの高水山(たかみずさん)山頂にあるのが、真言宗豊山派、高水山常福院龍学寺で、住所は東京都青梅市成木だ。本尊は浪切白不動明王(前20項)で、御利益は、五穀豊穣、家内安全、火防盗賊除という。

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ここにプラスチック製の天水桶があった。防火目的だけに特化されていて、景観とのミスマッチが、少々嘆かわしい。「青梅山林災害対策協議会 青梅消防署」との表示があるが、行政の指導による設置だろうか。

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●荒川区南千住の胡録(ごろく)神社。永禄4年(1561)、上杉家の家臣が、厄難を逃れてこの地に土着、守護神として「面足尊・惶根尊」を奉じ崇敬したと伝わる。近辺では、蠣殻を石臼にかけて作る、胡粉(ごふん)という人形の顔料作りが盛んで、それが社名の由来だという。

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由来は不明だが、神紋は、星紋の「七曜」だ。真ん中の大きな丸が、太陽を意味するのであろうか、七つの星は「日・月・火・水・木・金・土」を表すという。「潮入 氏子中」の奉納だが、近隣には、「汐入公園」などの呼称が現存する。

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1対の鋳鉄製の天水桶は、「武州川口町 田中鋳工所製 昭和2年(1927)6月吉日」という鮮明な鋳出し文字で、「○に二」の社章や、印影(前13項)も確認できる。田中製の天水桶に関しては、前6項から全てを見られるので、ご参照いただきたい。

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前21項後70項後111項後119項などでも登場しているが、茨城県真壁町の鋳物師、小田部氏の天水桶を何例か見てみよう。茨城県笠間市泉の愛宕神社は、日本三大火防神社の1つとして知られ、愛宕山(305m)山頂に鎮座している。創建は、大同元年(806)と伝わる歴史ある神社だ。

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愛宕山には天狗が住んだという伝説があり、堂内にも立派な天狗のお面が飾られている。ここの神紋は、防火の象徴の「三巴紋」と「天狗団扇紋」だ。天水桶にも見えるヤツデの団扇は、厄除け、魔除けの効果があると言う。奉納は、「八郷町 永井製菓(株)」や、「東京都北区赤羽南 原工業(株)」であった。

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この1対の鋳鉄製天水桶の大きさは、口径Φ1.2m、高さは940ミリ、額縁部の幅は140ミリとなっている。銘は「茨城県真壁町 御鋳物師三十六代 小田部庄右エ門 昭和59年(1984)1月吉日再鋳」だ。「再鋳」とあるが、天水桶としては何代目であろうか。以前の桶も、小田部氏が代々に亘って鋳造してきたのかも知れない。

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●埼玉県越谷市南荻島の稲荷山玉泉院(後112項)は真言宗豊山派だ。武蔵国八十八ケ所霊場の32番だが、この札所巡りは、足立区や草加市、越谷市、さいたま市や川口市に集中している。ここに口径1m、高さは800ミリという大きめな鋳鉄製の天水桶が1対ある。ありふれた殿前の光景がこの桶によって個性的に変身している。

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一部は石の台座に埋没しているのだろうか、寸足らずの様な感じがするが、1基には「稲荷山」という山号、もう1基には「玉泉院」と鋳出されている。センターに見られるのは、「輪違い紋」だ。輪違い紋を用いる武家としては、室町幕府を開いた足利尊氏の執事の高師直をはじめとした高一族が知られる。

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銘は、「茨城県真壁町 鋳物師 小田部庄右エ門 昭和55年(1980)12月吉日建之」で、時期的に上記と同じ36代目の作であろう。「住職 林文信代」の時世であった。なお後119項で見るが、この天水桶の容姿が参考になって、茨城県つくば市の金剛山安福寺や栃木県鹿沼市の西鹿山雄山寺で見た作者銘が無い天水桶の鋳造者を特定しているので、ご参照いただきたい。

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●ここの堂宇の向かって左側には、諸書に登録が無い、出自不祥な江戸期の鋳物師製の半鐘が掛かっているので、ここに記録しておこう。スタンダードな1尺ほどの半鐘で、池の間(前8項)には「願主 大熊長左衛門 中嶋三郎兵衛」らの刻みがある。「一打鐘聲(声) 當(当)願衆生」、「脱三界苦 速證(証)菩提」というお題目が掲げられているが、「速證」は、仏語で速やかに悟るという意味だ。

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珍奇なのは、鐘身のある1面に長文のキリーク文字が陰刻されている事だ。その内容の意味する事は不明だが、これは神の文字とも言われ、魔除けなどとしてお札にも記される古代インド由来の梵字だ。

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前8項後91項後105項後131項などでも見ているが、この神聖な文字の存在が、昭和の戦時の金属供出(前3項)を逃れた理由ではあるまいか。軍部は、キリークを畏怖するかのような対象として、多少なりとも認識していたのだろう。画像は江東区富岡の深川不動堂(後77項)の建物だが、壁面一杯に梵字がある。何を意味するのであろうか。

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●この施策は、銅鐘や天水桶などを鋳潰して不足がちな金属資源を補充しようとする勅令であった。回収に際しては、美術的な価値があるもの、慶長時代以前や地元の鋳物師作などは、1口(こう)に限り対象外であったが、費用対効果という側面もあったかも知れない。

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つまり、大きくて重い梵鐘などに比して、半鐘は軽くて重量物では無いから除外という事だ。一方では例外無くという事でもあって、供出拒否は非国民呼ばわりされる行動であり、戦意高揚という国策面からすれば、それから逃れて現存する江戸期の銅鐘は貴重だ。

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●銘を読んでみよう。「延享四丁卯(1747)天正月吉辰日 武州埼玉郡越ケ谷領荻嶋村 玉泉院住存 秀丞之」で、差し引き265年前の鋳造物だ。作者は「(栃木県)佐野住 藤原光長作」となっているが、文政11年(1828)からの「諸国鋳物師名寄記」や、嘉永7年(1854)の「諸国御鋳物師姓名記」にも名前は見られない。

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藤原姓(前13項)の名乗りからして、京都真継家(前40項)に認可された勅許の御用達鋳物師で、居住地からしても、佐野天明(後108項)の鋳物師であったろう。本来の氏名が判らず詳細は不明だが、これは知られざる貴重な半鐘だ。

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●続いての大光普照寺(だいこうふしょうじ・後112項)は、埼玉県児玉郡神川町二ノ宮にある天台宗の寺院だ。山号は金鑚山(かなさなやま)、院号は一乗院で、近くにある金鑚神社(前46項)の別当寺だ。聖徳太子の開創で舒明天皇の勅願時であったと伝わり、江戸時代には、寺領30石の御朱印寺でもあり隆盛をみている。(境内掲示を要約)

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殿前には、魔除けの朱色で塗装された1対の鋳鉄製の天水桶がある。大きさは口径Φ1.150、高さは920ミリという大き目の4尺サイズだ。寺紋は、古くは飛鳥時代から使われているという、「武田四つ菱紋」だ。「梵鐘復元寄付者 檀信徒一同」の奉納で、「第64世 師恵代」の時世であった。

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「茨城県真壁町 鋳物師 小田部庄右エ門 昭和46年(1971)4月3日」と鋳出されているが、これも同じく小田部家36代目による鋳造だろう。

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●茨城県桜川市真壁町桜井の曹洞宗、天目山伝正寺は、小田部家の菩提寺であろう。近くには「茨城百景 伝正寺と真壁城址」の石碑もあるが、文永5年(1268)、真壁城主の真壁安芸守時幹が創建している。同市のサイトを見ると、「初代真壁藩主の浅野長政の菩提寺としても有名で、境内には長政夫妻の墓や浅野本家最後の城主長勲夫妻の石像があります」という。

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地肌の、あばたの様なザラザラ感に味わいを見い出せるが、梨地肌という事であろうか。正面に据えられているのは、「浅野鷹の羽」とも言われる家紋だ。鷹狩りに象徴されるように、江戸時代の武家と鷹は密接な関係にあり、鷹羽をアレンジした家紋は、実に100を超える大名家が使用している。

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1対の鋳鉄製天水桶の造立は、「昭和43年(1968)10月 当山36世 佛鑑祖峰代」の時世であったが、銘は、「為先祖代々菩提 真壁町 施主 小田部庄右エ門」であった。

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●次は、茨城県取手市取手にある、臨済宗妙心寺派の古刹、大鹿山長禅寺。掲示板によれば、朱雀天皇の代の承平元年(931)に、平将門が勅願所として創建したという。江戸時代初めに水戸街道が整備され、取手宿が形成されると現在地へ移転、慶安2年(1649)には、3代将軍徳川家光から朱印地を賜っている。

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また、日本最古とされる、宝暦13年(1763)建築のさざえ堂があるが、縁起によれば、「過去現在未来之三千仏を安置して 三世堂と号し候」という。天水桶の真ん中の紋章は金剛杵の内の1種で、本来はインド古来の武器であるというが、これが十文字に配されている。先端が3つに分岐した「三鈷杵(さんこしょ・後68項)」だが、ここに武器らしい面影がある。

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1対の鋳鉄製天水桶の真裏には、奉納者名が鉄板に陰刻され、それがビス止めされている。「相馬大師 第一番霊堂 昭和39年(1964)11月吉日落慶記念 13世住職 山野義豊」とあるが、ここは、新四国相馬霊場巡りの発願所だ。横側には、「茨城県真壁町 鋳物師 小田部庄右エ門」と陽鋳されている。

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●なお、ここの山門は鐘楼塔を兼ねていて、回廊が廻っている。寺はちょっとした高台に建っているので、かつては見晴らしもよく、打鐘すれば遠音が効いたことだろう。登壇できないのは残念で、掛かっている梵鐘の詳細も確認できない。

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こんな時に頼りになるのが、大正3年(1914)刊行の、香取秀眞(後116項)の「日本鋳工史稿」だ。「江戸鋳工年表」には、全てを網羅している訳ではないが、元和期(1615~)から慶応期(~1868)までの鋳物師や鋳造物の来歴の明細が並んでいる。

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●ここ長禅寺の鐘についても記載がある。口径は2尺8寸、840ミリほどで、鋳造は、「明和7年庚寅(1770)春3月 江戸深川 田中七右衛門藤原知義」だという。香取は、「この工人恐らくは、深川釜七の祖か」としている。

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前17項で見たが、万治元年(1658)頃に江戸深川上大島町に出店したのは、太田六右衛門(釜六)と、従弟の田中七右衛門知次、釜七であった。知義は知次(後58項)の2代ほど後の鋳物師だ。降ろすにも難儀な高所にあって確認できない鐘銘だが、戦時の金属供出(前3項)を逃れ現存するとすれば、貴重な1口(こう)だ。

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●続いては、栃木県塩谷郡高根沢町上高根沢の真言宗智山派、無量寿山浄蓮寺だ。ここに露座する「銅造地蔵菩薩半迦座像」は、高さ195cmで、町指定の有形文化財となっている。造立は、「于時(うじ=時は・前28項)安永二癸巳年(1773)三月廿八日(28日)」で、「鋳師 戸室将監 同 伊兵衛作」と刻まれているが、後91項で見ている。

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ここには、寺田治兵衛(1782~1836)の墓がある。あまり知られていない人物だが、地元の人々は大層同情を寄せているようで、浄蓮寺も特別な供養を行っている。泉州一橋領・池浦村(現泉大津市)の庄屋で、物心両面に亘り領民の生活向上に尽力している。しかし天保年間(1830~)に、村方騒動や鎮守社問題に関連し失脚、当地に流され入牢、その無念の死を悼み、当寺22世行慶が墓碑を建立している。

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堂宇前の鋳鉄製の天水桶は、口径Φ1.150、高さは940ミリで、雷紋様(後116項)が廻る額縁の幅は140ミリとなっているが、「落慶記念 世話人一同」の奉納だ。そこそこの大きさであり、寺観を高めている存在感ある1対だが、作者の陽刻銘は、「茨城県真壁町 鋳物師 小田部庄右エ門 昭和51年(1976)4月4日」だ。

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●栃木県宇都宮市野沢町の宝珠山玉塔院光明寺は、真言宗智山派だ。寺伝によると、鎌倉時代に野沢太夫が宥憲法印を招き石塚の地に玉塔院を建立して開山したという。「静桜」、「桜本薬師」の寺として有名だが、どんな桜であろうか。

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ホムペには、「玉塔院の境外堂に、源義経を慕い奥州下向の静御前が休憩され、守り本尊(薬師如来)を土中に納めて、塚を築き、携えた桜の杖を挿して武運を祈った。後にこの杖に根が生じ大木となり珍花を咲かせたので、これを静桜、桜本薬師さんと呼んで信仰を深めた。今の桜は12代目、薬師如来は秘仏として、安置されている」とある。

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さらに「本堂天井に日本芸術院の豊川蛯子画伯画6帖大の飛天壁画、鐘楼には人間国宝、香取正彦門弟 鴇田力(後97項後120項など)鋳造の梵鐘を備える。 興教大師御遠忌を記念し大般若600巻を備える。境内には修行大師、ぼけ封じ寿正観音立像、宝暦の供養地蔵尊(本堂地下出土)の無縁塔ほかが安置されている」という。見事な山門が入口だ。

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●鋳鉄製の天水桶1対の大きさは、口径Φ1.150、高さは940ミリで、先例と全く同じだ。石の台座の形状も、正面に据えられている「桔梗紋(ききょうもん)」も同じだ。万葉集で秋の七草として詠われているのが名花の桔梗だが、美濃の土岐氏の家紋として知られる。戦国武将の明智光秀もこの紋を用いているが、美濃や飛騨地方などの岐阜県で多く見られるようだ。

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造立は、「宝珠山光明寺 昭和51年(1976)11月9日」で、先例と近しい7ケ月後だ。作者の銘は、「茨城県真壁町 鋳物師 小田部庄右エ門」で、これ以外には、奉納者の名前などの文字は無い。

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●さて、次は川口鋳物師・永瀬留十郎作の天水桶を追いかけてみた。前4項をはじめ、既に5、6対の桶に出会ってきているが、戦時中の金属供出もあって、現存数は少ないようだ。明治時代初期、川口市内の鋳物業者は20社程度であった。当時の東京の人口は100万人で、その金物需要は際限なく、永瀬氏の工場も大いに潤ったであろう。

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明治19年(1886)、浅草・広栄堂発行の「東京鋳物職一覧鑑」には、66人の川口鋳物師名が列挙されている。鍋釜の鋳造者が多い中、同社は「キカイ(機械)」(物鋳造)と記載されていて、他社とは違う流れを経てきたことがうかがえる。最下段の左から7人目だ。

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●渋谷区代々木にある代々木八幡宮は、鎌倉時代初期に、源頼家公由縁の荒井外記智明(ともあきら)によって創建され、鎌倉武士の守護神、鶴岡八幡宮より勧請を受けたのが始まりと伝わる。木々が鬱蒼と茂る境内には、縄文時代の堅穴式住居が復元されている。

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天水桶のぐるりには、料亭の類であろうか、「千駄ヶ谷水車 みのや」など、多くの「世話人」が名を連ねている。また、「当村 山谷(さんや)」と見えるが、貴重な物証だ。これは昭和の半ばに消滅した地名だが、現在の代々木3、4丁目に相当する。代々木山谷通りがあり、小田急線開通当初は山谷駅が設置されていたという。平成27年(2015)4月には、区立山谷小学校が開校しているが、旧村名へのこだわりが明白だ。

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銘は「武州川口町 永瀬留十郎製造 明治22年(1889)9月新調 同33年(1900)6月改造」である。鮮明な鋳出し文字で、未だに誇らしく健在しているが、見苦しいサビだ、そろそろ手入れが必要だろう。この1対は、鋳鉄製なのだ。

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●最後は、西東京市東伏見の東伏見稲荷神社。ウィキペディアによると、「昭和4年(1929)に、京都の伏見稲荷大社の分霊を勧請して創建された。東伏見という地名はこの神社が出来てからついた地名で、それにあわせて西武新宿線の駅名も上保谷から東伏見に変更された」という。

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ここに一風変わった桶が1対ある。全周が鉄板で覆われているのだ。大きく張り出した稲荷社紋の細工金具が目を引くが、製造者名などの文字は全く見当たらない。 

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●これが何ゆえ永瀬氏の作なのか。平成22年(2010)、川口鋳物工業協同組合発行の冊子に、同氏の後継の方が記事をよせているが、そこに「東伏見稲荷神社の天水桶を鋳造した」、と書かれているのだ。明治22年(1889)の造立だという。

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また、下の画像は、前出の川口市・増田卯吉氏が撮影記録した、「天水鉢図集」からの転載であるが、同神社には確かに鋳鉄製らしき桶が存在している。この時期には、まだ鉄板の覆いは無かったのだ。また、写真では明確に判読できないが、表面には何らかの鋳出し文字が存在するようだ。

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●写真と共に、手書きで丁寧に、3尺という大きさや稲荷の紋章まで書かれている。「明治30年(1897)2月 武州川口町 永瀬留十郎作」だという。神社の創建時期より早い奉納であることや、後継者の証言と食い違いがあるが、増田氏はご自身の目で確認されての記録であろうから信頼できると思う。

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神社でご朱印をいただいた際に宮司さんに聞いてみた。「ここの天水桶は鉄板で覆われていますが、中身はサビついた鋳物製ですか?どこで鋳造しましたか?」、「そうです鋳物製です。製造者の件は失念しました」と言う。

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覆いを取り外す訳にもいかず、この目での確認は出来なかったが、永瀬留十郎の作に違いなかろうと思われる。出来得ればサビを落として塗装して欲しかったが、残念だ。次回は、永瀬系の天水桶を追いかけて、京急電鉄沿線を歩いた時の様子をレポートしたい。つづく。