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●ネットをサーフィンしていて見つけた、天水桶がある光景の場所へ行ってみた。さいたま市岩槻区内にある料亭「ほてい家」の入口には、木製の天水桶がある。ホムペには、『岩槻は徳川時代、日光街道の要衝として栄えた城下町です。

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ほてい家はこの江戸の頃に創業した伝統を今に受け継ぐ老舗料亭です。近世、近代には「布袋屋」と書き、岩槻藩主大岡家中の江戸藩邸詰めの武士が岩槻に来ると布袋屋でもてなしたと「日記」に記されています。埼玉県営業便覧(明治35年・1902)には「蒲焼御料理 布袋屋」と記されております。

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大正期には「布袋屋の茶碗蒸し」が鰻とともに人気を博しました。今日ではうなぎ百撰2005年春号の名代めぐりで紹介され今でも鰻料理は人気です。』、とあるから、うな重御膳¥2.600を食してみたが、なるほど屋内外の雰囲気も味も、満足のいくものであり、お陰さまで、記憶に残るプチドライブを楽しませて頂いた。

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植木への水やりなどのために雨水を利用しているようで、下方左側に蛇口があり、天水桶として現役を続行中のようだ。料亭においては、金属製の物より木製の方が味わいがありお似合いだろう。

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●スキー旅行を楽しんだ時のこと。群馬県のルート120号線、日本ロマンチック街道沿いの漬物屋前で、巨大な木製桶を見た。日本ロマンチック街道協会事務局によれば、この街道は、日本において最もドイツ的な景観を持つ街道として、長野県上田市より群馬県草津町、沼田市を経て栃木県日光市を結ぶ全長約320kmの街道という。


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天水桶ではなく、客寄せ目的のオブジェであろう。その見た目の真新しさ具合からしても、現役を引退した漬物桶でも無さそうだ。それにしても巨大だ、目測でしかないが、口径2メートル、7尺といったところであろうか。

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●都電荒川線早稲田駅の南側、新宿区西早稲田の真言宗、慈雲山大悲院観音寺では、見事な建築設計の妙が魅せる、洒落た雨どいを拝見した。ここは寛文13年(1682)の創建で、御府内八十八ケ所霊場52番、豊島八十八ケ所霊場52番、山の手三十三観音霊場の14番札所となっている。

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まず屋根を伝う雨水を、太い丸パイプの上方部にある下三角形の樋が受け、パイプ内を流れ下り、下方部でそのまま排出・・、と思ったら、パイプの真ん中に見える細いパイプに優しい趣向があった。

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赤い壁を貫通したその細いパイプが、降雨の一部を、外側にある花瓶に給水、という訳だ。

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●では前回に引き続いて、川口鋳物師・山﨑寅蔵作の天水桶を見てみよう。荒川区南千住の若宮八幡宮は公園の一角に鎮座している。境内の説明板によれば、「その名の通り、仁徳天皇を祭神としているが、婦人病に効験があるとされ、祈願して治癒の際には二股大根を描いた絵馬を奉納する」という。神格化された八幡神である応神天皇の御子神が、第16代仁徳天皇だ。

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ここに備わっているのは、「川口市 製作人 山﨑寅蔵」銘の、口径Φ600ミリ高さ640ミリという小さ目な鋳鉄製の天水桶1対だ。屋根からの降雨を受ける場所には置かれていないが、ただ置かれているだけなので、転倒したりズレ落ちたりしないか心配な設置法だ。ステンレス製のフタに覆われバケツが乗っていて見えないが、本体の額縁には、雷紋様(後116項)が廻っている。

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●鋳出し文字は、桶の大きさに比して大きめとなっているが、かなり鮮明であり、張り出し量も厚めだ。銘によれば、「昭和10年(1935)8月15日」の設置で、周囲には多くの奉納者名も見られる。「武州銀行 千住支店」の人達だ。

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この銀行は、大正7年(1918)11月に埼玉県北足立郡浦和町(のちの浦和市)に設立され、昭和18年(1943)7月の戦時統制で今の埼玉りそな銀行となり、武州銀行は消滅している。

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●京急本線、横須賀中央駅から徒歩8分の所、神奈川県横須賀市上町にある中里神社。境内掲示の沿革を読んでみると、「古来稲荷神社ト云 現鎮座附近ヲ稲荷ケ谷ト云 現本殿ハ文化14年(1814)8月建立サレタルヲ 明治41年(1908)11月改築シタモノ・・ 祭神 倉稲魂尊(うがのみたまのみこと)、伊勢大御神」とある。

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ここの鋳鉄製の天水桶1対は、「中里町 氏子中」の奉納であり、「昭和11年(1936)8月」の造立だ。「中里町」という地名の呼びの由来については、近くの「中里通り商店会」のページから引用させていただこう。

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●「日本に里のつく地名は多い。それは一つの理由から考えられる。大化改新(645)で、中大兄皇子が蘇我氏を滅ぼし新しい国家態勢を堅てた。地方行政区画として国郡の制が出来、国の下に郡、郡の下に里があった。国名として今も、大和、武蔵、信濃などが有名だが、ちなみに横須賀は相模国三浦郡だった。未だに葉山方面には三浦郡が残る。」

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「そして里が末端行政区画としてあるが、これは田の面積でもある。6町×6町=36町を一里とし、一里を“ます目”の様に並べた縦の筋と“条”の横の筋を“里”と呼び、碁板の目を読むように、その土地を何条何里と特定した。しかし全国で同じ伝わり方をしたのではなく、色々な呼ばれ方が生じた。例えば“一条一里、上の里”のように固有名詞をつけたものもあった。その様な訳で中の里も下の里も生まれたらしい。」

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●「古代式に云えば中里通り商店街の住所は、相模国三浦郡○条○里、中里、中ノ坪と云われていたかも知れない。いつの頃からかは分からぬが明治22年(1889)まで中里村があり、昭和25年(1950)までの一時期中里町があった。そして今は俗称が正式名称となり上町となっている」とある。

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鋳造地である埼玉県川口市から見て、東京都を隔てたこんな遠方でも、「川口市 製作人 山﨑寅蔵」が名を残していたとは感無量だ。蛇口は後年に誂えられたものであろうか、同氏の作例に同等の趣向をほぼ見かけ無い。

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●次は、京急本線平和島駅の東側、大田区大森東にある津島神社。欽明天皇元年(西暦540年)創建という総本社は愛知県津島市にあり、全国に約3千の分社があるというが、建速須佐之男命(たけはやすさのお)を祭神とするという。

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本社のページによれば、創建時の社名は「津島社」であったが、神仏習合の影響により、ご祭神を「牛頭天王」に改めたことにより江戸時代までは「津島牛頭天王社」となり、明治の神仏分離により「津島神社」に改められたという。

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●鋳鉄製の天水桶1対は、「昭和7年(1932)5月吉日」の造立、「御嶽教三笠山講」の奉納で、「講元 平林力之進 先達 田中福次郎」をはじめ多くの世話人の名が連なっている。玉垣設置時期の陰刻を見るとほぼ同時期なので、本殿も含め、その当時に何らかの改修が実行されたに違いなかろう。

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「武刕(州)川口町 製作人 山﨑寅蔵」と読めるが、同市の市制施行前なので、まだ表記は「町」だ。額縁には雷紋様(後116項)が廻っているが、大きさは口径Φ750、高さは640ミリとなっている。

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●この津島神社の近く、大田区大森東1丁目7の7には、「原守社」がある。創建時期や由緒などの詳細は不明だが、扁額には「正一位」とあり、お狐様が居て、手水盤や天水桶には稲荷紋が見られるので、稲荷神社系の社だ。かなり狭い境内だが、個人が勧請した屋敷神であろうか。

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ここに、大きさが口径Φ600、高さ660ミリの鋳鉄製の天水桶1対が置かれている。鋳出し銘は、「昭和7年(1932)5月吉日 澤田屋」とあり、○に福の文字の社章らしきものがある。

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続けて「請負人 鍛治勝」とあるが、他に鋳造者などの文字は無い。「冶」ではなく「治」なので、鉄製品の鍛造を行う鍛冶屋さんではないようだが、これは名字であろうか。あるいは「鍛」ではなく、おなじく「か」と読む「鍜」の文字であろうか。

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澤田屋は、先の津島神社の石垣にも名があった。ここの境内の灯籠にある陰刻を見ても多くの従者を抱えていたようで、職種は判らないが、そこそこの規模の店舗だったようだ。地に根差して活動していたようだが、あるいは原守社は、澤田屋の屋敷神であったかも知れない。天水桶は、先の津島神社と全く同じ造立時期であり、少し小ぶりではあるが、雷紋様が廻っていて同じ様な意匠だ。鋳造者は津島神社と同じく「山﨑寅蔵」だろうか。

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●東横線の都立大学駅近く、目黒区八雲の、目黒八雲氷川神社。説明板を要約すれば、慶雲4年(707)に創建されたと伝えられ、癪(しゃく)封じの神として広く信仰されてきたが、旧衾(ふすま)村、今の八雲周辺の鎮守様だ。毎年9月の祭礼には、神楽殿で素戔嗚尊の「八岐の大蛇退治の物語」を表現する「剣の舞」が奉納されるという。

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鋳鉄製の1対の天水桶は、「昭和10年(1935)6月19日」に衾町の人によって奉納されているが、「奉鋳造 為発願成就 子孫永世繁昌」と裏側に鋳出されている。この人は、「桶職 白子政治郎 65歳」だが、木製の桶職人であったろうか。

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●大きさは口径Φ900ミリの3尺サイズ、3脚も含めた高さは930ミリだ。1.140ミリ角で高さ570ミリの台座も鋳鉄製で、その前面に描かれている2匹の獅子は、躍動感にあふれている。なお、この台座は中身が詰まった無垢では無く、肉薄な構造となっている。

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鋳造者銘の鋳出しは鮮明で、「川口市 製作人 山﨑寅蔵」だ。正面のセンターにあるのは、ここの神紋であろうか。5枚の桜の花びらの真ん中に「氷」の文字があるが、これが上部の額縁全周にも連続している。寅蔵は、通常ここに雷紋様を描く事が多いから異色なデザインといえる。

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●中野区弥生町にある神明氷川神社は、旧雑色村の鎮守だ。神社は、文明元年(1468)に、太田道灌(後89項)が江戸城鎮護のため武蔵大宮氷川神社(前20項)より勧請し創建されている。この角度からでないと社殿と天水桶を写し込めないが、狛犬が大きく目立つ画像となった。狛犬や参集殿兼社務所は、「ご鎮座五百年 明治百年両記念事業」として、昭和43年(1968)10月吉日に完成している。

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天水桶は鋳鉄製の1対で、「大正15年(1926)○月」の造立だが、「月」の部分は欠落している。もう1基にも日付があるが、そちらはサビが激しく判読不能だ。大きさは口径Φ750、高さは650ミリとなっている。昭和20年(1945)5月、神社は戦災によって一宇も残さず灰燼に帰したというが、この1対は戦禍を逃れたようだ。

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真裏を見ると、これは「埼玉縣川口町 山寅作」銘だが、落款(前65項)のような簡潔な表示となっている。この様な表示の鋳物師の山寅に関しては、前20項で検証している。

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●千葉県松戸市平賀にある日蓮宗の本山、長谷山本土寺(後127項)は、別称あじさい寺とも言われるが菖蒲の花も見事らしい。画像は、高さ18メートルの五重塔で、平成3年(1991)に、日像菩薩六百五十遠忌記念として建立されている。中には、インドのネール首相より贈られた真仏舎利の一粒が納められ、千体佛と共に祀られているという。

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ところで、塔の多くは五重であるが何故だろう。それは「ストゥーパ」に端を発している。ストゥーパは仏塔とも訳されるが、古代インドの言葉であり、日本での音訳は「卒塔婆(そとうば)」だ。

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ストゥーパは、仏教の開祖のお釈迦様の遺骨、仏舎利を納めた塔で、五重塔も五輪塔もこれに由来している。「5」と言う数字は、仏教の世界観を示しているが、地水火風空の5つの要素がこの世を構成しているとし、人間もこれによって生かされていると考えている訳だ。

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上の画像の様に、五輪塔の各部は、下から「方形の地輪 円形の水輪 三角形の火輪 半月形の風輪 団形の空輪」の5つから成っている。五重塔もしかりだ。画像の中央に見えるが、追善供養のために墓の中などに立てる卒塔婆は、仏舎利を納めた墓の形を模した木板だが、よく見るとくびれがあって、地水火風空の5つの区域に分かれているのだ。

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●さて、ここの寺域は、観光協会によれば、「もと源氏の名門平賀家の屋敷跡と伝えられ、1277年日蓮上人の弟子日朗を導師として招き開堂、日蓮上人より長谷山本土寺と寺号を授かったのが始まりとさ れており、池上の長栄山本門寺(前22項)、鎌倉の長興山妙本寺(後127項)とともに朗門の三長三本の本山と称される名刹です」という。
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「朗門」とは日蓮の弟子日朗の門流という意味であり、「三長三本」とは、上3ケ寺の山号寺号に、いずれも「長」と「本」の字が含まれることによる。本堂は慶安4年(1651)に、小金城主一族の恵了院日修が息女の菩提を弔って造立している。この近くには流鉄流山線が走っているが、最寄り駅名に「小金城趾」がある。

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●鎮座する鋳鉄製の天水桶1対は、外径高さ共に1メートルであったが、「平賀長谷山」は、「ちょうこくざん」と読むようで、「平賀」は周辺の地名だ。額縁には、植物紋様が廻っているが、あじさいの葉であろうか。裏側には多くの奉納者名が見られるが、その範囲は広く、東京の本郷、牛込、王子、本所、深川など、多方面に亘っている。

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「川口市 製作人 山﨑寅蔵 昭和10年(1935)10月吉日」銘、それとその真下に印影(前13項)が見られる。当時の住職は、「第56世 日真代」であった。印影はくっきり鋳出されているが、不可解なこの文字の読み方については、後113項で検証し判明しているのでご参照いただきたい。

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●境内の一角にある像師堂は、日蓮大聖人に次ぐ偉聖と崇められる日像聖人を祀っている。ホムペによれば、『この寺域は往古妙泉院と称せられ、中世からは輪蔵院と改称、支院の一つであった。現在は当山に合併されており、京都開教の祖日像上人の「日像菩薩像」が祀られる。「日像菩薩誕生水」と合わせて「子安乳出の日像様」として信仰を集め、最盛期には参道まで祈願者の列をなした』という。

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ここには菊の花弁形の青銅製の天水桶が1対あった。「昭和62年(1987)11月15日 本土寺 第58世 日永代」に、「開運」を主眼に設置されたようだ。「日像菩薩 第六百五拾 遠忌報恩謝徳」として、「日像菩薩御宝前」へ奉納されている。作者は不明で、かなり胴長だが奇抜なデザインだ。

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●東武伊勢崎線蒲生駅近く、越谷市蒲生(がもう)本町の慈眼山清蔵院。ここの山門は、市指定の有形文化財だ。説明板によれば、『この山門の龍は巷間の伝説では左甚五郎の作といわれ、夜な夜な山門を脱けだして畑を荒らしたことから、これを金網で囲ったという。

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おそらくこの山門の建立者は、日光東照宮造営に動員された工匠の1人で、日光への往返に世話になった因縁から、東照宮竣工「寛永13年(1636)」後再び、国元から蒲生に来てこの山門を建立したものであろう』とある。

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●1対の鋳鉄製の天水桶は、鋳出し文字によれば、「文久3年(1863)11月29日」と、「慶応4年(1868)2月25日」に亡くなった2人の菩提のために奉納されている。大きさは、口径Φ900、高さは790ミリで、台座も960ミリ角、高さ450ミリの鋳鉄製となっている。

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銘は「埼玉縣川口町 山﨑寅蔵善末作」であるが、造立年は不明だ。明治新政府が直轄地としていた旧幕府・旗本領に、全国的な行政区分として「県」を設置したのは、明治4年(1871)7月14日の廃藩置県だ。一方、市制が施行され「川口市」が誕生したのは昭和8年(1933)であったが、ここでの表示は「川口町」となっている。

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造立年を絞ってみよう。本サイトで見てきた同氏作の桶の初見年代は、大正8年(1919)であった。前項で見たように、山﨑の工場の操業は大正3年(1914)であったから、それ以降から、「町」表示される昭和7年までの18年の間と言ってよかろう。さらに絞り込むのであれば、「牛込原町1ノ13 中野嶋三郎」を精査すればよかろうか。

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●ここの鐘楼塔に掛かる梵鐘を見ておこう。縦帯(前8項)には、「慈眼之鐘 慈眼山清蔵院 奉納 檀中一同」、「南無十一面観世音菩薩」、「為先祖代々菩提 並子孫長久悠念」と掲げられている。鐘の真下に置かれている2本の木材は、棕櫚(しゅろ)の木だ。いずれ消耗するであろう撞木(しゅもく・後120項)の予備であり、今は枯らされ登板の時を待っているのだ。

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寸胴型の和鐘だが、遠めに見ただけでこの梵鐘の作者が判るのは、下部の外周に十六菊紋が廻っているからだ。銘は「昭和53年(1978)3月吉祥 当山第36葉 範二代」、「茨城県真壁町 鋳物師 三十六代 小田部(こたべ)庄右エ門」だ。十六菊紋の存在は小田部家の象徴なのだが、前21項には、同家の作例のリンク先を全て貼ってあるのでご参照いただきたい。

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●では、流れで小田部家の天水桶の作例を見てみよう。茨城県結城市から4例だが、まずは、真言宗、慶福山結城院満福寺。掲示によれば、10世紀に創建され、15世紀の永享年間(1429~)に、久保田村字慶福に中興、間もなく結城城内の西館に移り、慶長年間(1596~)に今の地に移されたという。文化財の「銅造虚空蔵菩薩像」は、戦国大名の結城家16代政勝の念持仏と伝わる。

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釈迦堂の前に、鋳鉄製の天水桶が置かれているが、裏側には、「志主」が銘文を寄せている。「亡父倉吉 亡母八重ノ嚮ニ(ために・前に)寄進セル天水鉢ハ 大東亜戦争ノ砌リ(みぎり)之ヲ供出ス(前3項) 茲ニ(ここに)英霊菩提ノ為 併テ亡父十三回忌 亡母一周忌供養トシテ再鋳ス」だが、「志主」の願念が込められた奉納物だ。

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1対の大きさは、口径Φ900ミリの3尺サイズ、高さは770ミリで、正面には「九曜紋」が据えられている。造立は、「昭和27年(1952)5月仏日 慶福山34世 中僧正 元道代」の時世で、作者の銘は、「茨城縣真壁町 鋳物師 小田部庄右エ門」となっている。これは当サイトで知る得る限りでは、同家の最古の天水桶だが、再鋳前の天水桶も小田部製であったろうか。

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●同じく結城市結城の、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)と、須佐之男命(すさのおのみこと)を祀る健田須賀神社。サイトによれば、「当神社は明治3年(1870)に健田神社と須賀神社が現在の地に合祀になりました。この地は古代より現在に至るまで、霊峰筑波山を拝するのに素晴らしい地にあり、古代人はここで祭りを行い、日の出から暦を察した場所と考えられます。

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やがて神社の様相を呈し、結城の国造竹田臣の祖神武渟川別命を祀ったといわれています。日本で最古の公式記録集『延喜式』(927)には下総国11社の1つに記されている延喜式内社です。」といい、現在の神社も、東の筑波山の方角を向いて鎮座している。

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この神社の名前から、健康祈願はじめ、厄除け方位除けにご利益があるとされるようだ。堂宇に覆い被さるかの様な「願い叶う栄える木」という「夫婦榊」は、枝が1本の根元から2本に分かれているが、縁結びにご利益があるようで、参詣の日も神前式が行われていた。

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●一方の須賀神社は、「結城家初代朝光公が、仁治3年(1242)に尾張国津島神社よりご神霊を勧請し、結城城の鬼門除け、結城家第一の氏神として手厚く祀られ、結城家はもとより広く民衆に信仰され、結城の産土神として崇敬されました。

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特に康永2年(1343)、結城家7代直朝公が結城七社を定め、結城108郷の総社として盛観を極めました。結城家18代秀康公(徳川家康次男)の福井移封後も家臣を遣わし崇敬されました。御祭神は須佐之男命を祀り、夏祭りの神輿担ぎは勇壮で、日本一のあばれ神輿として有名です」という。

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古社に相応しい堂々たる天水桶が堂宇前に見える。大きさは口径Φ930、高さは750ミリで、鋳鉄製の1対だ。「市制施行記念」として、「昭和29年(1954)4月15日 宮司 従7位 山川重穂」の時世に、「氏子一同」が奉納しているが、「茨城縣真壁町 鋳物師 小田部庄右エ門」銘となっている。

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●3例目は結城市西町で、浄土宗、寿亀山松寿院弘経寺だが、読みは「じゅきざんぐぎょうじ」だ。市の掲示板を要約すれば、文禄4年(1594)、結城家18代の城主結城秀康(徳川家康の次男)が、息女松姫の追善供養のため、飯沼(現茨城県常総市)の寿亀山天樹院弘経寺の住職・壇誉上人を招いて建立したと伝わる。江戸時代には、僧侶の養成機関、学問所である壇林が置かれ、関東十八壇林として広く知られたようだ。

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1対の鋳鉄製の天水桶だが、正面には「丸に三つ葉葵紋」が据えられている。秀康との関わりからして用いられているのだろうが、これは「徳川葵紋」だ。紋の意匠には随分と拘りがあるようで、両者は、「丸」と「茎」とする部分が一体であるかどうかで区別するとも言う。

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御三家それぞれでも、葉の模様の本数に違いがあるようだ。同じ将軍家のものでも徳川三代までが1枚あたり33本で、その後徐々に減っていき、最後の将軍、15代慶喜の時には13本になっている。

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大きさは口径Φ1.070、高さは880ミリだ。親の菩提供養のために「子供一同」が奉納しているが、「昭和34年(1959)5月吉日 当山59世 戒誉代」の時世であった。鋳造者銘は、前例と同じく「茨城縣真壁町 鋳物師 小田部庄右エ門」となっているが、他の文字よりも小さく控えめに鋳出されている。

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●最後は、結城市鍛冶町の曹洞宗、大寂院安穏禅寺で、天平年間(757~)頃に開基されたという寺院だ。室町期には、結城家8代直光が越後の高僧の源翁心招禅師を招いて中興しているが、山号は、「結城山」で地名に因んでいる。県指定の文化財である「心招が用いたと伝わる数珠や払子」、市指定文化財の「源翁禅師頂相(肖像画)」が現存している。茨城百八地蔵尊霊場第37番札所、関東九十一薬師霊場第71番札所となっている。

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本堂前の鋳鉄製の天水桶1対には、「奉献 結城山安穏寺」とあり、檀家が「為先祖代々菩提」供養のために設置している。大きさは口径Φ1.140、高さは940ミリで、正面にΦ410ミリ丸の三つ巴紋が据えられている。この他に文字は見られないが、恐らくは、前の3例と同様に昭和時代の中期の造立で、「茨城縣真壁町 鋳物師 小田部庄右エ門」の銘があったと思われるが、何故か掻き消されたかの様な痕跡がある。

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なお銘は存在しないが、このデザインや設置地域からして、小田部製と判断した天水桶は、後119項でも見ているのでご参照いただきたい。小田部家はどれだけの数量の天水桶を鋳たのだろうか、これからの出会いが楽しみだ。つづく。