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●今回は、神奈川県鎌倉市の地で出会った鋳造物を見てみよう。かつて800年前の12世紀、源頼朝や北条時政らが治めた鎌倉幕府が置かれた都市だ。今は、古都保存法によって乱開発が規制され、古寺社や史跡などの文化財が比較的多く残っているようだが、まずお出まし願うのは鎌倉大仏であろう。

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大仏は、鎌倉市長谷の浄土宗、獅子吼山清浄泉寺高徳院の本尊で、国宝の阿弥陀如来像だが、像高は11.3mで、重量は約121トンという。もし立ち上がれば、その背丈は24mにもなるというからすごい。建屋の無い露仏だが、平成12年(2000)の発掘調査では、大仏殿の跡地が発見されている。消失の原因は、台風での倒壊や地震による津波での流出という自然災害の様だ。

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●建長4年(1252)ごろ、集められた中国の宋銭によって鋳造されたようだが、鋳造方法は、胎内の説明板で判る。30回以上に分割しての鋳造であったが、それぞれを強固に鋳継ぐために「鋳繰り(いからくり)」の技法が使われたという。詳細な研究によれば、身体部分を7パーツ、顔部分を5から7パーツに分け、鋳継ぎは、40ケ所ほどであるという。

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前64項では、寛永8年(1631)建立の台東区上野公園内の上野大仏を見たが、「瓦吹」という手法により、下から順次一部分づつの鋳造を繰り返し繋いでいったもので、鋳金工芸家の香取秀眞(ほつま・前116項)によれば、これを「鋳がらくり」と言っている。それと同じ技法のようだ。

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●説明書きによれば像の原型作者は不明で、鋳工としては、「上総国望陀郡(現木更津市周辺)矢那村 鋳物大工 大野五郎右衛門」や、「大坂河内国丹南の丹治久友」の名が伝わるという。しかし大野説は、大正期にはすでに、香取らによって完全に否定されている。

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明治12年(1879)の「由緒鋳物師人名録」を確認すると、大野は、「安永4年3月 常陸国真壁郡 小田部助左衛門分家」となっているが、これが根拠だ。小田部家に関しては、前21項前111項などで度々登場しているが、安永4年は江戸中期の1775年で、全く異なる時代の活動であり、香取らの主張は最もだ。

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また、昭和初期の「川口市勢要覧」では、「大野五郎衛門とあるのは誤りなり。内務省国宝台帳の訂正を望む」とまで記述している。現在、「国指定文化財等データベース詳細解説」を見ると、そこに大野の名前は一切登場しない。しかし今の時点で、高徳院の説明書きに変更は無い。諸説があるとはいえ、日々、多くの観光客に誤情報を伝えているかも知れない。精査すべきであろう。

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●では何故わざわざこの事について、川口市勢要覧が紙幅を割いているのだろう。それは、もう1人の「丹治久友」が関係している。要覧では、川口鋳物の発祥源流(前100項)を「河内国丹南郡」と主張していて、そこからの派生なのだ。

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要覧では、『大和国(奈良東大寺)眞言院なる文永元年(1264)卯月5日の梵鐘には、自ら、「鋳物師 新大佛寺大工 丹治久友」と刻し、又同年鋳造した大和国吉野郡金峰山蔵王堂の梵鐘(現存せず)にも、「鋳之 大工 鎌倉新大佛鋳物師 丹治久友」と刻してあるによって明らか・・』となっている。肩書として「鎌倉」の文字を入れているのだ。

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●丹治の銘が刻まれた銅鐘は、関東でも見られる。まずは、茨城県土浦市宍塚の龍王山釈迦院般若寺だが、天暦元年(947)創建という真言宗豊山派の寺社だ。国指定重要文化財という梵鐘の口径は68.5cm、肩までの高さは、900ミリとなっている。造立を示す銘は、「大日本国常州信大庄般若寺 建治元年乙亥(1275)八月二十七日」で、世話人は「大勧進 源海」だ。

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そして鋳工は、「大工 丹治久友 大工 千門重延」と刻まれている。寺では、千門は、地元の工人だろうとしているが、ここでは丹治の肩書きに「鎌倉」の文字は見られない。この銅鐘は、鎌倉大仏の23年後の鋳造だが、上述の2例の梵鐘や、次の川越市元町・青龍山養寿院鐘(国指定重要文化財)に続いて鋳られた銅鐘だ。

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養寿院(前98項)の鐘に刻まれた「武蔵国河肥庄」の文字は、「川越」の地名の発端とも言われるが、「長三尺五寸」というから、高さは1.050ミリ程となろう。造立は、「文応元年大歳庚申(1260)十一月廿二日(22日) 大勧進 阿闍利圓慶」、鋳物師は「鋳師 丹治久友」という陽鋳造の銘だが、ここでも「鎌倉」の文字は無いようだ。

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●なお般若寺の鐘は、「常陸三古鐘」と言われるものの内の1口(こう)だ。他の2例を挙げておくが、全てが国指定重要文化財だ。まず潮来市潮来の臨済宗妙心寺派、海雲山長勝寺の1口で、総高115cm、口径66.3cmの鋳銅製だ。

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これは、長勝寺の創建者である源頼朝の菩提のために寄進されたもので、序文の中に寺の沿革が記されている。造立は「元徳庚午(2年・1330)十月」で、作者の刻銘は、「甲斐権守ト部助光」だ。

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そして、画像の土浦市大手町の真宗大谷派、蓮光山正定聚院等覚寺の1口だ。建永年間(1206~)の鋳造で、総高134.9cm、口径73.8cmとなっている。寄進は、小田氏の祖「筑後入道尊念」すなわち八田知家だが、八田は、鎌倉幕府の十三人の合議制の一員だ。銘文中に「鋳顕極楽寺鐘 奉為 大将軍」とあるのは、源頼朝を指しているという。しかし摩耗が激しく、作者の銘は判らない。

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●さて、鎌倉大仏に戻るが、主役の大仏様の御前に、青銅製の太閤型灯籠(前74項)が1対ある。観光客の注目外のようだが、線刻を読むと「正徳二壬辰歳(1712)正月十五日 御鋳物師 太田駿河正儀」で、通称釜六系統による鋳造だ。香取が編んだ「日本鋳工史稿」にも記載があるが、同鋳物師に関しては、前17項前77項など多くの項で登場している。

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●続いての、鎌倉市山ノ内の瑞鹿山円覚寺(えんがくじ)は、臨済宗円覚寺派の大本山だ。開基は鎌倉幕府の執権北条時宗で、弘安5年(1282)、元寇の戦没者追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建している。ここに国宝の、「鎌倉第一の大鐘」と謳う洪鐘(前124項)がある。

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「皇帝萬歳 重臣千秋 風調雨順 国泰民安」と大きく鋳出されていて、「形が雄大でありながら、細部にまで緻密な神経がゆきわたり技法も洗練されている」と説明されている。正安3年(1301)8月、北条貞時が国家安泰を祈って、「大工 大和権守 物部(もののべ)国光」が鋳造しているが、官職名(前99項)を拝した当地の有力鋳物師であった。

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この大鐘は、鐘楼塔の劣化のせいであろうが、梵鐘としては現役を引退し地面に降ろされている。鐘は、「洪鐘道」という長い階段を登った、遠く富士山を望める小高い丘の上にある。相州江の島の弁天様を御神体として「洪鐘大弁才功徳尊天」と名付けられた弁天堂の隣だ。狭い敷地であり、建設するにも相当な制約があったはずで、超重量物の鐘鋳造はこの現場での出吹き、つまり出張鋳造であったろう。

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●地上の仏殿脇にも銅鐘が置かれている。堂宇に安置されている本尊は、冠を被っているので「宝冠釈迦如来」、「華厳の廬舎那仏」とも言われると説明されている。大鐘に比すると実に小さく、2尺、60cm強ほどだが、打鐘するには手ごろな位置であろう。

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鐘銘は、「寛永三年丙寅(ひのえとら、へいいん・1626)稔8月3日 冶工 宇田川藤四郎 藤原重次」で、江戸時代の鋳物師だ。前68項の都内文京区大塚の神齢山護国寺でも登場したが、「天和2年(1682)9月吉祥日 宇田川藤四郎 藤原次重」という鐘を鋳ていた鋳物師だ。「重次」と「次重」はどちらが正しいか不明だが、刻み違いだろうか。

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大正3年(1914)刊行の、先の香取の「日本鋳工史稿」にも記載がある。作例としては、「常憲源公(徳川5代将軍綱吉)霊廟前庭 銅燈台 権中納言従三位 源綱條(つなえだ) 宝永6年(1709)正月10日」などを鋳ている。将軍の薨去に際し、常陸水戸藩の第3代藩主徳川綱條が献納したものだが、宇田川は、藤原姓(前13項)を拝した幕府の御用達鋳物師であった。

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●ここ相州相模国の鋳物師にはどんな人がいたのだろうか。平安末期には、毛利荘飯山(現厚木市飯山)で鍋釜を作っていた鋳物師らがいた。鎌倉幕府が創立されると、鋳物需要は飛躍的に増えている。要請があったのだろう、鋳物発祥の地である大坂河内国丹南郡から、先の丹治や物部、広階、大中臣らが来住している。

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彼らは、従者や徒弟らを含めるとそこそこの集団であったろう。鎌倉大仏製作は大事業だ、丹治だけではなく、この集団が一致協力したと想像できる。相模鋳物師としては、他にも源姓や清原姓、恒姓らの集団があったようだが、戦国時代になり北条氏の関東支配が進むと、相模鋳物の中心地は城下の小田原地域に移っている。

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大中臣の鋳た梵鐘が現存する。千葉県松戸市平賀のあじさい寺、長谷山本土寺(前70項)だ。近づけないので説明板を見るしかないが、「建治4年(1278)鋳造 高さ130.7cm、径69cm、700kg」という。作者は、「上総国刑部郡(長生郡長柄町)の大工、大中臣兼守」で、今の千葉県の鋳物師であったようだ。

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●あるいは、台東区の文化財として、金龍山浅草寺(前76項)の銅鐘が登録されている。至徳4年(1387)の鋳造で区内最古、総高は129.4cmという。江戸時代の記録によると、もとは随身門(二天門)付近にあった鐘楼塔に懸けられていたというが、現在は画像の中央にそびえる五重塔内で保存されている。その説明文によれば、「本銅鐘を制作した和泉守経宏(つねひろ)は、相模国毛利荘で活躍した毛利・森姓の鋳物師のひとり」という。

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鐘身の銘文の冒頭にある「豊嶋郡千束郷金龍山浅草寺」の部分は改刻されたもので、元々は、浅草寺の鐘として鋳造されたものではなかったようだ。当初に奉納された寺院は厚木、伊勢原市付近にあったと思われるらしい。

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この地域は、浅草寺中興第一世忠豪の父親、江戸城代遠山丹波守綱景の所領内であったことから、浅草寺の銅鐘として戦国時代末期にもたらされた可能性が考えられ、少なくとも17世紀初頭には浅草寺で使用されていたという。公開されていないのが残念だが、相模国の鋳物師の作例のようだ。

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●清原氏一族と言われる梵鐘も現存する。神奈川県伊勢原市沼目の西沼目八坂神社で、県指定の重要文化財となっているが、室町期の「応永第十(年)癸未(みずのとひつじ・1403)小春日」の作例だ。神社は、13世紀ごろの創建といわれ、京都祇園の八坂神社を信仰した有志の勧請だろうとされている。

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摩耗が激しく一部判読不能だが、説明板によれば、作者は「大工 和泉権守 恒光(つねみつ)」で、「檀那 沙弥 道珍」とある。この鋳物師は、物部氏の後継者的存在であった清原氏の一族という。銘文には当地方の当時の地名「大日本国相模州大住郡」や「糟屋荘沼部郷 祇園宮」が刻まれているなど貴重な史料となっている。

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●さて、物部氏作の梵鐘をさらに数例見てみる。鎌倉市長谷の長谷寺、通称長谷観音は、山号を海光山、院号を慈照院と称し、開山は僧侶の徳道上人とされる。本尊の十一面観音菩薩は、高さ9.18mを誇る日本最大級の木彫仏だ。境内に、旧宝物館を改修した観音ミュージアムがあり、重文指定の梵鐘が展示されている。

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説明書きによれば、「当寺に伝世する文化財の中でも、(右上に刻まれている通り)長谷寺の寺号が確認される最古の資料」だ。住職真光の勧進により「文永元年甲子(1264)7月15日」に鋳造されているが、鎌倉で3番目に古いという。

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鋳物師は左下に見える通り、「大工 物部季重(すえしげ)」だが、他の作例としては埼玉県日高市新堀・高麗山聖天院(前88項)の「文応二年歳次辛酉(1261)三月日」銘の梵鐘がある。この聖天院の銅鐘には、「大工 物部季重 奉鋳鐘長 二尺七寸」と刻まれているから、総高81.2cmで、口径は45cmだ。

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●「鎌倉五山第一位 臨済宗建長寺派大本山」を謳う、巨福山建長興国禅寺、通称建長寺は、鎌倉市山ノ内に位置する。本尊は地蔵菩薩で、建長5年(1253)の創建、開基は鎌倉幕府第5代執権の北条時頼だ。画像は国の重要文化財の三門だが、三解脱門の略で、山門とは表記されない。「空 無相 武作」を表していて、門をくぐればあらゆる執着から解き放たれるという。堂々と真ん中を通過して良い門なのだ。

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国宝の大鐘は、創建2年後の「建長7年(1255)2月21日」に鋳造されている。今に残る数少ない遺産というが、寺の象徴として創建と同時に発注されたに相違ない。鐘楼塔も茅葺屋根で重厚だが、いい趣だ。

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重さは2.7トン、高さは2.1mで、乳の総数が140個の末広がりな和鐘だ。撞座が高位置なのはこの時代の特徴でもあるが、唸りとか余韻とも言われる響き方に大きく影響し、音は高くなるという。銘文は、開山の大覚禅師・蘭渓道隆が撰文している。注目すべきは、凸の陽鋳文字である事で、後にタガネで彫り込む陰刻と違って、鋳造後に文字を追加することは不可能だ。鋳型へは、裏向きの鏡文字で書き込まなければならないが、そこそこ達筆だ。

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●作者銘は「大工 大和権守 物部重光」となっている。名が陽鋳されている場所は、撞座の真上の縦帯の中だ。通常この場所は、「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」などのお題目が刻まれる神聖で重要な場所であり、不可侵な区画というイメージだ。

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現代の梵鐘で、お題目が、池の間や草の間などに刻される例は見られず、ほとんどが縦帯の中に、大きくかつ陽鋳造されている。当初、大陸から伝来した梵鐘のデザインを模倣したという和鐘だが、この時代の区割りに、さしたる重要な意味合いは無かったのであろう。他に空きスペースがいくらでもあるのだ。その事が、その証左だ。

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また、当時の「大工」という職種の表現は、一国一郡の鋳物師らのまとめ役という意味も含んでいて、頭領格であった。さらに銘文の中に、初見とされる文言が2つある。御用達鋳物師として拝した肩書の「大和」という国名(前99項)表示と、もう一つは、「建長禅寺」の「禅寺」だ。これは、日本における「禅寺」の語呂の初登場とされているようだ。

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●なお、重光作の埼玉県最古の銅鐘と言われるものは、比企郡ときがわ町西平の一乗法華院都幾山慈光寺に現存している。ここは天台宗の寺院で、本尊を千手観音としていて、板東三十三観音の9番札所だ。国指定重要文化財の梵鐘だが、陽鋳造された銘文には「奉冶鋳 六尺椎鐘一口(いちこう) 銅一千弐百(1.200)斤(きん)」とある。説明書きによれば、総高150cm、口径88cm、重量は709kgという。

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さらに「大勧進 遍照金剛深慶 善知識入唐沙門妙空」と見え、「願主 権律師法橋上人位栄朝」となっている。栄朝は、臨済宗の開祖、明菴栄西の弟子だ。ウィキペディアによれば、釈円栄朝は「上野国那波郡に生まれる。武蔵国慈光寺の厳耀に師事して得度し、栄西より臨済禅・台密の印可を受けた」という。ここ慈光寺とは縁深い銅鐘なのだ。

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造立は、「寛元三年乙巳(1245)五月十八日辛亥」だ。栄朝は、永万元年(1165)の生まれで、宝治元年(1247)9月26日に没しているから、晩年近くの奉納となろう。鋳造者として「大工 物部重光」と大きく鋳出されている。凸文字であるから目立つが、タガネで彫られる陰刻文字と違い手間が掛かる技法であるから、その意気込みが感じられる。

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●さて、ここ建長寺の国の重要文化財の仏殿脇にも、小ぶりな梵鐘が置かれている。仏殿には、本尊の地蔵菩薩が安置されていて、建物は、港区芝公園の三縁山増上寺(前52項など)にあった、徳川2代将軍秀忠公夫人(お江の方、家光の母)の霊屋を譲り受けたと説明されている。

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鐘身には、「維持延宝7年(1679)4月初5日 御鋳師 武州江戸神田住 小沼藤原重正 入道(前99項)玄清」、「同姓 播磨大掾 正永」と刻まれている。正永は、前88項で見た小田原市飯泉・飯泉山勝福寺の見事な竜頭舟の青銅製手水盤の作者だ。

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それには「宝永元年(1704)7月 江戸神田住 御鋳物師 小沼播磨守 藤原正永」と刻まれていた。「椽(じょう)」は、中世以後、宮中・宮家から職人や芸人に対して、その技芸を顕彰する意味で下賜された名誉称号であったが、階級としては、大掾、掾、少椽の3段階だ。

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前126項で見たが、「入道」は、在俗のまま剃髪し僧衣をつけ仏道に入った人という意味で、「平清盛入道」の例があった。また、初代徳川家康の江戸開府に前後して、城下整備のために多くの工人が呼ばれたことも記述したが、「栃木佐野天明(前108項)の小沼家」もその1家であった。ここに刻まれた両者は、幕府御用達鋳物師だ。

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ここの鐘は共作と思うが、重正の方が年上のようだ。先の香取の史料にはこの鐘の登録は無いが、他に浅草での2例の梵鐘鋳造記録がある。延宝2年(1674)の「浅草柴崎町 天獄院鐘」で、「冶工 小沼氏 藤原重正 入道玄清 同姓 右馬之助」と記されている。香取は、右馬之助は、正永の事だろうとしているが、2人は親子であり、後に鋳物師株を継承したのであろう。

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●龍王殿と称される方丈の前には、1対の青銅製の天水桶がある。方丈は、本来、住持が居住する場所だが、今は法要や座禅、研修を行う所となっている。享保17年(1732)建立の建物の裏には国史跡の庭園があるが、開山した大覚禅師による作庭で、当時のままという。

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作者は不明ながら、「開山七百年大遠諱記念 昭和52年(1977)5月吉祥日 仙谷山寿福寺 33世 沙門孝宗」となっている。寿福寺は、神奈川県川崎市にある、臨済宗建長寺派の寺院だ。

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建長寺のホムペには、「鎌倉に来た開山の大覚禅師は、まず寿福寺におもむき大歇禅師に参じた」と書かれている。ウィキペディアによれば、「たび重なる火災によって寺は荒廃していたが、建長寺87世の大安法慶禅師が永徳年間(1381~)に中興し、天台宗から臨済宗へ改宗した」とある。そんな由来からの奉納であろう。

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●三門をくぐった左側に、記念すべき青銅製の桶が1基あった。天水桶ではなく、「金蓮盥漱(かんそう)盤」と銘打たれた手水盤だ。かつては金色に輝く蓮花であったのだろうか。「盥漱」は、「たらいですすぐ」だから、手を洗い口をすすぎ、身を清める盤のことだ。ポンプアップして水を循環させているのだろうか、常に清水があふれ出ている。

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作者銘は見い出せないが、「寄附 建長興国禅寺 塔頭宝泉菴(庵) 印宗」と正面にある。全て凸の鋳出し文字だ。塔頭(たっちゅう)は、祖師や高僧の墓塔を守るために、師の徳を慕う弟子らが建立した小寺院を意味するが、印宗上人の奉納だ。

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左側には、「巨福山塔頭宝泉禅庵 印宗恵海 拝撰」とあるので、印宗が、陰刻されている漢文の選者だ。そして右側は、「維持 享和元辛酉年(1801)秋8月」となっているが、「維持」は、造立を意味する。記念すべきと言ったのはこの日付けの事で、享和年間製の桶を初めて目にしたのだ。本項に至るまでに、その直後の元号、文化年間(1804~)製の天水桶は何例か見てきた。

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●「千代田区外神田・小舟町八雲神社 江戸深川 太田近江大掾 藤原正次(釜六) 文化8年・安政4年(1857)再建(前13項)」、「千葉県成田山・光明堂裏 釜屋七右エ門 文化11年(1814・前53項)」、「大田区池上・勧明山法養寺 太田近江大掾 藤原正次 文化12年(前17項)」、「文京区本郷・金刀比羅宮東京分社 武州足立郡川口 永瀬嘉右衛門 文化13年(前15項)」などだが、全て鉄製であった。

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前15項で記述したが、昭和54年(1979)に刊行された、内田三郎(前65項)の「鋳物師」では、現存しないが享和2年(1802)の川崎大師平間寺(前24項など)の嘉右衛門作の水盤が、鉄鋳物作品の第1号だとしている。それまでの銅系鋳物の時代が終わり、鉄製時代到来の記念すべき年だとしているのだ。享和時代は、銅製と鉄製が入れ替わる過渡期であったが、ここの青銅製手水盤は、知り得る限り最古のものだ。

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●次の、縁切寺で知られる松岡山東慶寺は、鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派の寺院だ。寺伝では鎌倉幕府第8代執権北条時宗の夫人の覚山志道尼の開創と伝わるが、開山以来明治期に至るまで本山を持たない独立した尼寺であった。風流な苔むした茅葺屋根の鐘楼塔は、大正5年(1916)建立だが、 関東大震災の時の大揺れで、 梁に梵鐘がのめり込んだ跡が残るという。

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ウィキペディアや鐘身の陰刻によれば、東慶寺には鎌倉時代末期に造られた梵鐘があったが今はここになく、静岡県伊豆の国市韮山の大成山本立寺にある。現在の梵鐘は南北朝時代の「観応元年庚寅(1350)8月日」に鋳造されたもので、県の重要文化財だ。「就相陽城之海浜有富多楽之寺院」と刻まれていて、鎌倉市材木座の補陀落寺のものであったことが判る。

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この鐘の縦帯の区画にも鋳造年が刻まれているので気になるが、鎌倉期の特徴と言えるようだ。鋳物師の詳細は不明だが、刻銘を記しておこう。「大工 大和権守 光連」、「鋳成 右兵衛尉 家村」となっている。「光連」は、次の後128項の神奈川県藤沢市の藤沢山遊行寺でも登場するが、物部氏一族であろう。

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●次は、鎌倉市大町にある、日蓮宗最古の本山の長興山妙本寺。日蓮聖人を開山として文応元年(1260)に創建しているが、もとは鎌倉幕府初代将軍、源頼朝公の乳母を務めた一族の比企家の屋敷であった。鎌倉最大級の木造仏堂建築の祖師堂には、日蓮の生前の姿をうつした3体の像の1つの座像が安置されている。

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画像は本堂で、1対の青銅製の天水桶が置かれている。銅にも芽吹くというホンモンジゴケが生えているが、「昭和57年(1982)5月8日 妙本寺78世 日聡代」の時世に檀家が奉納している。

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●寺紋は笹竜胆だが、これは鎌倉市の市章でもある。源姓一族の中でも、朝廷内で家格が最も高いとされたのが、第62代村上天皇の子孫の村上源氏であった。その家紋が竜胆であった事が、源氏の代表紋として認知された理由でもあるが、日本最古の家紋とも言われるようだ。

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比企家の家紋は、「丸に割り菱」であった。頼朝の死後、権勢を強めたのを快く思わない2代頼家の母・北条政子と政子の父・北条時政と対立、一族もろとも滅ぼされている。比企の乱だが、同時にここの紋章も変わったのだろうか。

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●天水桶には作者銘が大きく陽鋳造されている。「鋳造人 山形市銅町 渡邊(渡辺)市郎 壹絃 浩峰」だが、市郎は、山形県天童市の(有)渡邊梵鐘(前8項)の人だ。大正6年(1917)に銅町に生まれ、宝暦元年(1751)創業の老舗を継いだ8代目鋳匠で、昭和56年(1981)には、伝統工芸士に認定、平成2年(1990)には、勲六等単光旭日章を受けている。

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同社のホムペでは、「山形の歴史と風土が育んだ九百年の伝統工芸-鋳物。心の技能者・渡邊市郎、永遠につながる形を鋳込み続けて五十年。いま、名匠の右に出るものがいない---」となっている。

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同社は、鐘はもちろん、仏像や茶の湯道具、美術工芸品を手掛けている。納入先は、地域柄、東北地方が多いようだが、ここの桶の納入実績も記載されている。現社長は菅江浩二氏で、「浩峰」を号する日本工芸会正会員で伝統工芸士だ。昭和23年(1948)3月生まれで、父の市郎のもとで修業している。

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●同家が鋳た梵鐘を1例見ておこう。都内港区高輪の浄土宗、演暢山成就院正覚寺だが、法蓮社心誉上人源霊が開山となり、元和5年(1619)、芝金杉に創建している。本尊は、阿弥陀如来だ。山門は、最近新調されたようで真新しいが、同時に、鐘楼塔に掛かる現役の梵鐘もクリーニングされ甦っている。

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鋳造は、「維持 宝永第七龍集庚寅(1710)秋閏八月二十五日」で、「龍集」は年号の次に添えられる言葉だが、「龍」は星の名、「集」は宿るの意で、星は1年に1回周行するという意味合いだ。作者は、「武江神田住 鋳物師 粉河丹後大掾作」となっているが、これは先の香取の「日本鋳工史稿」には登録が無い銅鐘だ。

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粉河は前52項で見たが、和歌山県紀の川市粉河地区出身の鋳物師であった。元禄期頃(1688~)から江戸神田に出てきているが、間もなくの作例だ。後年に至ると、「粉河」という表記を「粉川」と変え名乗っているので、江戸在住における初代の作例かも知れない。

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●一方なぜか、「願主 第25世 真蓮社誠誉徳翁 昭和36年(1961)11月」作という、後継の鐘が堂宇前に丁重に置かれている。「天下和順」、「南無阿弥陀仏」と刻まれ、天女が舞う姿が描かれた251歳年下の鐘だ。これに「鐘銘」として刻まれているが、上述の銅鐘は第5世の代の鋳造であったが、戦時に金属供出(前3項)したため、宗祖法然上人の750年御忌を記念し再鋳造されたようだ。

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しかし地上に降ろされているという事は、旧鐘が幸いにも鋳潰されず帰還し、現役復帰したという事なのだろう。新鐘が塔に吊り下がっていた時期もあったろうが、今は控えの鐘となっている。作者は、「鋳匠 山形 渡邊壹郎」と陽鋳されている。「壹」は、「壱」が新字体だが、市郎の名として充てられているようだ。

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なお、山形の鋳物師に関しては、前27項で解析している。下の画像は、大田区池上の日蓮宗朗栄山本妙院で見た、「昭和38年(1963)10月」の青銅製天水桶であったが、連続した菱形の羅紗紋様といい全く同じ意匠だ。この時はメーカーの特定ができなかったが、渡邊梵鐘社製関連のものと断定できよう。なお、前59項前124項でも、山形鋳物師が登場しているのでご参照いただきたい。

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●鶴岡八幡宮は、鎌倉市雪ノ下に鎮座する。康平6年(1063)の創建で、鎌倉幕府初代将軍源頼朝公ゆかりの神社として、また鎌倉武士の守護神として崇められてきた。鎌倉駅からの参道は若宮大路と呼ばれるが、いつ訪れても賑わいが絶えない。

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境内に入り舞殿を過ぎ右に行くと、柳の名所だったという柳原神池(やないはらしんち)がある。6月上旬の「蛍放生祭」と9月の「鈴虫放生祭」の祭場にもなっているが、この池に掛かる橋に4個のブロンズ製の擬宝珠があり、その表面に線刻が見られる。

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●「昭和56年(1981)4月 在職21年記念 川口市長 大野元美(もとよし・前44項)」銘で、並んで、市内の有力者の名があるが、「永瀬孝貞 大熊不二(前5項) 長堀健治」ら11人だ。

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大野は、大正元年(1912)、埼玉県北足立郡川口町に生まれ、明治大学商科を卒業、大野電機鋳造所社長であった。昭和32年(1957)からの通算6期22年の長きに亘り、川口市長を務めた川口市名誉市民でもあるが、勇退時にこの擬宝珠を奉納したらしい。

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●市制施行直後の昭和8年(1933)の同社の広告がある。「埼玉県川口市栄町 大野鋳工所 所主 大野元次郎」で、元美の先代だ。「各種特許 エビスコンロ スミレストーブ」を目玉製品にしていたようで、他には「繰糸機械 電線器具 其他諸機械鋳物」を謳っている。

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昭和60年(1985)の川口鋳物工業(協)の名簿に見える「大野元昭」は、元美の後継者だが、近年の名簿には社名が無いので、廃業したようだ。また、元美の孫の元裕は、令和元年(2019)8月、埼玉県知事に就任している。

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●平成20年(2008)刊行の「川口鋳物師 鈴木文吾評伝集成 岡田博(前122項)」には、「神橋擬宝珠」の作者は、文吾と記載されている。文吾は、渋谷区代々木の国立競技場にあった聖火台の作者だ(前71項など)。ここの擬宝珠の作者については、この本にしか記録が見られない。両者は、仲の良い茶飲み友達であったが、その話の中で知り得た情報だと思われる。

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なお擬宝珠に関しては、前89項ではお江戸日本橋のものを見てきたし、前109項などでは江戸鋳物師の、前121項では各地のものや、川口鋳物師の作例も見ているので、是非ご参照いただきたい。

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●この橋を渡った左側に、白旗神社がある。正治2年(1200)、朝廷から「白旗大明神」の神号を賜った北条政子によって創建されたという。普段は閉ざされていて立ち入ることは出来ないが、門前に鋳鉄製の賽銭箱が置かれている。

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雨除けの屋根が誂えられていて、注連縄が掛かっているが、正面には、「丸に二つ引き両」が見える。脚を含んだ高さは700ミリ、上面は600×900ミリで、側面には、鍵付きの賽銭取り出し口も備わっている。鋳鉄鋳物製の賽銭箱の設置はかなりレアで、当サイトでも2例目でしかないが、前例は、前118項の横浜市西区中央・戸部杉山神社であった。

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作者銘として「昭和52年(1977)8月吉日 山崎甚五兵衛」と陽鋳造されている。前41項など多くの項で登場しているが、天水桶メーカーとして一時代を築いた川口鋳物師だ。「埼玉県川口市 寄進者」として、大野元美ら10名の名があるが、先の擬宝珠とダブっている人もいる。

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●立ち入れないが、柵内の堂宇の両脇に1対の鋳鉄製天水桶がある。口径に比して高さが無く、安定感抜群な形状だ。どこか愛嬌があるのは、3脚が獅子脚ではなく、愛らしい猫脚仕様であることだろう(前33項)。今にも前進してきそうな躍動感があるが、異風な意匠だ。

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作者銘は、「設計者 山下誠一(前26項) 鋳物師 鈴木文吾」だ。奉納は、「昭和53年(1978)10月吉日 川口市幸町 大熊鋳材株式会社 代表取締役 大熊不二(前5項)」で、擬宝珠にも賽銭箱にも見られた名前だ。

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他にも「川口市長 大野元美 撰書」で人名や銘文が鋳出されている。ここ白旗神社には、多くの川口鋳物師の作例があるが、大野元美を顕彰するという意味合いでの奉納であろうか。立ち入り出来ず、裏側にある銘文の内容を読めないのが残念だ。

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下の画像は、この天水桶を製作している文吾親子の様子だ。文吾は、大正10年(1921)生まれで、平成20年(2008)7月6日に行年86才で没しているから、57才の時の作例であった。

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●次は、鎌倉市大町の時宗、中座山教恩寺だ。創建は延宝7年(1679)で、開基は北条氏康、県重文の阿弥陀如来三尊を本尊としている。鎌倉三十三観音霊場の第12番目だが、この霊場は鎌倉市中心部にある寺に限られているため、他に比べ比較的短期間で巡礼できるのが特徴という。

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1対の鋳鉄製天水桶は、蓮華状でΦ1m、高さは900ミリだ。サビがひどいのでそろそろ手入れが必要な時期と思われるが、「昭和37年(1962)7月吉日 当山 善暁和尚代」の造立となっている。

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このタイプの天水桶の意匠が見目美麗なのは、天に向かって大きく広がる蓮弁と、地へ向けて八の字状に反転する、反花(かえりばな)との対照だろう。反花は、見た目の安定感に寄与するだけでなく、波状に連続する蓮弁の曲線の美しさを高めているのだ。

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●紋章は「隅切角に算木」のようだが、あまり見かける紋ではない。この外枠を隅切角と言うが、通常これ単独で使われることは無く、内側に様々な紋様を入れて家紋を形成している。ここのは横3本線の算木だ。明治期以前までは、算盤と並んで用いられた計算用具であったが、占用としても使われたことから神聖視されたようだ。

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製作は、「川口 設計 山下誠一 仝(同)鋳造 鈴木文吾」だ。周囲に鋳出された世話人の名を見ると、川口在住の「岩田弥吉」という人がいるが、その縁から山下あるいは文吾への依頼、というような流れでの設置であろう。

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●最後は、同じく鎌倉市大町に鎮座する八雲神社だが、鎌倉最古の厄除け開運の社という。「永保年中(1081~)、新羅三郎源義光公の勧請と伝う。室町時代、関東管領足利成氏公は、公方屋敷に渡御した当社の神輿に奉幣を行うを例とした。戦国時代、小田原城主北条氏直公は、祭礼保護の虎印禁制状を下賜し、慶長9年(1604)、徳川家康公は、永楽五貫文の朱印地を下賜された」と掲示板にある。

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「昭和61年(1986)11月吉日」造立の1対の天水桶は、青銅製だから劣化を感じない。正面に「木瓜紋」を据えているが、神社の御簾などの帽額(もこう)、つまり額隠しに多用されたことが名の由来という。その真上には皇室の菊紋があるが、「天皇陛下 御在位六十年奉祝記念」での設置であった。

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「設計者 山下誠一 鋳物師 鈴木文吾」だが、シャープなエッヂの鮮明な鋳出し文字だ。すぐ横に立札がある。「天水盤 武州鋳物師 鈴木文吾により惣型法にて鋳造さる。東京オリンピック聖火台も同氏が鋳造した」と記されている。縷々見てきたように、相州相模国、鎌倉の地でも川口鋳物師の活躍が見られた。刻まれた、永遠に遺る川口の文字が誇らしい。つづく。