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●前述の通り、今回は川口鋳物師の鈴木文吾(前3項など)作の天水桶を中心にアップして行こうと思う。埼玉県草加市(後97項)から3例だが、草加せんべいで知られる同市は県内6位の人口25万人を有していて、川口市と隣接している。

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せんべいは、うるち米が原料だが、パリッとした食感で醤油味が香ばしい。市のサイトによれば、米を団子状にして乾燥させた保存食を、日光街道草加宿の茶屋の「おせん」という人が、平たく伸ばし焼いて売り出したのが始まりという。

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●草加市は、江戸時代の日光街道の宿場町で、松尾芭蕉の「奥の細道」の旅の第1日目にも記されている町だ。画像の矢立橋は太鼓橋型の歩道橋で、長さは96.3mだが、芭蕉の「行く春や 鳥啼き魚の 目は泪 これを矢立の初めとして・・」から命名されている。松並木のある地域は札場と呼ばれ、古くから草加宿の北の拠点で、綾瀬川の舟運で栄えた札場河岸があった。

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旧日光街道の松並木が続く草加松原は、国指定の名勝地だ。千本松原とも呼ばれ、石畳が敷かれた遊歩道が松並木に沿って整備されていて、矢立橋のほかにも百代橋が架けられている。この橋も芭蕉の、「月日は百代の過客にして 行きかふ年もまた旅人なり」からの命名だ。

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●一説によると、天保3年(1683)の綾瀬川の改修時に、関東郡代伊奈半十郎忠篤(後100項後131項)が植えたと伝えられている。さてまずは、同市新里(にっさと)町の浄土宗光明山徳性寺だが、本尊は、阿弥陀如来像だ。

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天水桶は、最上部が緩やかに広がっていて、安定感がある。寺紋は、「抱き茗荷」だ。これは「冥加」に通じるとして寺社ではよく目にする紋だが、よく見ると花が咲いているようにアレンジされている。

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「平成10年(1998)8月吉日」建立の青銅製の1対だが、「第廿七(27)世 信誉智孝」の時世であった。鮮明に鋳出された、「鋳物師 鈴木文吾」が誇らしい。2ケ所の丸い穴は、排水するために後日開けられたようで、両基に見られる。ドレンコックを取り付けるなど他に方法があったはずで、興ざめの対応だ。

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●草加市遊馬町の浄土宗、遊馬山一行院西願寺(さいがんじ)は、願故和尚が開山し、元和元年(1615)に創建している。浄土宗の開祖は、法然上人(長承2年・1133~建暦2年・1212)だ。平安時代末期から鎌倉時代初期の僧で、はじめ比叡山で天台宗の教学を学び、承安5年(1175)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説いている。(ウィキペディアより)

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天水桶は「昭和40年(1965)10月」の鋳鉄製の1対だが、この頃はまだまだ鋳鉄製も多い。社殿の修築に合わせて再塗装され甦っているから、劣化を感じない。金ピカの三つ葉葵が際立っているが、「30世 愛誉代」の時世であった。

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石の台座は蓮弁となっているが、本体の大きさは、口径1m、高さは1.020ミリだ。大き目な年月日表示の真下に、角型の印影、落款(後65項)の、「鈴木文吾」を確認できる。文吾が鋳造者名をこういう形で表現した桶はあまり例が無い。

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知る限り2例のみだが、もう1例は、後115項の板橋区西台の福寿山善長寺だ。ハス型の青銅製の天水桶であったが、「昭和60年(1985)3月吉日」造立で、ここの20年後の事であった。

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●次は、草加市瀬崎の真言宗豊山派、宝光山安楽院善福寺。足立区西新井の総持寺(後116項)の末寺にして、武蔵国八十八ケ所霊場の7番目だ。真言宗は、空海、弘法大師によって平安時代の9世紀初頭に開かれた、大乗仏教の宗派で日本仏教のひとつ。 空海が長安に渡り、青龍寺で恵果から学んだ密教を基盤としている。 (ウィキペディアより)

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ここの天水桶は、「昭和60年(1985)4月吉祥日」銘の青銅製だ。高さは1.1m、直径はΦ1.2mで4尺サイズだから、大きめの1対だ。少しだけ横長である事が、見た目の安定感に寄与しているのだ。

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台座部は末広がりだが、紋様はハスの葉を表現しているのだろう、反花(後51項)だ。当時の「埼玉県々議会議員 谷古宇勘司(後45項後76項)」夫妻が奉納している。「為 谷古宇家先祖代々 一切精霊菩提」とあり戒名も見られるが、ここが同家の菩提寺であろうか。

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同時に、「弘法大師 千百五十年御遠忌記念」とも記されている。作者の銘は「鋳物師 鈴木文吾 設計者 山下誠一」だが、文吾は山下とタッグを組むことが多く、画像のように、同列で表記される事もしばしば見受けられる。(後115項参照)

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●次の写真が故鈴木文吾だが、当人の談話によると、山下は寺社側との打ち合わせ、つまり、大きさやデザイン、鋳出すべき文字、設置場所、納入時期など、コーディネーター的な役割を担っていたと想像できる。文吾は、昭和の中頃から平成初期の時代は、天水桶メーカーのトップブランドとして多忙を極めたろう。信頼し合う2人が連携することによって、文吾は鋳造に専念できたのである。

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文吾とは40年来の友であったという写真家の平出真治氏によると、正確な記録は無いらしいが、文吾が残した天水桶は県内外に80例、釣り鐘は50例余りであると言う。その何例かに山下との連名の作品が存在するのだ。
鈴木文吾

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●山下は、埼玉県鋳物機械工業試験場に勤務していたようだが、川口鋳物工業(協)とも縁深く、昭和の後期には総務課の技術担当嘱託として採用されている。同時に機関誌の「川口鋳物ニュース」にも、「鋳物礼讃」などの記事を寄せている。昭和57年(1982)ごろの記事を少し紹介してみよう。

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『複雑な形状でも、大小にとらわれず、製作個数に制約がない等のすばらしいこの加工法は、鋳造以外にはない。まさに金属が「方円の器に従い」の理によって作られる。型をこわして初めて鋳物の形と出来栄えが確認される。この時の気持ちは、鋳物を作った人でないと判ってもらえない。

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長年この道に携わるベテラン鋳物師でも、日々の仕事にこの一瞬には胸おどる思いがある。鉄を溶かす溶解の日、鋳込み前に神棚に燈明をかかげ手を合せ、塩で清める心境は、鋳造という特殊な仕事の緊張感がもたらす職場の長い慣習として残しておきたいものである。』としているが、技術家として鋳造業を礼讃する内容であり、素人には触れられない一面であろう。

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●山下が手掛けたデザインを1例見てみるが、画像は、川口市西青木の青木公園内にある鋳鉄製の花台、植木鉢だ。川口市は昭和期の後半から、地場の鋳物産業発展のために公共景観鋳物の鋳造を奨励している。ニューディール作戦(後103項)だが、山下はこの事業に関わっている。

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園内には、数十基もの同じ植木鉢があるが、大きさは、口径Φ600、高さは1.080ミリだ。丸い鉢の下部には花弁が配され、主柱には川口市の市章が据えられている。主柱は、旗の掲揚ポールの基台にも流用されているようだ。

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●公園内を少し見てみると、前3項後71項でも登場したが、ここでは文吾の手による、渋谷区神南の国立代々木競技場にある聖火台のレプリカを間近に見ることができる。このレプリカは、ここに設置すべく企画され鋳造された物では無い。溶鉄が湯漏れし破裂して失敗した作品を、後日、鋳掛け(後72項)補修し直した、本来競技場で使われるはずだった聖火台なのだ。

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画像は市のシンボルとも言えるオブジェで、噴水池の中に置かれているが、「川」と「口」の文字がアレンジされた市章が3方向に向いている。これは旧川口町章だが、市制施行後の昭和8年(1933)9月18日に市章として制定されている。因みに、語呂合わせで、毎年「11月10日」は、「川口の日」となっている。

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●画像は、「英霊記念碑」だ。「日清日露の戦役から太平洋戦争までの川口市出身の戦没者二千有余柱の霊を祀り、併せて人類の永遠の平和を祈念し昭和33年(1958)に建立したものです」と説明されている。デザインは市民に公募され、84点の中から、「在天英霊の遺芳を仰ぐ心と、平和希求の切望をこめ表した」という、両翼を広げた大きな一体吹きの鋳造碑で、中心には市章が据えられている。

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この前で毎年10月に戦没者追悼式が執り行われるが、モニュメント後方の壁には、地区ごとに「英霊芳名録」が陰刻されているという。川口市平和都市宣言は、昭和60(1985)年12月21日であったが、その宣言は「平和こそ尊い 平和こそ市民の願い 平和こそ未来への誓い」だ。

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これを鋳たのは、「寄贈 株式会社 増金鋳工所」、「社長 増田金蔵 謹製」で、除幕式は翌年であった。この会社は、昭和12年(1937)の400社近い登録がある「川口商工人名録」を見ると、川口市本町2丁目で「諸機械鋳物」を扱っていた業者であった。

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●さて、文吾の作例をもう1例。都内世田谷区北烏山の玄立山妙高寺だ。寛永2年(1625)、首玄院日立上人により浅草橋場に創建されていて、境内には、金工家後藤家の墓がある。後藤家は、室町後期から幕末に至る、装剣(刀剣の外装)金工家の家系だ。代々にわたり将軍家の御用を勤めたところから、その作を「家彫(いえぼり)」と称し、町職人の「町彫」と格式を異にしたという。金座後藤家はこの傍系という。(日本大百科全書から抜粋)

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天水桶を見ると、井桁の日蓮宗紋がセンターにあり、やはり、上への広がりがなまめかしいが、少し縦長のデザインだ。宗紋の下には、雨を呼び込む雲をイメージした紋様があるが、いいアクセントになっている。「書院増築 本堂屋根修理 並び庫裡修復工事完成」を記念しての設置であった。

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「当山 第30世 吉橋勝寛代」の時世で、「鋳物師 鈴木文吾 昭和62年(1987)1月」とあり、青銅製だ。大きさは口径Φ1.150、高さは1.250ミリもある4尺サイズで、存在感のある1対だ。

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●世田谷区の流れであと2例だが、まず北烏山の浄土宗、霊照山蓮池院専光寺。慶長9年(1604)に品川で開山、関東大震災後の昭和2年(1927)に当地へ移転している。喜田川派の祖、喜田川歌麿の墓は、都指定文化財だ。黄表紙や洒落本の挿絵や風景画、美人画を得意とし、版元蔦屋重三郎の後援を受けて寛政期(1789~)の浮世絵界に新風を巻き起こした。

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天水桶1対は、「専光寺檀家総代」の奉納で、鋳鉄製だ。センターの紋様は、藤原氏が多用した「下り藤紋」のようにも見えるが、くっきりと見える葉脈からして、「抱き茗荷紋」だろう。ミョウガを向かい合わせた図案で、日本十大紋の一つだ。

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大きさは口径Φ930、高さは740ミリで、作者銘は、「大田区 武藤鋳工所作 昭和47年(1972)11月」と鋳出されているが、鋳造者の詳細は不明で、今日現在確認できない。

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●そして、ここ世田谷区北烏山に有名な鋳鉄製の天水桶がある。浄土真宗本願寺派の弥勒山源正寺(後95項)だが、築地本願寺(後78項)の寺中に創建、関東大震災に罹災後、当地へ移転したという。「地域風景資産」に指定されている桶であり、散策で訪れる人も多い。向かって右側の桶は、樹木に囲われていて見にくいのが残念だ。

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向かって左側の天水桶には、「維持 天保四(年・1833) 創造之」と陽鋳造されている。180年前の鋳造物が永らえているが、大きさは口径Φ990、高さは820ミリだ。この年の6月26日には、長門国(山口県)萩城下呉服町で、明治政府参議の木戸孝允が生まれている。桂小五郎とも名乗っているが、維新の三傑の1人だ。

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この1基の正面には「太田氏」と大きく鋳出されているが、これが作者の銘で、太田釜屋六右衛門、通称釜六製だ(前17項)。何の花のイメージだろうか、立体的写実的で、実に華麗なデザインだ。小さな桶に目一杯の装飾だが、当時としては画期的ではなかったか。他に類例を見ないが、「太田氏」という、己の姓名を華々しく飾っているのだ。

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●一方右側の1基には「田中氏」とあるが、こちらは田中釜屋七右衛門、通称釜七製(前18項)で、2人で1対を成しているのだ。しかし、こちらの天水桶には、なぜか華麗な装飾は無い。大きさは口径Φ930、高さは740ミリで、前例とは異なっている。よって共作と言うよりは、2人が独自に別個に製作したという感じだ。

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上部の額縁には唐草模様らしき植物の葉が描かれ、その下には雷紋様(後116項)が全周を廻っている。両基に共通性は無く、やはり1基づづを、2人がそれぞれ独自にデザインしているのだ。しかし後述するが、名前をへこみ文字で表現するという奇抜な鋳造法はかなり稀であり、その事だけは両者が示し合わせて製作したに違いなかろう。

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上下の画像を見ても判る様に、「田中氏」釜七は、これはキリーク(梵字)であろうか判読出来無いが、2文字をへこみ文字で配している。この事がかなり重要で、「田中氏」ではなく「太田氏」と鋳出され、かつ全く同じ2文字があり、凝った装飾が無い天水桶を、後30項で見ているのでご参照いただきたい。

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●「太田氏」にしても「田中氏」にしても、文字が10ミリほどへこんでいるが、通常鋳出しは陽鋳と表現され、凸だ。しかし、この桶の文字は凹なのだ。陰鋳とでも称すべきか。鋳造の際、外型の鋳型の裏側に、凸文字を浮き出たせたという事であろうか。手間のかかる面倒なことをしたように思える。一方の、陽鋳の紋様は、なんと、最大25ミリも張り出ている。陰陽合わせてこれほど起伏のある天水桶は、他に類がない。鋳造物マニア垂涎の1基だ。

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釜六、釜七の狙いはこの高低差にあったように思える。つまり、面倒な鋳造方法を選択してまで、見る人にダイナミックな印象を与え耳目を集め、ひいては寺社格を挙げ、ついでに両者ここにありを、今この時代にまで主張し轟かせているのだ。素晴らしい先見性だ。両者は、芸術肌の鋳物師であったと想像できるが、貴重な文化財であろう、是非とも手入れを怠らないで欲しいものだ。釜六釜七はそれも訴えかけているに違いない。つづく。