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●人間の体の6割は「水分」であるという。その為だろうか、湖沼海川の風景の中で人は心休まる。特に水の無い都会ではこんな情景を見ると妙に落ち着くものだ。都内のとあるマンションの階段脇に水の流れがあるが、目に写る動きが心を安め、爽やかな音が耳に心地よい。

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光背(こうはい)を抱く、とある寺の観音様であるが、後ろの大きな壁には絶えず水が流れている。瀬々らぐ水の音色と爽やかな動きに癒され、しばし見入ることだろう。辞書によれば、光背とは、後光とも呼ばれるが、仏像、仏画などの仏教美術やキリスト教美術などにおいて、神仏や聖人の体から発せられる光明を視覚的に表現したものという。

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これは、リアルで力強い鯉の滝登りの石製の飾り物だが、登竜門という言葉が思い浮かぶ。後漢書でいう竜門は、中国黄河の急流で、これを登り切った鯉は竜になるという言い伝えで、立身出世の関門だ。法話の中では、「水は方円の器に随う」と教えられるが、人の歴史は水から学び、敬い畏れてきた歴史であった。

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●こちらは、千代田区外神田の神田神社内(前10項)にある「石獅子」だが、区指定の文化財で、享保年間(1716~)の下野の名工・石切藤兵衛作と言われている。3頭の石獅子は、親獅子が谷底へ突き落した子獅子を見るという構図になっていて、人口の滝からは水が常に滴り落ちているが、水の音と動きが臨場感を増している。

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次の動画は、埼玉県草加市(前26項)の駅前ロータリーの風景だ。同市は、人口25万人を有する県内第6位の都市で、草加松原や草加煎餅で知られる。水が岩の凹凸に沿い従い、せせらぎ音を奏でながら滴る様は、とにかく和む情景で説明は要らない。さざ波や川のせせらぎの音色は、α波を増値させ疲労回復や精神安定に寄与するという。ストレス解消の癒しのBGMなのだ。

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●さて、最近見た天水桶をアップしていくが、羽釜を代用している光景だ。まずは、埼玉県和光市白子の成田山神護寺から。千葉県の真言宗智山派の大本山成田山新勝寺(前52項)の別院だが、各地の不動尊信仰を支える別院などは、全国に71ケ寺ある。

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埼玉県内には4ケ所あるが、ここの他は、さいたま市岩槻区の「成田山明慧寺」、そして「川口市中青木 成田山明真教会」と、画像の「川口市本町 成田山不動院分院」の2ケ所だ。因みに、昭和60年(1985)刊行の増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」には、「明治34年(1901) 成田山川口分院 鋳鉄製堂祠 1基 滝沢栄八」という記録が残っている。


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●また別の資料では、「昭和11年(1936) 鋳銅不動明王像 山﨑寅蔵(前20項など) 山崎甚五兵衛(前1項後132項など)」という川口鋳物師の記録もある。共作だろうか。ここ川口分院は安永4年(1775)に、川岸の守り仏として石仏の不動明王が建立されているが、その象徴なのだ。なお、前20項でも同等の銅像が登場しているのでご参照いただきたい。

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この天水桶の写真は、昭和の半ば以降に撮影されたようだ。「昭和30年(1955) 秋本鋳工場(前21項)」銘だが、今は置かれていない。象徴的な幅広の額縁の雷紋様(後116項)などからしても、紛れもなく秋本の意匠だ。これらは、過日の取材によれば、建屋が更新された際、他の場所に保管されているという。その場所の教示は叶わなかったが、しかし現存はするようだ。

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●さて、神護寺本堂の屋根下の天水桶は羽釜(前94項)の再利用であるが、表面に「三州」と「山サ」の鋳出し銘を見てとれる。大きさは最上部の直径がΦ830、高さは600ミリだ。前78項では、不明な会社としてしまったが、よく調査してみると、愛知県岡崎市に現存する厨房機器の製造販売メーカー、服部工業(株)であった。

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ここの創業は明治18年(1885)だ。初代の服部太郎吉が岡崎藩の御用鋳物師であった安藤家の世業を継承して鋳物業を営み、今や、業務用厨房総合サービス企業として全国展開している。この「安藤家」であるが、鋳物師の総元締めであった、京都真継家(前40項)の「諸国鋳物師名寄記(文政11年・1828)」にその名が見える。現愛知県岡崎市祐金町(ゆうきんちょう)の鋳物師、安藤金右衛門だ。

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●名寄記には、「文和3年(1354)8月26日 将軍御下文(くだしぶみ)」とある。時は南北朝時代だが、室町幕府将軍は、初代足利尊氏だ。並んで「天文24年(1555)5月6日 将軍家御下文」とあるが、この時の天皇は後奈良天皇、室町幕府将軍は第13代足利義輝だ。下文は、上意下達を目的として平安時代中期以後に上位の機関から下位の機関、もしくは個人に宛てて出された命令文書の事だ。

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その内容は、御用達鋳物師としての活動許可状の様なお墨付きの書状であったろう。安藤家は、中世の時代から連綿と続く鋳物師の家系であった。この社章と「服部工業」さんが、どうにも結びつかなかった訳だが、実は、このサイトですでに2例の同社製の天水桶を紹介している。

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前46項では、墨田区八広の三輪里稲荷神社で、「岡崎市 服部工業(株)鋳造 昭和参拾貮年(1957)八月吉日」銘の天水桶を見ている。きれいに塗装され新品同様に甦っていて、見目麗しい桶であった。

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また前61項の、さいたま市浦和区東仲町の明光山大善院では、「昭和参拾六年(1961)四月吉日」銘の桶を見た。最も、ここのは、鋳造者名がなかった訳だが、大きさや3脚の形状、鋳肌の感じ、鋳造時期や年月日を漢数字で鋳出している事が共通している。また個別の紋章や寄進者名を除いて、形状的なデザインはほぼ同じといって良いから、服部工業製と断定してよかろう。

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●羽釜をもう7例。茨城県下妻市大宝の大宝八幡宮は、関東最古の八幡様という。ホムペによれば、大宝元年(701)、藤原時忠公が筑紫(つくし)の宇佐神宮を勧請創建したのがはじまりだ。天正5年(1577)に下妻城主の多賀谷尊経(重経)が再建したという本殿は国の重要文化財で、江戸時代の徳川家からは社領115石が寄進されていて、代々の朱印状が現存するという。

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本殿に向かう途中には、「御神木 招霊木(おがたまのき)」がある。神木は、神霊を招くという神の依り代の木だ。招霊木は日本が北限の木で、天に向かって真っすぐに枝を伸ばす事から神霊を招くとされてきている。日本神話においては、「天照大神の天岩戸隠れ」において、天岩戸の前で舞った天鈿女命がこの招霊木を手にしていたとする説がある。現在の神事では榊を用いるが、1円玉の表のデザインに使われているのがこの招霊木だ。

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そして近くの草木の中に、なぜか1基の羽釜が置かれている。ツートンに色分けされているが、かつては「湯立て神事(後108項)」にでも使用されていたのであろうか。ここにも、「三州」と「山サ」の社章の鋳出しが見られる。服部工業製の羽釜だ。


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●ここの銅鐘は、県指定の文化財だ。自由に撞いてよい梵鐘で、高さ108.1cm、口径60.3cmとなっている。掲示板によれば、『池の間(前8項)の陰刻銘により、鐘は埼玉県岩槻市の金鳳山平林寺(前83項)を開山した石室善玖が、「嘉慶元年丁卯(1387)十一月十三日」に鋳造しているが、作者は「大工沙弥 道善」だ。』平林寺は、現在は、埼玉県新座市野火止に位置するが、岩槻は、創建の地だ。

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『その後の康正2年(1456)、現古河市の上幸嶋猿穴太辺の星智寺のものとなったことが三区以下の追銘で知れる。この鐘は、天正元年(1573)9月、戦国武将の佐竹氏の先手となった多賀谷重経が、猿島郡へ出陣の際に戦利品として持ち帰り、大宝八幡宮に奉納したものと伝えられる』という。由緒ある古鐘なのだ。

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●都内板橋区赤塚には、区立郷土資料館(前82項)がある。天保12年(1841)5月に、長崎の町役人であった高島秋帆が洋式の砲術訓練をした事に関連して、入り口には青銅砲が展示されている。高島は、赤塚の萬吉山松月院(前55項)に本陣を置き、高島平の地で、歩砲2隊によるモルチ―ル砲、ホーイッスル砲など4挺を用いた演習と、馬上発射の実弾射撃を実施している。

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屋外展示場には羽釜が2基置かれている。右側の釜には「三州 山サ」、真ん中の釜には「上上」と、同じ2文字が鋳出されている(前61項)。左端に見えるのは、長州風呂(前72項)、いわゆる五右衛門風呂だ。掲示板によれば、この釜は、同区成増にあった日本酒の醸造元「秀峰」で使用されていた蒸米用だ。

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「三州」釜は、口径1.4m、高さは1.2mの5尺サイズで、7石(1.260L)、「上上」釜は、口径1m、高さは84cmの3尺サイズで、4石(720L)の容量だ。酒の火入れに使う時は、釜の内側にゴマ油や漆を焼き付けて鉄分が出ないように配慮したという。

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●神奈川県平塚市浅間町の博物館前にも置かれている。同市の面積は67.82km2で、昭和7年(1932)に市制施行された人口26万人ほどの特例市だ。「湘南ひらつか七夕まつり」で高名だが、これは同市で行われる関東三大七夕祭りの1つとなっている。

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ウィキペディアによれば、近世の歴史的には、「応永23年(1416)、上杉禅秀の乱の功により中村党系の勢力は所領を失い大森氏の領するところとなる。永正9年(1512)、北条早雲が三浦氏の岡崎城攻略。以降、小田原北条氏(後北条氏)の領するところとなる。天正18年(1590)、豊臣秀吉が小田原北条氏を滅ぼし、徳川家康が入封」とある。

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●産業としては、江戸時代には東海道7番目にあたる宿場町として栄え、広大な平野があることから農業も盛んであった。明治20年(1887)には、東海道本線が開通しているが、工業都市としての発展は、相模川近辺を中心に所在する車両・化学関係の工場によるもので、特に日産車体が代表格といえる。

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同館は、「相模川流域の自然と文化」をテーマに活動している地域博物館だ。入口に置かれている大釜は、口径6尺、1.8mほどで、高さは1.5mだ。説明書きによれば、市内万田の造り酒屋、出縄(いでなわ)酒造でかつて使用されていたという。正面に「山サ」の社章が見えるが、服部工業製の三州釜だ。

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●新宿区西落合の西光山自性院無量寺は、猫寺として知られ、山門では招き猫が出迎えてくれるし、「厄除開運 猫地蔵霊場」なる石碑も見られる。猫地蔵の縁起は、文明9年(1477)の江古田ケ原での合戦の際、道に迷った太田道灌(前89項)の前に1匹の黒猫が現れ、ここに導き危難を救ったため、猫の死後に地蔵像を立て奉納したのが起こりという。

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豊島八十八ケ所の第24番霊場で真言宗豊山派の寺だが、「平和観音」様の像の横で、防火用水として羽釜が再利用されている。アングル鋼で組まれた架台上に据えられていて、羽の上に「三州 山サ」の表示がある。

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●次は、千葉県富津市西大和田の通称おあずまさまの吾妻神社。掲示によれば、「日本武尊妃弟橘媛の遺品の櫛を社殿に収めて祀ったと伝えられる。治承4年(1180)、源頼朝が当所を通過の時、武運長久の祈願をして幣帛を奉った由」という。

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ここの馬出し祭りは、神霊を馬の上に移して若者が馬の手綱をつかみ、近くの岩瀬海岸を駆け回る勇壮な神事だ。五穀豊穣や海上の安全、大漁を祈願する古い祭りの形態を今に残す神事として、県の無形民俗文化財に指定されている。天水桶代わりの1基の羽釜には、「三州 山サ」と鋳出されている。

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●日光東武線の新栃木駅近く、栃木市大町の大杉神社。ご祭神として、大山祇命(おおやまつみのかみ)を祀っている。古事記では「大山津見神」、伊予国風土記逸文では「大山積神」と記すようだが、山の神として一般に信仰されてきた神だ。境内には、大きな「大町山車収納庫」があるから、盛大な祭りが催行されるのであろう。

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溶岩石で固められた土台の上に羽釜が埋没している。羽から下は見えないが、鍋釜のメーカーによっては、そこに社名を鋳出している場合がある。豊川市の中尾工業(株)(前78項前85項)さんがそうであったが、ここでは確認は出来ない。なお、中尾さんの社章は「山十」だ。

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●その「山十」銘の2例を挙げておくが、画像は、栃木県鹿沼市草久、古峰原(こぶがはら)の金剛山瑞峯寺(後102項)にある「一粒万倍釜」だ。辞書によれば、「一粒の種子をまけば、その万倍もの粒となる意。元来は、仏教で、たった一つの善根から多くの報いを得るという意味」とある。横書きで「三州 山十」となっているが、羽の真下であり、かまどに載せてしまうと見えなくなるであろう位置だ。


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もう1例は、神奈川県小田原市入生田の合資会社相田酒造店の敷地内に置かれている羽釜だ。「城下町小田原の小さな酒造 すべて、純米造り。」を売りとして「火牛(前38項)」という銘柄を販売していた市内唯一の酒蔵であったが、平成21年(2009)頃に残念ながら廃業している。これにもやはり、かまどに載せてしまうと見えなくなるであろう位置に「三州 山十」の銘が存在する。

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●引き続いては、最近出会った常陸太田鋳物師(後119項)の天水桶を見てみよう。茨城県水戸市宮内町、JR水戸駅の南側にあるのが、常陸三ノ宮吉田神社で、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を御祭神として祀っている。創建は5世紀ごろと言われ、東征の際にこの地、朝日山(三角山)で兵を休ませた事に因むという。

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サビた1対の鋳鉄製の天水桶は社殿に良くマッチしていて、三ノ宮の社格に相応しい。両サイドの酒樽の山もいい雰囲気だ。向かって右側の「一品」は、11代を数える、寛政2年(1790)創業の吉久保酒造(株)のブランド、左の「副将軍」は、明利酒類(株)のブランドで、大吟醸酒は「全国新酒鑑評会」で通算12回の金賞を受賞している。

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文字を読んでみると、「常陸太田市木崎町 鋳造 塩原友鋳工所(丸印影) 藤原篤泰(角印影) 昭和39年(1964)10月吉日」銘で、水戸の北の常陸太田市木崎で営業していた会社のようだ。なお、「印影」という事については、前13項に記してある。

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●続いての茨城県水戸市酒門(さかど)町にある、浄土真宗大谷派、摂取山心光院光円寺は、ホムペによれば、永禄10年(1567)の開基で、「斎藤左馬權守景忠の末孫景直が出家し、空円景直と称して常陸国掘村(現在の水戸市 掘町)に一宇を建立したのが当山の開基です」という。

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1対の鋳鉄製の天水桶の正面には五七桐紋(前50項後98項)があり、「先祖代々供養」のために寄進されている。寄進者は前例と同じで、「水戸市本五町目」の人だ。真っ茶色にサビまくってはいるが、不思議と違和感が無く風景に溶け込んでいて、満々と雨水を溜めている。

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作者銘は、「鋳造者 常陸太田市木崎町 塩原友鋳工場(丸印影) 藤原篤泰(角印影) 昭和37年(1962)10月吉日」と鋳出されていて、前例の丁度2年前だが、表記は全く同じだ。

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●塩原、藤原製の桶がもう1例ある。茨城県那珂市菅谷にある菅谷鹿島神社で、大同年間(806~)ごろの創建といい、地域の鎮守だ。掲示板によれば、安政4年(1857)には、水戸藩9代藩主徳川斉昭(後119項)が、武甕槌大神(たけみかつちのおおかみ)を祀り、太刀一振りと、鹿島大神宮と謹書した錦地を納めている。

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1対の鋳鉄製の天水桶には、先ほどの桶と同じような花紋様があるが、これは菊であろうか。徳川家に庇護されてきた神社だ、正面には堂々と「三つ葉葵紋」が鋳出されている。「宮司 和田力男」、「百年祭記念」での奉納で、発起人らの名がいろは順に並んでいるが、盛大な祭りが催されたようだ。

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●陽鋳造文字は鮮明で、「常陸太田市 御鋳物師 塩原弥次右衛門(角印影) 藤原孝則(丸印影) 昭和32年(1957)4月15日」とある。先の桶とは5~7年の差異だが、今度は別名の藤原さんだ。

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印影もクッキリだが、この鋳物師の詳細は良く判らない。「諸国御鋳物師姓名記(嘉永7年・1854年)」などの「常陸」の項には、「塩原」あるいは「藤原」姓の記録は無い。情報不足ではあるが、常陸「太田」という地名と「塩原」姓というキーワードだけで、結び付けてみよう。

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●江戸時代末期、水戸藩主徳川斉昭は、自ら大砲の設計をするほど先進的な国防論者であり、他藩に先駆けてその鋳造を始めている。請け負ったのは、水戸鋳物師の長谷善四郎と「太田」鋳物師の「塩原」弥次右衛門だったが、失敗に終わり、川口鋳物師の増田安次郎(前2項前82項など)門下の、増田数之助が呼び出され後継し、そこそこの結果を出している。

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水戸市刊行の「神発流御創建記」によれば、長谷は、今の水戸市金町に住した御用鋳物師であったが、天保10年(1839)ごろに創設された神崎大砲製造所で、10貫目砲の鋳造を行っている。斉昭を前にしての事であったが、これに失敗、自殺を図ろうとしている。

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再起しての2度目も上手くいかず、3度目にようやく成功しているが、この時、川口鋳物師らの助力があったのだろう。なお、10貫目砲と言えば、弾丸が10貫目、つまり37.5Kgだから、当時としてはかなりの巨砲であったのだ。

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●水戸市常磐町の常磐神社(前83項後104項後119項)には、長谷の遺した鋳造物が現存している。非常の際に使用する火薬を保存したという「火薬壺」だ。昭和初期に水戸城址から発掘されたといい、元禄期(1688~)から、寛保期(1741~)のものだ。

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斉昭の命で、数百個あったというこれを溶解して、先の大砲を鋳たという。表面に「四拾五貫」などと容量が線刻されていて、「長谷善四郎 鋳之」と見える。幕末の大砲を鋳た鋳物師とは世代が違うが、長谷の名(後118項参照)も代々襲名されてきたと考えてよかろう。

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●さて、ここに出てくる「塩原弥次右衛門」は、吉田神社や鹿島神社の桶の鋳造者のご先祖であろう。1世紀ほどの時代差があるが、「塩原」も、代々が鋳物師を継承してきたとして間違いない。なお、後119項でも数例の塩原製の天水桶を見ているのでご参照いただきたい。

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また平成16年(2004)2月に催された、川口鋳物師・鈴木文吾の講演会の内容を見ると、「水戸にはねえ、藩のお抱え鋳物屋が、『塩原』、小泉、末吉など何軒かあったのです・・ (上野の)西郷隆盛(後100項)さんの銅像は、当時常陸太田に工場があった『塩原』が請けたんですが・・」と発言している。

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「塩原家」は、御用達鋳物師で、由緒ある家系のようだ。先の姓名記などに記載が無くとも藩の権威を背景に鋳造業を展開できたと解せようか。ちなみに、文吾の実父で師匠の萬之助は、水戸鋳物師の小泉家に14才で弟子入りしていて、数え17才の時に、西郷さんの銅像製作の手伝いをしている。

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●ここからは、足利鋳工の鴇田 力(ときたつとむ)の作例だが、栃木県・足利駅の北側にあるのが、足利市家富町の金剛山仁王院鑁阿寺(ばんなじ・後116項)だ。弘法大師の御霊場にして、真言宗大日派の総本山であるが、この派は戦後、豊山派から独立している。元は、足利氏の居館であり、四方を堀と土塁で囲まれている。それらを含めた境内全体が国指定の史跡で、日本百名城の1つでもある。

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12世紀の半ばに、足利氏の祖・源義康が同地に居館を構えたのが始まりだが、本堂は国宝、経堂と鐘楼は国指定重要文化財、他にも楼門、多宝塔、太鼓橋、観音壇厨子などは、市や県の指定文化財であり、正に、文化財の宝庫だ。

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●荘厳な本殿であるが、興味を惹かれるのは、殿前に散在する鋳造物だ。画像は青銅製の香炉だが、その正面にあるのは、足利氏の家紋である「二つ引き両紋」だ。上部の宝珠には水煙(前33項)が揚がり、下部では邪鬼が懸命に重みを支えているが、細部に至るまで手が込んでいて精緻な造りだ。

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それもそのはずで、鋳造者は同地の「足利住 鴇田 力 鋳」だ。一時は、富山県高岡市の梵鐘メーカー、老子製作所(前8項)の鋳物師として活躍、上述の人間国宝の香取門下にも師事していた。

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京都三十三間堂や比叡山延暦寺の阿弥陀堂などの梵鐘を鋳造している訳で、半端な仕事ではない。この香炉は、「昭和60年(1985) 秋彼岸」に、「足利市 農民一同」が奉納しているが、「為 五穀豊穣 市民富楽 祈願」、「当山44世 仁也代」の時世であった。

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●「鴇田 力」銘の梵鐘を4例見ておこう。まずは前85項で登場した、埼玉県加須市(かぞし)大門町の浄土宗無着山龍蔵寺だ。人口11万人の同市は、県内でも有数の米どころで、中でも北川辺地域は県内一だ。

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小麦も県内トップクラスの作付け面積であり、「加須の手打ちうどん」はよく知られている。寺は、室町時代の文和4年(1355)に教蔵上人が開山した寺領22石の御朱印寺で、本尊は阿弥陀如来立像、堂宇前の天水桶は、常滑焼きの陶器製1対であった。

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●住職の話によれば、画像の「山門は、江戸時代に20両で買ってきた」という。境内の大銀杏は樹齢670年とされ、加須市の文化財に指定されている。鐘楼塔にある梵鐘には、「南無阿弥陀仏」のお題目が記され、「昭和52年(1977)12月 寄進 檀信徒一同 29世 諦誉代」銘となっている。近くの石碑には「梵鐘再建」の刻みが見られるので、この銅鐘は2代目以降のようだ。

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作者は、「足利市 鋳工 鴇田 力 鑑修」となっている。鑑修は、監修であろうが、書物などの作品を監督する、指揮するという意味だ。香取正彦の門弟であった鴇田の意匠は、その影響を色濃く受けている。

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天女や龍を描き出すにしても、近づかないとその存在に気づかないほど高低差の無い薄っすらとした陽鋳で表現している。しかしこの当時のこの銅鐘の意匠は、鴇田らしさに欠け個性に乏しく、ほぼ老子の意匠と言ってよく、その傘下での「鑑修」であったことが判る。


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●次は、群馬県利根郡みなかみ町湯原の水上不動尊だ。大本山の千葉県成田山新勝寺(前52項)より勧請した不動明王を祀っているが、ホムペによれば、これは、天保年間(1830~)頃に、新勝寺の境内にあった御神木から敬刻されたうちの1体で、日本三体不動尊と呼ばれる由緒深い尊像だ。

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鐘の正面の縦帯(前8項)には、「南無大日大聖不動明王」と鋳出され、「昭和33年(1958)12月8日」に、「願主 水上不動尊 千人講」が「救の鐘」として奉納している。「鋳匠 老子次右衛門 設計意匠 鴇田 力」と刻まれ老子社との関係が知れるが、ここの「設計意匠」も完全に老子色だ。なお、この銅鐘の「鴇田 力」銘の登場は、当サイトでは最古の例だ。


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鐘の内面には、「特志寄進人」として6人の名が陽鋳されているが、よく見るとその他に無数といってよい程の寄進者名が、内面1周にタガネで陰刻されている。これは珍しい情景だが、高額寄進者は、凸文字で鋳造されているから差別化が判るのだ。

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●3例目は群馬県太田市東今泉町の曹洞宗、祥寿山曹源寺で、寺伝によると、新田氏の祖義重が京都から迎えたという養姫である祥寿姫の菩提を弔うため、文治3年(1187)に開基したと伝わる。

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市によれば、「寛政10年(1798)に創建された国指定重要文化財の観音堂は栄螺堂(さざえどう)と呼ばれ、江戸時代中期に普及・発展した三十三観音・百観音信仰を背景に、関東・東北地方に限って建造された三匝堂(さんそうどう)の1つです」という。

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●堂宇前に鋳鉄製の天水桶が1対あるが、大きさは口径Φ1.060、高さは840ミリだ。正面の紋章は、新田家の「丸に太一つ引き両」で、「昭和52年(1977)4月2日 曹源寺31世 (耕雲)敬寿代」の時世に檀家が奉納している。本体にも鋳鉄の台座にも作者銘は無いが、鴇田が携わった所でよく見るデザインの天水桶で、後120項で見る、栃木県佐野市堀米町の瑞龍山天応寺のものと同等だ。

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観音堂にワニ口が下がっている。両耳の張り出しが短めで、画像の裏面になるが、唐草紋様で覆われ、引き両の紋もデザインされている。「新田初代城主 義重公 六角堂建立」として再鋳されているが、作者の銘は、「鋳工 足利住 鴇田 力」だ。鴇田は銅鐘だけに限らず、銅製剣や達磨大師像、白鷺の銅像なども鋳ているが(後120項)、多彩な才能を持ち合わせた名匠であった。

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●口径Φ820ミリの銅鐘は、師匠である香取の意匠を色濃く継承した1口(こう)で、趺坐したお釈迦様が薄っすらと描かれ、梅花を配した逆三角形の乳の間(前8項)が印象的だ。鐘身に「梵鐘再鋳之記」として先代の銅鐘の来歴が刻まれている。

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「当山古鐘は 延享3年(1746)11月 曹源13世千英和尚代 野州天明(後108項)の鋳物師 丸山善太郎毎昭の鋳造也」とあるが、この鋳物師は、後116項で登場している。あるいは善太郎は、栃木市旭町の天台宗、順礼山修徳院定願寺の「平等庵の鐘」と呼ばれる次の画像の銅鐘を、「寛政4年(1792)11月」に鋳ている。撞座が4個ある珍しいものだが、これは栃木市の有形文化財だ。

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続けて、「然るに昭和18年(1943)1月12日 国家非常の時に当り 徴に応ず」とある。戦時の金属供出(前3項)だ。そして「檀信の願望により 当代の名匠人間国宝 香取正彦先生門下 足利庄住 鋳工 鴇田力師に依頼 之を再鋳す 昭和56年(1981)4月18日」となっている。前88項をご参照いただきたいが、正彦が重要無形文化財保持者、人間国宝に認定されたのは、昭和52年(1977)4月25日の事であった。

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●最後は、栃木県真岡市田町の曹洞宗、梵音山真岡院海潮寺。創建は永正7年(1510)頃で、本尊は十一面観音だ。慶安元年(1646)には、3代将軍家光より20石の寺領を、また、寛文11年(1671)には時の老中の稲葉正則からも4石を免税地として認められている。荘厳な文化財の山門の屋根瓦には大谷石を使用していて独特だ。

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「鐘楼建設委員会」が起こされ、「昭和54年(1979)6月17日」の落慶法要には、「大本山(吉祥山)永平寺(後110項)貫主 秦慧玉(第76世 明峰慧玉 1985年没) 禅師御親修」の知遇を得て、口径Φ860ミリの梵鐘が設置されている。

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乳の間に配されているのは、乳首ではなく36個の「梅扇紋」であり独特で、お釈迦様が結跏趺坐している様子が薄っすらと描かれている。朝鮮鐘(後109項)を彷彿とさせる様相だが、注目すべき芸術的な1口(こう)だ。

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鐘身には、「昭和53年(1978)12月鋳 鋳匠 香取(正彦)門下 足利住 鴇田 力」と陽鋳造されている。石碑にも、「老子製作所 鋳物師 香取門下 鴇田 力」と刻まれていて、3者の関係が明白だ。なお、後120項などでも鴇田の多くの作例が登場しているので、ご参照いただきたい。

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●さて、話を鑁阿寺に戻そう。堂宇前に近づいてみると、ワニ口が大きい事に気づく。これは叩いて打ち鳴らすことにより神に参詣を知らせ、誓願成就を祈念する仏具で、要はインターホンだ。現存する最古のワニ口は、長野県松本市宮渕出土の長保3年(1001)銘のものという。丁度、人が鳴らしている画像となった。

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鳴り物だから青銅製だが、「昭和30年乙未(1955)3月28日」に製作されていて、撞座の中央には、梵字、キリーク(前47項)らしき陽鋳表示がある。左右に突き出ている耳は明らかに音色に影響しそうな開口だ。

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●作者銘は「野州佐野 若林勇吉」だが、この鋳物師は、栃木県佐野市大祝町の天明鋳物師(後108項)で、創業は弘化3年(1846)という若林鋳造所の人だ。3代目は、昭和25年(1950)に没しているらしいので、よってこのワニ口は、4代目による鋳造であろう。

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栃木県真岡市長沼の新御堂山宗光寺、次の画像の埼玉県さいたま市岩槻区長宮の花林山大光寺(前32項)などの梵鐘では、勇吉はその銘を残している。真言宗の大光寺は、戦国時代中期の創建といい、市指定有形文化財の文明鰐口を保持している。下端の口径がΦ785ミリのこの銅鐘は、「昭和29年(1954)4月吉祥日」、「29世 僧正 遠藤隆賢代」に鋳られている。陽鋳造された作者の銘は、「鋳物師 野州佐野 若林勇吉」だが、4代目だ。

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●一方、どの資料にも見い出せない、貴重な同氏作の梵鐘あるので、ここで見ておこう。さいたま市桜区田島の田島観音、如意輪観世音で、安産守護や厄除開運にご利益ありといい、足立阪東霊場の13番札所だ。境内に破風造りの鐘楼塔があり、ここに「一打鐘聲(声) 萬民和平」と陽鋳造で題された梵鐘がある。

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鐘銘として、戦時に金属供出(前3項)された旨が刻まれ、大勢の寄進者名が見える。作者は、「昭和29年(1954)4月吉日奉納 鋳物師 野州佐野 若林勇吉」という陰刻銘だ。3代目の死没の直後であるが、これも4代目の作例であろう。

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●「勇吉」は号名であろうか、4代目の彦一郎は、天明鋳物の調査研究に熱心で、無形文化財技能保持者であったが、昭和55年(1980)に他界している。今は、鉄瓶や文鎮などの工芸品を鋳造しているようだが、現在の若林秀真(ほつま)氏(前66項)は5代目で、佐野市大祝町に工場があるようだ。

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勇吉時代の同社の広告を見てみよう。「山に小」が社章のようで、「製造元 野州佐野町 若林勇吉」とあり、「鍋釜、鍬、風呂釜、半鐘、火鉢類」などを商っていたようだが、「鍋釜の王」と大きく記されていて、自信のほどが窺える。

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「値段は少々高う御座いますが」とまで書かれているが、一番上に「堅牢無比 耐久力責任保障」とあり、「風呂釜10年」など、耐用年数まで保証している。また、「明治43年(1910)9月10日 畏れ多くも 皇太子殿下 御買上の栄を賜う」とアピールしていて、宣伝効果抜群だ。

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工場の入り口に掛かる暖簾には、「若林鋳造所」と染められていて、「山に小」の社章が見えるが、このデザインの由来は不明だそうだ。かつて得意としていた鍋釜の胴部や、鍬先にはこの紋を入れたという。

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●さて、鑁阿寺の堂宇前には1対の鋳鉄製の天水桶があるが、正面の「金剛山」がここの山号で、地元の「下野国足利郡山下村」の人が寄進している。額縁に廻っているのは、羅紗模様のようだ。

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作者は、「佐野町 鋳物師 正田章治郎 明治13年(1880)辰1月」銘で、やはり栃木県佐野市の天明鋳物師だ。同氏の作例に出会うのは未だ数例だが、詳しくは前66項を、また正田家に関しては、後124項後129項などもご参照いただきたい。画像の鋳出し文字の上に見れる横線は、外型の鋳境(いざかい)線で、ここで2つに分割され鋳造した事が判る。

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●「正田」の名が刻まれた鋳造物がもう1例ある。埼玉県熊谷市妻沼の聖天山歓喜院(かんぎいん・前30項)で、日本三大聖天だという。諸説あるようだが、前8項前89項などで登場した、台東区浅草の本龍院待乳山聖天もその1つのようだ。治承3年(1179)に、この地を本拠とした武将斉藤別当実盛が、守り本尊の大聖歓喜天を祀る聖天宮を建立としたのが始まりとされている。

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聖天宮は、平成24年(2012)7月、国宝に指定されているが、見事な彫刻は精緻で華美であり見事というしかない。彫刻技術、漆の使い分けなどの高技術が駆使された、江戸後期の装飾建築の頂点をなす建物であるという。画像の山門には、大きなワニ口が掛かっているが、多くの参詣者がこれを打ち鳴らしている。

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●刻まれている文字は、「御鋳物師 下野国安蘇郡天明 正田章次郎」だ。先の「章治郎」とは表記の違いはあるが、明治12年(1879)の「由緒鋳物師人名録」の「下野国安蘇郡 佐野天明駅」の欄には、計27人の鋳物師名が列挙されていて、「正田」姓が5人いる。

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毎日のように、何気なく打ち鳴らされているこのワニ口は、長く世襲されてきた勅許鋳物師の作例であった。未来永劫に亘って、ここで皆に見守られ続ける事を願って止まない。つづく。