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●前回に引き続いて、色々な天水桶を見ていこう。すべて鋳鉄鋳物製ではあるが、作者は不明だ。台東区松が谷の浄土宗、龍宝山随厳院広大寺は、元和7年(1621)の創建という。上野駅と浅草を東西に走る浅草通りの中間に位置している。本殿前の水受けは石製だが、境内の一角に奇異な光景がある。

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上部の口径が2.5尺Φ760ミリで、下側3割ほどがコンクリートに埋もれている。見えている部分の高さは、560ミリだ。古い鋳鉄製の天水桶1基だが、欠損部や内側がコンクリートで補修されている。草花が入れられていて、バケツ的な使われ方だが、その正面にはあるのは、「菊の御紋」だ。花びらが16枚ある皇室の紋章だが、これは、明治期のはじめには、一般の使用が禁止された高貴な紋だ。

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●「日本紋章学(沼田頼輔)」を見ると、「明治元年(1868)3月28日、太政官は令を発して、みだりに菊花紋を用いることを禁止し・・ その後、4年6月17日、由緒の有無にかかわらず、皇族以外はすべて菊花紋の使用を禁止し、皇族は十四葉一重裏菊を用いることと定められた」とある。

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この頃始まった戊辰戦争では、薩長土肥の新政府軍が、菊紋をあしらった「錦旗」を掲げ徳川幕府軍を総崩れに追いやっている。この旗は、第96代後醍醐天皇(正応元年・1288~延元4年・1339)が掲げたのが始まりと言われ、500年もの間、誰も見たことが無いという幻の旗だ。

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この時これを作ったのが、公家で維新の十傑と言われる岩倉具視だ。菊紋を見た瞬間、朝敵にされたことで戦意を喪失した訳だが、太政官の発令を待つまでもなく、下級の武士にまで浸透していた聖なる御紋であった。

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●さて、天水桶に鋳出された文字を見ると、「嘉永七甲寅年(1854)」までは判別可能だが、もっと下には鋳造月日の鋳出しもあったろう。ここの山号である「龍宝山」や「第十四主」も読み取れる。焼けただれた痕跡のようだが、大正期の関東大震災か昭和の戦禍による焼損であろうか。

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「鋳物師」までは完全に読み取れるが、残念ながら、姓名の部分はただれていたり、土中に埋もれてしまっている。紫色の棒線を添えておいたが、その左下には「永瀬」と読めなくもない文字らしきものがある。だとすれば、川口鋳物師の永瀬家系だろう。当サイトでは、江戸時代のこの時期に活動していた永瀬姓の鋳物師が7名登場している。その内の誰かの作例であろうか。

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額縁の意匠に着目してみるが、雷紋様(後116項)も龍神(前1項)も配されていない、至極シンプルなこの様な天水桶は当時一般的であり、川口鋳物師に限らず、江戸鋳物師らも多用していたスタイルだ。紋章が諸所で違うのは当然として、表面などに際立った特徴は無く、あるいは大きさや字体からも、作者を特定するのはどうやら無理そうだ。

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●肩書は「鋳物師」だけだが、江戸期の永瀬諸氏がどう名乗っているかにヒントがあるかも知れない。作者銘と造立年だけを拾ってみると、宇之七(前15項前37項など)は、「武州川口宿 安政2年(1855)」、「武州川口住 鋳物師 元治元年(1864)」の2例。

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源七(前10項など)は、「武州川口 鋳物師 弘化4年(1847)」、「武州川口 鋳物師(造立不明)」、「武(州)川口住 鋳物師 天保11年(1840)」の3例だが、両者ともに必ず住所を鋳出している。

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●源内(前14項など)は、文政9年(1826)の2例に「鋳工 川口住」と「鋳工」、天保期の1831年から1827年の作例には「御鋳物師」と「御鋳物師 川口住」と「武州川口住」の3種を、嘉永・安永期の1850年から1857年の作例には「川口住 鋳工」と「武州川口住 鋳工」という多種の肩書を、あるいは組み合わせを変え名乗っていた。いずれにしても、「鋳物師」の3文字だけの肩書は見られない。

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嘉右衛門(前15項)は「武州足立郡川口 鋳物師 文化13年(1816)」銘と、「文政8年(1825)」製の擬宝珠(後121項)には「鋳物師」を刻んでいた。文左衛門(後82項)は「天保10年(1839)」製の肩書不詳と、「武州川口 鋳物師 文政9年(1826)」銘を前38項で見ている。

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しかし、両者は少し時代が違う1世代前の川口鋳物師だ。喜市朗(前28項)は、「鋳物師 文久元年(1861)」を、長右衛門(前36項)は、「鋳物師 安政3年(1856)」を名乗っている。この2人は、簡潔な3文字だけの「鋳物師」だ。

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●以上の様に、多くの永瀬鋳物師はその住所を刻んでいる。永瀬家に限らず江戸鋳物師の釜六や釜七(前17項前18項など)も「江戸深川」住である事を、あるいは次の画像の、真壁鋳物師(前21項)の小田部家も「茨城県真壁町」住である事を必ずと言ってよいほど記している。いずれにしても、肩書だけでここ広大寺の天水桶の作者を特定するには、いささか情報不足のようだ。

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なお広大寺は、昭和3年(1928)に北松山町(松が谷)の満泉寺を合併しているという。昭和60年(1985)刊行の増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」には、現存しないことになっているが、「嘉永3年(1850)2月 台東区松ケ谷 満泉山広大寺 永瀬喜市郎(前28項) 天水鉢1対」という記載が見える。現存の嘉永7年製の4年前であり、どうにも辻褄が合わないが、関連ある記録なのであろうか。

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●続いては、さいたま市浦和区東仲町のお不動さん、天台宗明光山大善院。案内板によると、木造の役行者(えんのぎょうじゃ)尊像は、市の有形文化財に指定されているが、寺では、役行者の異称の「神変(じんぺん)大菩薩」と呼んでいるようだ。役行者とは奈良時代に大和葛木山にいた呪術者で、後に修験道の開祖と崇められるようになったという。

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天水桶の裏面には、発起人の名が連なり、「三世 僧正正則」となっている。歴史は浅いようだが、ここの創建年代は不詳となっていて、昭和8年(1933)に埼玉県の岩槻市加倉から当地へ移転、金子晴覚師が中興しているから、それからの話であろう。寺紋は、密教の法具をデザインした「輪宝」だが、元来これは古代インドの想像上の武器であった。

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●この鋳鉄製の1対は、「昭和参拾六年(1961)4月吉日」の造立で、作者銘は見られず鋳造者は不明だ。しかし、年号を漢数字で表現していること、デザインや桶の表面肌の感じからして、愛知県岡崎市の「服部工業(株)」の鋳造であると思われる。

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同社作との出会いは、前46項で紹介した1例のみだが、墨田区八広の三輪里稲荷神社にあった。全体の雰囲気は全く同じ、造立も同時期で、「昭和参拾貮年(32年・1957)8月吉日」と鋳出されていた。同じ漢数字での陽鋳だが、ここではなぜ、作者の銘を鋳出さなかったのであろうか。

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●江東区大島にある、天照皇大神らを祀る東大島神社。境内の石碑によれば、「永平神社、子安神社、小名木神社、南本所牛島神社、北本所牛島神社の5社を合祀し、昭和24年(1949)11月15日に創立せる」とある。「合併の5社は各々古き由緒を持ち、五穀豊穣、郷土安泰の産土神として氏子の深く崇敬せるところとなりしが・・」、昭和の戦禍で廃塵と化し、一望の廃墟となってしまったのだ。

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1対の鋳鉄製の天水桶は、神輿庫であろうか、建物の両脇に置かれている。大きさは口径Φ830、高さは740ミリほどだ。裏側に回り込みにくく見辛いが、銘は「明治5年(1872)」造立であろうか、それらしき事だけは確認できた。

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作者銘らしきものもあるが、火災熱によるものなのだろうか、摩滅していて判読できない。正面には「稲荷紋」が据えられているが、先程の5社の内のどこかに奉納されていたのであろう、これは戦禍を逃れた運命の1対なのだ。


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●千葉県野田市野田の、野田愛宕神社。東武野田線愛宕駅の名称の由来にもなっている神社で、延長元年(923)の創建だ。火伏の神である迦具土命(かぐつちのかみ)の分霊を祀って氏神としている。「かぐ」は火が輝く事、「つち」とはその霊力を意味するらしい。また、「愛児様(あたごさま)」とも呼ばれ、安産や子の成長を見守る神様でもあるという。

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境内にある案内文には、「現在の本殿は、文政7年(1824)10月24日に11年の歳月をかけて再建されたもので、入母屋造りの三間社、正面千鳥破風付、銅瓦葺きで、壁や柱の至るところに精巧な彫刻が透かし彫りで描かれています」とあるが、柵で囲まれていて近づくことはできない。彫刻は、匠の里と呼ばれる上州勢多郡花輪村(現在の群馬県みどり市)出身の2代目石原常八主信(後66項)という。

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●鋳鉄製の天水桶に確認できる銘は、「文政八年乙酉(1825)三月吉祥日」という文字と奉納者名だけだが、奉納の主旨は、この前年の本殿再建であろう。作者名も鋳出されていないが、鋳造の時期やデザイン的には、川口鋳物師・永瀬源内藤原富廣(前14項など)、あるいは、深川鋳物師・釜七(前17項など)あたりの匂いがするが、どうであろうか。

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天水桶も柵の中にあったので、隙間からズームアップして撮影した訳だが、正面には「奉納 御宝前」とある。大きさは3尺ほどであろうか。神紋も無くごくシンプルな1対だが、個人的には、この作者は釜七ではなかろうかと思う。強い根拠ではないが、ここの石鳥居を見てそう直感したのだ。

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この地、野田で2番目に古いという鳥居だが、主柱には、「元禄七歳甲戌(1694)十一月吉日 作者 江戸深川 石屋 長右衛門」と刻まれているのだ。天水桶の多くの作例に「鋳物師 江戸深川 釜屋七右エ門(花押)」と鋳出していた釜七だが、長右衛門とは同郷の縁を感じ取れる。そんな関係からの鋳造依頼であったかも知れない。

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●次は、渋谷区千駄ヶ谷にある鳩森八幡神社。慈覚大師が貞観2年(860)に、関東巡錫の際に正八幡を勧請、久寿年間(1154~)に、渋谷金玉丸が社を造営している。都指定の有形民俗文化財、都内最古の「千駄ヶ谷の富士塚」として有名だ。実際に登山できる塚としても知られているが、参詣日も多くの人が6mの山頂からの眺めを楽しんでいた。


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ホムペによると、「寛政元年(1789)の築造と言われ、円墳形に土を盛り上げ、富士山の溶岩は頂上近くのみ配されています。頂上に至る登山道は自然岩を用いた階段となっており、山腹にはクマザサも植えられています。山裾の御影石の里宮(浅間社)をはじめ、7合目には身祿様が安置されている洞窟、烏帽子岩、釈迦の割れ石、山頂にボク石で覆われている奥宮等富士山を再現しています」という。

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●鋳鉄製の天水桶の大きさは口径Φ950、高さは730ミリで、表面には「奉納 新屋鋪中」とある。「鋪」は、見慣れない漢字だが、「店舗」的な意味があるのだろうか、単に「新しい屋敷」であろうか。あるいは、石川県金沢市には、「下涌波町 新屋鋪(しんやしき)」という地名があるが、その関連や如何に。

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江戸時代においては、「屋敷」を「屋鋪(前33項)」と表示するのが一般的であったようで、「加賀国金沢城之絵図」には、城を取り囲む家臣の住む場所として、「侍屋鋪」や「侍下屋鋪」と記載されているし、歌川広重の名所江戸百景の中には、第30景として「亀戸梅屋鋪」というタイトルの浮世絵もある。「屋敷」でも「屋舗」でもないようだ。

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この天水桶は、「文政三庚辰年(1820)三月」の造立だが、他には何の銘も紋様も無いごくシンプルな1対だ。これまた上述の鋳物師、永瀬源内か釜七あたりの作ではないだろうか。是非とも作者名を鋳出して欲しかったものだ。

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●同じく千駄ヶ谷の日蓮宗、法雲山仙寿院。案内板の沿革によれば、「正保元年(1644)紀伊の太守徳川頼宣の生母お萬の方(法名養珠院妙紹日心大姉)の発願により 里見日遥(安房の太守里見義康の次子)を開山として創立された」とあるが、由緒ある寺であった。

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石段を上り詰めた本堂前の庭には、現在も養珠院の石碑が建っている。徳川頼宣(慶長7年・1602~寛文11年・1671)は家康の10男で、8代将軍吉宗の祖父にあたる。紀州徳川家の藩祖だが、藩主としての治世は47年9ケ月の長きに亘っている。


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ここにハスの花弁形で、鋳鉄製の天水桶1対がある。大きさは口径Φ1.020、高さは960ミリだ。「昭和40年(1965)12月吉日」銘で作者は不明だが、徳川家の葵紋が誇らしい。「本堂復興記念」が奉納理由であるが、同39年のオリンピックのための道路工事により、本堂や書院を再建しているのだ。この工事は、高台に位置する仙寿院の墓地の下を貫通する形で都道が建設され、千駄ヶ谷トンネルが通っている。

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●台東区西浅草の真宗大谷派、廣石山等光寺にもハス型の鋳鉄製の天水桶1対がある。ここは、斎藤道三に殺されたという美濃国の守護大名、土岐頼芸の遺子大圓が、父祖を追福するため三河国宝飯郡廣石村に創建したという。その後の慶長14年(1609)に神田旅籠町へ移転、明暦の大火(前22項後83項)によりここ浅草へ移転しているが、山号は廣石村に由来するのであろう。

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境内には石川啄木の歌碑があり、処女歌集「一握の砂」に収められた、「浅草の夜のにぎわひに まぎれ入り まぎれ出で来しさびしき心」という句が刻まれている。歌人、国文学者で親友の土岐善麿の生家であった縁で、啄木の葬儀と一周忌追悼会はここ等光寺で行われたという。

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この土岐善麿は、頼芸の末裔のようだ。天水桶の大きさは口径Φ900、高さは750ミリだ。表面には何の鋳出し文字も無く残念だが、その石の台座には、「昭和41年(1966)11月吉日」とあるので、これが桶の鋳造時期であろう。

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●板橋区小豆沢(あずさわ)の薬王山東光院龍福寺は、真言宗智山派で豊島八十八ケ所霊場86番札所だ。寺に伝わる「薬師縁起」には、薬師如来が天長年間(824~)に、台地下の七々子崎と呼ばれる荒川の入江で発見された事や、小豆沢の地名が、平将門への貢物を積んだ舟がここで沈み、積み荷の小豆が流出したことに由来していると書かれている。(掲示板を要約)

赤羽小豆沢・龍福寺

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建長7年(1255)の板碑は、区指定の文化財のようで、屋根に覆われ大切に管理されている。昭和の戦災で多くを失う前は20余基の板碑があり、「板碑寺」とも称されたという。桔梗紋を正面に据えたハス型の鋳鉄製の天水桶は作者不明で、「昭和53年(1978)8月」に設置されているが、「現住 実隆代」の時世であった。

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●次は千葉県松戸市根本の、真言宗豊山派、根本山吉祥寺だが、根本という地名が山号だ。本尊は薬師如来で、鎮座するそのお堂も境内にある。その竣工は「昭和32年(1957)4月」、本堂庫裡の竣工は「昭和9年(1934)11月」だ。四国八十八ケ所めぐりのミニチュア版、「下総四郡新四国八十八ケ所」の第63番札所となっている。

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銘は「昭和55年(1980)2月吉日」造立の鋳鉄製の1対で、千葉市の檀家が奉納しているが、作者名の鋳出し文字は無い。本体の大きさは口径Φ1.070、高さは880ミリだ。石の台座の真上、本体の真下にある8葉のベースも鋳鉄製で、こういった間座が存在するというのはあまり例が無いが、直径Φ770、高さは210ミリとなっている。

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●続いての墨田区立川の真言宗豊山派、萬徳山聖宝院弥勒寺は、元和元年(1615)、江戸小石川鷹匠町に宥鑁上人が開山創設している。かつては寺領100石の朱印状を拝領、真言宗関東四ケ寺の1つとして触頭を勤めた格式ある大寺であった。本尊の薬師如来像は、水戸藩の徳川光圀から寄進され江戸十三薬師の1つとして有名で、「川上薬師」と称されていたという。

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また5代将軍徳川綱吉公にも侍した、鍼術医・杉山流の祖である杉山和一総検校の墓があり、都指定の史跡となっている。和一は、貞享2年(1685)正月、綱吉の病を治療して白銀50枚を賞賜され、ついで禄800石を賜っている。

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そして元禄5年(1692)5月、関東総禄検校に挙げられ、綱吉の命を受けて鍼術の興隆を図り、鍼治講習所を設け諸生に教授している。堂宇前にハス型の鋳鉄製の天水桶がひっそりと咲いている。色合いは周りに溶け込んでいて違和感は無いが、鋳出し文字などの表示は無い。

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●台東区谷中の新義真言宗、長谷山元興寺加納院は、上の弥勒寺の末寺だが、朱塗りの山門が印象的だ。慶長16年(1611)、尊慶が開基となり神田北寺町に創建、延宝8年(1680)に当地へ移転したという。本尊の木造阿弥陀如来立像は、台東区の登載文化財で、御府内八十八ケ所霊場64番、御府内二十一ケ所霊場4番札所となっている。

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植木鉢の様な形状の、口径2尺、高さ700ミリの鋳鉄製の天水桶が1対ある。そもそも水受けとして鋳造されたのかどうかも不明だ。何の情報も一切鋳出されて無く、ぐるりを見回しても、1文字も存在しない不思議な桶だ。

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●同じく谷中の臨済宗妙心寺派、象頭山頤神(いしん)禅院。都内文京区湯島の天沢山麟祥院の第8世頑海が、明和5年(1768)に創建しているが、寺内には帝釈天を安置している。麟祥院は、徳川家光の乳母として知られる春日局の菩提寺だ。初めて見る文字だが、「頤」一字では「おとがい」と読むようで、減らず口をたたく事とか、寒くて震え上がるさまを言うようだ。

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大きな調理用の羽釜(後94項)が天水桶替わりだ。大釜は、かつては業務用であったろうか、お役御免となり、このように再利用されている事も多い。各地の鋳物師達にとって鍋釜は主力製品であり、作者名が鋳出されている事もたまにあるが、ここのは無記名だ。日常生活における消耗品である鍋釜には、文字情報など不要なのだ。


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●品川区西五反田の鎮守、桐ケ谷氷川神社は、素盞嗚命を祭神として祀っている。桐ケ谷村が開拓された江戸期に創建されたものと推定される、村の鎮守様だ。昭和初期の造営という唐破風と千鳥破風の権現造の社殿は、戦時の災禍を免れ今なお威容を誇っている。

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境内の湧き水は「氷川の滝」と呼ばれ、江戸七瀑布の1つに数えられたらしい。「断崖を湧き出すこと一丈五尺(約4.5m)」と説明されているが、現在の水量は、とても滝と言うには及ばない。

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●ここでも水受けの天水桶は羽釜の代用だが、かつては、煮炊きに活躍したのであろう。表面に、「上」という1文字だけが見られるが、これはメーカー名の表示ではないだろう。この文字にはそれなりの意味があるように思われるが、醤油会社のロゴマークを見ながら検証してみよう。

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なお後82項後97項では、都内板橋区赤塚の区立郷土資料館を訪問している。ここに置かれている4石(720L)の容量の羽釜には、「上上」と、同じ漢字2文字が鋳出されている。必ず、何らかの意味があるのであろうが、まさか上下を取り違えないためとは思えない。あくまでも自説であり、こじつけにも思え眉唾であるかも知れないが考察してみる。

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●千葉県は醤油の一大産地で、全国で流通するおよそ36%近くを占めるという。内陸の野田市では、キッコーマン(後62項)やキノエネなど、海沿いの銚子市では、ヒゲタやヤマサなどのメーカーが知られるが、海川にせよ、どちらも舟運に恵まれた土地柄での繁栄だ。行きに製品の醤油を積み、帰りには原料を運んだのだ。

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その原料は、大豆と小麦と塩だけというシンプルなもので、これらを混ぜ合わせ、発酵させて作られる。各社の微妙な味の違いは、「ヤマサ菌」などと呼ぶ通り、独自の麹菌であろう。銚子市の2社を工場見学してみたが、全国シェア第2位というヤマサ醤油(株)は、正保2年(1645)、廣屋儀兵衛商店として創業している。

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ウィキペディアによると、初代の濱口儀兵衛が、「山笠にキ」の暖簾を考えたが、これは紀州徳川家の船印と同じだったため、「キ」の文字を横向きにした所、「サ」と読めることからヤマサとしている。なるほど、「サ」というよりは、横になった「キ」だ。

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●また、ヒゲタの商標の由来は、創業家である田中家の屋号「入山田」に因んでいて、山笠ではなく「入」の字に「田」だ。たまたま田の字に垂れた墨汁がヒゲのように見えて、ヒゲタだ。この2例をよく見ると、右上か左上に「上」の文字が存在する。わざわざ付け足したようで、かなり違和感がある。

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元治元年(1864) 、江戸幕府は物価の上昇を抑えるため、諸商人に販売価格の割引を厳令している。が、ヤマサやヒゲタなどの千葉の7銘柄については、品質が優良なため特に「値を下げるに及ばず」とのお墨付きを与えられ、「最上醤油」の称号が与えられているのだ。

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他の銘柄としては、世界シェア5割を誇る大手の「キッコーマン(旧社名の亀甲萬は、亀は萬年に由来するという・後62項)」や、昭和初期まで醸造していたという「山十」などだ。山十の看板を見ると、「下総国銚子港 岩崎重次郎醸」となっていて、「重」が「十」であり社名の由来が偲ばれるが、ここも「最上醤油」を謳っている。

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●最上醤油のお墨付きを利用したのは、メーカーだけではなかったかも知れない。次の木製の看板は、「天正貳年(2年・1574)以来開業 内外各博覧会受賞 原料精撰 醇良芳味」と彫られた、「千葉県下総国市川町 田中喜兵衛醸造」というメーカーだ。中央に個性的な「上」の文字を配し、上下に「日本一品 最上醤油」と金色で飾っている。

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左端には、「帝国大学御用醤油 陸軍各隊御用醤油 諸府縣諸外国需要」と華々しく宣伝されている。「特約販売店 清水友吉」という商店だが、タイアップしてこの看板を製作したのであろうか。両者は、「上」という名誉号をいかんなく商売に利用したようだ。

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こんな経緯で「上」の文字が追記された訳だが、上等、上質、御上の意味合いを含んでいるのだ。先の羽釜にはメーカー名が無く「上」だけであったが、類推するにこれは、そんな幕府の威光の借用なのかも知れない。なおこの件について、都内の羽釜販売の専門店を訪ねて伺ってみたが、判らずじまいだった。残念。つづく。