.

●散策のルールとしては、まず最も遠い目的地まで行き、自宅に近付くべく歩くことだろう。手にした地図は北が上であるから、北上すれば文字も逆にならず読み易い。時間と体力とに相談しながら無理をしないことが肝要だ。

.

散策をしていると改めて気付くのだが、街中には実に多くの鋳物製品が溢れている。街路灯、マンホール、鉄柵、オブジェ・・。画像は、宝船をデザインした鉄柵だが、微笑ましい。思わず足を止めて見入ってしまう。

.
●次は込み入ったデザインの門扉だが、鋳造なら簡単に量産できる。1つの木型を使い廻す事により、コスト低減にもつながる訳だ。ただ画像の門扉はかなり重厚で巨大であり、特別に誂えられたものであり唯一のものだろう。これは、千葉県松戸市五香西の日蓮宗、謙徳山瑞雲寺(後63項)の門扉だ。

.
エビス様のオブジェも鋳造品だ。見目麗しく、近くで見るとその精巧さに感心する。エビス様は、唯一の日本古来の七福神の一員で、古くから漁業の神でもある。狩衣姿で右手に釣り竿を持ち、左脇に鯛を抱える姿が一般的となっている。他の6柱は、インドや中国由来の、大黒天、福禄寿、毘沙門天、布袋、寿老人、弁財天だ。画像は、JR恵比寿駅で見られるオブジェだ。

.

●道路や地面に無数に見られるマンホール(前5項)のフタ。中心部にある「IGS」とは、川口市元郷に本社を置くメーカー、伊藤鉄工(株)さんのブランドロゴだ。昭和6年(1931)の創業で、ストーブの製造から始めている。同14年からは、鋳造のみならず英式旋盤の製造も手掛けているが、社名に「鉄工」が含まれる由縁であろうか。

天水桶あれこれ-マンホール

.

その後の日本住宅公団の団地建設ラッシュに伴い、公団仕様の全鋳鉄器材を製造しているが、昭和52年(1977)には建設省の指定品となり、大きく発展している。平成3年に社長に就任した伊藤光男氏は、明治38年(1905)8月11日創立の川口鋳物工業協同組合の第25代理事長だ。(前12項参照)


.
●さて、今回の散策は品川駅周辺とした。この地には何回か足を運んでいて、地図を見ると実に多くの寺社があるが、この項に至るまで、既に、何例かの桶を紹介してきている。まずは、京急本線の新馬場駅で下車。

.

駅の西側、品川区南品川に、寛正4年(1463)創建と伝えられる黄檗宗(おうばくしゅう)瑞雲山大龍寺がある。「絹本着色羅漢図双幅」は、区指定の有形文化財で、文化14年(1817)に画家の谷文晁が描いたものだ。

.

●文晁は、江戸下谷根岸に生まれ、別号として写山楼、画学斎、文阿弥などを号しているが、その画域は広く、山水画、花鳥画、人物画、仏画にまで及んでいる。代表作には、「公余探勝図 寛政5年(1793)」、「青山園荘図稿 寛政9年」などがあるが、いずれも重要文化財となっている。

.

辞世の句として遺したのは、「ながき世を 化けおほせたる 古狸 尾先なみせそ 山の端の月」であった。境内には樹齢200年の高さ10mのシイの木があり、区の天然記念物に指定されているが、現在は大胆に枝打ちされていて、樹高はさほど無い。

.
●殿前の天水桶1対は、「昭和60年(1985)11月9日」銘の青銅製だが、センターの紋は、黄檗宗の「黄」のデフォルメであろう。日本の三禅宗といわれ、江戸時代に興った比較的新しい宗派だが、本山は、京都府宇治市の黄檗山萬福寺だ。


.
青銅製の鋳肌は見目美しい。見慣れてはいるが、龍の彫刻も凝っていて、しばし見入る。川口鋳物師、「山崎甚五兵衛」作の青銅製桶の登場は本サイトでは16例だ。対して、鋳鉄製は118例にもなる。材質的に考えれば、過渡期の鋳物師であった事が明白だ。なお、同鋳物師に関しては、前1項などに、特集した項番のリンクを貼ってあるのでご参照いただきたい。

.

●ところで、黄檗宗(後87項)の寺院として初めて江戸府内に建立されたのが、港区白金台の紫雲山瑞聖禅寺だ。雄大な大雄宝殿は、その棟札から宝暦7年(1757)の再建というが、国指定重要文化財となっている。区の掲示板によれば、開基は青木甲斐守重兼で、日本に開宗した中国僧隠元の弟子である木庵性滔が開山として招請され、寛文11年(1671)に落成している。

.

ここは、天保年間(1830~)に刊行された「江戸名所図会」にも記載されている。丸で囲った鐘楼塔は、現在もおよそこの位置にあるが、その銘は「寛文十一年歳次(1671) 猛春穀旦」の造立で、開山とほぼ同時であった。

.

しかしこの鐘は「時に延享二歳次乙丑(1745)春二月、回禄(火災)に罹り、堂宇焼燼し、洪鐘湧鎔す」で、同年「中秋吉旦」に再鋳されている。鋳物師は、「鋳工 小幡内匠 藤原勝行(前8項後100項など)」であったが、図会に描かれた鐘だろう。現在の銅鐘は、「昭和63年戊辰歳(1988)11月穀日」造立の3代目だ。

.
●今度は駅の東側だが、目黒川の北側、品川区北品川に荏原神社がある。和銅2年(709)に、奈良丹生川上神社から龍神を勧請し創建されているが、北品川鎮座の品川神社が北の天王社と呼ばれ、同社は通称、南の天王社だ。程よいサビ具合の鋳鉄製の天水桶が1対ある。

.
銘は、「東都大門通 鋳工 伊勢屋彦助 源吉定 天保六乙未(1835)初冬」だが、「源」姓を名乗っているのは興味深い。皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りることを、臣籍降下という。皇族には「姓」が無いから、降下に際して下賜される訳だが、その代表的な例が「源姓」だ。あるいは武士らが名乗ったように、時の為政者からの名誉ある下賜姓でもあった。


.
●ただ、ここで使われている「源姓」には、そんな重苦しい高貴な経緯が反映されているはずもなく、ステータスを誇示すべく、恐らくは、勝手に名乗った箔付けのための「源姓」であろう。桶には、「商売繁昌」、「子孫長久」と見え、これらを祈念しての奉納であった。大きさは、口径Φ920、高さは750ミリだ。


.
「大門」とは、現在の台東区千束にあった新吉原遊郭の大門(おおもん)ではない。日本橋人形町にあった大門だ。旧の遊郭は、明暦の大火(
前22項後83項など)の1657年までその地に存在していたのだ。その名残が「東都大門通り」の地名の由来で、現在、日本橋小伝馬町から日本橋人形町にかけて「大門通り」が存在するが、呼びは、「だいもんどおり」のようだ。


.
●作者であるが、この「伊勢屋彦助」は鋳造業者ではなく、銅鉄物扱いの商人だ。大正3年(1914)刊の、香取秀眞(ほつま・後116項)の「日本鋳工史稿」にはこうある。「大門通りの古老に聞くに、伊勢屋長兵衛とは大門通りの銅鐡商なるが、奉納物に自家を鋳工として鐫銘(せんめい=彫る)せる由なり。」
.
住所は、「大門通り」とだけ記載されているが、自分の受注品を鋳物師に鋳造させるが、作者名は自分にしていると言うのである。多くの参詣者が目にするのである、良い宣伝という事であろうか。

.

●一方、天保7年刊(1836)の「江戸名所図会」には、活気ある「大門通り」の様子が克明に描かれている。「昔この地に吉原町ありし頃の大門の通りなりしにより、かく名づく。いまは銅物屋、馬具師多く住めり」と説明されている。
.
既製品の釣鐘やワニ口も店頭に並んでいたようで、大八車(前29項)での運搬の様子が見られる。鐘身への銘は、客の要望を聞き、タガネで彫って即納していたようで、「鐘ひとつ 売れぬ日は無し 江戸の春」と、芭蕉門下の宝井其角は詠んでいる。もしや、「伊勢屋」がこの絵の中に描かれているかも知れないと思うと感慨深い。なお後77項でも、「大門通り」の事を記しているのでご参照いただきたい。
大門通り

.

●現代でも、仏具屋の店頭には半鐘などが陳列されている。買主がつけば銘を彫り販売するのであろうが、既に鋳造済みな訳だから、ほぼ即納品なのだ。因みに価格は、口径30cmの1尺サイズで25万円ほどとなっている。画像は、「寺院荘厳具 仏壇 神仏具」を取り扱っている、浅草仏壇神具通り(前34項後59項)の都内台東区寿の(有)真如堂小菅商店(前7項後81項)だ。

.

同商店が扱った銅鐘を1例見ておくが、場所は、館林市緑町の真言宗豊山派、髙鍵山釈迦院遍照寺だ。建久9年(1198)に、新田氏の祖・新田義重が明和村へ開基し、天正18年(1590)に現在の地へ移転したといい、江戸時代には、徳川四天王の1人の館林城主・榊原康政(後120項)が祈願所としている。北関東三十六不動尊霊場の第12番札所、東上州三十三観音霊場の第6番札所だ。

.

梵鐘には「南無大師遍照金剛」と掲げられ、「昭和58年(1983)5月吉祥日 第43世 良證代」の時世に掛けられている。池の間や草の間(前8項)には天女や獅子が舞い、下部の駒の爪にある紋様は蓮の葉がモチーフだが、この反花(後51項)は、高岡市の金森家(前7項など)の銅鐘に見られる特徴だ。取扱いは、「浅草 真如堂 謹製」となっている。

.

●さて先の様な銅鐘が並ぶ情景は、江戸庶民の自慢の1つであったようで、「江都自慢」という番付け表にも登場している。メインの行司役が「御大名之軒並び」で居並ぶ大名屋敷、勧進元は「四十八組大纏」で火消し人だが、両者は異論のない江戸自慢の筆頭だ。

.

東の大関(今の横綱)が「日千金 日本橋魚山」で魚河岸、西の大関は「蔵前米粒」で幕府の米蔵、そしてランクは高くないが、西の前頭六枚目に「江戸の花 大門通出来合鐘」とある。既製の銅鐘が並ぶ光景は、他の都市では見られなかったようだ。

.

あるいは長兵衛の名は、文政7年(1824)刊行の名店紹介本、「江戸買物独案内(前31項後94項)」にも、「十組 釘店組 通油町 釘鉄銅物問屋 伊勢屋長兵衛」として名が載っている。この本には、他のページにも「釘鉄銅物問屋」として、「上野新黒門町 伊勢屋徳兵衛」、「横山町三丁目 伊勢屋喜助」、「弥兵衛町 伊勢屋市郎兵衛」の名が見えるが、彼らは同族であったろうか。

.
●ところで、「伊勢屋」、「大門通」のキーワードで思い当ることがある。前28項でアップした、港区元麻布の明見山本光寺の天水桶だ。「嘉永2年(1849)5月」に、「新吉原京町2丁目」の人が、施主として寄進しているが、もう一度見てみよう。

.
この時は、このくずし文字の判読は不可としたが、「大門通 鋳工 伊勢屋万之助」であった。時期的に14年間の隔たりがあるが、この本光寺とここ荏原神社の天水桶の受注取扱い者は、「伊勢屋」であり、「彦助」と「万之助」は親子であるかも知れない。少なくとも同じ家柄の系統であろう。

.
では実際の鋳造者は誰か。現存しないようだが、川崎大師平間寺(前24項など)の香炉盤には、「伊勢屋」の名前と一緒に、「鋳工 長谷川兵部(後79項後116項)」の名前が見られた。この人は神田住の鋳物師で、天保12年(1841)に、台東区浅草の本龍院待乳山(まつちやま)聖天(前8項)の香炉盤なども手掛けたようだが、この人とタッグを組んでいたかも知れない。
.
●また、向かって右側の桶の、文字の並びが明らかにおかしい。下の画像のように「源定吉」となっているが、先ほどの左側のは「源吉定」であった。前12項
品川区北品川の品川神社で知ったのは、「伊勢屋彦助 源定吉」であったし、先の「日本鋳工史稿」には「源吉定」とある。どちらが正しのであろうか。なお「伊勢屋万之助」に関しては、後93項でも登場しているのでご参照いただきたい。

.
屋根からの導水方法が洒落ている。屋根の上に居座る龍が下界を見下ろしているが、降雨時にはその口から下にある天水桶へと注ぐ趣向だ。全てが興味津々で、予定外にも、ここで30分を過ごしたろうか。また訪れたくなる神社だ。

.
●北東方向に数百メートル歩くと、品川区東品川に、寄木(よりき)神社がある。東京都神社名鑑によれば、「日本武尊東夷御征伐のみぎり、相模国の海中にて南風烈しく吹き、御船が沈まんとする時、弟橘姫命は御船を救わんと、海神の怒りを鎮めるために御入水せられた。そのみぎり当品川浦へ船木流れ寄り、そのところに神霊を勧請したという。」流れ寄ってきた木で創られた神社のようだ。

.

配布物の説明によると、土蔵造りの本殿奥の2枚扉の内面には、左官(前15項)の伊豆長八による「鏝絵(こてえ)天鈿女命功績図」が描かれており、江戸時代の「添浦高札」とともに区の有形文化財に指定されている。

.

鏝絵は、日本神話の天孫降臨を題材にしているが、右側は猿田彦命で、左側が天鈿女命だ。天鈿女命が、両手で衣を開いて豊満な乳房を露わにし、猿田彦命の気を引かんとしている構図となっている。

.

●長八は、文化12年(1815)に伊豆松崎に生まれ、天保4年(1833)の19才の時、江戸に出て日本橋の左官頭領の波江野亀次郎に身を寄せ修行に励んでいる。明治3年(1870)、入江長八(後130項)と名乗り、晩年は深川に住まっている。

.

漆喰を鏝1本に託してこねあげ、図柄を創造、とりわけ漆喰の灰汁止めに漆を使って自由に彩色したことで、独自の漆喰鏝絵を産み出している。衰えぬ信念と研究心を以て左官職を全うし、明治22年(1889)、75才で名工一代の幕を閉じている。

.
●こちらの天水桶も興味を惹かれるが、北品川の「町内店中」、「旅籠中」らの奉納であった。鋳鉄製の1対だが、大きさは、口径Φ780、高さは700ミリだ。高さは、持参のメジャーで測定する訳だが、下部の一部は、安定化のために石の台座に埋没しているのが常で、正確ではない。露出している部分をそのまま測るしかないのだ。


.
銘は、「武州川口住 鋳物師 永瀬宇之七 藤原清秀 元治元甲子年(1864)五月大吉祥」だ。前にも紹介したが、この宇之七の桶は、ここ新馬場駅近くの普海山心海寺(前15項)にもあり、出会いは2例目だ。文久元年(1861)刊の「諸国鋳物師控帳」にも名が記載されている、「藤原姓(前13項)」を名乗った勅許鋳物師であった(後68項参照)。

.
●品川駅の北の泉岳寺駅までは、電車で移動。以前に、ネット上でこんな書き込みを見つけた。「車で移動中、第一京浜(15号線)の泉岳寺の交差点で信号待ちをしていると、ビルの階段下にサビついた2基の丸い天水桶らしきものが見える」と言うのだ。


.
半信半疑だったが、行ってみて驚いた。天水桶は間違いなくあった。港区高輪の車町稲荷神社だ。江戸時代初期、この辺りでは、重量物の運搬動力として千頭もの牛が飼われていたという。歌川広重の「名所江戸百景」には、「高輪うしまち」の絵があるが、牛車の車輪が手前に大きく描かれている。車町の車は、牛車の事であった。

.

●「江戸名所図会」にも「高輪牛町」の絵がある。寛永11年(1634)の三縁山増上寺安国殿建立や、同13年の市ケ谷見附石垣普請の際、当時江戸には無かった重量運搬機である牛車が大量に必要となり、幕府が京都四条車町の牛屋木村清兵衛を中心とする牛持人足を呼び寄せ、材木や石類の運搬に当たらせている。

.

工事終了後は、褒美としてこの町での定住を認め、牛車を使っての荷物運搬の独占権も与えたため、「車町」、通称「牛町」と呼ばれるようになっている。絵を見ると、さながら現代のトラックターミナルの様相を呈している。

.
●現代風の社殿自体が国道に直面しているのだが、拝殿は階段を上がった2階にある。鳥居をくぐると鈴緒が垂れ下がっていて、額には「稲荷神社」とだけ掲げられている。

.
国道から見える階段の下で1対の天水桶を確認。左側の1基には割れがあるが、その裏側まで廻り込み刻銘を覗き込んでみた。それにしても有難い。社屋の形式が如何になろうとも、どんなにサビついていようとも、桶として役立っていなくても、こんなに大事に扱ってくれていて大感激だ。何しろ階段裏という屋根付き、蓋付きだ。

.
●銘は、「武川口住 鋳物師 永瀬源七 天保十一庚子年(1840)三月吉辰」と陽鋳されているが、「武州」の「州」の文字が抜けた表現になっている。大きさは口径Φ720ミリ、高さは660ミリの鋳鉄製だ。

.

源七との出会いは、千代田区外神田の神田神社(前10項)に続きここで2例目だが、そこのは、「弘化4年(1847)9月吉日」であった。また、後92項の中央区日本橋箱崎町・永久稲荷神社でも出会っているが、当サイトで確認できている源七製の天水桶はこれら3例だけであり、非常に貴重な存在だ。

.

●なお、ここを「高輪稲荷神社」とする「芝區誌」の由緒によれば、「創立年月不詳。社伝によれば徳川氏の関東入国に際し随伴して来た公卿吉田某が伏見稲荷の御分霊を江戸四日市に勧請し、後高輪牛町に遷座した」とある。

.

さらに「古来真先稲荷、真崎稲荷などと称して火防の守札を出した」という。「川口市勢要覧」には、同じ銘の天水桶が「高輪真崎稲荷」に存在した事が記録されている。同年同月で作者銘も全く同じだ。これは多くの呼称からくる、情報の単なる重複であろうか。

.
●宝永7年(1710)に設置された、東海道からの江戸府内への出入口であった、高輪の大木戸跡を見学しながら、三田駅までの一駅を散策。幕末の江戸城開城の際、西郷隆盛(後100項)と勝海舟が会見した地もこの近辺らしい。

.
ほどなく港区芝の、御穂鹿嶋神社に到着。ビル街の中、ホッとする空間だ。鹿嶋神を祀っているが、平成18年の社殿新築の際、御穂神社を合祀しこの社名になっている。御穂神社は文明11年(1479)、鹿嶋神社は寛永年間(1624~1644)の創祀と伝わっているようだ。

.

●堂宇には、「鹿嶋神社」と「御穂神社」という2つの扁額が掛かっている。ここに、鋳鉄製の天水桶が1対ある。大きさは、口径Φ830、高さは770ミリだ。

.

厚めに浮き出た文字が目を引くが、「芝四(丁目)」は近辺の住所だ。中央には巴紋が見映え良く陽鋳されているが、裏側には、「大願成就」として、「伊勢屋豊吉」、「大坂屋庄吉」、「尾張屋巳之吉」ら多くの寄進者名が並んでいる。

.
銘は「川口住 鋳工 永瀬源内 藤原富廣(前14項) 嘉永五年壬子(1852)三月吉日」とある。同氏の作例との出会いは当サイトでは12例目だが、文政9年(1826)5月から、安政4年(1857)8月までの31年間だ。

.
●駅の北側にも少し寺社があるようなので、散策を続行。すると、ビルの一角に、気になる社があった。「正一位 水守稲荷大明神」だ。平成の世のお稲荷さんは、ガラス製の社屋だからシースルーだ。味気ないと言ってしまえばそれまでだが、これも文化であろう、いかにも都会の一等地ならではだ。しかし、日々お供え物が上がっているようで、神を崇め祀る慣習に時代差は無い。

.
●そして、地図にも載っていないような稲荷社に出会った。港区芝の幸久稲荷神社で、「さきく」と読むらしい。静岡市清水区三保の御穂神社(後128項)の分祀ともいわれる御穂神社が、以前ここに建てられていたという。建物の老朽化で、上述の鹿嶋神社に合祀されたのだ。

.
4畳半程度であろうか、異常に狭い境内だが、最奥に1対の鋳鉄製の天水桶が見える。先ほどの御穂鹿島神社と同じ巴紋が陽鋳されていて、「本芝二町目町内 家持中 家主中」の奉納であった。

.

大きさは、口径Φ820、高さは760ミリだ。かつては大きな社殿が存在し、屋根からの降雨を受け止めていたのであろうが、今は隠居状態だ。

.
●境内の外側から鉄柵の裏に廻り込んで銘を確認。「江戸深川 御鋳物師 太田近江作 嘉永2年(1849)9月吉日」、釜六製(前17項)だ。いつの日か化粧し直して殿前に鎮座いただきたいと思う。それまで忘れ去られることなく丁重に保存していただきたいものだ。

.

この地、品川近辺には寺社仏閣が多く、まだまだ全てを訪問しきれていない。いずれまた散策しようと思うが、この調子だとさらに多くの桶達に出会える気がする。つづく。