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●散策中に出会った、天水桶についての考察を重ねてきている。寺社仏閣の由緒などより、ただひたすらに、脇役の桶に目を向ける輩が1人くらいいてもよかろう。参詣の度に色々な桶に出会うことが楽しくて仕方ない。
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さて、天水桶を購入するとしたら、どれだけの予算が必要になるのであろうか。デザインして型を起こし、溶解湯を流し込み鋳造し色付けして、運搬、設置。何百万円かかるのだろうか。ネット上で見てみると、3尺のハス型の青銅製天水桶で1対300万円ほどだ。

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樽型だと460万円もするし、口径が4尺5寸、1.35mの大きなサイズになると1千万円オーバーだ。一方、FRP、強化プラスチック製のタイプなら3尺サイズで1対60万円ほどだから手ごろだ。もちろん設置費用は別途だし、表示する文字や定紋、各種金具も別だから、高価な仏具なのだ。

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参詣者や有力な氏子が多い寺社ならともかく、そうでないところは予算の捻出に困ることだろう。破損などで更新を諮る時、導水チェーンをそのまま地面にまで延伸して、「桶無し」で済ましている寺社も多く見受けられる。

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●あるいは、本来設置されていたであろう場所に、台座だけが残されている場面も見受けられたりする。戦時の金属供出後(前3項)、そのまま、と言う事なのであろうか。

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そんな中、量産品で廉価版であろう天水桶に出会うことがある。オーダーメイドの紳士服は高くつくが、既製品の出来合いの服は安価だ。デザインも色もお仕着せ、大きさも1回り小さい。数杯分のバケツで一杯になりそうな容量で、こんな感じだ。

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そのほとんどが青銅製で、現代においては、サビてしまいメンテに問題がある鋳鉄製の天水桶が製造されることはほとんど無い。

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●作者銘や寄進者銘の鋳出し文字が無い場合も多い。メーカー名も日付も浮き出ていないのだ。表面のグラインダー仕上げも何となく雑に思えてくる。
マハルコターツのブログ-仕上げ面

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銘板(ネームプレート)が、別誂えでビス止めされている。製作年月日はあるが、製作者名の表示はない。本体は同じで、受注したらその都度ビス止めするのだろうが、これならコストは抑えられよう。

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●メーカー不明の天水桶を2例見てみよう。まずは、台東区上野公園の東叡山輪王寺。通称は、両大師として知られるが、慈眼大師天海と慈恵大師良源を祀っていることに由来している。平成元年の火災では、天明元年(1781)再建の開山堂と寛政4年(1792)再建の本堂が焼失していて、画像の現在の本堂は平成5年(1993)に再建されたものだ。

 

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ハス、蓮花の葉脈がくっきり見てとれるが、これが典型的な意匠で各地でよく目にするタイプだ。正面に「丸に二つ引両紋」が据えられているが、作者名は見当たらない。「両大師 平成5年10月吉日」となっていて、火災後の本堂再建を記念しての奉納であった。

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●境内の阿弥陀堂の中に、気になる梵鐘が置かれている。ここの本堂前の参道左右の銅灯籠は、もとは上野東照宮の大猷院(徳川家光公)霊廟に奉納されていたものというが、大正3年(1914)刊行の香取秀眞(後116項)の「日本鋳工史稿」によれば、この銅鐘も同じだという。霊廟は享保5年(1720)3月27日の火災で類焼、その後再建されることは無く、ここに移されたらしい。

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銅鐘は、台東区の重要美術品に認定されている。総高は145.2cm、口径は84.8cmで、線刻が見えるように置かれているが、「慶安四(年)辛卯(1651)十二月二十日 鋳師 長谷川舎吉」と刻まれている。「とねきち」と読むのだろうか、同氏の作例は、関東を中心に6例が知られていて、寛永21年(1644)から慶安5年(1652)の短期間に集中している。

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●名は「家吉」だが、家康の江戸開府に前後して、城下整備のために召喚された(後126項)鋳物師の家系だろう。父は「吉家」だが、後35項の「寛永8年(1631)9月 武蔵高尾山有喜寺鐘」や後99項の江戸城平川橋の擬宝珠の刻銘、後111項の東京都台東区西浅草の浄土真宗東本願寺派、本山東本願寺の登録文化財の銅鐘銘で登場している。

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舎吉は、先の史料によれば、翌年、下野国日光山の家光の霊廟前にも銅灯籠1対を鋳ているが、その銘は、「慶安5年9月20日 米沢城主上杉喜平次実勝 献納」、「御鋳物師大工 長谷川越後守 藤原舎吉」であるようだ。実勝(さねかつ)は、初代藩主景勝の孫の3代目綱勝だ。舎吉は、国名(後99項)を拝し藤原姓(後13項)を名乗った御用達鋳物師であった。

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●鐘楼塔に掛かる現役の梵鐘は、富山県の高岡鋳物師の鋳造だが、上下の口径の大きさに差異が無い寸胴型の和鐘だ。「改鋳 昭和61年(1986)9月3日」となっているので、上述の火災を機に掛け替えた訳ではないようだ。

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作者銘は、人目を憚るかのように鐘の内側に陽鋳造されている。「高岡市 金森鋳造所 伝統工芸産業優秀技術者 金森弘重造」だ。高岡市の規則では、「伝統工芸産業に関して優れた技術を有する者等を表彰することにより、伝統工芸産業の技術向上と後継者育成に資することを目的とする」としているが、この受賞者による鋳造だ。

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●金森家の鋳た梵鐘をもう3例見ておこう。まず千葉県君津市人見の真言宗豊山派、人見山青蓮寺で、上総国八十八札所の24番だ。観音堂には、本尊として、十一面観世音菩薩と妙見大菩薩が祀られている。堂宇前の天水桶は蓮華型の量産品で、平成10年(1998)8月吉日に奉納されている。

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やはり寸胴型の梵鐘は、弘法大師の遠忌記念として、鐘楼塔と共に「昭和55年(1980)9月吉日」に設置されている。下部の駒の爪(後8項)の周囲にハスの花弁の紋様を連続させてデザインするのが、金森家の特徴のようだ。これは反花(後51項)といわれる紋様で、上向きについた受花に対して、下側へ反転するように開いた蓮弁をいい、反花のついたものは、最盛時の満開の状態を示すものと言われる。

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こちらは、「高岡市 伝統工芸産業技術保持 龍鳴堂 金森萬臺(台)造」となっているが、やはり、鐘の内側に陽鋳造されている。高岡鋳物師に関しては、後120項でも見るが、明治12年(1879)の「由緒鋳物師人名録」の「越中射水 高岡金屋町」の項には、「金守」姓を含むと、25名もの金森さんが登場している。金森家は多くの分家を繰り返したようだ。

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●お次は、群馬県邑楽郡板倉町板倉の妙池山実相寺だ。開基は祥信法師とされており、慶長14年(1609)、板倉沼を白鳥の狩り場とした徳川2代将軍秀忠が、代官青山四郎左衛門に命じ、沼の周辺農家18軒と実相寺を現地点に強制的に移住させている。

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戦乱の世における鉄砲狩りは、単なる遊興ではなく軍事演習であったが、用意万端整えるも白鳥狩りは行われていない。山号の「妙池」は、板倉沼を意味するのであろうか。その後寺は、館林城主の榊原康政(後120項)、康勝、忠元3代の庇護により繁栄してきている。

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前例よりもふっくら感がある銅鐘で、縦帯には「南無大師遍照金剛」と陽鋳造され、池の間には天女が舞い、草の間では獅子が踊っている。特徴的な反花が下縁を廻り、鋳造者銘は、やはり内側に、「高岡市 伝統工芸産業技術保持 龍鳴堂 金森萬臺造」と刻まれている。「昭和55年(1980)8月吉祥 第17世 教寛代」の時世であったが、この鐘の取扱い仲介者は、本堂の軒下に掛かる半鐘と共に、「浅草 真如堂(後37項後81項) 謹製」銘となっている。

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●3例目は、後105項でも登場する都内江戸川区南篠崎町の真言宗豊山派、薬王山蓮華院西光寺だ。「昭和34年(1959)10月吉日 第24世 徳行代」の時世で、内面にある銘は、「越中高岡 龍鳴堂 金森萬臺 花押(後13項)」となっている。先例とは約20年の時代差がある銅鐘で、花押が鋳出されているのは特異だ。反花が下縁を廻っているのが金森鐘の特徴であったが、この時代にはまだそれが見られない。

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●さて戻って、ここ輪王寺の手水盤は青銅製だが、石製がほとんどである中、稀有な例だ。盤の周囲は植物紋様に覆われているが、巨大なジョウロがモチーフのようで、右側には蓮口と呼ばれる注ぎ口が、反対側には取っ手がある。陰刻などの文字は一切なく、作者も日付も不明だ。

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なお現存する金属製の手水盤は、戦時の金属供出(前3項)などもあり希少だ。本サイトで登場する項番をここに記しておこう。後30項で川口市本町・川口文化財センター、後34項で墨田区東駒形・是應山実相寺、後45項で埼玉県秩父郡長瀞町・宝登山神社、後65項で杉並区堀ノ内・日円山妙法寺。

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後66項で、栃木県佐野市富士町・唐澤山神社、後75項で栃木県鹿沼市上久我・加蘇山神社、後77項で江東区富岡・富岡八幡宮、後88項で群馬県太田市・大光院新田寺と神奈川県小田原市・飯泉山勝福寺、後91項で栃木県宇都宮市の下野国一之宮・二荒山神社。

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そして、後95項で杉並区永福・和田堀廟所と埼玉県秩父市・秩父神社、後102項で豊島区巣鴨・萬頂山高岩寺、後122項で長野県長野市・定額山善光寺大勧進前、後128項で神奈川県藤沢市・藤沢山遊行寺、後129項で栃木県日光市足尾町・本山鉱山神社だが、川口鋳物師の作例も何点かあるのでご参照願われたい。

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●続いての、神奈川県川崎市の真言宗智山派の大本山、川崎大師(後24項後32項)は、大治3年(1128)の建立というが、開基した平間兼乗の名から、平間寺と呼ばれている。画像の大本坊は、僧侶の寮や稚児大師が祀られている寺務所だ。

川崎大師・大本坊

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ここに、でっぷりとした青銅製の天水桶が1対あるが、上部の最大径は、4尺、Φ1.200ミリほどだ。「平成9年(1997)9月8日」に「大本坊天水桶復原」として設置されているが、作者は無銘だ。「丸に三つ柏紋」が金色に輝いているが、全体的に独特な意匠であり、量産品ではなかろう。

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●引き続いて色々な天水桶を見てみるが、港区赤坂の真宗高田派の櫻田山正福寺は、光教院休傳法師が開基となり影正庵として17世紀に創建している。もとは後述の澄泉寺の塔頭であった。天水桶はタイルを貼り付け合わせたような感じの円筒形で、煙突のようなイメージだ。

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上尾市柏座の柏座春日神社の創建年代等は不詳ながら、戦国末期に、忍城主成田下総守の家人であった曾我兵庫助祐昌が当地に住していたことから、主君成田氏の氏神として祀っていた行田市谷郷の春日神社を勧請したものであろうという。こちらもタイルを貼り付けた天水桶1対だが、タイル職人による渾身の傑作であろうか。

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●川口市石神の真言宗豊山派、長久山真福寺真乗院は、本尊を不動明王(後20項)としている。中興開山は、寛永5年(1628)に寂した尊雄で、現住職まで23代を数えている。境内にある立木は市の天然記念物に指定されていて、中でも高野槇は樹齢800年とされ、樹高18m、幹回り4mと堂々たるものだ。

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「コウヤマキ」という名は、紀州高野山に多い事から付けられ、別名ホンマキ、ママキともいう。雌雄同株で、葉は厚く2葉が側面で合着している。材は耐水性に優れ、特に桶材や橋材として有用という。

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自然石を利用した石桶には、桜の花びらも浮かんで風流だ。天水桶というよりは水受けだが、自然の石だから形状は様々で無二の個性がいい。

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●熊谷市押切の押切八幡神社の創建は、水害で史料を失い明らかではないが、当地を領した武将が戦勝を祈願し、その報賽で社殿を建立したと伝わるという。樽型の天水桶で、一見金属製にみえるが、これはコンクリート製品で、地元の富田組が、昭和32年(1957)に設置している。型枠にコンクリートを流し込んだだけの作例だが、見事に成型されている。

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港区赤坂の静龍山清浄楽院澄泉寺(ちょうせんじ)は、惠称院唯光大和尚が開基となり、元和元年(1615)に麻布桜田で創建されている。幕末の儒学者、林鶴梁の墓があるが、林は、嘉永6年(1853)のペリー来航に際しては、鎖国強化を説き、明治維新後は、学塾「端塾」を開き教育に貢献している。ここでは天水桶として、山号を刻んだ角型の花崗岩(後11項)を置いている。


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●北区志茂の豊島88ケ所霊場の38番目、帰命山西蓮寺(後59項)。本尊は阿弥陀如来坐像で、聖徳太子作と伝わるが、区指定の有形文化財だ。境内には多くの供養板碑があり、その最古のものは、弘安9年(1286)の銘で、この時代は鎌倉時代の蒙古来襲の頃に当たる。ここにはお城の石垣のような、手の込んだ水受けが1対あるが、変わった趣向なので見入ってしまう。

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明暦3年(1657)の大火、振り袖火事の発火地で知られる、豊島区巣鴨の徳栄山本妙寺。元亀2年(1572)に日慶が開山していて、十界勧請曼荼羅(後27項)を本尊としている。有名人の墓が多く、江戸町奉行の遠山景元、剣の達人の千葉周作、囲碁の家元の本因坊家、将棋名人の天野宗歩らが眠っている。天水桶は石製だが、刻まれた文字情報はなく、今一つ物足りない感じだ。

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●台東区の竜泉にある光照山西徳寺。寛永5年(1628)の創建で、区の登録文化財、木造聖徳太子孝養像を有する。平成24年(2012)12月、57才の若さで他界した、歌舞伎役者の17世中村勘三郎はここに眠っている。昭和30年(1955)5月の生まれで、歌舞伎役者としては、江戸の世話物から上方狂言、時代物、新歌舞伎から新作など、幅広いジャンルの役柄に挑み続けたことで知られ、コクーン歌舞伎や平成中村座を立ち上げている。

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ここの石製の1対の天水桶は巨大で、1辺が1.400ミリ角、総高も1.400ミリもあるが、陰刻によれば、「昭和10年(1935)5月17日」に、「初代 中村吉右衛門」が寄進している。この名は歌舞伎役者の名跡で、江戸時代中期の佐野川屋系と明治期以降の播磨屋系が居る。ここの寄進は、3代目中村歌六の長男を祖とする家系の播磨屋で、尾上菊五郎とともに「菊吉時代」を築いた大正・昭和時代の大看板であった。

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●焼き物系もある。港区南青山の信康山龍泉寺だが、山号がやけに気になる。赤坂区史によれば、「山号の信康山といふのは、徳川家康の長子にして織田信長の忌諱に觸れて遂に自殺を餘義なくされた、岡崎三郎信康の名乗を取ったものと云はれる」という。草創については不詳ながら、信康が自刃した後に埋葬された地、三河国の瀧の上にあった庵室を江戸に移して一寺となしたのではないかと伝わり、寛永元年(1624)頃であるという。

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陶器製の天水桶は一風変わっていて思わず見入ってしまうが、量産品と思われどこにも作者名は見当たらない。植木鉢として使われることが多いようで、寺社では、その中にハスの花が咲いているのをよく見かける。

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●こちらは都内文京区本郷にある、明治10年(1877)に設置された国立東京大学のキャンパス内だが、天水桶ではなく植木鉢として使用されている。樹脂製の量産品だろうか。正面に見える紋は、黄色と淡青のイチョウの葉を組み合わせた、いわゆる東大マークではない。リアルな3本の獅子脚(後33項)が目立っている。

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川口市戸塚の真言宗豊山派寺、蓮王山東福寺のものは、水瓶が水受けの代用だ。開山は不詳で、本尊を金剛界立大日如来としている。寺中の閻魔堂は享保3年(1732)の創建で、地蔵の胎内には享保17年(1746)10月銘の願文があるという。武蔵国八十八ケ所霊場52番、関東三十三観音霊場17番札所だ。

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●引き続いて、鋼鉄製の天水桶を見ていこう。世田谷区用賀にある、浄土宗の祟鎮山観音院無量寺。区の説明板によれば、『文政9年(1826)の「新編武蔵風土記稿」には「開山光蓮社明誉寿広和尚、文禄3年(1594)8月18日寂す」と記されている。本堂左の観音堂には、天正年間に品川の浜で漁師の網に揚げられ、用賀の住人高橋六右衛門直住が観音様のお告げにより当寺に納めたものと言い伝えられている観音像が安置されている』という。

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天水桶は、丸くロール巻きされ曲げられた鋼鉄製で、正面には「奉納」という銘があるが、他に文字などの情報は無い。地元の鉄工所での製造であろうか。

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●江戸川区平井にある天祖神社。説明書きによれば、「旧平井村の鎮守で明治7年(1874)に村社となりました。創建は明らかでありません。祭神は天照皇大御神、合殿に布都主命、武甕槌命を祀ります。二本ある鳥居の注連縄は銅製の鍛造によるもので、昭和3年(1928)に鳥居を改修したおりに奉納されました。藁で編む注連縄の穂先や根元まで銅板で作られた精巧で珍しいものです」という。

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本殿は今では珍しい芽葺きで、区指定の有形文化財だという。外壁面には、鳥をモチーフにした精緻な彫刻が多数見られる。1対は鋼鉄製の天水桶ではあるが、大きな屋根に守られて6個の手桶を伴う姿は、江戸情緒一杯でいい雰囲気だ。裏側には堂宇の屋根からの降雨を導く配管が丁寧に施されている。

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「氏子中」の奉納で、小さな堂宇に比して大きな桶だが、奉納年月日などの文字は見られない。記された作者名があって、製作年月日が判ってこそ歴史であって、それが天水桶を眺める面白味だ。脇役の桶はやはり、多くの文字が鋳出された重厚感溢れる鋳物製に限ろうか。次回は、変わり種の天水桶をアップしてみようと思う。つづく。