.

●日本人の姓名の発祥について考えてみるが、いわゆる「源平藤橘」とは日本における貴族名族の4つの姓で、「源氏 平氏 藤原氏 橘氏」を言っている。この中で、武家に由縁あるのが源平で、鋳物師に関わり深いのが「藤原姓」だ。この姓の政治史上の発祥としては、7世紀まで遡るが、日本の神事を司ってきた中臣家の中臣鎌足だ。画像は、菊池容斎画の「藤原鎌足肖像」。

.

後に第38代天智天皇となる中大兄皇子とは身分差を超えて生涯の友人だったが、政治的な野望を抱く蘇我入鹿を乙巳の変で暗殺し、翌年の大化2年(646)に大化の改新を成している。この改革によって豪族中心の政治から、天皇中心の政治へと移り変わったとされている。また、「日本」という国号と「天皇」という称号の使用が始まっていて、「大化」は日本最初の元号だ。

.

鎌足は、天皇の最高顧問の内臣(うちつおみ)であった。鎌足が病に臥せると、天智天皇は自ら見舞いに訪れ、それまでの功績を称えて「藤原姓」を与えている。鎌足は、翌日に他界してしまうが、時は、669年10月16日、55才であった。以後、「藤原姓」の名乗りは、天皇の右腕的存在を意味するような姓(かばね)となったのだ。画像の下がり藤紋は、由緒正しい藤原家の家紋という。

.

●では何故、「藤原姓」だったのだろうか。一説によれば、鎌足の出生地は、「藤氏家伝」によると大和国高市郡藤原(奈良県橿原市)だが、その地の大きな藤の木の近くに「藤井」という名の井戸があったという。いつしかその辺りが「藤井ケ原」と呼ばれるようになり、やがてそれが略されて「藤原」になったと伝わる。この事から「藤原姓」は、鎌足ゆかりの地名に由来していると言われているのだ。

.

因みに、現在一般的な姓である「佐藤」は「左衛門尉の藤原」、「斎藤」は「斎宮頭の藤原」、「伊藤」は「伊勢・伊豆の藤原」、「近藤」は「近江国地方官の近江掾の藤原」、「遠藤」は「静岡県の遠江守の藤原」、「加藤」は「石川県加賀の住の藤原」から派生したという。

.

この様に、「藤」が付く姓の多くは、「藤原」由来なのだ。藤原氏は、朝廷内で勢力を強め名家の代名詞のようになったが、後の時代には、先祖不祥な者が系譜を必要とした際に、多くが「藤原氏」を称している。

.

●一説によると、鋳物生産発祥の地といわれるのが河内国丹南だが、鎌倉中期頃から供御人(くごにん)組織の対立、あるいは、応仁の乱(1467~)などによって、河内の鋳物師が各地に分散し、定着していくようになったといわれる。

.

江戸時代に、全国の鋳物師を統括した京都の公家の真継家(後40項)から、河内国の鋳物師として独占的営業を許されていたのが、同国茨田郡枚方村の田中氏だ。この田中氏は、和銅年間(708~)より鍋釜鋳造を業としていて、近衛天皇在位の、仁平(にんぺい)3年(1153)の灯籠献上が発端となって、「藤原姓」を賜ったと伝えられる。

.

灯籠の出来映えが余程よかったのであろう、手厚く保護され勅許鋳物師として認定されたと理解できようか。下のイメージ画像は、後78項で見る、愛知県豊川市の豊川稲荷の銅造灯籠で、刻銘は「勅許御鑄物師 大工職 當國北金屋邑住 中尾重右衛門 藤原義寛 藤原寛忠 作之」だ。

.
●しかし朝廷御用の資格を得たとはいえ、現実的には御用の発注が頻繁に大量にあるはずもなく、民需向けの鍋釜の鋳造に終始していたようだ。「藤原姓」の名乗りはステータスであり、高級品をイメージするブランド銘であったようだ。

.

「藤原姓」を名乗ったのは、何も鋳物師らだけではない。例えば刀鍛冶らもそうだ。画像上段の脇差と、刃長2尺4寸3分1厘という下段の刀の作者は、「播磨住 藤原氏重」だ。寛文年間(1661~)の作だというが、播州姫路(兵庫県姫路市)城下の刀工であり、首切り山田浅右衛門(前3項)の試し切り等にも使用されたという。

.

それから幾多もの変遷を経て、「藤原姓」を賜るということが、勅許鋳物師、御用鋳物師であることのお墨付きとなっていったようで、川口出身の鋳物師の中にも「藤原姓」を名乗った人が数多くいるのである。では、早速それらの鋳出し文字を見てみよう。

.
●まずは、品川区北品川の時宗、音響山伝相院善福寺。ここは神奈川県藤沢市西富の時宗総本山、藤沢山(とうたくさん)無量光院清浄光寺、遊行寺(後128項)の第2世他阿真教が、永仁2年(1294)に開いている。「石造念仏講供養塔」は、区指定の文化財だ。品川区WEBによれば、万治元年(1658)造立の笠塔婆型で、陰刻から念仏講の人々が死後の往生菩提を生前に祈り、善行を積むことを意図したものという。

.
前3項の新宿区須賀町の勝興寺・山田朝右衛門の所でも紹介した岩田庄助は、「藤原富定」を名乗っている。勝興寺の桶には「藤原姓」の鋳出し文字は無かったが、ここの1対の鋳鉄製天水桶では、「嘉永7年(1854)五月寄附之 武州川口住 鋳物師 岩田庄助 藤原富定」の陽鋳文字を確認できる。なお岩田は、後35項などでも登場しているのでご参照いただきたい。

.
奉納は、「武州品川善福寺41世 弥阿義徹代」の時世であったが、「富定」の文字の下には花押があることにも注目したい。ウィキペディアを要約すると、花押は華押とも書くようで、署名の代わりに使用される記号、符号だ。日本では平安時代中期の10世紀ごろから使用され始めているが、本人と他者とを明確に区別するため、次第に図案化紋様化していき、特殊な形状を持つ花押が生まれている。この続きは後述しよう。

.

なお、ここ善福寺の参道脇に不思議な金魚の水槽がある。どう見ても鋳鉄鋳物の天水桶だ。表面のどこかには、作者銘や造立年月など、鋳出された陽鋳文字が存在するだろうが、掻き分けて確認することもできないので残念だ。

.

●昭和60年(1985)刊行の増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」を基に、本サイトに登場しない岩田の作例をここに記しておこう。「弘化4年(1847)5月 江東区深川 賢台山賢法寺法乗院 岩田庄祐(助) 天水鉢1対」、ここは江戸三ゑんまの1つだ。

.

画像の「安政6年(1859)正月 新宿区神楽坂 鎮護山善国寺 岩田庄助 天水鉢1対」という記録もある。ここは新宿山之手七福神の1つに列し、加藤清正の守本尊だったとも言われる毘沙門天は、江戸の三毘沙門天という。

.

さらに画像の、「万延元年(1860) 墨田区向島 久遠山常泉寺 岩田庄助 天水鉢1対」だが、ここでは、「天保14年(1843)10月 (浜田)惣左衛門(後30項) 天水鉢1対」という記録もある。「川口市勢要覧」には、「天保十五卯年十月 川口鋳物師 (浜田)惣左衛門 常泉寺 天水鉢1基」ともあるが、これらは関東大震災で罹災したようだ。

.

浜田は、京都真継家(後40項)傘下の勅許の川口鋳物師だ。文久元年(1861)の「諸国鋳物師控帳(増田忠彦蔵)」には、「浜田惣右衛門」、明治12年(1879)の「由緒鋳物師人名録」には、「浜田惣左衛門」という名が見える。次の古写真は、常泉寺の明治末から大正初めの様子だが、写り込んでいる1対が、岩田製か浜田製の天水桶であろう。

.

●なお、常泉寺の境内には、鋳鉄製の香炉、あるいは火あぶり火鉢が現存する。口径は870ミリと大きめだが、今は金魚鉢として余命を永らえている。奉納は「昭和八年(1933)十二月吉日 久遠山三十七世 一道院日隆」の時世で、「田中鉄工 倉下鋳工 永幸鋳工 早川鉄工 星野鉄工」ら川口市の製造業社の社名が並んでいる。

.

鋳造者名は、左下に四角で囲まれている。「川口市 秋本製」だ。この鋳物師に関しては、後21項後81項に詳しいが、昭和の半ばまで天水桶や火鉢の製造販売をしていた業者だ。当サイトで確認できている現存する火鉢は、ここを含めて計4例だが、後54項後64項に記述してあるのでご参照いただきたい。

.

●岩田の話に戻ると、時代は前後するが、「嘉永4年(1851)2月 荒川区南千住 真崎稲荷神社 天水鉢1対 岩田庄助」だ。ここは現在は、石浜神社の末社となっているようで、呼称は「真先稲荷神社」のようだ。

.

サイトによれば、「724年(神亀元年)に創建された。奥州征討の折、源頼朝が戦勝を祈願し、また元寇の際に朝廷は鎌倉幕府7代将軍・惟康親王を勅使として戦勝を祈願させた。いずれの戦役にも勝利したことから、中世以降、関東武士をはじめ、多くの人々の崇敬を集めることになった」という。

.

●ここには他に、川口鋳物師の足跡が今なお残っている。堂宇の脇にある「神域造営の辞」という鋳鉄製の鉄碑だが、これを鋳たのは、「昭和29年(1954)11月10日 川口市 山﨑鋳造」だ。

.

この人は川口鋳物師の山崎甚五兵衛(後41項後106項後114項など多項)で、本サイトで最も多く登場する天水桶鋳造の大家だ。この様に岩田は、今でも名が馳せる有名な寺社仏閣宛てに、多くの天水桶を鋳てきたのだ。しかしこれら記録されている天水桶たちは現存していない。

.
●さて、前2項で紹介した、大砲作りの増田安次郎も、藤原姓を名乗っている。が、残念ながらどの天水桶にも「藤原」の文字は確認できない。また、代々に亘って「増田安次郎」を襲名しているので、鋳造年月によって個人を特定するしか手が無い。調べてみると、幕末の大砲作り(1850年頃)の安次郎は「藤原重益」で3代か4代目、明治時代初期(1870年頃)に桶を鋳造した安次郎は「藤原徳恒」を名乗ったと思われる。
.
台東区上野桜木の天台宗関東総本山、東叡山寛永寺は、寛永2年(1625)に天海大僧正が開山となり、寺領11.790石を拝領し、港区芝公園・三縁山増上寺(後52項など)とともに徳川将軍家の祈祷所として隆盛してきた。台東区上野公園の不忍池(しのばずのいけ)の弁天堂や、千手観音を祀っている清水観音堂(後47項)は、寛永寺管轄の伽藍だ。

.
●上へ大きく広がっている独特のデザインで、通常見られる蓮の花のイメージとは違うが、鋳出された葉脈は確認できる。「東叡山 中堂」とあるが、本堂の根本中堂のことだ。上野戦争で焼失後、もと子院の大慈院があった場所に、天海が住していた川越市の川越大師、星野山喜多院(後98項など)の本堂を移築して中堂としている。

.
鋳鉄製天水桶1対が鎮座しているが、作者の鋳出し文字は、下部にある8角形の鋳鉄製の台座に見られる。前述の通り、「藤原」の文字は鋳出されていないが、「武州川口町 増田安次郎造」だ。大きさは、最上部の口径がΦ1.450、高さは1.400ミリほどとなっている。


.
本体に鋳出されている造立の日付は、「明治十二年(1879)九月廿三(23)日」となっているので、「増田安次郎 藤原徳恒」の作であろう。この人は、4代当主で、明治26年(1893)4月20日没の2代目安次郎だ。この年に、先述した川越喜多院の本堂を移築しているので、それを記念しての奉納のようだ。

.

●浮世絵の「東叡山中堂之図」を見てみよう。元祖永寿堂西村屋が手掛け、勝春朗、後の葛飾北斎が描いた絵だ。春朗を名乗ったのは、安永8年(1779)から寛政6年(1794)なので、この間の作品だ。

.

本堂の前に大きな回廊が廻っているが、その手前に2基1対の天水桶が置かれている。タガで絞め込まれているので木製であろう。なぜ「九曜紋」が正面に配されているのか判らないが、この頃から巨大な桶が置かれていたのだ。


.

●また、増田氏系列に、増田金太郎という鋳物師がいた。安次郎とは親戚筋で近しい関係であったようだ。江東区亀戸の亀戸天神社(後32項)の天保7年(1836)の碑に、「鋳工 増田金太郎 藤原栄相」とある。やはり、藤原姓を名乗っていたのだ。東京大学近くの、文京区本郷の桜木神社に増田の作例がある。

.

ここは、太田道灌(後89項)が江戸城築城の際、城内に北野天神を勧請、創建したという。戦争により焼失後、昭和34年(1959)9月に新築落慶、同40年3月に「桜木神社 氏子中」によって改修再建されている。

.
●1対の鋳鉄製天水桶は、「本郷一丁目 家主中」の奉納であったが、学問の神、菅原道真公を祀っているから、正面には梅鉢紋が据えられている。大きさは口径Φ900、高さは730ミリだ。2行にわたって鋳出されているが、「文政十三庚寅年(1830)九月」となっているので、「増田安次郎 藤原徳恒」よりも少し前に活躍した鋳物師だ。

.
やはり、ここでは「藤原」の鋳出し文字は無いが、裏側にある作者銘は、「川口鋳物師 増田金太郎(後38項後82項)」となっている。「鋳物師」の文字の鋳出しがやや大きめになっているのがミソで、主張したいのはこの肩書なのであろう。

.

●逸れるが、近くに銅像があるので見ておこう。画像の門の最奥に見えるのは、文京区本郷4丁目にある本郷薬師堂で、ここには本尊の薬師如来像が祀られている。薬師堂は、清賢法印が富元山真光寺の境内に、寛永10年(1670)に建立したという。

.

人の病苦を癒すという薬師如来は深く信仰を集め、縁日も賑やかであったというが、第二次世界大戦で焼失、真光寺は世田谷区給田へ移転している。真光寺は、築城の名手であった藤堂高虎(後33項)が再建した菩提寺でもあったようだ。

.

●お堂と、少し離れたところに鎮座するこの「十一面観世音菩薩像」は、焼失を逃れ現存している。説明板によれば「観世音信仰が盛んになったのは奈良時代(710~)からで、温顔で自ら修行の傍ら多くの衆生を教化し、救済してくれるこの像に信仰が集まった」という。

.

蓮華座には、「願主 六十六部供養佛 当寺第四世 大阿闍梨権大僧都 賢者法印尚賢子具 享保五庚子歳(1720)九月日」と刻されている。六十六部(後122項)は、法華経を66回写経して、一部ずつを66ケ所の霊場に納め歩いたという巡礼者の奉納だ。

.

●作者銘は、「江戸神田鍛冶町 小林修理 源義是作 鋳物師」となっている。大正3年(1914)刊行の、香取秀眞の「日本鋳工史稿(後116項)」にもこのままの記載がある。修理職(しゅりしき、すりしき)は、平安時代に設置された令外官の呼びだが、文字通り、主に内裏の修理造営を掌っていた。

.

後に形骸化され、特に武家宛てに下賜する受領名として用いられている。小林は、源姓(後37項)を名乗った御用鋳物師であったようだが、史料に見えるのはこの1例だけで、詳細が不明な鋳物師であり、本サイトでも以後、登場する事は無いだろう。

.

●さて戻って、興味深いのは、早稲田大学近くの、新宿区西早稲田にある穴八幡宮の天水桶だ。掲示板を要約すると、高田馬場の流鏑馬は、区の指定無形民俗文化財だ。享保13年(1728)、徳川8代将軍吉宗が世継の疱瘡平癒祈願のため、穴八幡神社へ奉納した流鏑馬を起源としていて、以来将軍家の厄除けや若君誕生の祝いに奉納されたという。

.
堂宇前に、1対の鋳鉄製天水桶がある。大きさは、口径Φ1.080、高さは890ミリと大きく存在感充分だ。銘は「天保2年(1831)正月」とあり、「桶屋喜八 遠州屋甚助 万屋忠左エ門」ら世話人の名が並んでいる。「別当13世 智同代」の時世であった。

.
やはり、「藤原」の文字は無いのだが、「増田」の姓も鋳出されていないのだ。手元の史料にには、「川口宿増田金太郎、元は永瀬に有之候」とあるが、姓を表示できない、あるいは、すべきでない時期があったという事なのだろうか。

.
「武(州)川口住 鋳物師 金太郎」銘だが、やはりまた、花押を鋳出している。上述の続きだが、当初は貴族社会に生まれた花押であったが、11世紀後期ごろから、庶民の文書にも花押が現れ始めている。花押は実名の代用であるから、本来なら花押のみで充分であるが、その特徴は実名と花押を併記する点にあった。

.

●戦国時代になると、花押の様式が著しく多様化し、必ずしも、実名をもとに花押が作成されなくなっており、織田信長の「麟」字花押や羽柴(豊臣)秀吉の「悉」字花押、伊達政宗の鳥(セキレイ)を図案化した花押の例などが有名だ。

.

江戸期にはさらに普及し、花押が印章と同じように用いられ始めたことを示しているが、これが花押の印章化だ。だがそれ以後の江戸時代中期頃からは、印章の使用例が増加、特に百姓層では花押が見られなくなり、もっぱら印章が用いられるようになっている。

.

近代では明治以降も、日本国政府の閣僚の署名は花押で行うことが慣習となっている。現在の日本では、パスポートやクレジットカードの署名、企業での稟議、官公庁での決裁などに花押が用いられる事があるが、印章捺印の方が早くて簡便であるため非常に稀だ。当時の鋳物師らは、特殊技能保持者として、あるいは御用達職人としてのプライドから、そのステータスを表徴するため鋳造物に花押を鋳出したのであろう。

.

●さて、川口を離れるが、江戸深川上大島町(江東区大島)で活躍した太田氏釜屋六右衛門、通称釜六は、享保2年(1717)に、「太田近江大椽(だいじょう)」の受領名が下され「太田近江大椽 藤原正次」を名乗っている。優秀な職人には「椽」という名誉号が与えられたりしたが、階級としては、大掾、掾、少椽の3段階であった。

.

やはり、「藤原姓」はキーワードなのだ。釜六の人物については、新たに項を立てるつもり(後17項)なので、ここでは画像のアップだけにとどめておこう。千代田区外神田にある小舟町八雲神社だ。江戸城内吹上御苑より、神田神社(前10項)と共にこの地に遷座されたという。

.
1対の正面には「小舟町」とあるが、日本橋魚市場の商人の「遠州屋新兵衛 同傳兵衛 尼屋傳次郎 大坂屋武兵衛」ら11人の奉納であった。この鋳鉄製天水桶は、平成17年(2005)4月に、区の有形民俗文化財に指定されている。大きさは、口径Φ860、高さは680ミリだが、背丈の一部は石の台座に埋没しているようだ。

.
目立たせるべく、文字に塗装を施している。丁寧な扱いに感激、どこの桶もこうあって欲しいものだ。確かに銘は「江戸深川 御鋳物師 太田近江大椽 藤原正次」だが、本殿左側の桶は焼失したのだろうか、鋳出し文字によれば、「文化8年(1811)6月吉日奉納」のあと、「安政4年(1857)」に「再建」されている。次項ではまた、「藤原姓」を名乗った川口鋳物師の天水桶をアップすることにしよう。つづく。