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●今回は、幕末の大砲製造家・川口鋳物師の増田安次郎について見ていきたい。この名の読みは、増田家の史料を見ると、「やすじろう」とルビが打たれている。また、「安次郎」の表示は、諸々の史料の中でも「安治郎」とされる事もあり、使い分けがみられる。

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文久元年(1861)の「諸国鋳物師控帳」や、明治12年(1879)の「由緒鋳物師人名録」の中では、川口宿の鋳物師として「安治郎」として記されているのだ。この控帳の所蔵者は増田忠彦氏であるが、安次郎の子孫で、8代目当主の方だ。同音異字であるが、なぜ2通りなのだろう。

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これは、先代が存命していたために、継嗣である子が差別化のために名乗った名ではなかろうか。生存中の親子が、同じ「安次郎」では不都合であろう。後104項でも記述しているが、川口鋳造界中興の祖の3代目永瀬庄吉は、2代目が存命の時は「正吉」と名乗っているが、これと同じ事ではなかろうか。画像は、前15項の足立区東伊興、佛名山常福寺で見たその刻銘だ。

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前2項で見たように、足立区千住宮元町の千住神社にある天水桶には、「武州川口 御鋳物師 増田安次郎 安政5年(1858)正月日」と鋳出されていた訳で、これは、世代交代の過渡期であったが、4代目当主の安次郎の作であろう。3代目は、安政5年(1858)7月11日に、40才で他界しているのだ。

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後90項で見るが、千葉県茂原市高師の市立郷土資料館には1挺の大砲が展示されている。鋳出し文字は、「天保十五(1844)辰八月吉辰 鋳工 増田安治郎 藤原重益」であるが、これは、3代目当主の金平(俗名)の作だ。自ら「安治郎」を名乗っているのだ。

茂原美術館・大砲増田

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●また、平成4年(1992)ごろの川口鋳物工業(協)の機関誌を読むと、「増田安次郎氏、川口宿(川口市)の鋳物師、弘化元年(1844)、幕府陸軍奉行より御扶持方5人扶持を、堀田備中守より苗字を許されている」とある。大砲の受注を前に、御用達鋳物師としての地位を与えられている訳だが、時期的にこの人は3代目当主の金平だ。「安治郎」であるはずだが、「安次郎」であると決めつけられている。

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家系をまとめてみると、文化元年(1804)2月に埼玉県川口市にやって来た「初代当主 文政7年(1824)3月22日卒 安次郎」、「2代目当主 天保3年(1832)3月14日卒 初代安治郎」、「3代目当主 安政5年(1858)7月11日卒 俗名金平 襲名2世安治郎」だ。

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続いて、「4代目当主 明治26年(1893)4月20日卒 俗名利助 安次郎」、「5代目当主 明治41年(1908)2月25日卒 俗名利平 安次郎」であるが、6代目当主以降は安次郎を名乗っていない。

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川口市舟戸町の平等山善光寺(後130項)の同家の墓誌によれば、6代目芳松、7代目芳城、8代目忠彦と続いている。「安次(治)郎」襲名の時代は、初代の名乗り時期が不明だが、およそ100年ほどに亘っているようだ。「川口の大砲製造家、イコール安次郎である」かのような概念が定着した結果の錯綜であろうか。

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●さて、同家については、前13項などでも記述してきたし、この後の項でも同家系統の作品の天水桶をアップしている。重複する部分もあろうが、もう少し詳しく考察してみよう。なお、資料として、先達の「幕末川口の鋳物師と大砲・中野俊雄」、「鋳物師の里 1世紀にわたる日本の兵器庫・両角宗和」を参考にさせていただいた。
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歴史的に見ていくと、川口鋳物師で最初に大砲を作ったのは、永瀬文左衛門光次で、天保13年(1842)に、埼玉県の岩槻藩に3貫目砲1挺(ちょう)を納めている。なお、中野氏は、大砲の助数詞として「挺」を用いている。 辞書を開くと、「銃・槍(やり)・鍬(くわ)・艪(ろ)・ろうそく・三味線など、細長い物を数えるのに用いる」とあるので、的を得ていよう。

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●いきなり話がそれるが、この文左衛門は勅許鋳物師で「藤原富次」名を持ち、元川口市長で名誉市民の故永瀬洋治(後108項)の高祖父である。現私邸の庭には、天保10年(1839)銘の天水桶のレプリカがあるという。私にはまだ機会が無く、お目に掛かっていない。
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この桶は平成12年3月に、国立競技場の聖火台の鋳物師・故鈴木文吾(前3項)が川口鋳金工芸会(後115項)に働きかけ復刻しているが、高さ1メートル、直径1.4メートルだという。画像の出典先を失念してしまったが、苔むして古びた様子からして、これはレプリカではなく本物の写真であろう。現在は、川口文化財センター内(前30項後108項)で管理され現存する。
永瀬文左衛門光次・藤原富次
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●話を大砲に戻すと、「外国船打払令」を出していた江戸幕府は、弘化元年(1844)ごろには、守護兵や台場の設置を急いでいたが、増田家の3代目当主の金平が、弘化3年に土佐藩から8貫目砲を受注し、その後幕府へは、安政2年(1855)から慶応3年(1867)までに、青銅製カノン砲など25挺を納入している。
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また、津軽、水戸、姫路、肥後などの各藩には、嘉永3年(1850)から慶応2年(1866)までに合計214挺を鋳造している。特に肥後藩向けは突出していて、安政年間に113挺も納めており、死の商人の感さえある。なお増田家では、213挺の鋳造であったとしているようだ。

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●因みに、砲身には長短の2種類があり、短砲をホーイッスル砲、長砲をカノン砲と呼んでいる。カノン砲は、「加農砲」と当て字される事もある。通常、長大な砲は城塞砲として、これに次ぐものは攻城砲、野戦においては、分解組立て可能な移動に適した軽便な砲だ。

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画像の山砲は最小の砲で、いわゆる臼砲、モルチール砲だ。画像は口径30cmの臼砲だが、まさに餅を搗く臼だ。これは、静岡県伊豆の国市にある韮山反射炉(後90項)の展示室で見られるが、後83項後118項でも臼砲が登場する。

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●当時の大砲は先込式で、中子を入れて中空の砲身を鋳造し、内面を仕上げる方法であったが、青銅砲と鋳鉄砲があった。大砲の大きさの呼称だが、例えば1貫目砲と言えば、発射できる砲弾の重さが1貫目、つまり、3.75Kgであるという意味だ。下の建物は、板橋区立郷土資料館(後97項など)で、入り口には青銅製の大砲の数々が置かれているが、カノン砲やカルロンナーデと呼ばれる艦船砲だ。

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ここにも臼砲が置かれている。説明によれば、江戸時代末頃に、小石川大砲鋳造所で製造された青銅製の大砲で、口径は20cm、重量は250kgだ。これは、天保12年(1841)5月、西洋砲術家の高橋秋帆(前55項)が徳丸原で行った、日本最初の洋式調練の時に使用したものと同型同寸であり貴重という。

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●ところで、近年造られた大砲の材質は面白い。と言っても、次の画像は、茨城県つくばみらい市ワープステーション江戸(後102項)に置かれているレプリカだ。本物と見紛う出来栄えだが、実はこれは、ガラス繊維などが練り込まれた強化プラスチック、つまり、FRP製だ。軽くて丈夫だが、実戦用ではなく撮影用であるから、見た目の本物感が大切でありこれで充分なのだ。

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●さて、他方で川口鋳物師の永瀬九兵衛は、浦賀大砲製造所で、元治元年(1864)から慶応元年(1865)まで頭領に命ぜられ、鋳物師ら23人が出張鋳造し、8挺ほどを製造している。この九兵衛は、御用達鋳物師の「藤原富廣 永瀬源内」であり、当サイトでは、文京区・白山神社、港区・桜田神社、荒川区・素戔雄神社などで12例の天水桶の存在を確認してきている。

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また、文政5年(1822)製としては、「川口九兵衛」という作者名で、画像の墨田区向島・三囲神社(前16項)、台東区谷中・寂静山蓮華寺(前40項)での2例の桶を見てきた。表面には、「鋳物師 川口九兵衛 文政5年(1822)5月吉辰」銘と鋳出されている。

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●中野氏によれば、増田家が鋳造した大砲は何挺かが現存している。上述したが、画像の千葉県茂原市立郷土資料館の大砲の他、同じく茂原市内の元鋳物業・永瀬家(後90項)所蔵のものも、同時期、同銘で大きさも同じという。

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また三重県志摩市の安乗神社の境内にあるものは、全長1.7m、口径92ミリの1貫目砲で、鳥羽藩の安乗崎の日和山台場にあったものだ。砲身の中央部には、鳥羽藩主稲垣家の抱き茗荷の家紋が陽鋳されているという。これを志摩市は、時期は不明ながら、川口製としている。

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栃木県宇都宮市睦町の県立博物館にもあるとしているが、これはレプリカであって本物ではない。フランス式青銅製の四斤山砲、4ポンド山砲だが、これを基に、幕府関口大砲鋳造所や川口で鋳造し、戊辰戦争の際に使用されたであろうとしている。砲道には、スパイラル状のライフリングが刻まれているので、これは高い命中精度を持った長距離砲だ。

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●都内小金井市桜町の江戸東京たてもの園(前59項後86項後99項後103項後113項後123項)には、42ポンド青銅製カノン砲がある。水戸藩の史料に「増田安次郎、八十六(手代)らが鋳造」とあり、徳川斉昭(後119項)が幕府に献上し、下関の台場に設置されていたものだという。

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明治4年(1871)9月9日からは、皇居内の旧日本丸で、この大砲による正午を知らせる空砲が発射された。この正午の時報は都内区部の大部分に聞こえ、その音から「ドン」と呼ばれ親しまれたと言う。「午砲」だ。「今日の仕事は半日だ」という時、よく「半ドンだ」というが、ここからきているらしい。この慣習は、昭和4年(1929)5月1日にサイレンに変わるまでまで58年間も続いている。

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●フランスパリのアンバリッド軍事博物館(前2項)の前庭にも置かれているというが、これは興味深い。文久3年(1863)に起きた、四国(英仏蘭米)連合艦隊との砲撃戦での戦勝品だという。いわゆる長州藩が単独で挑んだ下関戦争だ。下の画像は、歴史番組「英雄たちの選択」からのスクリーンショットであるが、イギリスの従軍写真家ベアトの撮影だ。
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この大砲には、長州藩の家紋が残り、「十八封度(ポンド)砲 嘉永七年春(1854) 於江都葛飾別所処墅鋳之」の文字が刻されている。当時の砲術奉行だった高島秋帆の指示で、長州藩の鋳物師の郡司喜平次を指導して造り上げた大砲という。現存する本物の大砲の画像は、ご子孫が経営されている川口市本町の「増幸産業(株)」のホムペで閲覧できる。

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●さらに同社の前には、鋳鉄製カノン砲のレプリカがある。これは増田家の3代目当主が、嘉永5年(1852)に津軽藩から依頼を受け鋳造したもので、全長3.5m、口径15cmで、射程距離は2.5Kmの炸裂弾という。平成5年(1993)に、川口市内の富和鋳造(株)(前73項後130項)が青森県・弘前図書館所蔵の図面を基に型を作り、復刻している。砲身の真ん中、架台との丸い受け部には、「1993」年の文字が見える。

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昭和62年(1987)に先の永瀬元川口市長の提案で始まった、「公共鋳物(景観材)需要開拓事業」の一環であったが、発砲スチロールで模型を製作、有機自硬造型したものだ。材質はネズミ鋳鉄、重量は2トンで製作費は300万円。架台は樫材で、車輪の鉄の部分はダクタイル鋳鉄だという。

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●なお、この富和鋳造さんは、かつてフジテレビ系列の「ほこ×たて」の番組に登場していた、「どんなものでも破壊する鉄球」で知られる。同社の工場長は、大物鋳造を得意とする卓越した技術を持つ鋳物職人であり、厚生労働大臣による「現代の名工」の認定を受けている。
川口市・富和鋳造
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増幸産業(株)の現社長の増田幸也氏は9代目当主で、増田安次郎の子孫の方でいらっしゃるが、私は数年前に一度、面会の機を得たことがある。アポなしでの訪問にもかかわらず丁寧な応対をいただき、今でも心底恐縮している。その後ご多忙の中、気に掛けていただき、今回の参考資料をご郵送頂いた経緯がある。
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●ここで、安次郎と近しい、増田金太郎製の天水桶を2例ほど見ていこう。資料によれば、同姓ではあるが「両者に血縁関係はない」という。が、2人は親戚関係であったのだろうと思われる。その根拠になる京都真継家(前40項)の文書にはこうある。「天明7年(1787)、足立郡川口宿鋳物師にて、永瀬源内別家永瀬金太郎」、「川口宿増田金太郎、元は永瀬に有之候」である。永瀬家から増田家へ転籍したようだ。
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また、「安政2年(1855)の安次郎工場の陣容は、鋳物師が増田安次郎、増田金太郎、増田数之助(安次郎の実弟)、増田八十六(手代)の4名、鉄砲師が川崎安蔵、職人が30人という大所帯であった」という。

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この事からすれば、金太郎は安次郎の片腕として、その持てる力量を発揮していたことが明白である。増田家は大砲製造に伴って、大量の砲弾も鋳造していた訳で、多忙を極めたであろうこの時期、一致協力して仕事をこなしていたのだ。
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●まず、港区高輪にある浄土宗の、開運山高縄院光福寺。「高輪」ではなく、「縄」の字であるのが面白いが、地名の由来的には、高台にある真っすぐに張った縄のような道を意味している。寺にはゆうれい地蔵とも呼ばれる「子安栄地蔵尊」が祀られている。台座からボーっと浮き上がっているように見える地蔵らしいが、区の有形民俗文化財となっている。

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天水桶の内面は水のイメージか、青色に塗られていてサビ防止対策は万全だ。寺紋は独特で、「十六葉菊」の中心をくり貫いて、そこに「三つ星に一つ引き紋」を据えてある。裏には、「本所壱ツ目 願主」の名が見られるが、鋳鉄製の1基だ。

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「海峯山 相福寺 26世念誉代」という鋳出し文字が見えるが、寺の由来によれば、「創建当初は相福寺と号していたが、明治13年(1880)に、本芝1丁目の源光寺を合併して、光福寺と改めた」という。双方の「光」と「福」の文字を合体した訳だ。

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浮き出た陽鋳銘は、「鋳物師 金太郎 花押(前13項) 天保7年(1836)4月吉祥日」だ。苗字の表記は無いが、その理由については前38項で考察している。大きさは口径Φ900、高さは680ミリの3尺サイズとなっている。

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●同じく港区六本木7丁目にある天祖神社は、竜土神明宮ともいわれる。竜が毎夜、品川沖から灯明を投じたという事から「竜燈山」と称されていたのが転じたらしい。芝西久保の飯倉城山(現ホテルオークラ付近)に、至徳元年(1384)に創祀したと伝わり、港区七福神の福禄寿の札所となっている。

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目立たない社殿の奥に1対の鋳鉄製の天水桶があるが、不相応に小さい「弘化2年乙巳(1845)6月」銘の台座に載っている。社殿は真新しいが、桶には進行したサビが目立ち、今にも処分されそうな嫌な気配を感じる。周囲には、「世話人 伊勢屋弥市 吉見屋吉五郎 明石屋与兵衛 田中屋民五郎」らの名前が見られる。

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「武川口住 鋳物師 金太郎 花押 天保10年(1839)9月吉日」銘だが、苗字と武州の「州」の字が略されているのが金太郎製の特徴でもある。「麻布 龍土氏子中」とあるのは興味深い。ここは天祖神社と言うよりは、竜土神明宮の方が、親しまれた呼称なのだろう。

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●過去の項と合わせると、金太郎製造の天水桶を12例ほどアップしてきた。文京区本郷の「桜木神社(前13項)・文政13年(1830)9月」から、同じく向丘の「金峰山高林寺(前33項)・慶応2年(1866)12月」の36年間であるが、そのうち7例に花押が確認できる。

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花押を鋳出すのは、真継家に認められた勅許鋳物師としての箔付けでもあったが、下の画像の江東区亀戸の亀戸天神社(前32項)の天保7年製(1836)の天水桶にも見られたように、金太郎も「藤原栄相」の名を受領していて、「金太郎」名も代々世襲されている。

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●この様に金太郎が手掛けた、現存する天水桶はそう多くはない。昭和60年(1985)刊行の増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」を基にして、本サイトに登場しない同人の作例の履歴を記しておこう。

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「天保11年(1840)10月 都内台東区松が谷 龍鳴山本覚寺」、「嘉永4年(1851)11月 都内荒川区南千住 豊徳山誓願寺」、「安政3年(1856)9月 浅草四天王寺谷中宿院(不明な寺社)」、そして次の画像の「安政5年2月 埼玉県和光市白子 福田山東明寺・吹上観音」の「天水鉢1対」だが、4例のいずれも現存していない。

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●ここは康暦2年(1380)に、普明国師を勧請開山者として迎えている。第7世常西和尚が、行基作と伝えられる赤池堂観世音を境内に安置、これにより「吹上観音」として知られるようになっている。本堂に掛かる扁額の「観世音」の書は、江戸時代中期の書家・三井親和(前17項)によるという。

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吹上観音では、年表上、他の川口鋳物師が手掛けた多くの鋳造物が記録されているので、ここに記しておこう。銅鐘としては、「寛文12年壬子(1672)2月18日 長瀬源左衛門 同八郎兵衛」、「寛政7年乙卯(1795)11月 長瀬嘉右衛門 同与五郎」の2例だ。これらも現存しないようだが、登壇できないので、鐘楼塔に掛かる現役の銅鐘の銘は確認できていない。

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●さらに、「慶応4年(1868)2月 東明寺 与兵衛 擬宝珠1揃」という記録もある。姓が不明な鋳物師だが、これは現存している事になっている。「与兵衛」という情報だけで、なぜこの人が川口鋳物師であると断じているのかは不明だ。

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年表には、「嘉永3年(1850) 川口市金山町 氷川神社 柴崎己之助 野崎与兵衛 擬宝珠1揃」ともあるが、同じ「擬宝珠 与兵衛」という事もあっての判断なのだろう。なおこれは、昭和32年(1957)に山崎甚五兵衛(前1項など多項)が改鋳しているので、現存はしていないようだ。

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●野崎さんに関してだが、昭和12年(1937)の、400社近い登録がある「川口商工人名録」には、4社の登録がある。「栄町 野崎鋳工所 野崎紋太郎」、「幸町 野崎鋳工所 野崎義雄」は同名の会社で、「錦町 野崎分工場 野崎栄吉」、「横曽根 野崎鋳物工所 野崎喜三郎」だ。全てが営業品目を「諸機械鋳物」としているが、同族の面々であろうか。

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昭和60年(1985)の297社の川口鋳物工業(協)の名簿や、平成28年(2016)の132社の名簿にも、野崎姓を名乗る会社は数社存在する。あるいは、明治19年(1886)10月18日に浅草廣栄堂の廣瀬光太郎が刊行した、「東京鋳物職一覧鑑」には、「吹元 火ハチ(鉢)コンロ 野崎與(与)平」とある。並んで、「唐銅鍋 柴崎平四郎」ともあるが、関連ある方々であろう。次回も増田家の関連で考察を続けたいと思う。つづく。