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●歴史や由緒ある構造物に、著名人が寄せた「書」があると皆の注目を集めることになろう。東京都中央区の日本橋(後32項後89項)の四隅の親柱にある、縦書きの「日本橋」と「にほんばし」という書は、第15代将軍徳川慶喜の筆によるという。現在の橋は、明治44年(1911)に完成していて、国の重要文化財だ。

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この書は、都内国分寺市泉町の東京都公文書館に残されているが、同館は、東京府・東京市時代からの東京都の公文書や行政刊行物を系統的に収集・保存し、閲覧に供している。筆書きの書を、明治36年(1903)から同45年(1912)まで東京市長であった尾崎行雄が慶喜に依頼しているのだ。この公文書は巻物状だが、題名は「公爵德川慶喜 日本橋之書」となっている。

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●徳川慶喜は、天保8年(1837)10月生まれで、大正2年(1913)11月に77才で没している。最後の将軍としての在職は約1年間と短かったが、最も長生きした将軍であった。御三卿一橋家の第9代当主時に、将軍後見職、禁裏御守衛総督などの要職を務め、その後、第15代将軍に就任している。大政奉還や江戸開城を行ない、明治維新後には、従一位勲一等公爵を与えられている。

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余談ながら、徳川家の漢字表記だが、「德川」が正しいという。戸籍上、「心」の上に横棒1本が入った異体字だという訳だが、徳川宗英(むねふさ)氏の著書にそう書かれている。同氏は8代将軍吉宗の次男だった宗武が初代となった、田安徳川家の第11代当主だ。教科書や歴史書でも横棒無なしで統一されているようだが、徳川宗家も慶喜家も横棒ありが本来だという。

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●そんな書を寄せられた天水桶などをアップしようと思うが、前15項の最後にアップしたのがこの天水桶の画像だ。都内文京区本郷にある金刀比羅宮東京分社で、銘は「文化十三年丙子(1816)五月十五日 武州足立郡川口 鋳物師 永瀬嘉右衛門」の鋳造であった。

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その銘の左側に「蜀山人(しょくさんじん)書」とあり、その下には印影も確認できる。寛延2年(1749)から文政6年(1823)に活躍した人で、狂歌師、戯作者など多彩な顔を持つ文化人であり、一般には大田南畝と称される。「蜀山人」の号は、たくさん用いた中の一つであり、狂歌を詠む時には「四方赤人(よものあから)」の狂名を使用したので、聞き覚えのある方も多かろう。

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この書は文化13年に寄せられたものであるから、没する7年前、蜀山人が68歳の時だ。角の印影もその時のものであるはずで、「南畝」と読める。蜀山人は、数人の奉納者とこの永瀬のためだけに筆を執っているのだ。現存する毛筆による筆跡は多かろうが、凸の陽鋳造で見られる書体は少なかろう。

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●彼は享和元年(1801)に大坂銅座の役人として赴任し、銅の製造業務にあたっていて、その後の長崎会所では輸出業務も担当している。その当時、中国では銅山を蜀山と言ったのに因み「蜀山人」を名乗ったのだ。

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同氏が、金属工芸品であるこの天水桶の己の銘を、大田南畝ではなく蜀山人としたのはそんな事情によると想像される。蜀山人は、鉱工業に明るく興味を持っていた訳で、その意味で「鋳物師 永瀬嘉右衛門」との間には、何らかの交友があったのだろう。そう思うと感慨深い。

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●天水桶ではないが、大田南畝の書による水鉢(手水盤)が、都内新宿区西新宿の熊野神社に存在する。ここは、室町時代の応永年間(1394~)に、中野長者と呼ばれた鈴木九郎(後67項)が、故郷の紀州・熊野三山より十二所権現を祀ったという。周辺が日本有数の高層ビル街と変貌した現在でも、新宿地区一帯の総鎮守として信仰を得ている。

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時節柄、茅の輪があるが、辞書によれば、茅の輪とは茅草で作られた大きな輪で、6月までの半年間の罪穢を祓う「夏越し(なごし)の大祓(おおはらえ)」に使用され、それをくぐることにより、疫病や罪穢が祓われると言われる。夏越しの大祓は、夏越節供、水無月祓ともいう。旧暦6月晦日をいい、大晦日とともに新しい季節に入る物忌の日とされている。

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●水鉢は、工芸品として区指定の有形文化財となっている。「文政三年(1820)庚辰(こうしん)暮春(3月)」の銘で、大きさは、幅150cm、奥行き64cm、高さは60cmだ。この年の神社の祭礼は、十二社(じゅうにそう)の池で角乗りや筏乗りが出るなど盛大であったが、その際の奉納という。この池は、享保年間(1716~)には料亭や茶屋が立ち並ぶ観光地として栄え、隣接する十二社大滝とともに江戸の景勝地であった。

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正面の銘文は、「熊野三山 十二叢祠 洋洋神徳 監於斯池」、「大田覃 印印 奉納 淀橋」と刻まれている。「覃」は、「どん、たん、しん、えん」の音があり、「深く広い、うまい、ひく」などの意味があるようだが、真意は不明だ。角の印影が2つあるが、1つは大田南畝の「南畝」であろう。著名人の名が刻まれている訳で、現在、水鉢は手水盤としての機能は制限され、鉄格子に囲まれ保存されている。

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●なお、川口鋳物師が手掛けたここでの天水桶の来歴を、昭和9年(1934)刊行の「川口市勢要覧」で見てみると、「天保11年(1840)4月 永瀬源七(後92項など) 淀橋熊野神社 水盤(天水桶) 一双(2基)」という記載がある。副都心と呼ばれるこの地には、現在都庁があるが、かつての淀橋浄水場の跡地なのだ。

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この内の1基には、「明治44年(1911)9月改鋳 永瀬源七 孫源島」と鋳出してあったという。史料では「源嶋」となっているが、前10項で記述した通り、この初代源七は、明和元年(1764)の生まれで天保8年(1837)3月15日に73才で没している。源島は孫だから3代目だが、鋳物師魂を継承した意義ある文字列であった。今日源七作の天水桶が存在しないのは、戦災で本殿が焼け落ちた際、天水桶も損傷したためだという。残念だ。

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●続いては、本サイトで最多登場の天水桶で、都内台東区浅草の金龍山浅草寺(後85項など)だ。表面の「魚がし」などの書体は、都内中央区築地の「浜のや 小林繁三 謹書」が寄せているが、いわゆる江戸文字だ。同店のサイトでは、魚河岸マークの発売元として、「提灯、のれん、のぼり、別誂えは当店へ」とアピールしている。

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6個の手桶や屋根の頂上にも、丸い魚がしの紋章が見られるが、浜のやさんのデザインだろうか。それが載る台座の波柄は、青海波(せいがいは)だ。これは、波を扇状に表した幾何学模様だが、大海原の穏やかな波のように、泰平な世が続くようにという願念が込められた吉祥紋様だ。


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額縁には、赤く彩られた「魚市場」の洒落た紋様が連続している。背面には、奉納者の名前やら屋号がぎっしり陽鋳造されているが、「東京築地魚市場仲買協同組合」の組員だ。多くの人が目にする書体を任されたのも、同郷の誼であろう。

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●次も前1項でアップ済みなのだが、都内中野区新井の梅照院新井薬師の天水桶も、同じ「浜のや」の小林繁三氏が手掛けていて、やはり「魚がし」の文字が見られるが、同じ書体だ。本体のデザインとしては3脚が備わっていて、浅草寺の桶とは印象が違うようだ。

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鋳造は、「川口市 山崎甚五兵衛」で、浅草寺の天水桶の1年後の「昭和34年(1959)11月」に設置されているが、「第22世 大僧正 聖道」の時世であった。やはり背面には、世話人の屋号やらがビッシリ刻まれている。「濱のや 小林繁三 謹書」で、こちらは旧字体が使われている。

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浜のやは、魚河岸マークの考案者という事もあって、築地の魚河岸との関連が深いようだ。天水桶だけでなく、魚河岸が奉納した各地の吊提灯にもその書が見られる。成田山新勝寺(後52項)や画像の川崎大師平間寺(後24項)などだが、それを見ると、「5代目 浜のや 謹書」となっていて、長い歴史を感じる。また、「浜のや」の銘は無いが、千代田区の神田神社内に鎮座する魚河岸水神社(前10項)の桶にも魚河岸マークがあるので、浜のやさんが関わったのだろう。

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●なお提灯自体の製作は、京都市下京区で営業している、創業享保15年(1730)の「高橋提燈(株)」だ。台東区浅草の浅草寺では4例が見られるが、「雷門」の11尺は平成15年8月製、画像の宝蔵門に架かる「小舟町」の9尺は平成15年10月製、かつて江戸時代の東照宮の随身門であった「二天門」のものは7尺だ。

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本堂には11.6尺もの大提灯が架かっている。この正面には「志ん橋」と書かれているが、浮世絵師・歌川広重の「浮絵浅草寺雷門之図」に見られるのと同じで、「東京新橋組合」の人々が奉納している。横側には寺紋の「卍」が見える。ナチスのハーケンクロイツを連想させるとして悪評であったはずだが(後34項)、ここではしっかり存続している。字体も当然、高橋提燈によるものだろうが、提灯は、ほぼ10年毎に架け替えられるという。

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●また吊提灯の底面に据えられているが、次の画像の龍の彫刻は、「木彫師 渡辺崇雲」の作だ。2代目仏師にして東京都伝統工芸士だが、神奈川県の川崎大師(後24項)や名古屋市中区の大須観音(後130項)でも見られる細工だ。ここに龍が居る意味は、龍神信仰(前1項)によるものであるに違いなかろう。火事の多い都会に於いては、皆が降雨を希っていたのだ。

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こちらは、浅草寺本堂の提灯だ。彫り物もさることながら、それを引き立てているのは金色の金具だ。手掛けているのは「日本橋 関徳謹製」だが、この名は本堂前の山崎製の天水桶にも、「錺(かざり)関徳」として、浜のやさんらと同列で見られる。なお、川崎大師の提灯では、「錺工芸 関徳」と名乗っている。

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●さて次に、川口市三ツ和の無量山源永寺(前4項)の書は、石山義雄氏だ。平成3年(1991)製であるが、元中学校の英語教師にして、ご住職の方で、「源永寺第23世」であった。先代住職の、実父の宥亮師は「吐月堂飛雲」と号した俳人で書家であったという。

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鋳造者銘は、「川口鋳物師 鈴木文吾」で、青銅製だ。実に達筆で眺めていても心地が良いが、鋳造した作者も気合が入ったことだろう。

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●ここ足立区千住河原町の河原稲荷神社は、前14項でアップした。「徹斎 謹書」とあり、書道家らしい名前だが、人物の詳細は検索しても判明しない。寄せられた書体をいかにして忠実に桶に反映させて鋳造するのであろうか。書体が、勢いが書の命そのものであろう、鋳物師が注ぐ神経も並大抵では無いはず。機会があれば、その辺の話も聞きたいものだ。

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●未アップを3カ所。千代田区外神田の大伝馬町八雲神社は、神田神社(前10項)の境内にある。三天王の二の宮の天王祭は、6月5日、明神境内を発輿してから氏子中を神幸し、大伝馬町の御仮屋へ渡御して8日に還輿していた。この事から、「大伝馬町天王」と称されていたという。(境内説明文による)

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鋳鉄製天水桶の額縁には、「巴」の漢字が連続していて、反物などの流通を一手に扱う、「太物問屋」が奉納している。彼らは、祭礼の費用を賄うなど、神社とは深いつながりを持っていたのだ。この1対は、平成16年4月、区の有形民俗文化財に指定されている。大きさは、口径Φ860、高さは760ミリだ。

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●裏には、「秋嵓軍書」とある。鮮明な文字だが、読めないし人となりも全く不明だが、この人が書を寄せた事は間違いない。「嵓」は環境依存文字だ。次の文字は変換しても出てこないので「軍」の文字を充てておいたが、「羽の下に軍」を配していて、「速く飛ぶ」を意味しているようだ。

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鋳造は、「天保十年己亥(1839)六月」で、「江戸深川 御鋳物師 太田近江大掾(だいじょう) 藤原正次」、通称釜六製(後17項など)だ。優秀な職人には「椽」という名誉号が与えられたりしたが、階級としては、大掾、掾、少椽の3段階であった。

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●続いては、中央区築地の魚河岸の近くにあるのが波除(なみよけ)神社(後17項)。万治年間(1658~1661)の創建と伝わり、築地一帯の埋め立て工事が波浪により難航を極めた際、海中に漂う稲荷明神の像を祀ったところ、波が収まったことから「波除」の呼称があるという。(説明板による)

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画像の右端に「奉納 𠮷野家」の石塚が見える。ここ築地に牛丼の𠮷野家の創業店があったのだ。当初は、日本橋魚河岸で明治32年(1899)に開業していて、屋号の由来は、創業者の松田栄吉の出身地の大阪・𠮷野町という。その後の震災や戦争の災禍で、築地に1号店を開いているのだ。なお諸説あるが、「𠮷」の文字は、「土」に携わる農家などの家系に多く、武家出身の家系は、武士の「士」を用いた「吉」が多いという。


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●お堂の中には獅子頭が見えるが、ここの祭りは「つきじ獅子祭り」として知られ、その際には「厄除け天井大獅子」や「弁才天お歯黒獅子」など数多くの獅子頭が練り歩いている。現存する嘉永元年(1848)製作の獅子頭1対は区民文化財で、社宝として本殿に安置されているという。
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本体裏側の銘版には、火消しの構成員の名がズラリと並んでいて、「組頭 塚本善吉」とあり、副組頭、小頭、纏(まとい)、階子(はしご)、筒先、刺又(さすまた)、平頭らの名がある。江戸期の火消し組の構成は、組頭の下に鳶(とび)の職人がいたが、平と呼ばれた人足達が玄蕃桶(後75項)を運び、龍吐水(前10項)を操作したようだ。鳶口などの道具運びは、下人足と称されている。

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●鋳鉄製の天水桶1対には、大きな笠に守られた手桶が3個載っていて、江戸風情たっぷりだ。奉納は、火消しの江戸消防記念会の「第一區 六番組」で、手桶に「す」とあるのは、江戸町火消し時代の小組の区分けであろう。記念会では、第1区には10の組が属していて、中央区の全域と、千代田区の一部を受け持つようだ。なおこの組は、後43項でも中央区湊の鉄砲洲稲荷神社で、天水桶1対を奉納している。

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鋳造銘は、「川口鋳物師 山崎甚五兵衛(後132項など)」作で、「昭和35年(1960)5月5日」の天水桶だ。「入五筆」となっていて、先ほどの人名に、「副組頭 入五 小関一」とあるが、関連があるかも知れない。「入五」は、「入谷五丁目」などの省略であろうか。この人は達筆な構成員であったのだろうか。

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●足立区千住宮元町の白幡八幡神社は、源義家が奥州征伐に赴く際、渡裸川の渡し場に白幡を立て戦勝祈願をした事に由来するという。掲示板によれば、「文禄年間(1593~)、遠州石出から国替えにより下総国千葉に移り住んだ掃部亮吉胤が武蔵国足立郡本木村に移転、土地を開墾して慶長3年(1596)、千住宿に接して掃部塾を開発。」


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続けて「子孫、名主・庄左衛門が元和2年(1615)に創建された足立区千住仲町の仲町氷川神社(後68項)に、先祖から伝えられた『白幡』を奉納して白幡八幡社として合祀された」という。小ぶりな鋳鉄製天水桶は、「明治42年(1909)8月」製だが、作者の鋳出し文字が無く鋳造者は不明だ。小さな堂宇前に見合った1対だが、大きさは口径Φ700、高さは680ミリだ。

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すぐそばにコンクリートがうってあって、真正面からは撮れず、撮影に苦労したが、「雪山書 鳥福」という銘がある。いかにも書道家らしい名前であるが、「鳥福」は料理屋などの屋号であろうか。この書家には洒落っ気があるようで、「鳥」の漢字には2本の脚が生えている。

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●「現金掛け値なし」で隆盛した中央区日本橋室町の三越百貨店(後103項)。墨田区向島の三囲神社とはゆかり深く、境内には、平成21年(2009)に閉店した池袋三越のライオン像も置かれている。創業の三井家が江戸に進出して以来、守護神として崇敬を集め、三井家先祖(後66項)をまつる顕名霊社などがある。

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説明板によれば、社殿の改築をしようとした際、出土した老翁の像の周りを、現れた白狐が三回廻ったことから三囲神社と称したという。元禄6年(1693)の旱魃の時、俳人宝井其角が偶然、当地へ参拝、地元の者の哀願によって、この神に雨乞いする者に代わって、「遊(ゆ)ふた地や田を見めくりの神ならば」という一句を神前に奉ったところ翌日降雨を見た。この事からこの神社の名は広まったという。

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●ここの1対の鋳鉄製の天水桶は、「文政五年壬午(1822)五月吉辰」に、「鋳物師 川口九兵衛」が鋳造している。現存する「九兵衛」銘の天水桶は、知る限り2例しかなく貴重な存在だが、彼は江戸期に活躍した川口鋳物師の「永瀬源内 藤原富廣」だ。

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「九兵衛」の名を鋳出しているのは、文政5年頃までで、その後は、「永瀬源内」名で鋳造している。勅許の鋳物師として藤原姓(前13項)を拝したのは、この頃なのであろう。なお「九兵衛」に関しては、後40項後82項もご参考いただきたい。

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●この桶にも書を寄せた人がいる。「恆(こう=恒)山雪翁書 七十臾(そう)」とある。物事がうまくいったとき密かに笑う事を、「ほくそ笑む」と言うが、一説には、「北臾笑む」と書くという。「北」は「辺境な地」、「臾」は「翁」の意味らしく、つまり、へりくだって「70才の老いぼれ」と言ったのだろう。

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奉納者は、「伊勢屋茂兵衛 須原屋市右衛門」ら多くの世話人だが、恒山雪翁の文字は、かくしゃくとしている。齢を重ねて更に元気闊達という感じだ。この「須原屋」は、徳川吉宗の時代に、和歌山県の栖原村から江戸に出て本屋をはじめた、書物問屋の須原屋だろうか。なお、埼玉県さいたま市浦和区仲町に本店を置く書店チェーンの(株)須原屋は、江戸時代の版元の須原屋茂兵衛の流れをくむという。

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●なお、日本橋三越本店(後32項後66項後103項)の屋上には、大正3年(1914)9月に三囲神社が遷座されている。同店は、寛文13年(1673)、伊勢商人の三井高利が江戸本町一丁目(現在の日本銀行辺り)に、間口9尺の呉服店「越後屋」を開業したことに始まっている。

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画像に見える象徴のライオン像は、関東大震災や戦火を逃れ、現在も本店の正面玄関に設置されている。イギリスロンドンのトラファルガー広場にあるホレーショ・ネルソン提督像を囲むライオン像がモデルといい、英国の彫刻家によって制作されている。

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この像は、昭和の戦時の金属類回収令(前3項)によって軍部に供出されているが、紆余曲折を経てネルソン提督に縁のある東郷平八郎を祀る東郷神社に奉納され溶解を免れている。戦後になり、三越の社員が発見して日本橋三越に戻っているが、関東大震災や戦争を乗り越えてきた事で「日本橋の生き証人」と呼ばれているようだ。

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●説明板には、神社の縁起がより詳しく書かれている。右側の赤い社の方だ。『文和年間(1352~)、近江三井寺の僧源慶が東国を巡錫中(錫杖を持って巡行)、隅田川牛田のほとりの弘法大師建立になる荒れ果てた小堂に立ち寄った際、その床下より現れた壺を開けるとその中より忽然と白狐が現れ・・

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壺の中の宇迦之御魂命の神像のまわりを三度めぐっていずこともなく消え去ったので、過今この社を「みめぐり」(三囲)と呼ばれるようになったと伝えられております。また、元禄6年(1693)の旱魃(かんばつ)の際、俳聖其角はこの社に、「夕立や 田を見めぐりの 神ならば」と一句献じますと、翌日早速雨が降ったといわれております』という。上述と同じ説明だ。

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●因みに左側の白い社は活動大黒天で、『隅田川七福神の一つとして広く知られております。当屋上に奉斎する大黒天は「活動大黒天」といわれ、福徳を授ける動的な御姿をあらわし、台所を司る神として広く崇められております。ご利益を祈願すると、その霊験あらたかな「三囲神社」及び「活動大黒天」は商売繁盛と幸運をもたらす神として、江戸時代より庶民に親しまれ敬愛されております』と紹介されている。

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この活動大黒天は、名匠・高村光雲(後85項)によって彫り上げられた木像だ。「慈悲深いお顔の表情のうちにも、俵の上に立ち上がり、右足を踏み出して打出の小槌を振り上げ、今まさに福徳を授けようとする活動的な御姿をあらわしています」と、三越のサイトで説明されている。

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●天水桶に寄進者の名前が入っているのは珍しくない。出資したのだから当然と言えば当然だ。それとは別に製作者名や謹書者名があるのは、その人達にとっては名誉なことであろう。没してなお永劫に亘って名を残し続ける訳だから。特に書を寄せられた桶は、冒頭でも記述の通り、それなりの箔が付く訳で、ひいては寺社の格上げにもつながろう。

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なお後95項では、江戸時代の書家の正木龍眠(天明7年・1787~安政6年・1859)によって手水盤に刻まれた漢詩について、詳細に解析している。また次の17項では大田区池上の勧明山法養寺で、書家・三井親孝が登場しているのでご参照いただきたい。残念ながら、平成時代の桶には、書を寄せられたものをあまり見かけない。時の流れは、天水桶製造の文化も変えてしまっているようだ。つづく。