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●久しぶりに都内四ツ谷駅近辺を散策した。区境線が入り組んでいる地域だが、駅名などの表示には「ツ」の字が入り、地名には入らないようだ。江戸時代、府内への主要な入り口には大木戸を設け、侵入を制限していた。なぜ巨大で強固な防御扉が必要だったのだろう。それは、天正18年(1590)、徳川家康が江戸入府に際し危惧したのは、武田家や北条家の残党の存在だった。

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当初この地では、家臣の内藤清成に陣を構えさせそれを阻んでいたのだ。四谷の甲州街道における大木戸は、元和2年(1616)に設けられている。前年に大坂夏の陣で豊臣家が滅び、その残党の侵入を防止しなければならなかったのだ。この「四谷大木戸跡」碑は、昭和34年(1959)の地下鉄丸ノ内線の工事で出土した、玉川上水の石樋を再利用している。都の指定旧跡だ。

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文政12年(1829)の「江戸名所図会」には、人馬や籠などが行き交う様子が描かれている。地面には石畳を敷き、木戸の両側には石垣を設け、夜になると木戸を閉めたという。図会に大木戸が無いのは、寛政4年(1792)に撤去されたためだ。明治維新後は、石畳や石垣は交通の障害となるということで、それも撤去されている。

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●大木戸の近くには玉川上水が流れていた。多摩川の羽村堰で取水したが、ここの大木戸までは開渠で、その先の街中へは石樋や木樋といった水道管を地下に埋設して通水したのだ。江戸の水道網は総延長が150kmにも及び、当時としては、日本一どころか世界一の長さであった。

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先の石碑はこの石樋の利用だが、このそばに「水道碑記」がそびえている。上部の篆書体の文字は、徳川家達によるといい、高さは4.6mもある。家達は、徳川宗家第16代当主で、静岡藩初代藩主であった。廃藩置県後は貴族院議員となり、明治36年(1903)からの30年間にもわたり貴族院議長を務めている。


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●新宿区四谷3丁目には、平成4年(1992)12月3日オープンの、四ツ谷消防署に併設された消防博物館があるが、入り口では、定時に演奏を始めるからくり時計が出迎えてくれる。マスコットキャラクターは「ファイアーくん」だ。


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ここのジオラマは見ていて飽きないが、江戸時代の消防法は一貫していて、出火地周辺の建物を取り壊して延焼を阻止する、いわゆる破壊消防であった。いかに火を拡大させないかという点に主眼が置かれていた訳だが、左側の建物は既に倒壊させられてしまっている。

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●画像のように鳶(とび)職人が屋根に飛び乗って、鳶口という道具を使って瓦をはがしたのだ。辞書によれば、鳶職とは、建設業において高所での作業を専門とする職人を指しているが、華麗に動き回る事から「現場の華」とも称される。 表記の「鳶」の文字は、画数が多いことからしばしば「弋」と略されるようだ。左上にいるのが江戸のモテ男、纏(まとい)持ちだが、勇壮に纏を振るっている。

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屋根上には木製の天水桶が置かれていて、鳶職が手桶でその水を撒いて消火に当たっているが、一方、路上では人々のドタバタを見て取れる。鳶は、タカ目タカ科に属する鳥類の一種で、トンビと呼ぶ方が馴染み深いかも知れない。そのくちばしに似た形状の道具が鳶口だが、長さ2mほどの木製の棒の先に、鉄製の穂先が取り付けられている。


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多くの鳶職人が火事場へ向かい、玄蕃桶(前75項)を2人で担ぐ様子や、飛距離は15m程度であったという龍吐水(りゅうどすい)というポンプ装置も見られる。水は主に、消化では無く、屋根上にいる纏持ちの火消し人宛てに放水したという。(前10項参照)

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●さて、四ツ谷駅のすぐ東側、千代田区麹町には浄土宗の常栄山心法寺がある。慶長2年(1597)に開かれた浄土宗の寺院で、開基は徳川家康といい、区内では墓域を有する唯一の寺院だ。多くの文化財を有するが、中でも貴重なのは画像の梵鐘だ。区の指定有形文化財だが、高さ164cm、下部の口径が86cmという長身の銅鐘で、延宝4年(1676)に鋳造されている。

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正面には「南無阿弥陀仏」と鋳出されているが、他にも、喜捨した実に多くの人名が線刻されている。姓の無いもの、女性名、法名、講中名などが混在し、4代将軍徳川家綱の治世下の士農工商時代に、身分を問わず喜捨し奉納していた事は興味深い。

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●陰刻によれば、「冶工 江戸神田鍋町 御鋳物師 椎名伊豫(伊予・前89項後107項など) 藤原朝臣吉寛作」だが、椎名家の作品は、当サイトでも梵鐘や灯籠など多くを見てきている。吉寛の銘が見られる作品としては、港区芝公園の三縁山増上寺(後126項)の梵鐘「延宝元年(1673)11月24日」、墨田区両国の諸宗山回向院(前77項)の梵鐘、「延宝2年冬」銘などがある。

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鐘身には、「武州豊嶋郡江戸市谷之庄 山野手 常栄山天性院心法寺」という文字が刻まれている。番地など無い江戸時代のここの住所表記だが、これは貴重な史料だ。現代でも呼び親しまれている「山の手」は、340年も前からの継承であったのだ。

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●四ツ谷駅の線路周辺には鉄橋がある。平成初期に架け替えられた2代目で、優れたデザインであった先代橋の外観を踏襲しているというが、奥には電飾灯も見える。再利用されたという鉄柵の意匠も卓越で見入ってしまうが、柵1枚1枚に見られる丸い紋章は、明治期に創設された政府の図書館、「内閣文庫」正面のメダリオンのイメージであろうか、酷似している。

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鉄柵にある鋳造された銘板には、「四谷見附橋 大正2年(1913)9月成」とあるが、橋の開通はこの年であった。綺麗に塗装され再利用されているようだが、初代のものであろうか。しかし鉄柵は鋳鉄製だが、この銘板は青銅製である事からすると、平成3年(1991)の架け替えの時に新規に鋳られたものかも知れない。

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●都内新宿区三栄町にある、郷土資料を扱う区立新宿歴史博物館の入り口には、その架け替え工事の時に余った鉄柵の一部が寄贈展示されている。当然、全く同じデザインの鉄柵だ。ここは平成元年(1989)の開館で、内藤新宿の復元模型、江戸時代の商家、昭和初期の文化住宅の復元家屋や、都電の電車も展示されている。

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鉄柵については、こう説明されている。「近くの迎賓館の外観と調和させた、ネオ・バロック様式(19世紀、ナポレオンⅢ世の頃、パリで流行った荘重・華麗な建築様式)となっています。」

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●平成5年(1993)11月、初代の四谷見附橋は、八王子市南大沢の長池公園に移設復元され、長池見附橋と名付けられている。長閑で和む情景だが、市では、「文明開化時の面影が偲ばれる橋梁」だとしている。模して新しく鋳造された、鉄柵と銘板のデザインもほぼ同じだ。次に触れるが、電飾灯も同じようで、これは川口製であろう。

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四谷の橋梁の上にある洒落た電飾灯も鋳造物であるが、これはかつて川口市が行った、「ニューディール作戦(前5項前26項前81項後118項)」の一環で復元されたものだ。これは、昭和末期からの不況打破のために、官民共同で景観材鋳物製品を売り込む作戦であったが、1990年度、平成2年の実績だ。

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●参考ながら、次の画像は都内北区王子本町の音無橋だ。この付近では、石神井川は音無川と呼ばれているが、橋は、「日本の都市公園100選」の音無親水公園をまたぐように掛かっている。公園内には、かつての王子七滝のひとつ「権現の滝」が再現されていて、夏には水遊びをする子供達で一杯になるようだ。鋳鉄鋳物の鉄柵を備えるこの橋は、「昭和5年(1930)11月成」だが、この頃であれば、川口市内の業者が関わったに違いないと想像できる。

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●逸れるが、先ほどメダリオンという言葉がでたので、詳しく見ておこう。現在、内閣文庫は、国の登録文化財として愛知県犬山市の明治村(後117項後123項)に展示されている。その中央に見られるメダリオンと唐草紋様は、モルタルで塗出されたものであるというが、村の入り口では、本物であろうかレプリカであろうか、それが出迎えてくれる。

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都内中央区京橋には、かつて、片倉製糸紡績(株)の本社ビル「片倉館」があった。西洋風建築であったが、画像は、平成25年(2013)3月の東京スクエアガーデンの開発に伴い取り外された、実物のメダリオンだ。コトバンクによれば、メダリオンは、「大きな徽章(きしょう)やメダルの付いた飾り」という。

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同じく中央区の日本橋室町に、百貨店の三越本店(前16項前32項前66項)がある。その玄関は比類なく豪壮だが、見上げる高い位置にメダリオンがある。丸の中には、「越」の文字が金色に輝いているが、同店のというよりも、お江戸東京の象徴たるメダリオンだ。気品ある建物だけに許されるべき建築装飾物なのかも知れない。

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●さて、四ツ谷駅の真南は港区元赤坂だが、ここには赤坂迎賓館がある。外国の国家元首や政府の長などの国賓を迎えたときに、宿泊等の接遇を行う施設だ。前広場は公開される事もあり立ち入り可能だ。いかにも洋風な建物だが、よく見ると最上部には、五七桐紋や鉄兜を被った武将らしき像など、和風な意匠も混在している。

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ここの変遷だが、明治5年(1872)に、紀州徳川家が江戸中屋敷を皇室に献上、「赤坂離宮」と称した。同42年には「新東宮御所」が完成し、大正12年(1923)から5年間ほどは、昭和天皇が住まわれている。その後は、国立国会図書館や東京サミットなどにも利用されているが、迎賓館として開館したのは、昭和49年(1974)4月であった。

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頂上に菊の紋章を掲げた正面扉 と、両脇扉は、明治39年(1906)8月にパリのシュワルツ・ミューラー 社から購入している。誠に豪華絢爛なファサード(建物正面)で、国賓を迎えるのに相応しかろう。最頂部真ん中の、十六菊紋の左右には照明灯らしきものもあり、実に手の込んだ洋風のデザインだ。サビ汁が染み出ているから、これらは鋳鉄鋳物であろう。

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●ここの鉄柵は、明治42年(1909)の造営に際し、宮内庁御用達業者であった川口鋳物師・永瀬庄吉(後104項で登場)が鋳造している。昭和7年(1932)刊行の山口登の「永瀬庄吉翁伝」にはそう記されている。当時、地方記者の質問に「東京中の鉄柵の7割を製作している」と答えているから、上述の四谷見附橋の鉄柵も鋳造したかも知れない。

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館の裏手にはサビ付いた鉄柵が残されているが、鋳鉄製だ。前99項で見た、愛知県の明治村のアカンサス(葉アザミ)をモチーフとした鉄柵を彷彿とさせるデザインだが、庄吉が鋳ただろうと想像させるに充分ではなかろうか。ご子孫の正邦氏は、皇居正門周辺のお堀端にあったアカンサスの鉄柵は、再架設の際に、明治村内に移設されたと判断している。

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庭園にあるこの電灯柱も庄吉の鋳造だろうか。館の内部の水道設備に関しても、本業であった鉄管や大型バルブを納入した実績があるのだ。前74項で見たように、庄吉の永瀬鉄工所は、明治20年(1887~)ごろから水道用鋳鉄管(後121項)の製造を開始し、後に関西は大阪の久保田製作所、関東は川口の永瀬と言われるほどに成長している。


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●参考ながら、川口市の駅前を通る本町通りには、古い鋳鉄製の電灯柱が数十本立っている。それなりに塗装され街の情景に溶け込んではいるが、これに注視する人は少なかろう。その柱には、「相互会 昭和二十七年(1952)」という文字が鋳出されているが、この会の仔細は判らない。ほぼ全ての電灯柱を見て回ったが、鋳造者を示す文字は見当たらない。

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付近は、かつて鋳造業社が乱立していた地区だ、そのどこかの会社が鋳造したに違いあるまいと思い、古写真を探した。デザインはほぼ同じ様だが、こちらには「昭和二十七年 秋本謹製(前21項前81項など)」とあるではないか。本町4丁目で秋本鋳工所を運営していた秋本島太郎の時代だ。

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昭和初期の「川口市勢要覧」を見ると、「昭和元年(1926)以来、川口駅前通りに自社製品の販売店を開業して、相応の業績を挙げ頗る隆盛を極めて居る」とある。自作の電灯柱群を目の前にしながらの営業だったようだ。

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●四ツ谷駅の北西、副都心線・西早稲田駅の近く、新宿区戸山には学習院女子科があるが、ここの正門は昭和48年(1973)6月2日に、重要文化財に指定されている。平成19年(2007)12月には、移築(セットバック)と修理を兼ねて、構造補強されている。

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門の脇にある説明文には、「この鋳鉄製の門は、はじめ明治10年(1877)に学習院が神田錦町に開かれた時、正門として建てられた。製作は、埼玉県川口市の鋳物工場で、唐草文様をあしらった和洋折衷の鉄門は、明治初期の文明開化時の様式と技術を伝える貴重な文化財である」という。
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総高は4mほどで、鉄柵までを含めた全巾は、20m程であろうか、中央門扉と、一回り小ぶりな両脇門から成っている。看板の掛かったメインの柱の構造を見てみると、地面から垂直に立つ直方体形の4本の角材の外側に、唐草模様に鋳抜かれた透かしの飾り板が、4面にボルトで固定されている。

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●門柱は全てが鋳鉄製であるが、中はがらんどうなのだ。角材4本、飾り板4枚、上部の擬宝珠飾り1個が主な部品であって、組み立てられたその柱1本の総重量は、500~600Kgほどであろうか。画像では、隣り合った飾り板の間に隙間が確認でき、結合されて1本の柱になっているのが判る。つまり、鉄柱門というよりは鉄柵の集合体なのであって、それが重要だ。一体不可分のものとして鋳造されていないのだ。

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裏側を見てみると、転倒防止のため、鹿の角のような形状に鋳造されたパイプが、やはりボルトで固定されている。観音開きの門柵4枚は、ほぼ同じ大きさ同じ意匠で、1枚100Kg程度と思われるが、重みをキャスターが支えながら開閉する。

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●同時期に重文に指定されたのが、杉並区堀之内の日円山妙法寺の鉄門(前65項)で、やはりオール鋳鉄製だ。イギリスの建築家ジョサイア・コンドルの設計だが、「明治11年(1878) 工部省 赤羽工作分局」という銘板があるから、国内での鋳造だ。ここは官製の、鋳造、鍛冶場などを含んだ工場であった。

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しかし、残念ながらここ学習院の鉄門には作者名を示すものは何もない。官公庁への納品物に個人名を鋳出すことは畏れ多く、はばかるべき事であったのは、前101項の最後に記した。例えば前99項で見た皇居の正門鉄橋の鉄柵にしても、川口鋳物師・永瀬庄吉が鋳造したらしいが、その鋳出し銘は無い。同家の伝承と、宮内庁御用達業者であったという事、入札を巡って暴漢に襲われた等という状況的な事実だけで、庄吉作であると判断されている。
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都内渋谷区神南の国立代々木競技場にある、川口鋳物師・鈴木文吾作の聖火台(前71項)にしても、通常、誰も見る事ができない、開閉蓋の裏位置にやっと記名されている。角印には「鈴萬」とあるが、文吾の実父で師匠の「萬之助(前44項)」だ。
聖火台・ふた

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●ではなぜ「川口市の鋳物工場で・・」と特定できたのだろうか。それは、明治時代の半ばまで東京で発刊されていた、明治10年(1877)7月1日付の「朝野新聞」がきっかけだった。この新聞は明治7年から発刊された民権派の政論新聞で、「朝野」とは、「朝廷と民間」という意味だ。社長は、元外国奉行で儒者の成島柳北で、姪孫には俳優の森繁久彌がいたという。

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都内墨田区横網の江戸東京博物館(前89項後123項など)では、今の銀座4丁目交差点の和光の近くにあった同社のジオラマが見られる。東京では、明治半ばまでに150紙にのぼる新聞が発行され、特に、銀座煉瓦街は、ジャーナリズムの中心地であったという。

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●それによれば、「(神田)錦町の華族学校の表門が鋳造で立派に出来上がり・・、さだめし外国で誂えたのかと聞けば大違い、武州川口での製造・・」という内容だったのだ。華族とは、昭和20年代(1945~)まで存在した貴族階級のことで、皇族もここで教育を受けている訳で、その学校が学習院だ。画像は、華族女学校時代の様子。

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その学習院は明治10年10月17日に開校しているから、鉄門は3ケ月以上も前に完成していたのだ。ではさらに鋳造業者を特定できないものだろうか。この議論はかなり前々からなされているようだが、結論は出ていないようだ。
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明治19年(1886)10月、浅草廣栄堂刊の「東京鋳物職一覧鑑」には、左下に川口鋳物師の「永瀬留十郎」、別格として「増田安次郎」、「永瀬正吉」の名があるが、みな吹元(親方)であり有力候補だ。当サイトでも天水桶の鋳造者として、度々登場している。

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●では、特定すべく考察してみよう。参考としたのは、明治時代の西南戦争の最中、初代内務卿の大久保利通が推進し、東京上野公園で開催された、「内国勧業博覧会」への各人の出品内容だ。画像のように、不忍の池や清水観音堂(前47項)を臨む中での開催であった。
内国景観
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それまでの名宝珍品を集めて観覧させる、いわゆる「見せ物興行」とは違い、殖産興業推進や産業奨励という観点から、「勧業」の文字を冠している事からも明らかなように、当時の産業技術レベルを推測できると思われるからである。なおこの試みは私の発案ではなく、次項の最後にも記載するが、昭和48年(1973)著の「名をすて誇りもすてた御鋳物師 両角宗和」の二番煎じだ。

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少々判り難かったので、画像を多用し私見も交えながら解析してみることにしたが、第1回内国勧業博覧会(内国博)は、明治10年(1877)10月の開催で、出品点数は全国で1万5千件、次の画像の第2回は明治14年3月の開催で、8万5千件が出品されている。

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ちょうど学習院の鉄門が完成した、明治10年7月ごろの業況と言ってよかろう。第3回は明治23年4月に開催され、16万7千件の出品であったが、第1回の11倍を超えていて、注目の度合いが高まっていたのが判る。因みに、第4回と5回は関西地方で開催され、それをもって完結している。

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●まず「永瀬留十郎」だが、実父の鋳物師永瀬宇之七(前68項)の5男として生まれ、明治4年(1871)の分家・創業以来、鍋釜の製造をしていて、明治初期から東京や名古屋の鎮台(日本陸軍)に暖炉を納入していた。第1回内国博には鉄火鉢と鉄鍋を出品しているが、鉄門の出品は無い。

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しかし、時を経た先ほどの一覧鑑には、「機械物」と記載されていて、鉄柵なども鋳造していたようだ。鋳型を煉瓦のように固く焼結させた古来からの焼型法は、鍋釜のような肉薄で単純形状の造形には最適だ。機械物とは、肉厚で多様な形状に適した生型法による鋳造であるが、永瀬の工場では、いち早くこの方法を取り入れ差別化の道を選んでいたことが判るのだ。
第2回機械館
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●当サイトで見てきた天水桶も8例に及んでいる。明治18年(1885)から大正9年(1920)までで、「品川区北品川・豊盛山一心寺 川口町 永瀬留十郎製」、「渋谷区代々木・代々木八幡 武州川口町 永瀬留十郎製造」、画像の「江東区富岡・富岡八幡宮 武州川口町 永瀬留十郎製 明治20年(1887)第1月」などであったが、前48項には全てのリンクを貼ってあるのでご覧いただきたい。

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明治23年(1890)4月の第3回内国博には司法省向けに鋳造したものと同型の門扉を初出品していて、「鋳鉄門扉   工作堅牢にして 久しきに耐え実用に適す  頗(すこぶ)る 嘉す可し(よしとする)」という内容の「三等協賛賞」としての、褒状を授与されている。明治25年(1892)には衆議院の、翌年には東京帝大の鉄柵を鋳造しているが、しかし、学習院門の鋳造から見れば、15年以上の時が経過していた訳だ。

永瀬褒状

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●一方、前68項で見たように、北千住駅の南側にある足立区千住仲町の仲町氷川神社には、留十郎の先代である永瀬宇之七が、明治8年(1875)に鋳造した天水桶があったが、社殿の周りには彼が鋳たかもしれない鉄柵や門柱が存在する。小ぶりではあるが、学習院の鉄門を製造できる社内体制であったろう。

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留十郎は、弘化3年(1846)生まれだから、学習院門鋳造の明治10年(1877)当時、31才だ。華族学校という、官に近しい繋がりも出来ていて、受注できる状況下にあったとしてもおかしくはない。第1回内国博に鉄門の出品がないからと言って否定はできまい、留十郎は、学習院門の鋳造に関わっていたかも知れない。

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●では次に、幕末の大砲製造家、「増田安次郎」はどうか。増田家は、前82項 や 前83項 で見てきた通り、嘉永3年(1850)から慶応2年(1866)までの16年間に、計214挺もの大砲と4万発強の砲弾を鋳造している。下のイメージ画像は、都内小金井市桜町にある江戸東京たてもの園(前99項後113項後123項)にある大砲だ。

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3代目は、幕府が日米修好通商条約に調印した安政5年(1858)7月に、40才の若さで他界している。時代的に該当しそうなのは、4代目の利助で、家業は大砲鋳造を主軸に事業展開していたが、晩年近くになると本来の鍋や釜など、生活必需品の鋳物造りに回帰している。

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その4代目は明治26年(1893)に他界しているから、学習院門を鋳たとすれば彼であろうか。当サイトではここまでに、増田系統の天水桶を15例見てきた。 嘉永7年(1854)から昭和4年(1929)までの75年間の事で、足立区千住宮元町・千住神社(前2項)、新宿区早稲田・穴八幡宮(前13項)、港区六本木・天祖神社(前82項)、千葉県我孫子市・香取神社(前83項)などであった。

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上下は、台東区上野桜木の天台宗関東総本山、東叡山寛永寺(前13項)の根本中堂前にある鋳鉄製の天水桶だ。銘は、「武州川口町 増田安次郎造 明治12年(1879)9月23日」で、第1回内国博の直後であるが、4代目の作例だろう。

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●増田家は、他の2人と違って、内国博に多くの鉄柵を出品しているのだ。第1回内国博には、鉄瓶、鍋釜、暖炉を出していて、「暖炉は、出来まず佳なり 堅鋳にして 形状すこぶる佳なり」と評されている。また「鍋釜」として、「埼玉県管下 武蔵国足立郡川口町 増田金太郎」は、「花紋褒賞之證状」を受賞している。これは、「内務卿従三位 大久保利通(落款)」、直々の発行であった。

第1回増田金太郎

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第2回には、洋風暖炉、ポンプ、鉄門扉を出品しているが、この鉄門は、「堅牢にして形状もよく もし葡萄紋に変えて 本邦固有の文様を配せば なおよく佳なり。よく巨大な品を鋳造し 前回に比べれば進歩著しい」と評価され、「銀メダルの下」相当と言われる、「進歩賞牌三等」を受けている。

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「葡萄紋」であると断定されているが、「本邦固有」とは唐草紋様の事か。この出品はもしかすると、下の画像の学習院門と同じデザイン、つまり同じ鋳型ではないのか。出品作の写真が残っていないのが残念だ。

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●さらに明治22年(1889)に宮内庁から受注したのと同鋳型と思われる鉄門を、翌年の第3回内国博に出している。他にも水道用鋳鉄管、鉄扉、鉄柵、鋳鉄風呂釜を出していて、「有功賞銅牌」という、銅メダル相当と思われる賞を受けているのだ。
第3回内国銅
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以上の事から、増田家には官公庁との太いパイプがあって、鋳造体制も整っていて、絶対的な信頼と実績もあったと言える。見る人によって表現は様々だろうが、明治14年(1881)3月に出品された「葡萄紋」の門扉が、明治10年7月設置の「唐草文様をあしらった和洋折衷の・・」学習院門と同じである可能性は充分ある。増田家が鋳造したのかも知れない。
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もう1人の「永瀬庄吉」については、後104項で検討しよう。なお、参考にさせていただいた文書、書籍、画像などの引用先については、次項の最後にまとめて掲載させていただく事とした。つづく。